2011年10月30日日曜日

休題 その七十七


 「新撰組血風録」の話を前にした。それも大昔のやつ。絶対お薦めだ、と目をひん剥いて力説した。
 あたしは町田のつたやで借りて、全七枚(二十六話)を見たのだが、何時でも全部揃っ
て居て、其処から一枚借りる分を抜き取る。ひょっとすると、あたし以外誰も借りて無いなかな、と思い気にして見ると、何時でも全巻御揃いで、仕舞いには棚落ちし、消えた。
 ま、仕方無い。町田の駅のそば、若い衆が中心の町だ。もっと年齢の高い地域に移動し
たのだろう。
 でも、若い人にこそ見て欲しかった。今の
時代劇は時代劇では無い。現代人がチョンマゲを付けて居るだけで、侍の重みなんざ何処にも有りゃあしない。
 話はがらっと変わるけど、五味川純平の「
人間の条件」のTV版は凄かった。主演の梶は加藤剛。多分彼のデビュー作だろう。全くイメージ通りの梶だ。加藤剛は梶を演じる為に生まれて来たのか、と思わされた。映画では仲代達也が演じたが、あの名優も、梶に関しては加藤剛には遥か及ばないと、あたしは見た。
 本では「人間の条件」は五度読んで居る。
二度は読み通した。三度は最後の六巻の半ばで、本を閉じた。結末が分かって居るだけに、辛くて読み通せないのだ。
 映画は三部作になって居て、此れは二度見
た。其のうち一回は深夜公演だった。夜遅く上映が始まり、朝終る。昔は良くそう言うのが有った。映画より、夜を過ごせる処に価値が有ったのだろう。今なら、カラオケ、サウナ、漫画喫茶と言う位置づけ。
 あたしは真面目に見に行った。途中でウト
ウトしたのは仕方無い。真夜中なんだからでも朝のラスト前からはしっかりと見て居て、しっかりと泣かされて仕舞いました。
 写真は残念乍ら、映画の
仲代達也です。

2011年10月29日土曜日

無敵の縦走路 その八


 沖ノ源次郎沢の滝に土砂が被って突破出来ず、右往左往した事は書いたっけ?御免なさい、人に聞く事じゃあ無い、自分のブログなんだから。
 言い訳だけど、元から有った文章に書き加
えて居るうち、段々分からなくなっちゃって、おまけに閑話なんてえのも書き込んで、益々分からん!其の上酔っ払って居るのが常態なので、尚更の事、書いたか書かないのか、書いても未だアップして無いのか、何が何だか全く分からんのだ!!
 威張る事じゃ無いだろがよ! はい……。

 其の沖ノ源次郎沢の時、結局沢を諦めて、
左岸のガラガラな支尾根に取り付いて、殆ど四駆で上り詰めたが、其処もYが転がった所と間近な、尾根とは思えない場所。あそこを来たんだと見直して、ゾーっとした。貴方も多分、ゾーっとすると思います。
 うーん、何と物好きな奴。もうしない、ぜ
ったいやらない、やりたくも無い!危ないにも程が有る。少なくとも、還暦過ぎの人間がやったら、頭を疑われても文句は絶対に言えないのだ。
 うっかり通り過ぎちまったが、木ノ又小屋
が有った。唯一此のブログとリンクして下さって居る小屋なので、通り過ぎる訳にはいかないので、戻ろう。
 実は数え切れない程、小屋の前は通ってん
だけど、立ち寄ったのは二回のみだったのは、書いて居て気付いて驚いた。
 一度はYと、塔の下りに寄ってコーヒーを
飲んだ。くどいだろうけど、丹沢の小屋は何処でもコーヒーが旨い!本当に旨い!疑う貴方、自分で試して下さい!
 もう一度は例のS、Kと、周り全て霧氷の
中、塔に向かって居たが、尊仏山荘はさぞ混むだろうと思われる冷え込み、じゃあ此処で昼飯としようと、木ノ又小屋に入ったのだが、大正解だった。
 (無敵の縦走路 その九へ続く)

