2009年12月31日木曜日

クソ面倒な話 その十二

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 面倒な話の十一には作為が有って、何もアンドロメダ星雲を出す事は無く、もっと手近に銀河系内の話にすべきなのだが、分かり易くする為に、極端な例を上げました。
 太陽系に一番近い星は、ご存知のケンタウルス座アルファー、4,36光年の近さだ。残念乍ら文明は発見されて居ない。
 10光年以内に文明が存在する確立は、零では無い。20光年以内なら確率は上がる。
 20光年先の文明とコンタクトが取れたとしよう。メッセージの往復に四十年掛かるのは仕方無い。で、是非お目に掛かりたいとなったら、同じく世界中の大プロジェクトだ。現実に即して、亜光速は無理と設定する。
 何故無理なの?ロケットは反作用の原理で飛ぶので、何かを投げねばならない。其れを燃料と呼んで居る。燃料はガスとして噴射される。ガスは軽いものだが、質量×速度が作用するので、高速で噴射して推力を得る。ロケットの速度を上げるには大量の燃料を積まねばならず、するとロケットが大きく重くなり、更に大量の燃料を積む必要が……、なので、今の段階で亜光速は無理なのだ。
 従って、片道八十年位掛かるのかな。加速に掛けた時間は、きっちりと減速の時にも掛かるからで、さもなくば目的の横を凄まじい速度で通り過ぎて、ジャンジャンで有る。八十年も掛かればクルーはお亡くなりになっちまう。亜光速では無いので時間の経過には殆ど変化が無い為だ。
 又もや幽霊船。其れを避けるには多世代宇宙船を建造するしか無く、又しても超巨大最新技術の塊な船とならざるを得ない。さて、全世界のGNP位の予算かなあ、例に依って全くの山勘だけど。
 誰が計画推進を支持するだろう?
 人類は月に立ったのみだ。太陽系の規模で言えば、部屋の中で位置を変わった様なもの。理論上は、今の技術で火星へも行ける。但し、余りにも費用が掛かるので、何処もやらない(そしてリスクが大きいので)。
 太陽系内で此れなのだから、恒星間飛行なんざ夢の又夢。……夢が無い話ですなあ。
地球も何時か最後を迎える。其の日の為に人類脱出計画を考えるべきだ、と主張する科学者も居る。勿論全員は脱出不能、選ばれた極少数(比全人類)の人間が、宇宙船で新天地へ旅立つのだ。
 あたしゃあ其の考えには同感出来ない。地球の最後は皆の最期。一緒に死ぬのが最も自然な生き方(?)なのだ。人はやがて死ぬ、人類もやがて死ぬ。大自然の摂理で有る。ま、生有るものは必ず滅する、です。
 第一、 宙船で脱出したって、どうなるか分かったもんじゃ無い、と言うより、無限に宇宙を彷徨う幽霊船になるに決まって居る、と思って居るのです。
 年末に相応しくない話でした。良いお年をお迎え下さい。

2009年12月30日水曜日

閑話番外 その十六

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 面倒な話十一にアンドロメダ星雲の写真を載せたが、又もやパクッた物で、今後は此の手の写真(詰まり山以外)は全て盗品だと思って下さい(恥)(汗)(へん、悪いかよ)。
 居直る話では無く、アンドロメダ星雲に二つ付いて居る星雲の事で、面白くも我が銀河系と同じで、二つの星雲をお供に連れて居る。アンドロメダの大小マゼラン雲って事です。
 星雲とは面倒で、全部が(除アンドロメダ)銀河系内の星間ガスの事なので、こんがらがっちまうのだが、最近は小宇宙の事は星雲と言わずに、銀河と表現するので、混同はしなくなったのだ。
 詰まり我々も見る星やそれ以外の物は、全て銀河系内の物で、唯一の例外が隣の宇宙(正確には小宇宙)のアンドロメダ星雲なのです。
 目に見える、或いは小望遠鏡で見える物は多彩で、惑星、星、星雲、星団、彗星、Etc.ぜーんぶ、うちの宇宙。凄い話だなあ。
 うちの宇宙と同じクラスの小宇宙が、数千億とも知れず存在してるってえのは、何が何だか分からないのが、正直な処なんです。

2009年12月29日火曜日

休題 その三十

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 鳩山君を嫌って居る訳では無いが、あたしゃあ「朝三暮四内閣」と見て居る。取り合えず今が良くて、付けは明日回し、と言う事。
 でも、朝三暮四で喜ぶお猿さんは、我々国民なのだから、ま、仕方無いか。
 防衛費とスパコンについては語りたい。あたしには、命と引き換えでも守るべきものが有り、其の一つは国だ。
 言う人に言わせりゃ右翼で変態、キチガイおじさんなので(何処が?と思います。世界中の人間をキチガイおじさん扱いする訳?)、防衛費には触れないで置こう。
 さて、スパコンだが「世界一でなく世界二でも良いでしょう」と予算を切られた。馬鹿か?世界一を目指してやっと世界の水準に留まるもんなんだよ、技術ってえのは!
 じゃあ先生に伺うけど、小選挙区で二位を目指すのかい?分かってます、意味が違う。
 問題はスパコン本体では無い。開発技術が基礎体力となり、ICやPCに生きて来て、国際競争力を保持出来ると言う事なのだ。国際競争力なんざどうでも良いと思う貴方、日本に有る資源は技術だけだと、本当に知る必要が有るのです。
 スパコンについては、予算カットが撤回されて良かったが、他の科学予算はどうなんだろう?基礎研究は少なくとも内閣の任期中に利益を齎す事は無い。絶対無い!!
 基礎研究を疎かにする結果は、遙か先に表れる。今役に立たない事に力を注ぐ、国家百年の計で有る。植林と似てなくも無い。木を切って、今に生かすだけでは未来が無い。
 朝三暮四内閣には、当たり前だがそんな気は無いだろう。暫くは静観すべきで有ろう。取り合えず政権を握って舞い上がって居るのだろうから。
 手遅れにならないうちに、軌道修正が行われれば上等だ。ノーベル賞受賞者が先生(議員の事ですよ)に「貴方は歴史の審判に立つ覚悟が有るのですか?」と問い詰めたそうだが、全く同感!でも、先生に通じたかな?

2009年12月27日日曜日

閑話 その三十九

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 一期一会の無言の会話は、船窪小屋から始めたが其処は二泊目だったので、補足します。
 初日は朝の梓で信濃大町へ、扇沢でバスを棄て、針ノ木雪渓を登って針ノ木小屋泊まり。真夏の太陽を浴びて居ても、雪渓を歩き出すとヒヤーッとするのは、何処も同じで、雪渓上のみ薄いガスが流れるのも、楽しい風物なのです。天然の冷蔵庫ですなあ。
 小屋は混んで居たが、自炊の客は私と男(勝手に付けた呼称)のみ、自炊場で知り合った訳だ。其処から野口五郎小屋迄、前後し乍ら行ったのだ。
 ビールを飲んで居ると真っ暗(一寸とオーバー)になって、雷鳴が轟く。ソラ来た!と飛び出すと(軒の下です)水煙の上がる土砂降り、其れをビール片手に満足気に眺めるあたしは、一寸と変なのかも知れない。そうだって?否定はしません、何たって山の夕立は豪勢な見ものなのだから。第一、自分は濡れないし(実に身勝手です)。
 本文の通り、夏の午後は必ずと言って良い程此れが有る。行動中の諸君はあっと言う間にびしょ濡れ、気の毒です、はははは……。
 あたしゃあ、相変わらず酷い奴ですなあ。でも、貴方もきっと同じ思いを抱くと思います。違う?違わないって、同じ場所で同じ状況に有れば、そう思うでしょう(……多分)。
 翌朝も快晴。清清(すがすが)しい空気の中、先ず蓮華岳へ登る。此処は高山植物の女王と呼ばれるコマ草が多い。写真は其のコマ草なのだが、何せ腕が悪いので、女王の貫禄が感じられない。勿論、あたしの所為なので、乞ご容赦。
 ぼやけたバックの、一際高く目立つのが舟窪岳で、其処迄は心地よい稜線漫歩が楽しめる。でも、此の稜線へ踏み込む人はそう多くは無い。皆さん針ノ木峠へ戻って行く。従って其れ迄の小屋と比べれば、舟窪小屋は本当に小さな小屋なのだ。人が来ないんだもん。
 で、舟窪小屋に泊まった人も、殆どは其処から下って仕舞う。野口五郎へ向かう人は、とても珍しい存在だ。
 舟窪から右手に急角度で高度を落として居るのが、其の忘れられた(と言うより相手にされない)稜線なので、見ただけで、何かなあと思わされて仕舞う。写真の範囲外には、低い樹林に細かいアップダウンが続いて居て、其れが烏帽子に向かって再び高度をぐーんと上げて居るのだ。ね、嫌でしょう?
 併し其処が目的でやって来た、あたしと男は仕方が無い。泣き言は言わずに頑張るしか無いのだ。ま、好んでやって来た馬鹿も居る、ってパターンの見本です。
 小さな舟窪小屋はご家族で運営して居る、と見た。如何にもあたし好みの小屋です。主人夫婦と娘さんで有る。其の奥さんが、水が有るよ冷たいよ、とあたしに声を掛けた処から、話が始まったのだ。
 其れからは、本文通りなのでした。

2009年12月26日土曜日

柄でも無い事 その八

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 本文の「一期一会の無言の会話」の補足です。なに、あたしの登山スタイルについて書こうと思って。嫌?全く当然です!
 親父のズボンからニッカをでっち上げ、上着を貰い、と書いて有るのだが、親父は並外れた洒落者だったので、其のズボンも上着も半端な物では無かったのだ。バーバリーの上着(済みません、他のブランドも山程有ったんだが、あたしゃバーバリーしか知らない)だったと思う。
 従って、銀座虎屋(御存知ですよね?)のハンチングもガキの手に入るのだ。似合う似合わないは別にして。
 ふっふっふ、今テーマをゲロっちまったぜ。キチガイ水の成せる業、正気に戻って修正なんかしないで、勢いで行け健三郎!
 あたしゃあ親父(含むお袋)の子かと疑う程、洒落気が無いのは知ってる人は知って居るので、例えば腰にタオルを下げて電車で通勤して居るが、IT君に言わせれば「現場(げんじょう)作業員其の物だぞ」となるのだが、其の通りなので何の問題も無い。
 山は里とは違う。
 今の話にしよう。貴方があたしと山に行くので駅で落ち合うとしよう。地下足袋の作業服姿のあたしが現れる。ゲー!っと思う、普通は。現に皆さんそう言うし。
 でも違うんだよねー。山に入った瞬間あたしが良い男に見えるそうなのだ。不思議だ。昔の写真を見ても、山では自分が良い男に見える。家族でさえそう言うのだ。へっへっへ、書いて居て照れます。
 駄目だ、酔っては居ても此処迄図々しく恥知らず、謙譲の美徳なんざ薬にしたくとも無くなっちゃあ、人間はお終いだ!でも、当初の決心通り、修正はしないぞ(汗)(躊躇い)(再度決心)(汗)……。
 スタイルはホームレス派と自認して居るあたしは、もうヒッチャカメッチャカ、一度薄ベージュの作業ズボンで沢を登ったら、見事にズボンが泥塗れなのが一目瞭然、それで小田急に乗ったら段々混んで来るのだが、あたしの横は空いた侭。無理からぬ事で有る。
 若い頃に変な洒落っ気で変なスタイルで得々として居た事を書いたが、本当にそうで、ナーゲルの他にキャラバンシューズを愛用し、ボロボロになって裂けても履き続け、スリッパを引っ掛けるも同然の山登り。かと思うと霜柱の立つ大山へ素足の下駄で登り、寒さに震えるハイカー達を尻目に下って見せる。結構危ない奴だ。
 でも、相当来て居るのは自覚して居るので、ご安心下さい。自覚が有るうちは大丈夫です(多分)。
 当時は体力に自信が有ったので、何とか様になったが、自信を失った今じゃあ、真似も出来ないし様にもなりません(涙)。駄目だ駄目だ、お洒落の話は柄でも無い!!

2009年12月25日金曜日

一期一会の無言の会話 その四

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男「お!おじさん、ちゃんと着けて良かったな」
私「見損なうなよ、一緒に出ていれば一緒に着いてるよ」
男「どうだかね」
私「美味そうなもん食ってるな」
男「いや、急に食いたくなってさ」
私「はっはっは」
 そんなとこだろう。マイナーな所を船窪から来たのは二人だけというのが、変な連帯感を生んだのだと思う。男は槍へ向かう。私はブナ立尾根で下る。一期一会である。
 で、一期一会で無い場合の事。知り合いに会った事は何度も有るので、置いておく。夏山で赤石から下り、椹島の小屋で隣り合わせたパーティが有った。翌年の夏山でそのパーティに声を掛けられた。結構驚くものだ。
 冬の早川尾根を縦走した時、鳳凰で会った青年に、翌年の春の巻機山で出会った。これも驚いた。
 両方とも鍵は私の背負っていたキスリングだ。だって、当時でも背負っている人は珍しいんだもの。だから相手がこっちを見つけてくれる。山で出会った人と又会いたければ、旗を立てて歩くのが良いと思う。例えば「日本一」とか。次に会った時にも、相手が一発で分かるだろう。もっとも私は声を掛けないだろうけど。
 雪山でトレースをつけて進んでいると、向こうからパーティが来る。わー!うれしい!もうルートは確定するのだ。それにラッセルも不要になる。此処から先にはトレースが有るのだから。短い間に、それぞれの来たルートの情報を素早く交換し、あっさりと別れる。矢張り山は一期一会だ。
 藪をこいでいる時、そういう出会いが有っとしたら、下手すると抱き合って泣くかも知れない。もうこの先は縺れた篠竹を力任せにこじ開けなくて良いのだから。いや待って、ホームレス派のおじさんと抱き合って泣くのは、とてつもなく嫌だ。(あっちもそう言ってるよ!)
 幸いにもその経験は一度も無い。藪の中で物好き同士が出会うのは、多分地球軌道で、人工衛星の破片同士が出会うような確率なのだろう。人のうじゃうじゃ歩いている山は結構鬱陶しいし、人の全くいない山は好きだけど、矢張り、多少寂しくは感じる。面白いものだ。街に居れば山恋しい、山に入れば街恋しい。誰かの詩にあった。
 どこの山でも行き合う人が、イザという時の頼みの綱だ。え、地下足袋を履いたおじさんだって、あー、会ったよ、姫次で藪をくんくん嗅いでた変な人だろう。(ビンゴ!)
 そう、これで私は首尾良く助かるか、或いは、遺体を無事に発見して貰えるのだ。袖擦り合うも他生の縁(前述)、お互い登山者同士、さり気無く助け合いましょうね。

2009年12月23日水曜日

休題 その二十九

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 乱暴話のIT君が嬉しそうに言う。
IT「いやー、世の中には未だ良い人も居るもんだよ」
 突然何だ、夕べの酒が残ってるのか。
IT「電車に上等な背広の男が乗って来て、網棚にペットボトルと雑誌を置くのよ」
私「ほう」
IT「奴は座って新聞を読み出してさ、此れが嫌味ったらしく、バサッバサッと大きな音で新聞を折るのよ」
私「自己を顕示する行いね」
IT「そう。ムカムカしてたら奴が降りるんだ、網棚のゴミはその侭でさ」
私「最低じゃない」
IT「怒鳴ろうと思った瞬間、六十代の男性が声を掛けたんだ、貴方、忘れ物ですよ、ってさ」
私「へー」
IT「奴は其の男性を睨み付けたけど、ゴミは持って降りたよ。俺は嬉しくなって、其の男性と話し込んじゃった」
私「ほう」
 私は、へー、とか、ほー、としか言ってない。丸で阿保だが、乱暴事はIT君専門につき、仕方の無い事で有る。
 別の時のゴミの話。
IT「派手な学生のねーちゃんが座ったとたん、ジュースを飲んで菓子を食い出したんだ」
 シンガポールなら犯罪で有る。
IT「バリバリ喰い続けんだよ」
 派手に装って居るだけに、見っとも無い事夥しかったのだろう。
IT「駅に着いたら、座席をゴミだらけの侭降りるんだ」
 家はゴミ屋敷に決まって居る。IT「おい、忘れ物だよ!と言ったら、渋々持って行ったよ」
私「はっはっはっは」
 古来日本人を律して居たのは世間様で、人の目が怖い、此れが道徳のベースだった様だ。其の悪い部分が、旅の恥は掻き捨て。
 今は世間様は無い。人の目も無い。律するものが無い。崩壊しつつ有る社会のサンプルとしては、得難いものだ。ま、此れも経済が破綻して、本当の貧乏国になれば、自然と直るとあたしゃあ思ってるが、保証の限りでは無い。
 乱暴話のYNが言う。
YN「シルバーシートに寝そべってる若い奴が居たから、脚を掴んで引きずり落としてやったんだ」
 YNのやりそうな事だ。
YN「何すんだ!ってえから、あ?と見たら黙りやがった」
 見た、のでは無く、凄まじく睨んだ、が正解だっただろうと思う。いずれにせよ、何か当然の注意をするのも、簡単には出来ない。ITやYNの様に腕に覚えが必要だ。何でも話し合って解決と言う幻想が、此の現実を作った訳です。