2011年10月26日水曜日

おまけ


 無敵の縦走路も塔ヶ岳近く迄来たので、直下より尊仏山荘を見上げて見ました。
 此処迄来ればあと一息、何とか登り着ける
のですが、場合に依っては偉くきつい思いをする事も有ります。

2011年10月23日日曜日

無敵の縦走路 その七


 表尾根の人気は、此の部分(訳が分からなくなっちまったですね、新大日から塔への稜線の事です)に負う処が大きいと私は思って居る。皆さん自覚有る無しに関わらず、多分そうだろう。え、勝手に決めるなって?全くです!
 面倒なのでハイライトの記述はしない。も
う前に書いて居る事だし。値段も極端に上がって腹も立つし……。(だから、混同するなって)
 塔が間近になると、左は大きくガレ落ちて
居る。Yと歩き乍ら覗き込んで居た、平成二十一年秋の事。
Y「あそこじゃないの」

私「いや、もう一寸と先だな」

Y「じゃあ此処?」

私「ん、此処だ。此の林に覚えが有る」

Y「そうだ、此処で転がったんだ!」

私「んだんだ」

 物好きな奴の章で、私とYがガレ場を突破
した所を探して居たのだ。道に出たとたんYの両足がつって、転がった時の事だ。見下ろすと、唯々ぞっとするだけ。良くぞご無事で、と自分達を祝福したい。これじゃあ、突破する迄Yの脚がつらなかったのは、道理だ。
 説明が必要ですね。

 日帰り登山で一寸と頑張れば、翌日は筋肉
痛で、階段を下るのは大騒ぎとは、皆さんご承知の通り。尤も還暦を過ぎれば、一日置いて、今回は調子が良いぞと喜ばせて、意地悪く翌々日に始まる事も多い様だ。私は未だ翌日派だが、何時迄もつ事やら。
 ところが、数日掛ける縦走の時は、筋肉痛
が起きない。ま、縦走中に筋肉痛になったら偉く辛いだろうが、不思議にもならない。なるのは下山して、家に帰ってからで有る。其れも、大した痛さでは無い。
 体が知って居るのだ。筋肉痛になって良い
時かどうかを、脚がつっても良い時かどうかを。私の体は私の頭より、頭が良いんじゃないのかい?
 (無敵の縦走路 その八へ続く)

2011年10月22日土曜日

閑話番外 その五十六


 世田谷の鶴巻町で、異常に高い放射線が見つかり、取り合えず通行禁止にした。
 結局、一軒の民家の床下からラジウム22
6の入った瓶が発見された訳だが、どうやら建築時から置かれて居たらしい。今年の二月迄住んで居た九十過ぎの女性は昭和三十五年から住んで居たそうだから、五十年間放射線を浴び続けた訳だ。
 しまった、週刊新潮に先を越されちまった
ぜ。まあ良い、新潮を読んで無い人が多いだろから、書いちまおう。
 通行止めなぞ吹飯物で有る。過剰反応も好い加減にして欲しい。放射線と聞いただけで
ヒステリーに似た反応を示す、あたしに言わせりゃ、単なるヒステリーなんだが、一寸と政治が絡んで居るとあたしゃあ見て居る。
 学ぼう。日本は何十万の人命を捧げ、ロシ
アも相当数の犠牲者の上で、双方共完璧に近い結論を出して居る。閾値が有る。ある程度以下は安全なのだ。放射能と聞いただけでパニックに陥るのは、石油危機の時のトイレットペーパー騒ぎと変わり無いと思ってます。
 写真はラジウムの効果を利用するラドン温泉です。

2011年10月19日水曜日

無敵の縦走路 その六


 行者の鎖場では時々事故が起きる。S、Kと大倉尾根を下って居るとやけにヘリが煩く飛び回って居た事が有る。十年以上前の事。
 下ってから聞くと、中年の女性が滑落して
ヘリで救出したとの事。あんなに確りした鎖なのに、どうすれば落ちるんだとは思うのだが、事故とは複合原因の場合が多いので、何とも言えない。命には関わらない様なので、其れだけでも結構だ。
 行者の鎖場は前記の通り、二筋掛かって居
るので救われて居る。何せ通る人が多いのだから、一筋では順番待ちで大渋滞となる事だろう。二筋でも渋滞する事が有るのだから。其れもたびたびで有る。
 表尾根は新緑が素晴らしい。植林部分が少
ないので、其の景観を楽しめる。残念乍ら長尾尾根は植林帯が多くなって、昔の面影は消え失せた。其れでも、歩く人は結構多い様で、新大日で表尾根組に合流して来る。長尾尾根に向かうパーティも有る。
 従って、新大日は賑わう場所だ。唯、新大
日自体は余りぱっとしない場所では有る。展望が限られて居るからだろう。植林も迫って居る。矢張り広葉落葉樹林帯で無きゃあ、関東の人間にはピンとは来ない。此れは縄文時代からの血なのだろうか。
 でも、私はどちらかと言えば朝鮮系だろう
から、血の問題では無く、環境で造られた心情と言うのが正確かな。
 新大日から進むと、右手に三ッ峰が見事で
有る。左手は相模平野と海で有る。行く手は気持ちの良い林の尾根筋。
 表尾根の章ではさらっと書いたが、新大日
から塔への稜線こそハイライト。四百円一寸と上がったが、取れるとこから取る、と言う根性が気に食わん!税金は金持ちから取れ!貧乏人から搾り取ろうなんて政府は、短命に決まって居るんだから、セオリー通りにさっさと消えろ!!
  (無敵の縦走路 その七へ続く)

2011年10月16日日曜日

休題 その七十六


 黒澤明の「8月のラプソディ」を見たのだが、あらゆる事が解決せずに、突然嵐の中、傘を吹き折られ乍らも進んで行くお婆さん、其れを追う家族、で、エンド。
 な、何だこりゃあ!!リチャード・ギア迄
引っ張り出して、訳分からんもんを良くぞ造ったな黒澤君。
 テーマの原爆については全く同感で、前述の通り、前は年に一度は仁王立ちになり、「
アメリカの馬鹿野郎!!!二つも原爆を落としやがって、何が人道に対する罪だ!!罪が有るのはお前だ、馬鹿!!!」と叫び狂い、家族は逃げ散る有様。
 処が翌日、仕事で原チャリを走らせて居たら、突然其のラストシーンが脳裏に浮かび、
同時に強い感動に襲われ、涙が出て来た。ついでに鼻水も。
 そうか、彼はあのシーンにテーマを凝縮したんだ。ストーリーは二の次で良いのだ、と
泣き乍ら勝手な解釈をした。
 舞台じゃ無い。映画で後で効いて来るなん
て、そう滅多矢鱈に有るもんじゃ無い。感動の余韻が残るのは多いだろう。併し、観た時は何だ?と思って、後で感動が襲って来るってえのは珍しい。
 良い舞台ではまま有る事だ。
 黒澤明に対する評価の日本と外国の差異は
甚だしい、とは良くあちこちで読む。勿論日本での評価が非常に低い、と言うのだ。
 昔々は、稲垣浩、小津安二郎、溝口健二、深作欣二、木下恵介、市川昆(変換不能なの
で近似値です)、川嶋雄二、等々と錚錚たる名監督が揃って居たので、其のうちの一人位にしか思わないのだろう。
 世界の黒沢と称されて居るだけの事は有り
そうだ(え、偉そうにだって?済みません)。もう一度各作品を見直して見よう。隠し砦の三悪人以外は余り面白かった印象が無いのだが。此の歳になれば見方も変わるでしょう。