2009年12月20日日曜日

一期一会の無言の会話 その三

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 針の木から前後して来た男(四十位、以下男と書く)は水場へ向かった。と、突然の夕立。突然とは言葉の彩なので、山中では二時を過ぎると、先ず夕立は来るのに決まっている。この日は一寸と早かっただけだ。激しい雨を見ながら一服つけていると、男がずぶ濡れで戻って来た。二人は思わず、目を合わせニヤッとした。以下は二人の口に出さないやり取り。
男「ひでえ目に会ったぜ、あんたラッキーだったな」
私「フン、お気の毒だったね。俺は年だから、楽させて貰うよ」
男「楽をした上に濡れもしない、歳は取りたいもんだ」
私「どうぞ、お取りなさい、はははは」
 此処船窪から烏帽子迄は、忘れられた山域だ。後立山縦走路と天下の裏銀座コースの間の、標高が低く樹林帯のガレっぽい、偉くマイナーな部分だ。訪れる人は極めて(其の前後のコースと比べ)少ない。
 私と男が明日其処を行くと知って喜んだ三人のパーティがいた。彼等は今日其処をやって来たのだ。彼等は雀躍(こおどり)りして言う。
A「そりゃあひどいからね」
男「そんなにひどい?」
B「路は悪いな、気をつけなよ」
私「でも、七時間コースだってじゃない」
C「あ、そんなの何のあてにもならない」
A「アップダウンがうるさいからね」
私「どの位かかったの?」
A「九時間位かな」
男「え!」
C「ペースはゆっくりだったけどね」
B「ゆっくりでなきゃ、無理だね」
男「……早立ちだな」
B「そうした方が良いね、悪い事は言わないからさ」
私と男の気持ち「言ってるじゃないか!」
 散々脅されて表で夕飯を食べて(私と男は自炊だった)いると、そのコースを学生が二人やって来る。もう薄暗くなっていた。二人はやっと小屋へ登って来る。
私「ご苦労さん、どうだった?」
男「道はきつかったかい」
学生「……良い修行になりました」
私・男「……」
もう一人の学生「着けて嬉しいっす」
 ヤバイ、修行の為に山に来ているのでは無いのだ。私と男は顔を見合わせた。翌朝、ライトの灯りで朝飯の支度をしていたら、男がヘッドライトを点け、飯も食わず出発して行く。あ、汚ねー、先を越された!
 慌ててラーメンを食べ、飛び出した。確かに良く無い路だったが、脅すだけ脅されていたお陰で其れ程の事もなく(と感じられた)、どうにか野口五郎小屋に着いた。男が小屋の前のベンチで、ミカンの缶詰をむしゃむしゃと食べている。目が合ってお互いにニヤッとした。以下は口に出さないやり取りだ。
 (一期一会の無言の会話 その四へ続く)

2009年12月19日土曜日

閑話 その三十八

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 前章の、“迷ったなんて認めたくない”で、秋の宝剣岳の紅葉(?)の話をしたが、写真を撮ってなかったのが如何にもあたしらしく、別の時の夏山の写真をオズオズと出す阿保さ加減は、いよー立派、と褒めたい程で有る。(自嘲)
 此の時は極楽平にザックを置き、宝剣をピストンして木曾殿越で幕営のつもりだった。
 朝一番の梓で出発したのだから、昼過ぎから行動を起こした訳で、既にセオリーに反して居るが、三昔近く前の事だから、若さに免じて大目に見よう。え、自分に甘いって?そうなんですよねえ。
 で、時間に限りが有るから飛ばした(飛ばせた、勿論今は駄目)。
 書きたくなかったけど(じゃあ書くな!)、書きましょう。本来山小屋を悪く言いたく無いのはあたしの本心なのだが、木曾殿越の小屋の親父の対応は、あの日だけだったのかも知れないが、良くなく感じた。
私「(ザックを降ろし)ゼーゼー、今日は」
親父「いらっしゃい、お疲れ様でしたね」
私「ゼーゼー、幕営なんですが」
親父「(急に冷たい声)幕営?ああ、あっちへ下って張りな」
私「(カチン!)……」
 で、ザックを背負って去った。幕営料三百円(当時)なんざ客じゃ無いってえのは理解可能だが、幸せな事に其れ迄そんな親父に会った事が無かった。
 山小屋も商売だ、ボランテアでは無い。でも登山者には同じ山の仲間だとの気持ちは常に感じられたし、感じさせられた。
 其れが感じられなかったので、カチン!となり、「上等だ、頼まれてもお前の所にテントなんざあ張ってやるかい、空木迄行ってやらあ」と思った訳で、若さ故です。
 短気は損気、其れから取り付いた夕昏迫る空木岳の登りは利いた。急峻なの。一歩一歩の高さが大きい。こりゃあ親父の尊大な態度も分かる、誰でも此の登りは敬遠するぞ、と思い知ったが勿論戻る気はないく、ゼーゼー登り切って、避難小屋へ下る時はフラフラ。
 本当は違反なんだが、避難小屋の横にテントを張った時は、暫く呆然と座り込んで居た。いやあ、本当に疲れたですよ。
 避難小屋に泊まる方が法に適って居る上楽なのだが、二パーティ居たし、テントを担いで来て使用しないのも業腹だったので。今ならそんな拘りは無い、さっぱり無い、薬にしたくとも無い!
 第一、 腹を立てて空木岳に取り付かない、いや、取り付けない。ルンルン歌って木曾殿越でテントを張る。親父がどうで有ろうと、絶対張る。そして、ビールを買って飲む。其れが大人だ。
 小屋の悪口になっちゃった(恥)。たった其の日だけで判断は出来ない。良い人なのかも知れない。多分そうだと思う。さもなきゃ小屋番はしないだろう。御免なさい(ぺこり)。

2009年12月18日金曜日

一期一会の無言の会話 その二

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☆どうでも良い派。
 構わないのがポリシーと思われる。多くはベテランクラスだろう。少なくは、その侭来てしまった人達。手ぶらで大倉尾根で喘いでいたり、手提げバックで、蛭ヶ岳はどっちですか?と言う。結構危ない人達だ。天気の急変が無ければ良いのだが。
 多くは(詰まり、少なくは、以外の人)行動が素早い。大体が余り愛想は良くない。愛想を振り撒く為に山に来ているのでは無いからだろう、と思われる。結構頼もしい感じがするタイプである。

☆ホームレス派。
 不適切な表現をお詫びします。差別したり馬鹿にしているのではなく、分かり易い表現をしたのです。何を隠そう、私がそのホームレス派だ(え、隠しようもないって?)。若き日の洒落っ気は今いずこ、ふん、さよならだけが人生さ。
 ずぶ濡れで寝たり、ガレ場を這いずったり、ツェルトで震えて暮らしたり、雨の斜面でドロドロになったり、ザレで滑ったり、汗が足元に滴り落ちたり、足を取られて転げ落ちたり、川に落ちたり、藪でズタズタになったり、ツタに絡まれて足掻いたり、そんな事を繰り返していて、気づいたらホームレス派になっていた。
  先ず汚いのが常態。どうせ汚くなっちまうのだから。洒落っ気は一切無用、そんなもの邪魔になるだけだ、生きて帰る事だけを考えろ!無駄は、文字通り無駄だ!!……思えば、偉くひどい世界ですなあ。潤いなんてかけらもない。そんな世界に好んで入る馬鹿もいる。モロに掛け値なしの好事家って事です。
 リュックにカップをぶら下げている人が、結構多い。私が見てもなかなか良いものである。ステンかチタニウムのカップが欲しいと思ってしまう。併し其の様な贅沢は、ホームレス派には有り得ない。藪から出たら、当然無くなっている。
 藪は何でも巻き上げる。表にぶら下げている物なぞイの一番だ。腕時計すら巻き上げられる。Yは、ポケットに入れてたレーバンのサングラスも取られた。
 私の本心は、カッコマン、成りたくって成りきれない、それが悩みの種だ。

 柄に合わない事を書いてしまった。(汗)
 行き会う登山者は一期一会である。(違う例は後で)
 夏山の船窪小屋に着いた。水を汲みに行こうとすると、小屋の女将さんが「汲みたての水が有ります、冷たいよ」と言う。畜生、登山者の心理を読み抜いていやがる。悔しいが、喜んで買いました。
 (一期一会の無言の会話 その三へ続く)

2009年12月14日月曜日

閑話番外 その十五

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 年末が近づいた。で、気付いたのだが、此の絶海の孤島「丹沢と共に」は丸一年掲載が続いたのだ。
 初めての掲載、「始めに」は二十年十一月三十日、此れはA君が加工してくれて、表題の一部「初めまして」となって居る。登山靴のイラストの付いたあれで有る。
 一年とは長い様でも有り、短くも有る。

 本当に少数の方が、覗きに来てくれたお陰様で、掲載を続けられました。改めて厚くお礼申し上げます。
 歳が改まっても、あたしの駄文は相変わらずに決まって居るので、呆れ返らないで下さったら、幸甚此の上無しなので有ります。

           健三郎拝

2009年12月13日日曜日

クソ面倒な話 その十一

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 銀河系宇宙と一言で言うが、途轍も無く巨大なもので、差し渡しが20万光年、1千億から2千億の恒星が集まって居る。恒星の数に幅が有るのは、中心部がガスの為精密に観測出来ない所為らしい。
 銀河系宇宙は単独で存在して居るのではない。小さな星団を二つお供に連れて居る。大マゼラン雲と小マゼラン雲で、夫々10万程度の恒星の集まりだが、残念ながら北半球からは見えない。
 肉眼で見える最も遠いものは、ご存知のアンドロメダ星雲、200万光年先の直ぐお隣さん銀河だ。うちの銀河とアンドロメダ星雲でペアーを成して居る。他に星の数程有る銀河達は、レンズやアンテナの力を借りなければ見る事は出来ないのだ。遥かに離れて仕舞って、我々ペアーは虚空にぽつんと存在して居るかに思える程だ。
 アンドロメダ星雲の一つの文明とコンタクトが取れたとしましょう。なんてったってお隣さんなんだからさ。何かの問い合わせを受けて答えを発信する。
「はい、其の回答は添付ファイルをご覧下さい。ADOBEリーダーが必要です。地球では一同、お会い出来る日を楽しみに致しております」
 其のメッセージは、相手に200万年たって届く。誰が覚えて居るのだろう?或いは、今更200万年前の回答が、何の役に立つのだろう?第一、其の文明は存在を続けて居るのだろか?
 はなから話が違うのは、地球がメッセージを受けた時点で、既に200万年前のメッセージなので、相手はもう存在して居ない文明の確率が高いと言うより、マトモに考えれば、存在してない!
 「お会い出来る日を楽しみに致しております」なんて、空虚な挨拶と言う以外に無い。お会い出来るなんてこたあ、有り得ない!!
 もしもお会いしたいと全地球で決定したら、壮大なプロジェクトとなる。現在より遥か進んだ技術が有ったとして、片道300万年はたっぷり掛ける訳だから、壮大な宇宙船が必要だ。実際は亜光速で進むので時間の経過は遅れるから、10万年の旅位に相当するだろう、多分。そんな面倒計算はあたしゃ出来ないから、単なる山勘だけどね。
 でも10万年。大勢が乗り込み、生存し、子供を生み、死に、子供が子供を生み、死に、人類が文明を造り始めてから現在への時間の三十倍の時を宇宙船で過ごすのだから、確り考えれば間違い無く全員が死に絶える。超巨大な幽霊船が宇宙を走り続ける訳で、完璧なあたし好みのユーモアです。
 宇宙人からのメッセージを探し続けて居るが、同時に発生した文明では交信不能。時間差が有っても確率的に、今其れを捉えるのは、広大な砂漠で落とした小さなルビーを見つける様なものだと、あたしは思って居ます。

2009年12月12日土曜日

一期一会の無言の会話 その一

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 山には色々な人がいる。目に付くのは、矢張り中高年の登山者だ。たまに大学のパーティと擦れ違ったりすると、嬉しくて思わず見送ってしまう程だ。ま、七割強は中高年でしょう。若い人よ、山は良いですぞ!
 スカート姿の女性を塔ノ嶽で見かけた事が有った。ロングスカートの洒落た人だった。昔の山の写真では、良くスカート姿の女性が写っている。男性はチョッキを着込み、パイプを銜えてハンチング姿がパターンだ。従って違和感は全然感じられず、とても素敵に思えた。
 否応なしにスカートで登らされた例も有る。私が高校を卒業した年、クラブの後輩達がハイキングに行った。何処に行ったのと聞くと、表尾根だと言う。私は怒った。山登りじゃないか、装備はちゃんとしてたんだろうな!
 飛んでも御座いません。そこらの散策感覚で、数人の女生徒は制服姿だった。箱襞スカートにブレザーが制服だ。うちの高校は何で制服で山に行くのが好きなんだろう。
 可哀相に、行者の鎖もスカートで降りたのだ。靴だって普通の通学靴に決まっている。整備されていない時代の大倉尾根だ、下るのも大変だっただろう。滑ったり、転んだりして苦労したのだろう。
 ま、こんな先輩だからそんな後輩になってしまうのだろう。気の毒な制服の女生徒達よ。
 パイプの事だが、私が二十そこそこのガキの頃の話だ。大分恥ずかしい。セピア色の写真の真似をして、父のズボンを切ってニッカズボンをでっち上げ、父のウールの上着と銀座虎屋のハンチングを貰い、気取って着込んでいた。おまけに、パイプまで銜えていたのだ。(汗)
 かと思うと、短パンに網シャツ、その上に赤いチョッキだけをはおり、キスリングを背負って山を歩いていた(汗)。本人はかっこいい!と思っていたのだ。若いから何とかなったのだろう。今の私なら完璧な、危ないおじさんだ。ガキの頃は(本人なりに)お洒落だったんですなあ。自分で驚いた。私を知る人も、のけぞって驚くだろう。
 ついでだ、勢いで山のファッションに触れよう(とうとう気が触れたか!)

☆お洒落派。
 多くは最新の服装、装備で固めている。最新でなくても、さり気無く着こなしている。お洒落派の良い処は、見る人に不快感を与えない。ただ、山馴れない人は、どうしても身に着いていないので、一寸と浮くが、それも時間の問題で、直ぐ身に着くようになるものなのです。
 Sは最新ファッション派だ。何時でも最新装備を持って来る。着て来る。残念な事にそれが似合うのだ。中高年の登山者達にもお洒落派が、意外と多い(意外じゃないかも)。ばりっとして、元気に山歩きをしている。とても良い事だと、応援していますからね。(え、私の応援なんて迷惑だって?)
 (一期一会の無言の会話 その二へ続く)

2009年12月11日金曜日

閑話番外 その十四

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 何とも詰まらない写真を載せたのは、滅多に見る事の無いアングルだからなので、椿丸付近からの展望。
 流石の大野君の地図でも、空白地帯になって居るので、参考迄に、と言う事です。
 右の目立つ山は世附権現山。こう見ると中々立派な山では有る。

2009年12月8日火曜日

柄でも無い事 その七

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 岡山へも仕事で良く行った。岡山と言えば備前焼。駅の案内所で良い店は何処かと聞いら素備庵と言う店を紹介してくれた。駅から割と近いのも、其の理由だと思う。
 無用な心配だが一応断っておくが、宣伝じゃ無いですよ。以下はあたしの感じた侭で、一銭も貰ってません。これでOKだろうか。
 素備庵に一歩入って驚いた。デパートや土産売り場で備前焼は結構見たが、其れとは別の物が広くも無い店内にぎっしりと並んで居る。え、今迄見て来たあれは何だったんだ?
 同じ色合い、同じ感触、同じ雰囲気、火襷や牡丹餅は有るんだが、形は違えど皆同じ。一発で分かった。粗製乱造(失礼)備前焼だったんだ。ガス窯か電気窯でどんどん造る、従って皆同じ雰囲気。あたしにさえ分かるんだから、多くの人にも分かって、備前焼ったって、大した物じゃ無いなあ、と思われて仕舞っても無理からぬ。強いて言えば県知事の責任で、備前焼とは斯様な物と定むると、明確にすべきだ。偽者(失礼)を備前焼と思われて、岡山県にとっても良い筈は無い。
 素備庵に無造作に並んで居る品物は、デパートならば美術品売り場にしか無い物ばかり。値段は其れよりかは安いが、土産物屋とは桁が違う。どう見ても尤もなので、ビニールのカッパとゴアの雨具とは桁が違うに決まって居る。
 素備庵の主人は語る。熱く語る。
「松の木で焼くんです。そうしなければ備前本来の味は出せない」
 そうなんだ。知らなかった。
「名前が通って居るからどう、では無い。作品が良いか悪いか。皆さん、有名作家を追い求めますが、笑止!」
 うーむ、同感だ。
「私は真面目に備前焼に取り組む作家を応援します。アドバイスは惜しみません」
 そうでしょとも!元は、熱血高校教師で有った由、備前焼に魅せられて店を開いたとの事。今では備前焼の講師も勤めれば、若い作家の指導もする。あたしも何度も通って指導(?)を受けたが、そのような人は岡山県の宝、否、日本の宝です。
 あたしが力んでも意味が無い。
 素備庵以外で備前焼を買う気が無くなったのは、幸なのか不幸なのか。ま、今となりゃあ不幸で、もう岡山には行く事も無いから、備前焼が買えなくなっちまった。尤も金が無いから、どっちにしろ買えないので、幸だったとも言えますなあ。
 愚痴は置いといて、あの無骨で地味で変哲も無く見える備前が、夫々の色合い、個性、色気を感じる事が出来る様になったのは、素備庵のお陰で有る。
 備前が地味だ?フッフッフ、良い物を見て無いね。美術品売り場でも美術館でも、確り見て歩いて見なさい(え、地味なんて言って無い,自分が書いたんだって?失礼!)。備前もお薦めです!!

2009年12月6日日曜日

閑話 その三十七

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 高山帯の定義は日本と外国では異なって居る様だ。日本では這松帯からを高山帯とするが、外国では樹木が無くなる地点からをそう定義する。従って這松が生えて居るなら高山帯では無い。
 其の這松だが、北東アジア特有の植物で、植域が長い舌の様にベロンと南に延びて居るのが日本列島で有り、其の最南端が南アの光岳(てかりだけ)だ。詰まり世界の這松最南端と言う事。
 全く知らなかったのだが、日本の高山帯は世界に例の無い多様性が有るそうで、分かり易く言うと、箱庭的風景の様だ。
 岩と岩屑とお花畑と這松と残雪、極当たり前と思って見て居たが、外国の山は岩なら岩のみ、花は極珍しく、雪田も存在せず氷河になって仕舞う。植生も単純で高度に合わせて同じ種類の植物で埋められる、と本で読んだ。
 ふーん、そうだったんだ、其れも山の景観を生涯の研究テーマに選んだ変わり者の(失礼)学者が居てくれたお陰で、知る事が出来た訳で、其の先生は仲間や先生からも偉く変わり者扱いをされたそうだ。併しそう言う総合的見地に立った研究は素敵です。
 何で多彩な風景が構成されたかと言うと、日本の山は、世界一の強風帯と世界一の豪雪帯で、其の作用だそうだ。知らなかった。豪雪帯は知って居たが、強風だったんだ。確かに冬の硫黄岳通過這うしかなかった。
 で、這松だが、厳冬期には雪の下に埋もれてなければ、厳しい寒気と強風の為生存出来ず、寒気が緩めば直ぐ雪が融けて日光を受けられる環境が必要だそうだ。這松帯とはそう言う所だったんだ。
 因みに這松は1m成長するのに三十年掛かる筈だが、頑張って下さいね。
 お花畑は岩屑帯(専門用語が有るだろうが、知らない)に展開して、種々の花々が咲き乱れる。此れも外国には無いのか……。殺風景ですなあ。日本に住んで居て良かった。あのお花畑の見事さ、妻にも見せて上げたいのだが、未だ機会が無い。北岳にでも連れて行けば良いのです。
 南北中央アルプスでは、最近良く外国人登山者を見掛ける。わざわざ登山の為に来日したのか、と聞いた事は無いので、日本に居住して居る人が大部分だろうと思って居るが、中には珍しい日本独特の高山帯を訪ねて来た人も居るかも知れない。今度聞いて見よう(どうやって?身振りでかい)。
 結論、そんな良い山を登って居たとは全く知らなかったので、感謝して山登りに励みましょう。

2009年12月4日金曜日

休題 その二十八

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 我が家の紋所は丸に一引き。分からない?丸に十の字は薩摩の島津の紋所で、十が一になったと思って下さい。
 両方共源氏の紋で、我が家も源氏なんだが、先祖は渡辺の綱(と言われて居る)、羅生門で鬼の腕を切った、頼公四天王の一人と言えば分かる人も居るだろう。頼公とは源頼光で、四天王で有名なのは坂田の金時、俗に言う足柄山の金太郎で有る。
 文化を大切にしないと、国民同士で話が通じなくなる。英語を教えるより国語を教えるのがマトモな考えで、今の風潮はマトモでは無いって事?そうだ!英語は必要なら使える様になる、戦後の売春婦を見ろ(古くて分からない?学校は何を教えてんだ!)。
 乱暴な話で失礼。でも幕末の侍達が欧米に行ったが、言葉なんざ全然分からんでも偉く尊敬された。心掛け、覚悟、使命感、誇り!全部今は意味の無い(或いは薄い)事柄になっちまって、自分の国も知らなきゃ、相手の国の文化も歴史も知らねえ、言葉だけは出来る、って事は戦後のパンパンを大量に創りたいのかよ!!!
 あ、又もや失礼!常の如く酔って居るんで済みません、話を戻します。
 源氏と言っても傍系の又傍系、渡辺と名乗って居たのは渡辺の荘を領して居たので、今の大阪市だ。大塚と名乗ったのは、其の渡辺の綱の傍系の傍系が、どっかの大塚荘にでも住み着いたからだろう。
 我が家の話はどうでも良くて、総本家源氏の事。
 直系は八幡太郎義家の家系だが、頼朝の孫の代で途絶えたので、義家の弟の新羅三郎義光の家系が跡を継ぎ、其の直系が甲斐の武田家なのだ。傍系としては島津、南部、小笠原と多彩で有る。詰まり武田信玄は源氏の統領なので、当然乍ら天下を治める使命が有ると思って居たのだろうとは、当然思い当たる。でも、あくまで私見です。
 信長が天下を目指して居たと偶に読むが、多分、美濃、伊勢、近江を手に入れた頃からチラッと思い始めた、と考えるのが正解ではないかと思う。其れでも未だ周囲は強敵だらけだった訳なので、浅井、朝倉を滅ぼす迄は夢想の状況で有る。
 一方信玄は、本気で京に登り天下を平定する気だった様だ。唯、上杉謙信が居たもので、常に彼を牽制する策を打たねばならず、苦労です。謙信公はご承知の通り、自ら毘沙門天の生まれ変われと信じて居た戦の天才なので、信玄も頭が痛い話で有る。
 前述だが、労咳の身では残り時間が少ない。労咳なのでデップリ太っては居ない。従って有名な信玄の肖像画は間違いなのだ。
 やっと、謙信を動けなくし、信長も多方面に兵力を割かざるを得なくして(なまじな戦略家では無い)、三万近い軍勢で京を目指す途次に病没し、無念とあたしは思うのです。

2009年12月2日水曜日

閑話 その三十六

 相応しい写真、イラストが無いので失礼。
 前の本棚には“風雪のビバーク”が有った。松涛明氏の登山記録を其の侭製本したものだ。此の本を著名なものにしたのは、遭難死の直前に書き綴った文章だ。
 彼は冬の北鎌尾根をアタック中、友人の故障の為に行動出来ず共に死を迎える。加藤文太郎の最期に通じる。場所も同じ北鎌尾根なのだ。
 辛くて読めない。でもご遺族の許可も得ずに引用したいと思います。ものぐさで御免なさい。

 一月六日 フーセツ
全身硬ッテ力ナシ
何トカ湯俣迄ト思ウモ
有元ヲ捨テルニシノビズ、
死ヲ決す
オカアサン
 アナタノヤサシサニ
 タダカンシャ、一アシ
 先ニオトウサンノ
 所ヘ行キマス。
 何ノコーヨウモ出
 来ズ死ヌツミヲ
 オユルシ下サイ
 …………
 サイゴマデ
 タタカウモイノチ、
 友ノ辺ニ
 スツルモイノチ、
共ニユク
 …………
我々ガ死ンデ
 死ガイハ水ニトケ、
ヤガテ海ニ入リ、
魚ヲ肥ヤシ、又
人ノ身体ヲ作る
 個人ハカリノ姿
 グルグルマワル

 鉛筆は指で持つ事は出来なかっただろう。手で握って書いたのだろうと思われる。
 昭和二十三年の事だ。あたしが満一歳。本文や閑話と重複するが、何度でも書く。今なら無事に有元氏と共に、お母さんの待つ家へ帰れただろう。
 当時の装備はコットンなので、何日か続いた雨(!)でテントもツェルトも凍って使用不能、雪洞暮らしとなるのだが、急峻な岩稜で雪洞を掘る場所は殆ど無いので、最悪の事態を迎えるのだが、今ならテントもツェルトも表面しか凍らないので、充分使用可能だ。
 決定打はラジュース(石油を焚くホエブス)の故障らしいが、今ならガスなので、故障は考えられない。従って二人共無事だ。そうだったらどんなにお母さんが喜んだだろう。
 六十年前の山登りは、本当の冒険だった。くどいが、装備は格段に良くなっても大自然は変わらない。お互い親を泣かさない様にしましょう(あたしには親は無しだけど)。

2009年11月29日日曜日

迷ったなんて認めたくない その六

 

 呆然と濁流を見つめていても、結論は一つに決まっている。馬鹿な考え休むに似たり、DH000003なのだ。
私「Z、気の毒だが引き返……」
Z「(被せて)大塚さん、橋を掛けよう!」
 Zは挫けない男だ。或いは、「引き返す」の一言を死んでも聞きたくなかっただけかも知れない。Zは3m程の枯れ木を引っ張って来た。私も手を貸した。こうなったのは、私の判断ミスなのだ、止めとけ無駄な企てだとは、とてもじゃないが言えなかった。枯れ木を川に放り込んだら、あっと言う間も無く流れて消えた。二人は無言でびしょ濡れのザックを背負った。
  やっと下った路を、やっと登って行く。
 私は幕営地を探しながら歩いた。稜線へ戻るのは時間的に不可能だからだ。急な路ばかり、たまに有る平地は川原で、増水を考えると危なくて天幕は張れない。日が暮れて来た。行動は限界である。路は平な所に差し掛かっていた。良し、此処で幕営だ。
 狭い路に無理やり天幕を張っていると、ポールがポキッと折れた。折れたポールを切り離し、グジャッとした奴をでっち上げた時は、真っ暗になっていた。雨は降り続けている。ポールが折れるような古い天幕だったので、雨は漏り放題、天幕の中には水がたぷたぷと溜り、金魚が飼える有様である。
 そこで前に触れた取っておきのマッチの話となるのだ。胸ポケットのライターは、濡れた手で擦ったので、死んだ。Zのライターも濡れて死んでいた。私のライトとローソクを入れる袋の底には、二重に包装されたマッチとライターが有るのだ。フッフッフッフ、登山者の心がけってもんよ(痛い思いをして知った事なんだから、威張る筋合いでは無い)。
 タオルを良く絞りって手を拭い、雨漏りに気をつけてコンロに火を点けた。成功!これで遅い食事をとる事ができた。
 翌日は雨が上がり、難無く稜線へ戻り、木曾側へ下って無事帰京できたが、車内で一緒になった人達は、我々のすえた臭いに閉口したと思う、何せビショビショの着干し(濡れた服を着た侭体温で乾かす事)だったので、済みませんでした。
 迷ったというより、右往左往した話だったが、Zには辛い思いをさせてしまった。でも、良い思い出になったでしょう?(あれ、Kと同じ発言だ)
 お互い、迷うのは地上だけにして、山では慎重に、決して迷わぬよう行動しましょう。迷うと、ひどい目大会をやる羽目になっちまうんで。
 でも絶対迷わないって事は有り得ないので、万が一迷ったら、じたばたせずに、状況の回復を待つべきで、谷に降りるなんてえのは、絶対駄目ですよ。(老婆心ながら)

2009年11月28日土曜日

クソ面倒な話 その十

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 その九に続いて分かった様な分かんない様な事を書くが、ブルーバックスの受け売りで、増殖炉は使えば使う程燃料が増えると聞いて、そりゃあ変だ、エネルギー保存の法則はどうなったんだ、と本を買った訳なのだ。
 ね、当然の疑問でしょう?お陰ですっかり納得出来たのは目出度い。
 燃えないウランをプルトニウムに変え、其れを燃料とするのだが、面倒な事にプルトニウムにも同位体が多く、燃えるのは239と241なので又もや濃縮しなければならない。日本では其の作業はフランスの企業に委託して居る。
 プルトニウムは「此の世で最も危険な物質」と言われて居る。空気に晒されると激しく酸化し、酸化プルトニウムになり、まずい事に超微粒子となって飛び散る。此れを吸い込んだら百年目なのだ。
 プルトニウム239の半減期は二万四千百年、詰まりあたしの一生なんざ二百分の一以下。うっかり吸い込んだあたしは、一生元気なプルトニウムの放射線を体内に浴び続ける訳だ。此れは辛い。
 ビーグル犬を使った実験では100%肺癌が発生したそうで、人間なら大丈夫と言う保証は、残念乍ら無い。
 プルトニウム型原爆は、純度94%の239が5Kgで完成し、ウラン型は純度90%の235が15KgでOKで有る。依って、プルトニウム型の方が小型に出来るが、5Kgで核分裂を始めて仕舞うので、小さく区切って、一気に結合させなければならない。
 従って、アメリカとしてはタイプの異なる原爆を夫々実験(それも人体実験)したかった訳だ。考えすぎ?戦争の勝負はとっくに着いて居て、あちらさんも其れは十分承知だよ!
 人間とは、悪魔ものけぞる様な悪魔にでもなれるのです。
 話があっちに行ったので戻そう。どうしても興奮しちゃうんです。
 原発は必要悪だとあたしは認識して居るので、化石燃料は限りが有る上にCo2を排出するので、燃せば燃料を作り出す増殖炉の魅力は棄て難い。でも、デメリットは確かに大きい。手を加えれば核兵器になると言うのも、危険過ぎる。
 核融合炉が実現すれば、酸化プルトニウムや放射能の危険とはおさらば出来るだろう。究極のクリーンエネルギーでは有るし、此れからの人類を支える力になるのは疑い無い。
 欠点は実用化が難しい事、それも半端じゃ無くだ。もう一つは、核融合って結局は水爆なので、人間が人間で在る限り、何らかの不安は拭い去れないのです。

2009年11月26日木曜日

迷ったなんて認めたくない その五

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 中央アルプスの話が出たので、ついでにもう一つ。中ア南部は厄介だとは聞いてはいた。行ったら本当に厄介だった。これも二昔前の事だから、今は違うかも知れない。違っていたら、御免なさい。
 Zと奥念丈を目指した。上片桐の無人駅で寝て、鳩打峠へは前夜頼んで置いたタクシーで入り、烏帽子へ向かった。烏帽子迄は立派な道だった。その後がいけない。地図には破線が有る。行けば何も無い。たまに樹に赤テープが有るだけ!
 タイミングが悪かったのだろうか。普通何となく、踏み跡とは言わないけれども、何かが通った痕跡は有るのだ、少なくとも破線が記載されている以上はだ。処が全く痕跡が見事な程に無い。古びたマーク(たまに有る)が有るだけで、あとは笹薮。
 それも何時までも何処までも笹薮。其処をキスリングでこいで行くのは、難行苦行、七難八苦、……でもないか。念丈岳へのピストンでは、方向を失いうろついたが、それでもZの冷静な判断に助けられ(リーダーは誰?はい私です、あの時は一寸とパニくって、はい……。前に書いた、迷った時にはパニクるとは此れです)何とか与田切乗越には着いた。
 一面の笹原である。看板が立っている訳も無く、地形でそれと判断するのだ。幕営した痕跡すら無い。熊笹を踏み、天幕を張る。大自然そのものだ。この日は良い天気で笹に蒸されたが、翌朝は、雨だった。この日に森林限界を越えるというのに。私には良く有るパターンで、とても嬉しい。
 雨に打たれながら笹を登る。石楠花と這松の稜線に出て、やっと藪からは開放された。ヤッホー!処が今度は、よろけるような強風と、叩きつけて来る雨がお迎えしてくれた。ヤッホー、トホホ……。
 空木岳への縦走予定だったが、とてもじゃないがその気になれない。越百から中小川道を下ろうと決めたのだが、それが偉い判断ミスであるとは、すぐに思い知らされる事になる。このルートをご存知の方は分かるだろうけど、鎖、梯子が無闇と有る急な路なのだ。
 濡れた鎖に縋り、梯子に滑り、やっとの思いで下降して行く。Zは頑強な男だが、下りに弱い(膝に故障が有ると、後に分かった)、さぞや辛い下りだっただろう。
 相生ノ滝の落口近くへ降り立った。此処迄来ればこっちのもんだ、あと一時間半で避難小屋が有る。ヤッホー、屋根の下で眠れるぞ。
 此処で渡渉が有る。案内書には、増水時注意と記されている。幸いな事に、モロ増水時だったのだ、やったぜ!
 5m近い幅で濁流が渦巻いている。とてもじゃないが荷物を背負って(空身でも)跳べるとは思えない。すぐ下は相生ノ滝だ。下手をすれば落差30mのジャンプを楽しめる、それも待ち時間無し、無料ご招待で!
 (迷ったなんて認めたくない その六へ続く)

2009年11月23日月曜日

閑話番外 その十三

 

 クソ(失礼)面倒な話9に、クリックすると図が現れるが、原子核の周りを雲の様に電子が存在して居るイメージ図なので、断りもせずパクッて来て、済みません(汗)。
 原子核の図に、1fmとサイズが記入されて居るけど、馴染みが無いでしょうから説明します。
 メートルを基準とし、ミリ、マイクロ、ナノ、ピコ、此処迄はお馴染みでしょう。其の三桁小さいのをファムト(femto)と呼びfと表示する。1000兆分の1メートル、って事は10兆分の1センチなんです。
 あたしゃあイメージは無理、頭が痛くなっちまうだけなんで、そんなもんなんだなあ、と思って居ます。

2009年11月22日日曜日

迷ったなんて認めたくない その四

 

 

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 私と妻はカールを横断して、浄土乗越へ登り始めた。突然、あの晴天が掻き消えガスと風になった。毎度お馴染みの天候急変である。秋の天気は、女心?男心?さてどっち?私なりの回答です。どっちもだ!
 稜線に上がった時は、雨さえ加わった強風となっていた。さっきの、おー!は、本当にラッキーな人達だけが発したのだ。此処迄来れば、今宵の宿の宝剣山荘はもう着いたも同然だ。関西弁の中年女性が二人、強風の中に立っていた。
その人「あのー、小屋は何処でしょう」
私「え、小屋って、目の前ですよ」
 ガスで見えない。と、一瞬小屋が見えた。本当に目の前だった。
その人「ほんまや!おおきに」
 私の谷川岳と同じだって?全く違う!此処は道の上、しかも一級国道なのだ。地図を見れば(或いは見なくても)、手探りでも小屋にぶち当たる。大丈夫なんだろうか?もし、私に会わなければどうなっていただろう。(余計なこった、一寸と進んで小屋にぶつかるって)
 翌朝は、お蔭様で雨だった。やったね。(反語ですよ。え、分かってるって?失礼)妻が嬉しそうに言う。
妻「ね、あの人達(関西のおばさん)夜中に懐中電灯で茹で卵を食べていたわよ」
私「はっはっはっはっは」
 夜中にトイレに行く時見かけたそうだ。妻よ、そんな事を何故喜ぶ。ひょっとして、似た者夫婦なのだろうか。でも面白いでしょう、夜中に懐中電灯の明かりで茹で卵を食べている人達って。はっはっはっはっは……。
 雨の中、何も見えないのに、ご苦労にも木曾駒へ向かった。ラフに歩いて登山道を外した。でもどうって事は無い、尾根筋なんだから。構わず進んだら、三人の女性パーティが佇んでいた。
そのリーダー「あのー、道を間違えたみたいなんですけど」
私「ついて来て下さい」
 当然ながら、登山道には直ぐ出られる。だって、一直線の稜線なんだから。
そのリーダー「有難う御座います」
大丈夫なのだろうか?簡単に立てるが三千米級の山は、矢張り三千米級の山なのだ。山はお天気商売、晴れていれば何でも無いが、崩れたら手に負えない。超一流の登山家だって悪天候には勝てず、命を落としているのだ。日本人で世界に名を知られた登山家(冒険家)で存命なのは、スキーの三浦氏ぐらいなのでは?
 文太郎、長谷川、加藤、植村の各氏も皆山で逝ってしまった。超人達でも自然には勝てません。
 今年(平成十八年十月)は早くも四人の遭難者を出した。白馬で三人、奥穂で一人だ。天気に恵まれれば何でも無く、元気に下山していただろう。十月であっても、天気が臍を曲げれば、即冬山遭難である。須らく便利になっても、大自然は変わらない。山に行く方よ、少なくとも地図は読めなくてはいけない、と愚考します。
 (迷ったなんて認めたくない その五へ続く)