2011年10月15日土曜日

無敵の縦走路 その五


 翌日は快晴で、太郎山に登ったが、途中にガレっぽいトラバースが有って、怖いと泣いて歩かない。泣いてちゃ登れないぞ!と叱るが、わーわー泣くばかり。終いには怒鳴りつけて手を引いて行く。怒鳴り声と泣き声が静寂な山に響き渡るのだ。
 思えば、此れと全く同じ記述が有ったが、あれは丹沢山だ。ご丁寧に何度も同じ騒ぎを演じる馬鹿家族と言う事だ。我乍らつくづく情無いのです。
 さて、太郎山から光徳牧場への下りは、確
かにザレっぽく急で、良くは無い路だ。倅は怖さと足の裏の痛さで、泣きっ放しに泣き乍ら下った。外に登山者が居なかったのが幸いだった。人が見れば、虐待親父だと思われちまう処だった。
 誤解だ、ずば抜けた泣き虫子供に手を焼い
て居る、可哀そうな親父なので、本当はこっちが泣きたいのだ。
 又話しがあっちへ行った。妻と倅と行った
烏尾山に戻ると、書策新道から烏尾に来たのが其の日のルート。
 水場に水を詰めて置いて有るペットボトル
を四本程担ぎ上げて書策の親父に渡したら(当時は現役の親父だった、移ろい行くのが人の世だとしみじみ思わされます)、喜んでくれてビスケットをくれた。
 もっと何度も水を担ぎ上げれば良かった、
と今更思っても、親父はもう居ない。
 行者の下りで風に吹かれ、倅は例に依って
ひと泣きして、烏尾に着いたのだ。小屋は修理中だった。二人程大工さんが入って仕事中だった。トントンガタガタと賑やかだったが、作業は終った、と言うより風が強まって来た為、作業を終えた。
 我々夫婦は美味しいコーヒーを、倅はジュ
ースを飲んで、風の中へ出て行ったのだった。と、何でも無い事を書き連ねて、どうしようってんだろう。ま、此の愚ログはそんなもんなんです(ペコリ)。
  (無敵の縦走路 その六へ続く)

2011年10月12日水曜日

閑話 その七十三



 膝のリハビリを兼ねて、一ノ沢をやって見ようと、朝もはよから出掛けたのは良い。良く無いのは、沢を間違えて、手前の小沢に入って仕舞った事だ。ばっかじゃなかろか。
 一ノ沢と言えば寄沢の支流で、橡山へ詰め
る沢だと昔の地図には記されて居た筈で、鍋割の章で其処を詰めたと書いたが、今の地図では、四十八瀬川の支流で掘山へ詰め上げて居る。そっちの方で有る。
 間違えて入ったのは小さな沢で、あっと言う間に水は切れ、ひ
たすら土の斜面を4駆で登ると、やけに立派な植林道らしき物に出、其れを超えて尚も行くと、登山道に飛び出し、大倉高原山の家へ着いて呆然。
 あたしゃあ車を走らしても、勘で行くタイ
プで、渋滞ともなれば直ぐに横道に飛び込み、右往左往し乍らも何とかやって来た。失敗する事も有るが、大体何とかなった。
 殆ど山道を車で行く事も有れば、階段を登
った事も有っても、目的は達した。でも最近は勘が鈍って、失敗する事が多くなった。
 妻は勘ナビ(あたしがそう称して居る)の
電池が切れたと言うが、そんな甘いもんでは無いと気付いて居る。部品が劣化し、誤作動を起こすのだ。詰まり、もうお釈迦。山の勘も其れと同じなのだ……(涙)。
 で、多分誰も(地元の人意外は)登った事
が無いと思われる、馬鹿尾根末端の雨乞山を踏んで下って来たが、路は勿論無いし、尾根を外さず下ると鹿避けのフェンス、其れも三つも乗り越えて、大倉に着いたら、未だ十時。
 写真は其の雨乞山。
 O屋で一寸と飲んで、お婆さんが亡くなった時の話を娘さんから伺ったが、頼んだラーメンを置いての事なので、ラーメンはのびて仕舞った。そんなこたあ良い。
 良いおばあちゃんだった。商売気は全く無
かった。そのくせ、飲んで居るとお新香をさり気なく出してくれた。
 八十四才、最期まで現役だったそうです(合唱)。