2009年11月18日水曜日

クソ面倒な話 その九

 

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 日本の敗戦が確定してから原爆を二発も落としたのは、実験の為で、何が東京裁判だ、何が人類に対する罪だ、それはてめえ等のこったろがよ!!!
 失礼、其の話では無かった。
 原爆二発とはウラン型とプルトニウム型で、制作的難度はどっこいどっこいだろう。マンハッタン計画を成し遂げて両方共作成した限りは、是が非でもイエローモンキーで試すのです。原爆投下を決めた人、地獄に落ちて原爆の火に焼かれ続けなさい。
 自然界に存在する物質はウランが限界と言われて居て、ほんの少しは其れ以上のナンバーの原子も存在するらしいが、無視し得る。
 理由は簡単で、陽子の周りに電子が存在するのだが、文字通り陽子は陽電気を帯び、電子は陰電気を帯びて居る。原子ナンバーは電子の数で決まるので陽子も同じ数で構成するが、数が多くなると陽電子同士の反発が大きくなって存在出来ないから、中性子を挟んで何とか纏めて居て、其の限界が電子92個(原子番号92)のウランなのだ。
 其のウランに中性子が衝突すると、原子核が真っ二つに割れ200メガボルトのエネルギーとほぼ2個の中性子が放出され、夫々別のウランに衝突し、鼠算的に核爆発となる。其の核爆発を一定の状況に抑えてエネルギーを取り出すのが、原発なのはご承知の事。
 では何故プルトニウムが登場するのだろう。ウランには同位体が多い。核分裂するのは235のみで、ウランの0.7%に過ぎない。99.3%(主に238と239)は燃えないウランなのだ。
 従って、ウランを持って居ても原爆にはならない。全て235とは言わないが、多くを235にしないと核分裂は起こらないので、235主体のウランを生成するのを、濃縮と呼ぶのは最早常識範囲内だろう。
 此の濃縮技術は相当の国々に広まって居て、其の国々は言う迄も無く潜在的核爆弾保有国で有る。ざっくり言うと、原発を持った時点で潜在的核爆弾保有国なのだ。イスラエルがイラクの原発を完成間際に爆撃して破壊したのは、そう言う訳です。
 オバマ大統領が何と言おうとノーベル賞を貰おうと、一度開けたパンドラの箱は元には戻らないのは世の習い。あたしみたいな人間が居る限りは、核廃絶は夢の夢。有得ないけど、アメリカが真っ先に核を捨て去ったら、喜んで他国が核をちらつかせるのは当然の事とあたしには思える。
 ま、人間が根本的に変わらない限り(太古以来変わって無い、変わったのは環境のみ)、核は不滅です。
 話を戻そう。
 酷く簡単に言うと、其の燃えないウランに中性子を吸収させると、プルトニウムになる。詰まり、原発の炉の周りに燃えないウランを並べて置くと、飛んで来る中性子を吸収してプルトニウムが作られるので、其れを増殖炉と呼ぶ。
 あー、クソ(失礼)面倒な話だ、続きます。

2009年11月15日日曜日

迷ったなんて認めたくない その三

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 で、三ノ塔尾根は植林帯に入ると間違えやすい。植林道が入り乱れているからだ。私は下りながら、小学生の子供を連れた夫婦を抜いた。とっとと下り、登山道を外した事に気づいた。尾根は右方向。その間は割りと急な笹薮だったが、何て事も無い。笹を掴んで行こうとし、はっと気づいた。あの親子連れは?
 見ると、案の定、遥か上から私の方に降りて来る。一服つけて待った。
私「道が違うので、私について来て下さい。良いですか、しっかり笹を掴んで下さい」
夫「……はい」
 笹薮をトラバースした。親子も必死について来る。無事登山道に到着。
私「これが道ですから」
夫・妻「有難う御座います、お陰で助かりました」
 口々に礼を言われる私は、引ったくり犯が盗んだ品物を返して、礼を言われている気分だった。大体からしてが、私が路を間違えさせたのだから。曖昧に返事をして、下ってしまいました。相変わらず、駄目な私。
 別の時、鍋割山稜に入り、大丸を越したあたりで、中年の男性二人が地図を広げて覗き込んで居た。そんな時は必ず声を掛ける。
「どうしました?」
 お節介?(人差し指を振って)チッチッチ、違うね、必要な事なのだ。迷っているに九割九分間違い無い。地図で景色を確認しているなら、覗き込んではいない。
 大阪でお客さんのM医療器を訪ねるのに、何時もと逆方向から行った事が有る。其の付近なのだが分からず、キョロキョロして居ると、おじさんが声を掛けてくれた。
おじさん「何探してはるんや」
私「M医療器なんです」
おじさん「其の筋を行って、ほれ、あの角を左に折れはったら、じきでっせ」
私「有り難う御座います!」
 ね、有難いでしょう。だから私は必ず声を掛けるのだ。反応は決まってほっとした顔付で有る。
中年男性「大倉へ降りたいんですけど、間違ったみたいで」
 ははー、金冷しの分岐に気付かず、通り越したんだ。
私「塔からですか」
中年男性「はい」
私「今は此処です。大倉へは来た路を戻って、此処で右へ下ります。道標は分かり易いですから、直ぐ分かります」
中年男性「有り難う御座います!」
 お互い様なのだ。其の上誰かに教われば簡単で、しかも間違えようも無い。迷ったと気付いた諸君は、多少でもパニくって居るので、変な勘違いをしてしまう事も有り得るのだ。現に私にも変な勘違いが有った。それについては又何時か、機会が有ったら話しましょう。
 別の話、秋の千畳敷に妻と行った。二昔前だ。観光客達とゴンドラを降りると、一斉に、おー!と歓声が上がった。勿論私と妻も、おー!だ。カールと宝剣岳が紅葉に燃えている。(宝剣岳は木が無いので紅草です)
 (迷ったなんて認めたくない その四へ続く)

2009年11月14日土曜日

休題 その二十七

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 写真は文と無関係で、秋だと言うだけの事につきご容赦。
 威張る訳だけど、あたしゃあ六十前から耳が遠い。ん、正確では無いな、歳の所為では無く肉体的個性に依って、三十代から耳が遠い、場合も有った。其れは正確です。
 説明すれば、あたしゃあ穴が狭い。例えば血管。親父の遺伝だ。献血に行っても看護婦(当時の呼称。でもあたしは看護士より看護婦の呼称が好きだ)(男ならどうするって?看護士さんって言えば良いだろ!)さんが苦労して血管を擦って出すが、針が思う様に入らないらしい。
看護婦「血管が細いんですね」
私「はい」
 あたしの罪じゃ無い。でも、看護婦さんは苛々して来る。やっと針が刺さる。でも、細いだで中々血液が送られない。
看護婦「手を握って開いて、繰り返して下さい」
 これが凄く嫌なの、あたしゃあ。理由は簡単で、クソ面倒な話を読めば一発なんだが、臆病臆病のあたしは血を取られる覚悟を決めるだけで一杯一杯で、其の上にニギニギしろと言われただけで、やってるうちに血の気が引いちまうんだよ、臆病者はさ(涙)。
 で、耳の穴も細く、しかも間がりくねって居るらしい。従って素人には耳垢を取れないのだ、はっはっは、アホは生まれながらにアホじゃ!
 で、どうなるかってえと、耳垢が溜まりに溜まって凝り固まり、音が遥か遠くになって仕舞う。擬似つんぼ(使ってはいけない言葉らしいが、あたしゃあ使う)で有る。
 結局仕事にも支障をきたす様になる。
顧客「大塚さん、此の件はふにゃらかへ」
私「は?」
顧客「だから、ほんだらけっぺ」
私「(耳を引っ張り)もう一度お願いします」
顧客「はらほれへれ」
私「???」
 駄目だこりゃあ。仕方無く耳鼻科へ行くと、液体薬を耳に入れ、三十分程たって耳垢を掘り出しに掛かる。其の日に終るのは片耳で、二日掛かりの工事で有る。
 今も半分音が届かないが、悪い事ばかりでは無いのが面白い処で、聞かなくて良い事は全く聞かないで済む。聞かなければいけない事は相手が注意を促してくれる。
 人間とは当り前だが、余分な事を聞いて余分な腹を立てたり余分な邪推をしたり余分な心配をする。あたしには少なくとも、其の余分な、が無いのはとても幸せだ。
 勿論、大切な事を聞き逃す(聞こえないんだから)場合も有るが、多少のリスクは負うべきで有ると思って居る。俗に言うノーリスク・ノーリターンだ。
 半つんぼのあたしは、詰らない事は聞かずに済むのだが、世の中とは詰らない余分な音(或いは情報)に満ち溢れて居る、とあたしは観て居るので、半つんぼは有難いのです。

2009年11月12日木曜日

迷ったなんて認めたくない その二

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 で、上越の斜面の夜は、思えば単独ゆえの不安であったのだ。ろくに眠れず、まどろむ程度で朝を迎えた。それでも一晩で気力体力を回復していた。若いって素晴らしい♪登り返しは、さほどの苦労も無く、ピークに戻れた。昨夜の苦労と不安は何だったんだ?そんなもんだ、本人だけが勝手に苦しんでいて、人が傍から見れば、馬鹿じゃないの、の世界で有る。
 幸いにもガスは薄く、稜線をかろうじて見渡せる。何だ、こっちだったんだ、磁石で確認をしたのに飛んでもない方向に降りちまったんだ。迷う時は迷うもんなんだなあ。
 そして何とか清水の部落に到着した。最終バスを待ちながら民宿で食べた山菜蕎麦の味は、未だに心に残っている。民宿のおばさんは「慌てなくて良いよ、バスは止めておくから」と道に立っていてくれた。それも蕎麦の味に入っているのだろう。
 この民宿(済みません、名前は不明です)で、数年たってタクシーを呼ぶ為に電話を借りた。何、バスを三時間待たなければならなかったので、仕方なくタクシーである。
 処がおばさん(勿論、私の事は覚えている筈も無い)は、「此処でお待ちなさい」と言って、お茶と漬物を置いてくれた。こっちは電話を借りただけだ。これで感動しなけりゃ人間とは言えないでしょう。本当に清水の人は暖かいのです。
 話を、迷う話に戻しましょう。
 磁石だが、困った事に良く狂う。体から離して見るのだが、金属の影響を受けるのだろう。安物だからかな?Yと一緒の時は、Yが磁石係りである。私が地図を広げながら、
私「方向!」
Y「はい!」
 Yよ、そういう時の返事は中々良いぞ。そういう時は藪の中か、沢の中か、どっちにしろ間違える訳にはいかない状況なので、打てば響くやり取りになるのは、当然だ。間違えれば、ひどい目に会うだけなのだから。
 Yは極力体から磁石を離し北を指す。私が地図を其の方向へ向ける。
私「こんなとこか?」
Y「OK!」
 と何とか行く方向を定めるのだ。大体は当たりである。偶(たま)に外すのは私の所為である。
 人の迷った(迷いかけた)話をしよう。自分のネタが殆ど無いので、済みません……。 (此の記述は平成十八年の時点なので、平成二十一年現在は、しょっちゅう迷う様になってしまい、俺も衰えたもんだなあと、実感してるのです)
 三ノ塔の下り(三ノ塔尾根)は、ダラダラ長くて好きでは無いが、大倉に出る為止むを得ずに歩く機会の多い尾根だ。本来は烏尾尾根の様に一気に下って勝負(何の?)の早い尾根が好みなのだ。
 (迷ったなんて認めたくない その三へ続く)

2009年11月9日月曜日

クソ面倒な話 その八

店 045

 

 うーんと詰まんない話をしよう。
 量子力学は本当に理解出来ない。頭では一応理解してんだが(自分の積もりで有るのは勿論だ)、全然分っかんなーい。
 分かると言う貴方は、天才的に頭が変なのか、或いは嘘吐きなのだ。(本当の天才は除くが、此処には来ない筈です)
 ボーアのコペンハーゲン解釈(主流)と、多世界解釈が拮抗して居るが、どちらもよく分っかんなーい。
 ご存知だろうけど基本なので、原子と一言に言うが、東京ドームが原子とすると、その真ん中に小さな(Sで無くSS位の)卵を置いたら其れが原子核。で、電子がドームの天井を回り、其の大きさはパチンコ球より遥かに小さいのだ(だって、電子は陽子の一億分の一以下の重量なんだから)。
 従って、物質の本体は殆ど99.999……%以上は空間で(真空とは違う。原子の中は真空と定義しない筈)、我々も空間なのだ。本来は宇宙と一体化すべきなんでしょうなあ。
 此処迄は皆さんご承知。で、其の電子のスピードは?へっへっへ、光速の30%ですよー。あたしも知った時は吃驚した。教科書では惑星状の軌道を描いて電子が存在してるのだが、そんな高速とは描いて無い。
 実は其の惑星状の軌道がそもそも間違いなのだが、今は置いておく。
 原子の大きさは直径一億分の1Cm。軌道の長さは一億分の3,1Cm。秒速90000Kmとして電子はざっと毎秒3京(?!)回転するのでイメージ化は無理で、強いて思えば、雲の様に存在して居る、と感じるのがあたしの限界だ。
 そんな世界のこったから変な事が多い。曰く。量子の場所を特定すれば速度は特定出来ない。量子は観察する迄存在の可能性は無限(に近い)。ざっくり言えば、観測する迄分からん、観測した瞬間他の数値は分からなくなる。
 光は波で有る。此れは何となく分かり易い。電波もマイクロ波も多くの人は波だと思って居る。でも正体は皆光子で、可視光線は其の極一部なのだ。常識だ?済みません。
 処が光子は粒でも有る。うーん、イメージが難しい。現に一つ一つの光子を取り出して居る。従って量子には粒と波の性質が有ると言われるのだ。
 いずれにせよ、あたしら普通に生きて居る人間のイメージは絶対(言い切るもんねー)及ばない世界だ。イメージ出来たら冒頭の通り、天才的に頭が変なのか、或いは嘘吐きなのだ。
 聞くけど、あたし等の体は幾つの原子で出来てんの?其の原子はクオークは別として他に多くの中間子や、ニュートリノとか(あ、これは違いました)、訳分かんないもんで構成されてんで、解明はまだまだ出来ない。多分永久に出来ない??
 前提が無闇と長引いた。
 コペンハーゲン派は量子を観察した瞬間量子は其の一点に集約されるとの説。多世界派は幾つもの世界が共存し、観察された瞬間其のうち一つが選択される。
 ま、どっちかなんでしょう。或いは両方見当外れかも知れないが、あたしには関係無い。では何でこんな章を立てたって?済みません!

2009年11月7日土曜日

迷ったなんて認めたくない その一

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 生きている限り、迷うのは避けられない。
「え、A社ですって、絶対B社ですよ!」
 良く有るパターンだ。
「A子は美人だし、B子は優しいし、さて」
 おめでとう!
妻「あなた、どっちが似合う?」
夫「(生あくび)どっちも似合うよ」
 これもよく有る話だ。
「生きるべきか、死ぬべきか」
 好きにしろ、馬鹿ハム!
 その手の迷いではなく、山の話である。山で迷ったら一大事である。それは遭難だ。里道では迷う。これはしょっちゅうで、余り当たり前なので、置いておこう。私は幸いにも、山中で迷った事が殆ど無い。その少ない事例の一つから始めよう。
 山では下りで迷う。一つ尾根を外すと全く違う事になる。見通しが利けば何でも無いが、何も見えない時は、注意していても危ない。特に雪山では、路が無いから特にである。
 上越の春山だった。ガスである。稜線を辿っている筈だったが、どんどん下る。変だ。気づくべきだが、迷った事を認めたくないのが人情だ。愚かな思いだと思う。でも認めたくないの!認めるのが余りに辛いから。
 斜面が偉く急になった。流石に稜線を外れた事を認めざるを得ない(本能はとっくに認めていた)。対応策は唯一つ、下った所を登り返すのみ。更に下るのは自殺行為で有る。一寸と登って諦めた。登りきれない。登りの労力は下りのそれに百倍すると言われるが、確かだ。登れないとなれば仕方無い、ビバーク(正確にはファーストビバーク)の一手だ。散々雪を蹴って(実は大変な労力なのだ)、どうにか天幕を張れる斜面をでっち上げ、傾いて歪んだ天幕を張って一晩を過ごした。遠く滝の音が聞こえる。相当降りたのだ。
 不安な夜だった。谷川岳の夜と似た不安だ。何度も地図を読む。一体俺は何処にいるんだ?一人でなければもっと楽だっただろう。一人と複数は違う。どの位違うかと聞かれれば、数字なら三桁、魚なら鮪と鰯の差は確実だろうと答えよう。
 正月の五竜に登る為、神城駅にキスリングを背負って降りた。駅前には洒落た店が並び、スキーヤー達(と思う)が歩いている。一件に入ってモーニングを食べたが、別世界だ。これから冬山に入る人間には、気力を削がれる感がある(え、そんなの私だけ?)
 これが複数なら、
「お、良い店だな」
「暖かくて良いや」
「今夜は寒いぞ」
「おー、やだやだ、温泉入って帰ろうか」
「馬鹿言え」
 となる。素晴らしきかな冬山よ!である。一人だと、唯緊張して、山中で緊張して、下山で緊張するのだ。まあ、それにはそれなりの喜びもあるのだが。 (迷ったなんて認めたくない その二へ続く)

2009年11月5日木曜日

閑話 その三十五

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 二年前(平成十九年)の夏、長男が山に行きたいがどのルートが良い?と聞いて来た。お、何だどうした、悪い物でも喰ったか。二泊位の予定だと言う。そう来りゃあ任せて置け、すっごーく良いルートを考えるぜ。
 長男は決して悪い奴では無いのだが、物事を舐めて掛かり、直ぐ図に乗ると言う欠点を持つ。え、思えば全くあたしと同じだ、悪い血を引いちまったもんだなあ(少し哀れ)。
 提案は、蛭の小屋に泊まり、翌日は犬越路か加入道の避難小屋泊、畦ヶ丸迄縦走し下山。どうです、良いルートでしょう?水は初日は棚沢の頭の水場で、二日目は犬越路から一寸と下って補給する。克明に説明した。
 長男は出掛けた。暑い日だった。どうだとメールをしたら、やっと辿り着いた、酷い苦労だった、と返事が来た。はっはっは、そうだろうとも、真夏の蛭にそう簡単に着かれちゃあ困る。
 長男は翌日帰って来た。何だどうした。長男「蛭から檜洞丸がきつくて、大室山へ進む自信が無いのでつつじ新道を下ったんだ」
 何たるちあ(親父ギャグ失礼)!仕方無い、無理をしなかっただけ良しとしよう。
 十一月になって長男に言った。
私「中途で終った縦走を仕上げたらどうだ」
長男「そうだね」
私「檜洞丸から入って、大室山でツェルトを張って、翌日畦ヶ丸だ」
長男「良いね。もう暑くないし」
 ふっふっふ、こっちには深慮遠謀が有るのだ。山を決して舐めない様にさせる絶好の機会だ。大体ツェルトを持たせるのが其の始まり。しかもシェラフは夏用を持たせる。レクチャーは勿論した。
私「良いか、冷えるから寝る時は着れる物は全部着込んで、場合に依っては体に新聞紙を巻くんだ。足はリュックに突っ込め」
 そんなのレクチャーじゃ無いって?確かにそう、サバイバル……。でもあたしゃあ確信犯で、死にっこ無いって、悔しければ死んで見ろ!(こうなりゃ滅茶苦茶)
 で、色々エピソードは有ったものの(長くなるので割愛)、長男は首尾良く大室山頂にツェルトを張りました、目出度い。
 処が奴は人の話を聞いて居ない。全てを着込まずに夏用シェラフに入った。極め付きの馬鹿だ。長男は朝の冷え込みに耐えられず起きた時に、顔にバラバラと氷が降り掛かり辛かったそうだが、当然十一月の山はそうなの。
 ロウソクを点けて朝飯の支度をしたらしい。
長男「ツェルトでローソクを点けただけで、暖かいんだね」
 倅よ、其の一言を聞きたかったんだ!!!
 ひどい目に会って初めて分かるのが真実なので、形而上の問題では無いとはあたしの持論で、これもひどい目に会い続けてやっと分かったのだから、お勧めするには気が引ける。
 結局長男は、靴も破れたので凍った銃走路を諦めて、犬越路から下って来たのでした。(思えば酷い親ですなあ)

2009年11月3日火曜日

柄でも無い事 その六

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 志野が焼き物の王道だとは、中々気付けなかった。何だかボテボテして締まらないなあ、なぞと思って居たのだから、分からない奴は分からないと言う事。
 多治見へ仕事で行った時、ふと気が向いて岐阜県陶磁資料館へ足を伸ばした。当時は焼き物に、何となく良いかなあ位の興味が起き始めては居たが、冒頭の通り志野の良さなぞ分かる筈も無い頃だった。
 陶磁資料館のメインは勿論志野。これでもかと説明と展示、でも分からんじんのあたしは、ふーん、と見るばかり、正に豚に真珠です。
 古い物を並べて有るので、白、紅、鼠、じっみーなんです。ミーハーおじさんの興味は引かない。半欠伸で出口の売店を覗いたら、流石売店は今風の品物揃い、な、何とピンクが主流なのだ。
 ご承知の通り中国の白磁を何とか陶器で模倣出来ないかと(未だ日本には磁器が無かった)、苦闘して創り上げたのが志野なので、当然白を追求したのだが、今は違う、志野と言う立派なジャンルを確立し、どんどん技術も進歩して居る訳だ。
 ミーハーおじさんも鮮やかなピンクの志野には心を引かれ、ぐい飲みを一つ買い求めて母へのお土産にした。
 母は喜んでくれたが、子供のお土産は何でも喜んでくれるのが母親と言うもの、思えば何時でも沢山お土産を買って帰れば良かったと、今悔いても手遅れ、孝行をしたい時には親は無し、とは真実です。
 其の志野だが、酒を飲むと唇に美味しいのだ。詰まり口触りが心地よく、こりゃ良い物を買った、と一同喜んだのだった。
 当然で有る、志野の命はあのふっくらとした柔らかさで、それが唇にも分かるのだ。正月は其のぐい飲みでお神酒を頂くのが、慣習となった。今は、沢山ぐい飲みが有るので、其の慣習は無くなった。
 地に鉄分を塗って釉薬を掛け焼き上げると鼠志野となる。渋くて重厚、あたし好みだ。徳利でもぐい飲みでも茶碗でも何でも御座れ、惚れ惚れするのだ。
 因みに志野の釉薬と萩焼とは同じ物なのだが、萩をあたしは好まない。何だか女々しく感じて仕舞うのだ。土の違いなのだろうか。
 志野の徳利で志野のぐい飲みに酒を注ぐ。目が喜び、唇が喜び、喉が喜び、胃が喜び、そしてあたしが喜んで、酔っ払う。
 酔っ払うと言う結果には何の変わりも無いのだけれど、少し贅沢に酔っ払うってえのも、決して悪い事では無いと思うのです。
 で、志野は絶対にお薦めですよ!

2009年11月1日日曜日

閑話番外 その十二

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 山の報告その七で、唐松でテントを一番下に張ったと書いたが、こんな所ですよ、との説明の写真です。
 唐松の二階建の巨大山小屋が小さく見える。でも、一番下なので表にでれば即トイレ、下品で済みません。でもあんなに上迄小便の為に登る気は絶対無い。死んでも無い。
 現に隣のテントのおじさんも言う。
おじさん「ああ遠くちゃね、仕方無いですよね」
 と立小便をして居た。
 お互い下品ですなあ。失礼しました。

2009年10月31日土曜日

休題 その二十六

店 044

 

 長男が入院した時、彼の関係会社の人が見舞いに来てくれ、「プラネテス」幸村誠著を差し入れてくれて、長男が「此れ、宇宙物としては良いよ。でもたいして面白くないけど」と薦める。
 宇宙を舞台の劇画。読んで見た。ふーん、一応調べてるな、真面目に宇宙を描いて居るじゃないか、と感心する。放射線の危険も押さえて居る、偉い。しかも結構面白い。
 最初の頃は一話完結、やがてストーリーが展開するのだが、一話完結の頃が花だった。ストーリーが動き出すと、宇宙に対する拘りが希薄になって、危険性、広大さ、孤独さ、人間のちっぽけさ、は置いておいて、になっちまって、おいおい、とあたしは不服なのだ。
 宇宙とはドラマの背景とは成り得ない。あたしの仮説です。まあ、単なる思い付きなんだけど。
 宇宙で暮らすだけで最早ドラマで、ロシアの宇宙飛行士が確か一年半の世界記録を造ったのだが、地球に帰還したら即担架で集中治療室、見事助かった。
 彼はインタビューに答えて言った。
「どうだったですって?毎日、生きて居るだけで必死だったですよ」
 そうだろう。人が存在不能な環境で生きるとは、ミスは其の侭死に繋がるので絶対駄目。ノーミスを強いられる一年半、おまけにアクシデントが常に発生、あたしゃ嫌だし、出来っこない!
 立花隆の「宇宙からの帰還」に依ると、船外活動(宇宙服で宇宙に居たと言う事)をしたクルーは殆どが直ぐそばに“神”を感じ、引退してから宣教師に就く例が多い、と有る。
 分かる。あたしゃあキリスト者では無いので、ゴッドを感じるのでは無く、何かを感じるのだろう。
 其のギリギリの厳しさと、神秘さが、残念ながら「プラネテス」には描かれて居ない。テクニロジーが遥かに進歩した事が前提なのでスルーなのだろうが、そこんとこ確り押さえてくれなくっちゃさあ、と贅沢を言うのだ。
 下手なシナリオを習って居た頃、あたしは人の作品に文句は付けない(付けられない)のだが、SFとなると話が違う。
「どんな重力発生装置が有るのですか?」
「深海で泳ぎ回る為の耐圧服は相当の物でしょう。どうして身軽に動けるのです?」
「宇宙空間では音は伝わらないの。其の轟音って何なんです?」
 等々。若い人(おじさんはあたしだけだった)相手に大人気無い事を言い散らして居たが、どうしても見過ごせないのだ。
 「プラネテス」にはそんな心配は無用で、其れだけでも嬉しい。単行本四冊で完結してしまったのが惜しい。ストーリーも途中の感じで、何故?と思ってしまう。
 どうでも良いって?はい、宇宙好きの独り言でした。

2009年10月28日水曜日

山の報告です その九

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 三章目ともなれば、最早本文だ。短いものは二章だし(大倉尾根とか椿沢とか)。でも、たまには良しとしよう(勝手なんですなあ)。
 さて、テントに戻ったは良いが未だ十二時一寸。取あえず表でチューハイを飲んでから片付けと準備、でも一時にもなって無いので寝ちまう。騒がしいので目覚めたのが二時半過ぎ。
 幕営地も埋まり始めたらしく、あっちだこっちだと騒ぎ声。其処へドカドカと足音。
関西弁「此処しかあらへん、此処にしよ」
関東弁「張れますか」
関西弁「張れるで、一番ええわ」
 覗くと大学生の四人パーティ。げ、こりゃ煩くなるぞ。確かに煩かったが楽しかった。関西弁はリーダーでは無い見たいで同期の男がリーダーらしい、余り口を利かない落ち着いた男だ。後二人は後輩の男達。其の三人をABCとする。
関西「見て、指に皆豆が出来おった」
B「俺は膝が痛いですよ」
関西「膝と豆とどっちが辛いやろな」
B「膝でしょう」
関西「豆も痛いで。五竜の登りは足が上がらんかった、根性で歩いたんや」
 どうやら八峰を越えて来て三泊目の様だ。しかも後二泊するらしい。
関西「いて!!うっかり豆を擦ってまった」
ABC「え!」
関西「見てみい、汁が出て来おった、ほれ」
C「止めてよ!」
 そんな按配で騒ぎ続け、聞いてるあたしゃあクスクス笑う。孤独の幕営者には良い娯楽なのだ。
関西「今へが出おった」
C「今夜は何を食べますか」
関西「何が残ってんねん」
A「そうだな、変なのばっかり残ってる」
B「此処にリゾットが有りますよ」
関西「それや、はよ言わんかい!」
 賑やか千万、でも二十時になれば寝静まる。偉いぞ大学生、山は良いぞ、仲間を増やしてくれ給え。
 翌朝四時、あたしが目覚めた時は彼らはヘッドランプで撤収の最中だった。流石に関西弁も無口で、偶に指示を出すだけ。あたしがコーヒーを飲んで居るうちに出発して行った。最終目的地は白馬か朝日だろう。祈・健闘!
 曇りで早朝僅かに降雨。何、こっちは下るだけ、色付く遠見尾根を見据えて出発。思った通りに、下るのも苦労で有る。ヨロヨロ下り、中高年パーティと前後する。だって足が思う様に行ってくんないんだもん(涙)。
 登りよりは滅茶苦茶楽なのは言う迄も無い事。駅に着いたら七分後に列車、ジュースをぐっと飲んで乗り、松本では五分後に発車の梓から飛び出し、列をなすキオスクを尻目に階段を駆け上りコンコースの売店で駅弁とビールを買って車中へ、待ち時間無しで帰京。
 で、今日(十月二十三日)は筋肉痛と疲労でゾンビの有様、指だけは動くので此れを書いた(打った?)のでした。

2009年10月25日日曜日

山の報告です その八

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 その七の続き。
 良くしたもので、翌未明テントから顔を出し、満天の星空(冬の星座ですぞ)を見た時は下るなんてえ下らない考えは消えて居た。
 慌ててモーニングコーヒー、此れが無くっちゃあ山の一日が始まらない。大英帝国海軍の水兵はナイフで切れる様な濃いココアで一日が始まるそうだが、似た様なものだ。
 パッキンを済ませ小屋への登り返しは一汗掻く。何せ一番下なんだから。
 空身で唐松ピストン。残念乍ら日は上がって居たが、朝の清涼感に変わりは無い。今日の天気は先ず大丈夫、のんびりと景色を楽しむのだが、此れを本当の贅沢と言うのだ。
 さて、ザックを背負ってアップダウンが始まるのだが、岩稜が続くので緊張、と覚悟して居たが整備され鎖もばっちり。昔々半、反対ルートを積雪期に来た時は結構ヒヤヒヤしたが今回はOK。良かった!
 五竜の幕営地には十時前に着いちまって、小屋で聞く。小屋のフロントは若い女性。
私「五竜でノンビリすんだけど、幕営の受付してくれます?」
フロント「これからテント場も混むでしょうから、張っておいて結構ですよ」
 話が分かる、そう来なくっちゃさあ。さっさとテントを張って空身で五竜へ向かう。
 元がバテ親父なのでワリワリ登りは辛い。岩場に掛かればそんな事は言っちゃ居られないので、一生懸命登って頂上。
 此の文章をアップする迄に写真のデーター化が間に合うか心配したが、間に合いました。処が、如何にもらしい写真はデーター化していない、余りにも有名な構図ばかりなので。眼前は、秀麗な飽く迄秀麗な鹿島槍、其の横に遠く尖がってんのが槍ヶ岳、右は剣から立山、振り返ると、大黒をお供にした唐松、後ろに白馬槍。
 いやー、一日に二度の贅沢、罰が当たるんじゃ無いかな。尤も登りで十分罰に当たっては居るし、下りだって此の按配では苦労するだろうから、良しとしよう。
 キレットへ向かう皆さんはノンビリして無い。先が嫌な路続きなのだ。見下ろしてもガラガラな嫌な下り。三々五々出発して行く。
 唐松から前後して来た白人の二人連れが居た。五竜下の岩稜で、其の一人が方向に迷ってるので、あたしは大きく指で左を指した。「オサキニ」何と女性だった。逞しいから男だと思って居た。で、あたしが先に進み彼女は後を付いて来る。勿論無事に登頂です。
 其のカップルはキレットへ向かう。前後して来た手拭いを被った中年男性も、挨拶を交わしてキレットへ向かう。本文にもやがて書かれるが、山とは一期一会で有る。書いて居て一寸と胸が詰まった。山から帰ったばかりの感性でしょう。直ぐ消えて仕舞う……。
 あたしはゆっくりゆっくりと、テントへ戻るのです。
 何と、人様(と言っても来る人は稀なんで、良いのさ)の迷惑を顧みず、又もや続く。

2009年10月24日土曜日

山の報告です その七

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 平成二十一年九月二十日から二十二日、唐松から五竜への小縦走をやって来た。本当は十九日から発って鹿島槍と爺も越えたかったのだが、遠い海上に台風が居たので、念の為一日遅らせ、ルートも短縮した訳だが、結果オーライ。何がって?追々説明しよう。
 ご存知八方尾根からの入山だが、最悪の予想はぴったし、観光客で溢れ返っており、上下一本づつの道は延々と人、人、人。
 観光客は空身で且つ飛ばす。あたしは22Kgのザックにテントから鍋釜寝具食料迄背負って居るのだから、ゆっくりと行きたいが道を塞ぐ訳にも行かず、合わせて飛ばして八方池迄頑張ったのは良いが、一発でバテ切って仕舞ったお粗末。
 快晴の白馬三山は涎の出る程の美しさだが、あたしゃ涎が垂れるバテ方。此処からは登山者の世界だが、唯々喘いでノロノロと歩を進める哀れなおじさん。ま、進めるだけ良いか。
 小屋に着いたのは十六時過ぎ、急いで幕営したいが受付が長蛇の列、三十分も掛かってやっと張る手筈なのだが、一面テントだらけ、張れる場所を探しどんどん下り、結局一番下迄降りちっまったぜ、ったく。
 それでもテントは正解だった。小屋は四畳に八人で、増しと言えば立派に増しだが、矢張り一人でノウノウと暮らす方が良い。
 驚いたのは飯が食えなかった事。何十年振りだろう。「喰わなきゃ駄目だ、水を掛けてでも喰え!」「はい、分かってまつ」と自問自答しながらどうにか食べたが、いやー、参ってたんですなあ。
 当然酒も飲めない。8%のチューハイ一本とウイスキーを少々。これじゃあ何しに登って来たのか分からん。体温調節機能にも狂いを生じたと見え、皆さんアノラックを着込んで居るのにカッターで暮らし、其の癖水洟が垂れる、タラタラ垂れ続ける。与太郎で有る。
 翌朝の氷点下に備えセーターを着込んで寝袋に入ったが、気持ちが悪くなっちゃって、おまけに変な動きをすると足の甲が攣ったりして、明日は歩けるだろうか?恥を忍んで八方を下るべきだろうか?と思う程なのだ。
 昔々、同じく八方から来て此処に幕営、翌日は五竜、八峰キレットを超え冷の幕営地迄飛ばした事が有ったが、其の頃の力が百とすれば今は二十以下、もう何処にも無いよ、テント担いで十二時間以上も歩く力は……。
 で、結果オーライの話だが、予定通りなら八峰キレット小屋に泊まるので、当然幕営不可能な場所(絶壁に張り付いた小屋なのだ)だから小屋泊まり。さぞ混む、きっと混む。一畳に三、四人は固いだろう。良かった!
 もう一つは、三日間で下山した事。昨日帰宅したのだが、朝から筋肉痛で唸って居るのだ、えっへん(涙)。キレット超えて四日も歩いたらどうなっちゃたんだろう?
 駄目だ、何時の間にこんな情け無いおじさんに成り下がったんだ!酒ばかり飲んで何もトレーニングしないから?それは昔からだ!
 情無い話は続きます。