2011年10月10日月曜日

無敵の縦走路 その四


私「Z、鼻が白いぞ」
Y「本当だ白くなってる」

Z「……」

 人には得手不得手が有る。Zは頑強な男だ
が寒さに弱い。YはZより山には弱いが寒さには強い。人それぞれなので有る。
 でも、三ノ塔は表尾根の重鎮なのだから、
もう一寸良い小屋をお願いしますよ、神奈川県殿。(今は直って居ます。為念) 
 三ノ塔の下りは、逆に塔から来ると、最後の登りとなるのだが、見た目程大変では無いのでご安心を。烏尾から少し下ってから登りに掛かるのだが、目前に三ノ塔が壁の様に立ち塞がり、何で此処で下るんだよと、腹でブツブツ言うのは、皆さんご同様の筈だ。違うって?嘘でしょう、きっと。
 さて、下りついたお隣は、可愛らしい烏尾
山だ。三ノ塔からは、足元に見えるのだが、なかなか山らしい、良いピークで有る。
 烏尾の三角屋根の小屋に、妻と長男と入っ
て休んだ事が有った。当時小学生の長男は、山では必ず泣いた。やれ怖いの、やれ足が痛いの、やれアザミが痛いの、やれ辛いのと、山に入ると必ずわーわー泣いた。本当に困ったちゃんで有る。
 其の困ったちゃんを、わざわざ日光の太郎
山へ連れて行った。物好きな親で有る。初日は志津避難小屋迄の林道歩きだが、早くも足の裏が痛いと泣く。
 何時でも足の裏が痛いと泣くのだが、お坊
ちゃん育ちでも無いのに、何でだろう?皮が薄いのかなあ。
 夜中、自然に呼ばれて目覚め、倅にも声を
掛けて扉を開けたら、濃霧で有る。ライトの灯りも届かない。倅も付いて出て来た。一人で真っ暗な小屋には、居られなかったのだろう。後で霧が余りに濃くて怖かったと聞いたが、此れは無理も無い。見事な霧だった。
 (無敵の縦走路 その五へ続く)

2011年10月9日日曜日

休題 その七十五


 あたしの父は劇団新派の俳優だった、最早知る人も居ないであろう劇団新派。水谷良重の名前を覚えて居る人も或いは居るだろう。其の娘が水谷八重子だと言えば、あ、そうか、と思って貰えるだろうか。
 十六の時に、愛媛の遥か辺境の多喜見と言う在所から二日掛けて東京に上り、縁有って井伊家の内弟子となって、一生役者だった。
 新派とは、歌舞伎が本家なので、良く行き来をして居た。あっちから来たり(例えば玉三郎)、こっちから行ったり、父もよく行って居た。
 勿論脇役専門で有る。池波正太郎が贔屓してくれた。

「井伊は良い、客席の隅々迄声が通る
」。
 うーん、声が通るだけだったのか。大声が売りって事か。そうは思いたくない、倅としてはだ。
 舞台専門だったが、一本だけ映画に出た事が有る。玉三郎監督の「外科室」に一寸と出て居る。外はTVのコマーシャル位。徹頭徹尾舞台だった。
 一応文部科学省から表彰も受けては居る。何せ、新派で一番古い役者なのだから、
 父は、アルツが進行して、結局舞台がボロボロになった脳に残った。
 詳細は前に書いた。
「しまった、!!舞台をとちった!!」
「あのね、お父さん、新派は公演をして無いんだよ」
「そんな出鱈目を何で言うんだ!!!」
「本当なんだって!!」
 止めよう。定年の有る職業が良いのか悪いのか、良く分からん。但し、父には辛かっただろう。きっと、辛かっただろう。
 とか言い乍ら、舞台で食って行きたいと志す人の0.数パーセントしか出来なかった事が出来たのだから、幸せ者だと一家中思ってます。もうじき五年になりますなあ。