2009年10月22日木曜日

休題 その二十五

店 043

 

 有りもしないと気付いた感性の話で、ボロボロなんだからアンタッチャブルで良いのに、とは我乍ら思うのだが、足掻くのです。
 本の話で、戦争と平和が駄目だったら次を試さなければあたしは納得出来ないので、大好きだった安部公房の、其の中で一番好きだった「けものたちは故郷をめざす」を手に取って、半分で置いて仕舞った。う、う、詰まらない……、詰まらない筈は無い!あたしゃあ三度読んで三度感動したんだ、でも駄目。
 坂口安吾はどうだ?読めた。「堕落論」だから小説では無いかな?山本七平も面白く(と言うより真剣に)読めたが、勿論小説では無い。彼については改めて語りましょう。語って語って語りつくせないだろうけど。
 小説とはあたしに取っては怖い部門なのだ。中学の時に国語の先生が言った。「夏目漱石を読め、人生が変わるぞ」真面目(今よりです)だったあたしは読みました。倫敦塔から明暗迄、全巻を買い揃え、三度も全て読んだ。人生は全く変わらず、ご覧の通りの馬鹿人生、へへへ(涙)。
 唯々面白く無かった。自分の所為だ、俺に何か分からん処が有るんだろう、と頑張ったが、自分は偽れない。結論、詰まらん!絶対詰まらん!
 で、我輩は猫である、と坊ちゃんを除いて(此れは面白かった。でも、先生の意図では無い筈)皆捨てた。後悔なんざする筈も無い、詰まらない本は捨てる、当然だ、はっはっはっは。
 話を戻そう。しばれんの三国志(全六巻)は文句無しに面白く読めた。因みに三国志で一番詰まらなかったのは吉川英治で、捨てた。一番面白かったのが三国志演義の直訳、岩波文庫で、粗い表現の裏を、じっくりと読み取れる。とっくに絶版だろう。
 じゃあカミュはどうだ。ペストを読んだが引き込まれる。うーん、此れも人が死ぬ話か。ではおっとりしたとこで宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」に手を伸ばした。宮沢賢治には何の抵抗も有りゃしない。昔通り、否、若い頃より同感した。
 処でカミユのペストは深い。極限状態の人間はさも有りなん、と思わされて仕舞う。と言うより、人は如何に生きるかと言う命題と、妥協を排して格闘して居る。神でも無く共産主義でも無く(当時は重大課題だった、様だ)人間としてで、それも淡々と描くのは並では無いと今更乍ら思い知らされた。
 大体分かって来た。志賀直哉も駄目だろう。島村藤村も絶対駄目に決まった(失礼)。堀辰雄は読めると思う。
こうなりゃあギリギリの状況か、とことん綺麗な心情しか受け付けないのだろう。うーん、本当にそうなのかなあ?我乍ら自らを疑って仕舞うのが情無い。
 此れは名作と折り紙付きでも、相性が有って、そうは思えないと言う奴が居ても不思議では無い筈で、おまけにそいつが還暦を過ぎて居たら、そうだね、好き好きだもんね、とあたしなら言って上げます。(自己弁護に聞こえるって?当たり!自己弁護なんです)

2009年10月20日火曜日

好事家は行く その四

FH000033

 

私「Y、変なんだよ、尾根の横を来たんだけど、全く降り口が見つからないんだ」
Y「あの雪の模様に覚えがあるんだけど」
私「何だって」
 ガスを通して確かに変に丸い模様が見える。
Y「あの左を登って来たと思うんだ。面白い模様だなと思ったから」
私「おいY、ザックを背負え、行くぞ」
 当たりでした、尾根に出た、万歳!早く言ってくれYよ、私は散々苦労したんだよ!!威張っちゃいけねえぜ、誰に救われたんだ?はーい、残念ながらYでーす!本当に時の氏神でした。
 こうなったらY話だ。私の好む無名の沢に一番付き合っているのはYで(私が単独で行く事が多いけど)、とても偉いと言おうか懲りないと言おうか、他人から見れば物好き。え、何だ、類友じゃんかさあ。
 そんなもんなんです、人生ってさ。だから、Yよ、私を恨まず、必死に沢や薮を歩こうね。え、恨んでないって?失礼しました!
 今年(平成二十一年)の春山の苦労は、閑話で話した。種類は異なれども似た様な苦労は毎年させている。
 だって、年に一度位必死な苦労をしなけりゃあ、Yは完璧メタボ男になって、ポックリ死んでくれりゃあ未だ許せるけど、変にヨイヨイになって、其の癖Yの事だから大食いで丈夫で、ヨイヨイは全く直る見込み無しの大ごくつぶし、家族の迷惑此の上なしだが毒を盛る訳にもいかず、親類縁者皆顔を見合わせては溜息をつき、口には出さねど何故あいつはあんなに丈夫なんだ、神や仏があるものならば、どうか速やかにあいつを連れて行って下さい、と、目で語り合うのだが、一向に死んでくれず、おまけに惚けが来て、病院からも追い出され、老健や介護型病院を点々とする家族の苦労は、とてもじゃないが涙なしでは聞けないのだ。
 え、全部お前の想像だろう、余りに酷い書き方だ、自分の登山パートナーだろうって?まあ確かにそうなんだけど、そうなるんじゃないかなって推測しちゃって、それに何と書いてもYは此れを読んでないし、そりゃあ、読んでなければ何を書いても良いって訳ではないとは心得ているんだけど……。
 おい、幹事、滅法やばい事になっちまった、急いで纏めだ、纏めだ!
 はいはい、酒は程々にね。適度な酒は百薬の長、あんた(詰まり私)の場合は気違い水、反省しましょうね。はい、反省します!
 確かに名前の通った沢は、それなりに爽快で、綺麗で、皆が喜ぶのは当然だと思う。私の好む無名の沢は、詰まらない所で思わぬ苦労をさせられるし、藪かガレかザレはつき物だ。その上沢相は貧弱な場合が多く、誰も行かないのは、極めて道理である。
 でも私はとことん物好きなので、こんな章を立ててしまった。自分が好事家である自覚は勿論充分に有って、その上悔い改めようなぞとは、これっぽっちも思っていないからなのです。
 冷静に見れば、良い年なのに相当の困ったちゃんでは有ります。

2009年10月18日日曜日

クソ面倒な話 その七

Queens_Guard_Windsor

 

 クソ(失礼)六の続きです。
 日本軍は白兵戦が得意だったと言う迷信が有る。今でも有る。念の為白兵戦の意味を説明すると、銃の先に剣を着け、手榴弾を叩き込み乍ら敵と突き合う戦い方。
 得意だったのでは無く、近代戦遂行能力が欠如して居た為、そうせざるを得なかったので、丸で日露戦争で有る。
 その日露戦争の時、露西亜兵との白兵戦で日本兵が圧倒される局面が多く、軍部は愕然として、白兵戦闘訓練に力を入れる様になったのが真相だ。
 前の休題で戦国時代の戦闘に於ける死因を書いたが、飛び道具主体の戦い方をして居たのは一目瞭然。此れを遠戦指向と言う。
 ヨーロッパは違う。武器を振り回し、モロに白兵戦を続けて来た。これがDNAの違いを産んだのか、DNAの違いでそうなったのか、卵が先か鶏が先か。
 で、アメリカ人がチキン野郎と呼んで軽蔑する臆病者は、人口の18,8%、少数派で気の毒で有る。一方我が日本人はチキン野郎が68,2%、臆病者が絶対多数で悪い事では無く、極力摩擦を回避し平和に暮らす独特の文化を培って来た訳だ。
 戦記を読んで居ても、弾の飛来する中皆伏せた侭動けない時、極偶(ごくまれ)に「皆臆病者だなあ、俺に付いて来い!」と立ち上がって前進する将兵が存在するが、此れは1,7%の極少数の命知らずと言う事だ。
 アメリカ兵は32,3%が此れだから、嘗めてかかって酷い目に会ったのだろう。
 実際は日本兵の殆どはアメリカ兵の姿を、ろくに見て居ない。やって来るのは兵士で無く砲弾と爆弾。或いは飛行機の銃撃。
 やっと姿が見えても(詰まり小銃弾の有効射程内の200m)、射撃をすると即後退し、迫撃砲弾が襲って来る。日本の兵士達は「卑怯者!」と歯噛みする。あれ、話が違うじゃ無いの、アメリカ兵はチキン野郎か?
 考え方の違いなんです。幾ら命知らずでも、イエローモンキーを相手に命の遣り取りをする必要は無く、砲撃で粉砕出来るのだから、そりゃー楽な方が良いに決まって居る。
 お陰で、銜え煙草のヤンキーがジョークを飛ばし乍らどんどんぶっ放す砲弾で、我防衛線は崩壊し、後退せざるを得ないのだから、卑怯も糞も無く、乾杯!間違い、完敗!今君は人生の大きな大きな舞台に立ち……。生きるか死ぬか、此れ以上大きな舞台は無い。ふざけるなって?あたしゃ真面目に言ってんだ!
 硫黄島の様にアメ公(いけねえ、普段の口調になっちまった)が苦戦を珍しくも強いられた時は、勇猛な本性を表し、弾雨の中を一気に駆け抜け、日本軍の戦線を分断するなんて離れ業を見事にやってのける。そして、アメリカ人では無いが、弾雨の中で演奏を続けるスコットランド兵。
 アングロサクソンと喧嘩をするのは(スコットランドはケルトだが)、千年早いのです。

2009年10月17日土曜日

好事家は行く その三

FH010032

 

 確かに行けた、殆ど上迄は。処がコブが有って越せない。二十分近く探って、岩の1㎝位のスタンスを見つけた(コブはザレを被った大岩だった)。臍の上の位置だ。思いっきり足を上げ、地下足袋の先を引っ掛けて体を持ち上げ、コブを突破した。思わず、やったー、と叫んでしまった。今思うと一寸と恥ずかしいです。
私「Y、正面にスタンスが有る。足を右に出すんじゃないぞ」
 でも、Yは足を右に出してしまう。そういう構造の場所なのだ。
私「違う、正面に足を上げろ」
Y「う、う……」
 私は内心余裕であった。此処は稜線直下だ。Yが突破出来なければ、尊仏山荘へ走り(走れたとしたらだけど)ザイルは重いからサブザイルを借りれば、一発で引き上げられるのだ。きっと髭の番頭さんは、装備がなってない、とか、良い年して、とか、沢を舐めるな、とか言うだろうが、聞いてる振りをしてれば良いのさ、ふっふっふっふ(番頭さん、読んでないですよね)。
 案ずる事は無かった。Yは見事コブを突破した。今よりも腹が出ていなかったからだろう、今なら絶対無理さ、違うかいYよ?(大体Yが此のブログを読んでないってえのは許し難い!市中引き回しは勘弁するが、山中引き回しの刑!もうされてるって?そう言やあそうだね)。
 其処からは私の読み通り、いくばくも無く登山道に飛び出た。
私「(振り返り)夢泣くな」
 これは、道に出るから嬉し泣きするなよ、という我々の慣用句だ。美しい言葉遣いでしょう?で、Yは登山道に立ったとたん倒れて転げた。
私「どうした!」
Y 「両足がつった、い、いてっ」
 人間の体は素晴らしいものだ。危険が去って足もつる。下痢すら止まると前に書いた。という事は、相当の部分が、精神力でカバーできる訳ですな。私なんざ、その精神力が衰えて来て……。嘆くのは止めよう。
 好事家の餌食(?)のYは気の毒ではあるが、お陰で人間の尊厳を保っていられる部分もあるので(現に本人がそう言ってるので)、良しとしましょう。
 其のYに救われた話。
 笠ヶ岳の避難小屋はお馴染みのカマボコだが、春に三度Yと泊まっていて、二度目の時だが朝日岳アタックはガスの為断念、下りにかかった。雪の白髪門直下は分かりにくい。登る時に降りる事を想定して地形を頭に入れた積もりがバイアスがかかっちまって、さっぱり分からんのだ。
 ザックを下ろし、空身で偵察に出るが、どう足掻いても急斜面になって仕舞い、いたずらにガスの中を右往左往するのみで途方にくれて戻った。
 唯々白いガスの中、不安に待つばかりのYはすっかり凍えて仕舞っている。
 (好事家は行く その四へ続く)

2009年10月14日水曜日

閑話 その三十四

店 042

 

 閑話番外その八で、冬の塩見岳をやるなぞとうっかり口走った(筆走る?否、キィ走るかな)が、日数が掛かるので(そしてキツイので)、多分無理だろうから、忘れて下さい。勝手だって?許してチョンマゲ。
 で、一寸と触れた昔々半前の事。
 当時は、正月には塩川小屋へ一時間程の場所迄臨時バスが入った。夜行で伊那大島に着き、凍て付く中でバスを何時間も待つ。冷え切った頃、やっと車中の人となるのだが、満員で有った。
 塩川小屋を通り、川原を歩いて登りに掛かる頃から霙となったが(又もや雪では無い!)頭にタオルを巻いて登り続ける。
 此の日は三伏峠で幕営だった。他にテントは十張近くで一寸としたテント村だ。濡れたタオルはブリキの様に凍って、下山する迄ブリキ板の侭だった。顔も拭けない、痛くて。
翌日は晴れ、積雪期は十時間余(無雪期は八時間弱)のピストンなので、暗いうちから出発する。塩見岳に向かうパーティは意外と少ない。皆さんどうして居るんだろう?テントの人も、小屋泊まりの人も。
 因みに三伏峠は日本で一番高い峠で、2560m、3000m一寸との塩見岳とは標高差が僅かだとお思いでしょうが、それが違うの。間に幾つもピークが有って、登降を繰り返すので時間を食う。
 塩見岳は割りに合わない山なのだ。何故ってえと、頂上直下迄樹林帯で、森林限界を越えるのは標高3000m寸前と言う按配なので、北アルプスの山なら2500m以前に森林限界、何だか高く登ったなあと思えない造りなのだが、あたしがブツブツ言ってどうなるもんでも無いので、諦めましょう。
 塩見小屋を越えると樹林帯とお別れ、突然吹き飛ばされそうな強風に曝される。うーん、ずーっと此れだったら結構苦労だ、樹林帯への文句は素直に撤回します。
 南アルプスの冬は北アルプスより寒いと言われる。北風は北アルプスで雪を落とし、雪生成の為エネルギーを失った(詰まり、より冷たくなった)北風が南アルプスや八ヶ岳に吹き付ける訳だ。
 余りの風の強さと冷たさに、頂上はとっとと辞し、懐かしい樹林帯に飛び込んで、ほっと息を吐くと言うお粗末、如何にもあたしらしいだらし無さです。
 其の僅かの間に見た景色の雄大さを写真でお見せしたいが、ネガが無い。北には遥かに白峰三山、仙丈岳、甲斐駒、南には、荒川岳、赤石岳、聖岳と延々と三千峰が続くのだ。
 テントに戻った時、入山して来た単独行者がせっせと雪を掘って居る。雪洞で有る。やるもんだなあ、比べりゃテントは天国だと思いつつ凍ったテントに入ると、凍って板になった侭のタオルが迎えてくれるのでした。

2009年10月12日月曜日

好事家は行く その二

FH000046

 

私「Y、これに掴まれ!」
Y「……う、う」
 Yも飛びついた。二人と一本はザレ煙を巻き上げつつ落ち、カーブでスピードが緩んだ。横は草の生える土の斜面だ。私はそこへしがみついた。
私「Y、こっちだ!」
 Yも木を捨て、草地にしがみついた。
私「どうして避けないんだよ」
Y「足場も手掛かりもどんどん崩れて、張り付いてるだけでやっとだったんだよ」
私「どうしようかと思ったぞ」
Y 「もう嫌だ、こんなの!」
 あれ、何処かで聞いた台詞だ。そう、前章の凍った桧洞丸での妻の台詞だ。
 書きながら薄々感じてはいたが、今明白に分かった。いやー、物を書くというのは自分を知る事でもあるのですなあ。これを書いて良かった!
 私は今の今迄、自分はしっかりしていて、人のドジのせいで迷惑を蒙っている、と思い込んでいた。処が、良く考えてみると私がドジって、お陰で人が迷惑を蒙るパターンばかりではないか。この騒ぎだって、私が本流を外さなければ、元々無い話だ。反省します。まとめて誤ります。迷惑をかけた方々、御免なさい。(深々)
 ま、気付いただけでも立派ではあります。え、違うって?まあね。
 Yとガラガラな場所で苦労した事が、外にもある。もっともこの件はYにも多少は責任が有る(?)と思う……。木の又大日沢を詰めた時だ。又もやマイナーっぽい沢なのだが、苦労するのは大抵そんな場所とは決まり物で、世の中もそんなもんでしょう、きっと……。
  詰めあげで壮大なガレ場に出た。見事に広がる大ガレ場、圧倒的である。直登なんぞは飛んでもごぜいやせん。こうなりゃ逃げるの一手、見回して左に逃げようとした。
私「左から行くぞ」
Y 「大塚さん、あそこ行けるよ」
 確かに広いガレ場の真ん中に、一筋ガレ尾根が有る。
私「……うーん」
Y 「あっちの方が楽で早いよ」
私「そうだな……」
 ま、決めたのは私だから、Yのせいとは言えない。でもYよ、確信に満ちて言い切ったのは君だぞ。(おいおい、リーダーは?)(はい、私です。でも余り自分が駄目だと悟ると辛くて、つい……)
(好事家は行く その三へ続く)

2009年10月10日土曜日

閑話番外 その十一

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 夜景の綺麗な時は寒い。経験則で有る。何時でも「うー、寒いぃ」と腕組みし身を縮めて見て居た。
 夜景の綺麗な時は風も強い。此の写真は絞りを全開で一分間(多分)の露出だが、レリーズ使用にも関わらず、風が安物の三脚を揺すり、う、う、ぶれて仕舞った。
 蛭ヶ岳からの東京方面はこんなです、と言う意味で載せました。

2009年10月8日木曜日

休題 その二十四

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 幾つか前の休題で、感性がどうのとか、如何にも自分の感性が良い様に書き殴って居たが、お分かりの通りの酔っ払いの大言壮語で、今は大して酔って無いので、とてもじゃ無いが、そんな大口は叩けません。
 戦争と平和を読んだのは三十八年前。岩波文庫で八冊だった。何で分かるかってえと、当時は本に買った日付を記入して居たから。
 最近読み直した、そう、三十八年振りに。五冊目に入って、辛抱出来ず読むのを止めた。何で?詰まらないから!
 あたしを責める前に聞いて欲しいのだが、若い時は物凄く感動し、読み終えても其の世界から離れ難くて、即買って来たアンナカレーニナを読み始めた。作者が同じだからだ。
 齢(よわい)を重ねるとは、何かを捨てて何かを背負い込む事なのだろうか。感覚も鑢に掛けて磨耗させるのだろうか。
 あたしゃあ違うね!と豪語したい処なんだが、戦争と平和の件は相当に我ながらショックで、目が霞む様に感性も(若し有ればだが)霞むのかなあ。だって、本は片っ端から捨てて来たのに、戦争と平和は後生大事に取って置いたのだから。
 若い頃は震える程感動し、今じゃ詰らなくて本を置く。鈍ったって事なんだろう。あー、認めたく無い!
 思い起こせば小説を読まなく(読めなく)なったのは、四十台半ばからだ。其れからはドキュメンタリーしか駄目になっちまって、或る日次女が嘆いた。
「家に有る本は人が死ぬ、どんどん死ぬ本ばかりだよ」
 確かだ。人が生きるとは、死ぬ事がゴールで有り、思いがけず人生半ば(と本人は思って居ても)にゴールを迎える事も有る訳で、そんな局面で如何に生き或いは死を迎えるか、あたしはそう言う見方になって仕舞ったので、人の死ぬ本ばかりになったのだ。あたしに言わせれば、人の生きる本って事です。
 で、小説の奥深い洞察や心理の彩が面倒臭くなり、長らく離れて居たのだが、新聞で太宰治のコラムを読み、記述者が御伽草子を太宰の傑作、と褒めて居たので、お、あたしと同意見だ!と喜んで、これも何十年ぶりかに読み返したら昔どおりに偉く面白かったのだ。
 それで続けて戦争と平和を手にした訳だ。て事は好みがはっきりして来たって事で、好みで無ければ拒否する老化現象なのだろう。
 考えて見れば無理からぬ話で、残り時間はどう見ても今迄生きて来た時間より遥かに短いのだから、無意識の裡に余分と思われる物は切り捨てて居るのだ。
 齢を重ねるとは、矢張り何かを捨てて何か(ま、遣り残した事)を背負い込む事なのだ。若い時は何でも吸収する時期だったのだろう。
 そして今、ゴールへ向かって、着実に歩いて行きいものだと思って居るのです。

2009年10月7日水曜日

好事家は行く その一

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 こうずか、と読みます。約せば(おいおい、日本語だよ。良いの、今は映画の字幕すら読めない人が増えたんだから。え、数少ない読者に失礼だって?全くそうでした!)物好きって事。
 田代沢の話から入ろう。そら来た。聞いた事も無いマイナーで平凡な名前の沢だ。名は体を表す。マスキ嵐沢とか藤嵐沢、地獄棚沢、ザンザ洞、名前だけで険悪さが分かる。
 さて、おっとりと田代沢。竹之本から加入道へ突き上げる沢で、今は沢沿いの登山道も有る小さな沢で、御免なさいね。
 五年程前、Yと詰めた。当時は路なぞない。加入道で幕営するので荷物は大きかった。淡々と沢を行ったが、多分枝沢に入ったのでしょう。(入ったに決まってんだろう!)どんどん沢が狭く、急になる。でも進むしかないのは常の事で、進んだのだ。
 そのうちザレになった。沢が左にカーブすると、一段と傾斜が増し、両手両足で這う事になってしまった。でも一寸と先に草と林が見える。
 もはやヤモリになった私、ザレを抑えつつその真下に着いたが、崩れた地面が迫り出している。分かる人いますよね?(居ないって、無理も無い)頭の上に地面が出ているのだ。雪庇の土バージョンと言えば分かりやすい。
 私の手がニューッと伸びれば、立ち木を掴めるのだが、残念ながら私は化け物ではない(誰だ、異議を唱えるのは!)。足掻いたが、諦めて引き返そうとして振り返り、驚いた。
 ストーンと落ちる狭いザレの斜面なのだ。ぞっとする風景である。夢中で気づかなかったが、一体全体どうやって登って来たのだろう?我ながら不思議である。すぐ下にYが張り付いている。
私「Y、横に避けてくれ、降りるぞ」
 Yは、必死の形相で私を見ているだけ。
私「おい、Yがいちゃ降りれないんだよ」
Y「……」
 困った。Yの横にスペースは有るが、急過ぎて降りれず、かろうじて通過可能であろう場所はYががっちりと塞いでいる。
私「仕方無い、Y、気をつけて下れ」
Y「……」
 Yは動かない(と言うより動けない)。進退窮まったとはこの事。すると枯れ木が根っこを突き出しているのが見えた。これだ!化け物寸前に迄手を伸ばし、枯れ木を引き擦り落とした。 枯れ木は根を下にザーッと滑り落ちる。私はそれに掴まり一緒に滑り落ちる。体一つで落ちるより抵抗が大きいからだ。Yの横を滑り落ちながら叫んだ。
 (好事家は行く その二へ続く)

2009年10月4日日曜日

クソ面倒な話 その六

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 大分前の休題で、進化論に異議を申し立てて居たが、もちろん“ダーウィンの進化論”の意味なのだが、誤解はしてませんよね。
 其の文中で、日本の学者にはウイルス進化論が有るけど、どうもねえ、とか書いたと思うが、十年数年振り(?)に新刊が出て、読んだら一寸と納得させられちまったのだ。
 あ、分かり切った事を説明すると、日本の進化学は中西錦司以来の伝統で、世界の異端的(悪い意味で無く)トップレベルなのです。
 新刊で唸った理由は一つ、人ゲノムの解明が出来て、其れを元に検証をして居るからだ。当時は未だ人ゲノムは解読出来なかったのだ。
 人の遺伝子の33%はウイルスのものだとは初めて知った。勿論、遺伝子の多くは実際のタンパク質合成とは関係無いもので、唯有るだけとは知っては居たが、其の内の多くがウイルスの残骸だったとは、目から鱗状態。
 なーる、そう言われればキリンは首が長くなる病気(便宜上です)に掛かったんだし、鳥は、前足が翼になって骨が軽くなる病気に掛かって、一斉に鳥になったんだ。
 まあ、ダーウィン君よりかは遥かに説得力が有るし、水平的にも垂直的(ウイルスに感染して変化した形態は遺伝する)にも理屈が通る。よ、流石今西先生の孫弟子達。
 とか言い乍ら、さっき書いた様に、ウイルスに感染して、羽から骨から筋肉から、全部鳥になる難題をクリアー出来る都合の良い病気になれんのだろうか?
 目から鱗とか言い乍ら、あたしゃあ不服なんでしょうなあ。くどいだろうけど、ダーウィン君よりかは遥かに科学です。
 じゃああたしは何かと考えりゃあ、どうしても中西理論になる訳で、欧米でカルト扱いされて居るデザイン理論に近いけど、何処が違うかと言うと、うーん、どっちかってえと似てるけど、一寸とニュアンスが違う(汗)。
 ウイルス説の先生達は中西理論を尊重しつつも彼の「種は変わるべくして変わる」と言う名言を、禅問答の様だと切り捨てる。え、其の通りだったらどうすんの?あたしにはそうとしか考えられないので。
 素人がどうこう言うのは止めて、新刊で教わった面白い日本人とアメリカ人の遺伝子の違いの話。
 分かり易くザックリと、臆病遺伝子と大胆遺伝子と言おう。人間は誰でも二つ持って居て、大胆大胆か、大胆臆病か、臆病臆病かで有って、確率的には夫々、25%、50%、25%なのは、メンデルの法則を持ち出す迄も無い。処が日本人の68,2%は臆病臆病、30,1%は大胆臆病、大胆大胆は1,7%。アメリカ人は、臆病臆病が18,8%、大胆臆病が48,9%、大胆大胆が32,3%。
 え、我々は臆病民族だったんだ。命知らずのアメリカ人は散々映画で見たが本当だった。だから日本では武道が磨かれたのだ。元々臆病な人間が、修練して其れを克服するのが、武道で有り武士道なんでしょうから。
 元々戦争に向かない民族なんですなあ。

2009年10月3日土曜日

閑話 その三十三

 嫌でも応でも、前回の続きで済みません(ペコリ)

“スカブラ”
 強風に描き出された文様は様々で有る。表面は小さく煌めく無数の反射板で構成されて居る。其の上を雪片が飛ぶ。
 スカブラの背景は、重々と連なる南ア連峰、そして逆光に聳え立つ富士、厳しくそそり立つ富士。
“風”
 ヤッケ、オーバーズボン、ロングスパッツ、出目帽、手袋。風は突き刺す様な寒気を浸み込ませて来る。特に手には一番きつく当たる。オーバーミトンを着ければ良いのだが、何かと不自由な為、手をきつく握って耐える。
 頂上よりの展望の連れも風で有る。ガスに巻かれた国師。赤岳と権現の一部を見せた八ッ、あそこも強風が吹きつけて居るのだろう。
 早々に山頂を辞し一筋刻まれたトレースを下る。白銀の尾根が真直ぐ続く。
“好天”
 登り始めは頂上付近はガスで有った。頂上に立った時は、八ッの一部を除いてガスは綺麗に払われて居た。恐ろしい程の青空の下の白銀の峰々。自分の立つ金峰も、染まりそうな空の青さと、真白く、目の痛くなる程真白く光る雪。
 ああ晴天、ああ晴天!
 君は知るだろうか。朝目覚めに星を見た時の緊張を、薄っすら明るみ始めたスカイラインを見た焦りを。急がなくては晴天が逃げて仕舞う。そうだ、急がなくては晴天が逃げて仕舞う!
“擦れ違い”
 頂上を踏んでの下山途次に、登頂に向かう人と出会うのは、仄かな喜びを感じさせられる。彼等は今登頂の苦しみの真っ盛りで有る。あとどの位でしょう?そうですね、一時間位でしょう。風はどうです?強いです、でも、最高の天気ですよ!
 擦れ違い乍ら微かに誇らしく思う。俺は既に好天のアタックを終了したのだ。
“山の唱”
 登山時には閉まって居た富士見小屋は開いて居る。周りには六張の天幕が張られて居る。昨日は人の気配も無かったのだ。
小屋の中から歌声が聞こえる。久しく聞かなかった山の歌だ。「山よさよならご機嫌良ろしゅう、又来る時にも笑っておくれ~」
 樹間の空は益々青く、今は全景を表した八ヶ岳がくっきりと空を区切って居る。
 私も歌い乍ら下って行く。山よさよならご機嫌良ろしゅう、又来る時にも笑っておくれ。

 18:30帰宅。

いやー我乍ら青いなあ。冷や汗を掻いちまった(恥)。万が一我慢して読んでくれた方が居れば、お付き合い頂き深く感謝します。

2009年10月2日金曜日

閑話 その三十二

 やがて本文でも触れる、カメラと間違えて双眼鏡を持って行って仕舞った金峰山の記録が出て来た。昭和五十八年一月だ。自分の三十代の文章が懐かしく、迷惑千万とは心得て居るが、図々しくも載せて仕舞うのだ。しかもカメラを忘れた話なので写真も無しです。

一月十四日(木) 快晴
 7:20カローラで家を後にする。談合坂でフイルムを購入、カメラにセットしようとして思わず、あ!と叫んだ。カメラでなくニコンの双眼鏡で有った。
 写真を撮る為に行く訳では無い!
 諦めて笹子隧道を抜けると、圧巻、甲府盆地の彼方、左に南アルプス、中央に八ヶ岳、右に金峰山が、午前の陽を受け白く眩い!
 瞬時に気が触れた。カメラ、カメラ、そうだ買おう。中古でも玩具でも良い。……でも金が無い。そうだ、借りよう。
 甲府駅に走り込み探すが無い。クソ、地方都市!カメラ屋に訊く。「あのー、貸し出しカメラは有りますか?」有る筈無い。諦める。
“林道”
 増富鉱泉から先は薄っすらと雪道、詰め上げがアイスバーン、制動が利かず滑り込んでミズガキ山荘下に到着、車を捨てショートスパッツを着け、いなり寿司を食べて出発。
“山道”
 樹間の空は飽く迄青い、目に沁みる程青い。足元は悪く、氷を雪が隠し、ともすると足を取られる。下りは一層危ないなと、帰りの心配迄する。
“ツェルト”
 ポンチョをシートにし、ツェルトをぶら下げる。ポンチョはバリバリ凍る。寒さは西穂と比べると余程緩い。
  此のツェルトは冬用で通気性良好、炊事をしても凍結しない。もう一つのツェルトなら氷の花が一面に開くだろう。併し底面を留め無いので、風が来ると何時煽り上げられるかと気が気では無い。
“風の音”
 シェラフの中で聞く風の音、ヒューでも無い、ゴーでも無い。そうだ、ドドドド、滝の音。眠れぬ侭耳を澄ますと、遥か下からドドドドド、頭上を越えて遠くへ走り去る音。其の度にツェルトは大きく揺らぐ。満天の星で有る。

一月十五日(土) 快晴
”トレース“
 昨日すれ違った登山者の足跡が点々と続く。喘ぎ喘ぎ其れを辿る。森林限界を超えると足跡は風で消され、古いトレースが溝となって続く。高度を稼ぐと其の溝も吹き消され一面の新雪の稜線だ。自分のトレースを刻み付けて行く。五丈手前では膝迄のラッセル、雪煙を立て乍ら行く。
 此れが此の連休初めてのトレースだ。俺が最初のルートを付け、やがて登って来る人間は俺の足跡を辿るのだ。次の雪が来る迄は、新雪は俺のものだ。
 (長くなったので、続きます)

2009年10月1日木曜日

新婚旅行とキリギリス その四

FH000036

 

 上等だ、それでは温泉泊まりにしようと、下山にかかった。途中で日は暮れライト便りだ。若い者揃いなので足は速い、難なく西丹沢の駐車場の、私の(勤務先の)車に着いた。処がキーが無い。そこらじゅう探り、終いにはシェラフ迄広げて探したが無い。キーは失くしたと決まった。困った、どうしよう?何処まで私はドジなんだ……。
 何故だかBが針金を探せと言う。皆一斉に散って探す。その間にBは汚いタオルを川に浸し、車の窓ガラスに貼り付けた。タオルは見る見る凍りついた。Bはそのタオルに手をかけ、窓を引き下ろす。何と、少し隙間が開いた。うーん、凄い!
 Bはガレ沢を下るのは下手だが、変な知恵がある。北海道生まれは流石だ。都会人でスマート(対B比)な私なぞ、こんな時は全く無力である。
 Bはその隙間から、一人が見つけて来た針金(山の中にも有るものですなあ)を突っ込み、ロックを外した。そしてその針金でエンジンを起動させたのだ。Bよ、偉いぞ!立派な自動車泥棒になれる。尤も今時の車では無理だから、クラシックカー専門ですな。
 息をつくエンジンを騙し騙し走らせ、中川温泉へ到着。又もや一同は一斉に散る。今夜の宿の交渉である。やるもので、一人が交渉成立、安く泊めて貰えた。宿の台所を借りて、持参の即席ラーメンを作って食べたが、飛んでも無く空腹だったので、どりゃー美味しくて、未だに最高に美味しいラーメンだったのだ。河鹿荘だったと記憶があるのですが、その節はお世話になりました。
 中川温泉の何が良いって、何も無いのが、最高に良いのだ。何かが有るというのは、その他は無いという事だから、何も無いというのは、何でも有るという訳です。だって、有るものが無いんだから。
 ?????
 説明が下手で済みません。
 どうせ河鹿荘の名前を出しちゃったんだからかまわないだろう、信玄館(ツルツルの石棚山を下って泊まったのです)にはその後も何度か妻と行ったが、一押しの宿だと二人の意見は一致している。前述の通り何も無く唯々緑、内風呂一面のガラスが緑に染まり、お湯迄緑を写すのだ。秋なら黄葉、そして山と川のみ。テレビは有るのだが隠して置いてある。売りは静けさと手の掛かった創作料理。決して宣伝じゃないですよ、一銭も貰ってませんからね。
 言う迄もなく他の宿も同じ環境なので、兎に角静寂。どの宿に泊まろうと、川のせせらぎと鳥の声を楽しんで下さい。川原に鹿が遊びに来ます。
 勿論今はバスが行くから、神縄から延々と歩かずに済むし、でも、三円五十銭では泊まれないとは思います。山の帰りにゆっくりと湯につかり、静かな夜を過ごすには持って来いで、絶対お薦めの温泉ですよ。

2009年9月26日土曜日

閑話番外 その十

 此の愚ログの構成を変えるのだが、殆ど人が来てくれないのに面倒な事をやる自分に呆れる。きっと、万が一見て居る人はもっと呆れるのだろう。
 でも、すっきりさせたいので、説明しましょう。
 山の無駄話の閑話から、つい最近行った山の話を「山の報告です」として別タイトルにし、「閑話番外」は其の侭とする。
 どうでも良い話の休題から、身にそぐわない焼き物等の事を「柄でも無い事」と纏め、分かった様な分かんない様な小難しい事は「クソ(失礼)面倒な話」とする。他は休題の侭。あたし的には、「クソ面倒な話」が好きなんだが、受けないのが残念。
 すっきりするでしょう?え、同じだって、そうねえ、どっちにしろすっきりしてない愚ログなんだから……。
  一寸と更新に時間を頂きます。(ペコリ)