2011年10月5日水曜日

無敵の縦走路 その三


 前の表尾根の章で、三ノ塔左の凄まじいガレを登ったと大人気も無く威張ったが、YとZの三人で、横一列で這い登ったとも書いた筈だ。(あ、YとZには触れて無かったかな)
 威張っても当然です。見れば分かる、一目
で分かるので、説明は不要なのだ。
 三ノ塔から下り始めて左を見下ろせば、ぞ
っとするガレで、其処を這い登って来たのだが、本当に登ったのかなあ、としか思えない。どうやったんだろう?もう出来っこないし、絶対にしない。
 ヒゴの沢の詰めだった。入り口は堰堤がず
―と続き、丸で苔むした堰堤登りに来た按配だったが、やがてガレに飛び出し、それもどんどん急になって行く。と、岩のギャップで行手を遮られた。左右には逃げ道は無い。
 パーティの強みはこういう時に発揮される。
Zが両手を組み合わせ、私が其処に足を乗せて、ぐっと持ち上げて貰い、上に這い上がれた。単独だったら、途方に暮れた事だろう。
 人の心理とは面白いもので、急なガレのギ
ャップを越えれば、傾斜が緩むだろう、と意味も無く期待するのだ。勿論現実は厳しい。先には相変わらずの急斜面のガレが続いて居るだけなのだ。
 私は足場を固めて、YとZを引き上げる。
二人共傾斜が緩むだろうと思って居たので、先を見てガックリした、と後で聞いた。そうでしょうとも。同じ状況では、同じ様に感じるものなんです。
 其の先がザレとなり、傾斜も凄まじくなっ
て、横に展開して必死に這い登った。横に並のは落石と落人(?)に巻き込まれない為なのだ。酷い話だが、本当にそう言う場所なので、仕方が無い。
 ま、無事で良かったの一言です。

 登ってから小屋で休んだのだが、Zは登り
に強くても寒さに弱い。上等のゴアを着込んで居るのに、一人で震えて居る。まあ、戸が壊れて居る頃なので、風は吹き放題では有ったのだが。
 (無敵の縦走路 その四へ続く)

2011年10月2日日曜日

閑話 その七十二


 前にも表尾根に迄蛭が出現する様になったと書いた。昔は早戸川流域以外には、蛭は少なかった。大山辺りで蛭に出会うなんて考えた事も無かった。あ、唐沢川流域は除く。早戸川に支流なので、蛭だらけ。
 先月23日にS、Kと日向山に登り七沢温
泉に入って来た。400m一寸との山だが、あたしの膝が未だ完全では無いので、思いっきり楽なコースにした訳で、SとKには悪い事をして仕舞ったのだ。
 2日前の台風の為、道は枝と葉っぱに覆わ
れて、どこが道だか分からない。倒木も結構有った。吹き折られて居たり、根こそぎ倒されて居たり。
 但し其れは植林帯の事で、植林を抜けると
普通の風景に戻る。そして又、植林帯へ飛び込んで、脚に色々絡ませて難渋するのだ。
 植林帯は地盤が弱る。杉や檜もひ弱い。根
張りも貧弱だから土を保持出来ない。葉が貧弱なので新しい土を再生産出来ない。山は痩せる。おまけに水も保持出来ないので、水害の原因ともなる。
 仕方無く、葉っぱと枝に脚を埋めて進むの
だが、思わぬ落とし穴が有った。湿った葉っぱと枝の推戴は蛭の絶好の居場所だったのだ。
 温泉に入るN荘に着く前に、何箇所か蛭に
やられて居るのは分かって居た。玄関で番頭さんに、靴下も脱いで調べる様にと言われ、見ると3人共脚にも靴下にも蛭が付いて居る。ティッシュで取ったが10匹以上取れた。
 で、ティッシュに火を点け、蛭は火葬だ。
風呂場に持ち込まれると、蛭は温泉の中でも平気で生きて居るので、凄く困るそうだ。
 特に女性客は、風呂に蛭が居たら悲鳴と非
難で大騒ぎ。蛭の生息範囲が広がったのは、鹿や猪が移動し、蛭も移動したのだ。
 思わぬ蛭騒ぎだった。Kは初めて蛭に会っ
たと喜んで(?)居た。
 写真は日向山よりの江ノ島です。