2009年9月25日金曜日

新婚旅行とキリギリス その三

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 妻はやっと下る。手を貸すが、転ぶ。私も足元が危うい。従って、付きっ切りになれず、目を放すと妻は転ぶ。石棚からの急な路が凍っているのだから、至極当然だ。しまいには妻は尻をついて、ズリズリ下った。立つと転ぶのだから。
私「もうじきだよ、頑張って」
妻「さっきもその前も、もうじきだって言ったわよ」
私「今度は本当に、もうじきだよ」
妻「もう嫌、こんなの!」
 夕暮れ近くなって、やっと中川温泉に着いたのだ。多分妻には、地獄の二日間だったのだろう。とことん気の毒である。でも温泉は天国だったので、苦しい思いがあればこそ素晴らしい思いもあるという事なのだ。え、私が言っちゃあ駄目?まあね、余分な苦しい思いをさせた犯人だし……。
 処で箒沢山荘が今の地図に無い。箒沢荘と名前が変わり、マークも宿泊施設に変わった。山荘時代に友人達(古い朋友達、前述の烏仲間のKJ、EM、TKである)と泊まって、桧洞丸へ登った事がある。
 箒沢山荘の部屋にキリギリスがいたのだ。飼っているのではなく、勝手に外から入って来た奴だ。我々がウトウトとすると、其のキリギリスが鳴く(っていうの?)。スイーッチョッ!!!目の前が真っ白になって目が覚める。又ウトウトとする。キリギリスが鳴くスイーッチョッ!!!目の前が真っ白になって目が覚める。
 それを何度も繰り返した。キリギリスを追い出せば済むのだが、眠くて寝てしまうのだ。キリギリスの声は、間近だと強烈な破壊力を持つと、思い知った。是非一度キリギリスを購入してお試し下さい。
  実は試すだけ野暮ってもんで、小さな一匹(で良かったっけ?)の蝉の声(?)が町内一杯に響き渡る。キリギリスも同じって事。
 この朋友達は決して山好きな訳ではないのと私は思っているのだが、古いアルバムを見ると、何度も私に丹沢へ連れ込まれている。今思うと気の毒でしたね~♪尤も、何度も一緒に来たのだから、ひょっとすると山好きだったのかな?
 ANと、其の連れ合いのNBは一回も参加していない。この二人は(当時はメタボでもなかったのに)山なんか飛んでもないという罰当たり(?)なので、当然至極。って事はやって来た諸君は、矢張り山好きだったんだと納得して、安心したのだ。
 次に訪れたのも冬だった。石雪崩を起こしたBとそのお仲間達と一緒だ。畦ヶ丸の避難小屋に泊まるつもりで、夕刻に着いた。その日は、前夜泊まった犬越路の避難小屋から桧洞丸をピストンし、それから雪道の相甲稜線を延々と来たので、そんな時間になってしまったのだ。
 やっと今宵の宿に着いたと喜んだ一同だが、良くしたもので、珍しくも小屋は満員だった。とてもじゃ無いが、我々五人が入れる余地は無い。
(新婚旅行とキリギリス その四へ続く)

2009年9月22日火曜日

新婚旅行とキリギリス その二

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 次に行ったのも妻と一緒だ。十二月であった。前夜は箒沢山荘に泊まるつもりで、最終バスで箒沢に着いた。ところが何と、箒沢山荘が閉まっている、文字通り、閉まった!
 親父ギャグ失礼しました。私は根拠もなく年中無休と思い込んでいたものだから……。
 慌てて土地の人に、泊めてくれる所を教えて貰い其処を訪ねたら、某土建会社の忘年会で貸切だからと、断られてしまった。呆然自失とはこの時の私の為に有る言葉。私一人なら、箒沢山荘の軒下で丸くなってビバークも有りだろう。勿論着れる物は全て着込み、新聞紙を体に巻きつけ、リュックに足を突っ込んで、何とか生きて朝を迎える。結構寒い夜だろうけど、耐えよう。そのくらいの事ができなくっちゃ、冬山なざ行けっこないのだ。
 此処で幾ら威張っても意味がない。妻がいてはそうは行かないのだ。従ってそこを何とかと頼み込み(だって、外に頼む所は無いんだし、バスは終ってしまったので)、広間の端をアコーデオンカーテンで区切って貰い、其処に泊めて貰えた。
 土建屋さんの忘年会だから、静かな筈は無い。アコーデオンカーテンの向こうで宴会をやってんだから。でも文句を言ったら人でなしだ。無理を聞いてくれた民宿の方、土建会社の方、本当に有難う御座いました。
 翌朝は快晴。やったー!目指すは桧洞丸。ツツジ新道を登り、石棚山から下るコースなのだ。楽勝だぜ!
 この話に私の落ち度が二つ有るのだ。一つはもう書いた、山荘の営業の有無も調べなかった事。会社の仕事なら、これ一発で馘首になっても至極当然な手落ちである。二つ目が、山が凍っていた事。これも本来なら一発で分かる事なのだ。当時は気力と根性で何でも乗り切れるという気持ちが有ったので、強引に予定通り登山した。今なら、すぐ引き返していただろう。
 ルートの始めに小さな堰堤(?)のようなギャップが有るのはご存知でしょう。其処がツルツルの青氷になっていて、両手両足でやっと這い登る状態だったのだ。つまり、雪ではなく、氷の山になっていたのだ。何処でも凍っている。日当たりの良い場所は乾いているが、ほかはとことん氷。雪の方がどれだけ増しか。何故気づかない?繰言で失礼。私はそんなに愚かなのか?(そうだ!)
 目出度く頂上には立ちました。行きはよいよい帰りは怖い。昔の歌にさえ有る通りの、決まり事です。そしてその通りになってしまったのです。下りのツルツル路はひどい。軽アイゼイが有れば何でも無い話なのだ。持って行かなかった。持ってなかったのかな?どっちにしろその時は無かったんです! (新婚旅行とキリギリス その三へ続く)

2009年9月19日土曜日

柄でも無い事 その五

店 041

 古くからの友人OKの奥方が蕎麦屋を始めた。前から蕎麦屋で働いて居て、蕎麦も自分で打って居たとは全く知らなかった。で、経営者から居抜きで店を譲り受けた訳で、名前も其の侭「水車亭」。
 友人達でお祝いかたがた、様子を見に行った。今年の春山から戻って四日目で有った。其の前にOKの奥方には脅しを掛けておいた。
「あたしゃあ蕎麦には煩いからね、半端なもんだったら、ビシビシ指摘するから覚悟しときなね。ふっふっふ……」
 何、はったりです。多少は蕎麦の味は分かるけど、所詮は唯の蕎麦好きのレベルなので、偉そうな事を言うだけ野暮、でも、こういう脅しって、面白いでしょう。悪趣味だって?良いの、あたしゃ元々悪趣味なの!
 十人余りが八王子で落ち合い、バスで三つか四つ目の停留所で降りると直ぐ。名前に違わず、水車が有る。水車で蕎麦を粉にした時代の象徴なのだろうか。
 蕎麦だが、出て来ない。かたっぱから前菜が出て来る。理由は簡単で、OKは滅茶苦茶料理好き男で、本を出しても良い程の研究実践を積み上げて居るので、我々に顔も出さず、ひたすら色々な料理を出し続けるのだ。
 マズイ事に酒は飲み放題と言う事になって居たので、あたしゃあ勿論ガンガン飲む。友人達とワーワー言い乍らガンガン飲む。蕎麦が出て来た時はすっかり出来上がっちまって、おまけにOKのお陰で腹一杯、酔眼朦朧と蕎麦を見ると、山盛り。
「何時もこんなに多いのかい?」
 情無くもはっきりと発音は不能で、縺れる舌で問う。「そうだ」との返事で喜ぶ。そうでなくっちゃさあ。蕎麦なんざ気取って食うもんじゃ無いのはあたぼうで(死語です)、素早く腹を満たす、が原点なのだ。まあ、其れを言っちゃあ、寿司も鰻もそうなっちゃうので、ちと困るが、少なくとも蕎麦は高級食になって欲しく無いので、ポリシーを貫こう。
 酔っ払って居ても蕎麦の美味いまずい位は分かって良かった。美味しい蕎麦でした。
OKの奥方「蕎麦は如何でした?」
 へー、殊勝な口もおききになれるんだ!出来たら普段もそういう口をきいてよね。駄目?
私「OK!」
 本当にOKだ。立派に水準を行って居る。感動したのは次の言葉。
OKの奥方「私の拘り、分かります?」
私「分からない(酔ってたんで面倒で)」
OKの奥方「値段」
 偉い!メニューを見れば皆安い。天ザルで七百五十円、しかも量はたっぷり。OK君、良い奥さんだぞ!分ってる?失礼しました!
 店は赤字だったろう、あんなに色々出しちゃあさ。酒迄ガンガン飲まして。お陰であたしは、目に来て、世の中がセピア色になっちまった。初めての経験です。(多分酸欠です)

2009年9月16日水曜日

新婚旅行とキリギリス その一

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 昭和四十九年版、実業の日本社ブルーガイド丹沢、には温泉案内も載っている。最近のガイドブックには無い企画である。温泉専門の案内書へ移行したという事だろう。
 塩川鉱泉(お、有った)、飯山温泉、別所温泉、七沢温泉、鶴巻温泉、中川温泉、道志温泉、湯船温泉、が紹介されている。インターネットで探したら、今でも塩川鉱泉は生きていた。何だかうんと嬉しい。しかし湯船温泉は、消えた温泉となっていた。元は駿東郡小山町に有ったのだ。移り行くのが世の常、とは言え一抹の寂寥感は禁じ得ませんなあ。
 湯船温泉に行った事はないが、母が祖母を温泉に連れて行くというので、ガイドブックで知っていたので紹介した事がある。鄙びた宿が良いと言うからだ(母は帰って来てから、鄙び過ぎだと文句を言っていた。贅沢なんじゃない?)。駿河小山へは、迎えの車が来てくれたそうだ。処が滅茶苦茶に車に酔う祖母は、宿に着く僅かな間にグロッキーになったと言う。
 で、翌日の帰りには旅館が耕運機を出してくれて、その荷台に乗せて送ってくれた。祖母は多少恥ずかしかったが、全く酔わなかった由で、感謝しています。その祖母も、湯船温泉も(そして母も、平成二十年現在)今は亡い。
 で、この章は中川温泉である。四十九年版ブルーガイドでは、一泊二食で二千五百円から五千円とある。
 昭和十七年版、登山とスキー社によると、中川温泉信玄館、一泊二食で三円五十銭、神縄バス停から徒歩一時間十分とある。安い!でもそんなに歩いて(しかも登り道)、誰が行ったのだろう?しかも戦時中の本だ。
 私も思い違いをしているのだろうが、戦争だからといっても、生活がひどく窮屈になったのは都会の現象で、田舎(当時は足柄郡も立派に田舎だった)はそうでもなかったらしく、証言者は多いので、不精でない方は調べて下さい。
 中川温泉は信玄の隠し湯と呼ばれているが、足柄上郡はどう見ても北条領である。ゆっくり傷病兵を休ませる環境とは思えないのだが、戦闘中に、一時的に使用した事は有るかも知れない。いずれにせよ洒落たうたい文句と解釈するのが妥当だろう。
 初めて中川温泉に行ったのは、新婚旅行である。エベレストやマッキンレーより丹沢が良いという思想の持ち主の私なので、新婚旅行にハワイ?(当時の定番)正気かよ!と思うのは、当然でしょう?で、神奈川県をぐるぐる回ったのだ。良く女房が文句を言わなかっただって?今になって言ってるよ!すっかりグレちまった。教訓、女は怖いのでお互い(誰の事?全ての男です)注意しましょう。
 その時泊まったのは道の上に有った宿だったが、今は無いのだ。一寸と寂しい。
 (新婚旅行とキリギリス その二へ続く) 

2009年9月13日日曜日

閑話 その三十一

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 大倉尾根(馬鹿尾根)については、第一章で書いたが其の補足です。
 花立迄登りっ放しの様な書き方だったが、御承知の通り丁度中間地点に堀山が有り、越える時一寸と下って少し登り返すと堀山の家、其処からが息も吐かさぬ登り(オーバーです)となるので、昔々は「此処より馬鹿尾根」と言う看板が有ったのを、古い人は覚えて居るでしょう?
 で、当時の夜中は延々と懐中電灯の灯りが続き、ひたすら塔ヶ岳を目指して居て、ストイックと言おうか物好きと言おうか、時代ですなあ。
 当時の難所(?)は今で言う花立大階段のあたりで、本文や閑話で書いた通りの赤土の斜面、其れも雨で掘っくられた溝だらけの一面の逃げ場の無い斜面で、記述は重複するがあたしゃあ何度でも言うし、言うに値するので、其れは其れは大変だったのだ。
 大体からして赤土の斜面は直登がセオリーなので、トラバースなんざしたくも無く、滑るに決まって居る、特に雨の日は!
 雨の日に登るのかって?登るよあたしゃあ、当然だろが!悪天候に行動するなと自分で言ってるって?其の通り!でもTPOを弁えれば(わきまえる、って読めました?あたしゃ読めなかったです(恥))大倉尾根は街の延長なので(あたしの偏見なんで鵜呑みにしないで下さい。大体からして此の愚ログは、見方に依っては偏見大会なんだから)。
 前文撤回、不適切でした。本文に有る通りの君子豹変です。思い出した事が有る。昔々々々、尊仏山荘の従業員が冬、大倉尾根を登って来て、尊仏山荘の100m程手前で凍死した事故が有った。大倉尾根は街の延長、なんざ途方も無い戯言でした、済みません(深々)。
 花立の赤土に戻れば、其処は登っても滑る、下っても滑る、登りで滑れば手を突いてハーハー言って、登り始めて又滑る。此れこそ青春だ!
 下りで滑ると容赦無く泥塗れ、雨の日なんざ最高だぜ!しかも下りの方が滑り易いのは理の当然ってもんです。
 あんなに雨が流れて掘っくれたらどうなっちまうんだと、辛い登りの一瞬に思ったのだが、結局皆さん同じ思いを抱いたので神奈川県が大階段を造ってくれ訳で、文句を言ったら人で無しだ。え、文句を言うのはあたしだけだって?文句なんて一言も言って無いもんねー♪(え、誰も言って無い自作自演は止せって?ちっ、バレたか、済みません!)
 塔ヶ岳にロープウエイを掛ける計画が有ったのは知ってます?結局メンテが余りに大変(丹沢の地盤はメチャ脆いのだ)なので、計画は流れた。
 とても嬉しい、良かった。大勢の人が気楽に塔へ来れるのは素敵だが、当然自然が(今以上に)破壊される事でしょう。

2009年9月12日土曜日

柄でも無い事 その四

店 040

 

 朋友達(AN、NB、KJ,EM,YNの烏騒ぎの諸君)とは、年に一度旅行に出掛ける。何十年も続いて居る行事なのだ。
 殆どの場合、行きの昼飯は蕎麦で帰りの昼飯も蕎麦で有る。美味い蕎麦屋は事前に調べるので、先ず外さない。
 箱根の仙石原では外した。事前調べで仙石原の蕎麦屋に外れは無いとなって居たので、店を特定せずお気楽に出掛けた。
 仙石原に着いたが蕎麦屋が無い。空腹が募って来るのでグルグル回るが見当たらず、段々焦って来るのだが、無い。
 お、有った、蕎麦と看板が出て居る。
私「有った、入っちまおう」
AN「良いの?」
私「大丈夫だって」
 日帰り湯の食堂だったのだ。何でも有りで蕎麦も有ると言う訳。即出るべきだったのだが、何と無く注文して、あ~、こりゃ乾麺を茹でた奴だ、トホホホ……。手遅れとは正に此の事。“仙石原の蕎麦屋に外れは無い”ので有って、日帰り湯の食堂は当然ながら保証範囲外、見極めもしなかったあたしの責任で、済みませんでした(ペコリ)。
 皮肉なもんで、店を出て走り出したら次々と蕎麦屋が現れるので、皆は「ほれ、此処にも蕎麦屋!」とか「手打ちだってよ」とか、あたしを責めたてるのだが、仕方無いのだ。
 蕎麦を食べずに失敗した事も有る。沼津にネタが大きくて安い寿司屋が有るので行こうよとYNがご熱心、行きました。
 待ち人多く、あたし一人なら、待つなんて飛んでもないとさっさと帰っちまうんだが、皆と一緒じゃそうも行かず、おとなしく待ってメニューを見ると如何にも大きい寿司だが、多少オーバーだろうと思い、桜海老の軍艦迄追加注文して、やっと席に案内され寿司が出て来て驚いた。看板に偽り無く写真通りの大きさで、小食のあたしゃあ、ゲっと思う有様、其処へ二貫の桜海老で止めを刺された。
 此の夜は網代のH泊、料理が多くて豪華が売りなのだが、情無くも一同食べきれない。普段はあたしが食べ切れなくとも、何せ朋友達は健啖家揃い、誰かがはいよと食べてくれるのだが、此の日は駄目、全員食べ残して仕舞ったのは、空前絶後の出来事。
 教訓、矢張り昼は蕎麦に限ります。
 で、ANの奥方NBだが、蕎麦は何故か食べない。蕎麦が美味しい店なのに、罰当たりにもうどんを頼む。アレルギーでは無く好みの問題なのだが、何と勿体無い奴だ!
 秦野の蕎麦屋に入った時、うどんは無い。どうするのかと見て居ると、不服そうに丼物を注文して居た。蕎麦を食え、田舎者!言い過ぎだって?そんなこたあなかろう、多分。
 蕎麦は粋だ。江戸の昔からそう決まって居る。其の上ミネラル豊富、栄養のバランスも抜群でビタミンE迄含んで居て、少ないのはカロリーだけ、ね、最高でしょう!