2009年6月28日日曜日

柄でも無い事 その三

店 029

 

 お茶と言えば、初めて美味しいものだと思ったのは大阪の万博(四昔弱の大昔です)、日本館で抹茶の接待が有った。空いて居たので行って見たのだが、あたしゃあ混んだ処は大嫌いで行列に並ぶ位なら帰っちまう男なので、当然な選択で有った。
 和服の乙女達が甲斐甲斐しく立ち働いて居る。勿論あたしが様な若造(当時)にもお茶を出してくれる。茶碗は何だったろう、当時は焼き物なんざ分からんので覚えて居ないが、多分志野だったのでは、と朧に思える。
 で、其のお茶がドラー美味えでかんわ!お前でも分かったのか?分からんでかい!!
 日本館の名誉に掛けて安いお茶を出す筈が無い。外国人接待を想定して準備したに決まって居る。あたし見たいな日本人の若造は想定外だっただろうが、其れで一人の若者が日本文化(と言うよりお茶の味)に目覚めた訳だから、立派に合目的で有る。
 特上の玉露に出会ったのは何時だったろう。思い出せない(断るのも面倒になっちまったが、酔ってるんで)。岡山では何度も出会った。仕事先や焼き物屋で、汲み出しにとろーりと玉露を注いで貰い、あー、お茶とはこういうもんなんだ、とつくづく思い知った訳で、不幸な事に其の抹茶や玉露の水準に達しないものは全て同一、下の下の屑茶も割りと上等なお茶も皆同じ、こんなのお茶じゃ無い!となって仕舞って、味噌も糞も一緒、悲しいですなあ。
 身の丈に合わないと言うのは大変な不幸なので、100g万を越えるお茶でないとお茶と思えないあたしゃあ、買えないんだからお茶は飲めない事になる。
 妻は100g千円のお茶でも「矢張り値が張るだけ有って、美味しいー!ね、美味しいでしょう、ね、ね!」と幸せ其のもので有る。だからあたしゃあ不幸、下手にお茶の味なんざ知らない方がどんなに良いか。
 他のものには一切煩い事は言わないのだが、どうしてもお茶だけは譲れない。
 尤も、お茶に煩いのは最高の贅沢者らしいので、あたしも贅沢者?うん、多分そうなのだ。え、意外だって?無理も有りません、少なくとも貴方が私を知って居るならばです。自分でも信じ難いのだが、あたしは本来贅沢者らしいけれど、身の丈に合わせて暮らす術(すべ)を知って居ると言う事なんだろう。
 コーヒーや紅茶には拘りが無いが、美味しいかどうかは分かる心算で、其れがどうしたのと思うだけだから、良かった。此れがコーヒーや紅茶迄最高級で無きゃあさ、と思ったら一生コーヒーも紅茶も飲めない(飲んでもあたしにとって本物じゃ無いので)事になっちまう。
 と、思いも依らない隠れた贅沢者の独白でした。へっへっへ、一寸と恥ずかしい。

2009年6月27日土曜日

私が自炊に拘るのは その二

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 おじさんにはきっと、あいつ一寸とおかしいんじゃないかと思われただろう。フッフッフッフ、でもその馬鹿な経験が身を助ける事になるのだから、世の中とは分からないものだ。
 それから数年経っただろう。天神平から谷川岳へ向かった。四月で、小雨、やったね、大好きな状況だよ!なーんも見えない。寒くて風に吹かれて、雪を蹴って登るだけ。そんな日は、登らなけりゃ良いのにさー。と幾ら言っても分からない奴には分からないので、(え、私の事?そうだ!)気象遭難が絶える事が無いのだ。
 で、一応頂上付近には着いたらしいが、肩の小屋が見えない。この天候では、肩の小屋の冬季小屋で泊まれれば、天国なのだ。だから必死に探しまわって雪と笹の斜面を歩き回ったが、全くのホアイトアイト、全然見つからずうろつくのみ。良くない状況ですなあ。そのうちに胴震いが来た。体の発する緊急アラームだ。
「ブー、ブー、緊急事態発生、緊急事態発生、爆破迄五分です、ブー、ブー」
 そう、ご存知のあれです。ボヤボヤしている猶予は無いとの警報で有る。すっぱりと小屋は諦めて天幕を取り出し、風に煽られてバタバタするのを、頭から被った。傾斜と強風の為張る事は、はなから放棄していた。ね、経験は役立つものでしょう。(え、そんな経験したくもないって?)
 この夜は辛く不安だった。風に煽られ続けたから?それも有るが違うのだ。翌日が心配だったのだろう。天候がこの侭だと、登って来た尾根も探せないのではないだろうか?足元もろくに見えないのだから。おまけに雨と風で自分の足跡も消え去るだろうし、下手すると沢を下る事になるのか、嫌だなあ、滝も有る様だし、結構ヤバイ事になっちまったなあ……。
 朝が来た。しめた、ガスがやや薄らいでいる。わ、何と、200m先に小屋が有る!あー、悔しいやら嬉しいやら。
 見えない時は見えないものだ。嬉しかったと書いたのは、戻る尾根の確認が出来た事だ。で、御陰様で無事に下山できました。
 教訓、悪天候の雪山なんかに登るもんじゃない。これは絶対のセオリーだ。それ以来成るべくしない様に心掛けています。(え、矛盾が有る、絶対のセオリーだろうって?仕方無い場面も有るので、ご容赦下さい)
 痛い処を突かれたので、話は夏山へ飛ぶ。
 Sと新穂高から入山し、双六で泊まり、三俣蓮華を経て野口五郎に泊まり、下山というコースを(相変わらず変なルートだ)取った事がある。二昔前のお盆であった。
 双六小屋は超満員であった。折り良く此の日天候が急激に悪化した為、幕営の諸君も撤収して小屋に逃げ込んで来たので、座る場所も無く、皆立っている、唯立っている。一寸と異様な光景で有る。 (私が自炊に拘るのは その三へ続く)

2009年6月24日水曜日

休題 その十八

店 028

 

 こう書き殴って文章を垂れ流して居ると、纏ったストーリーを書きたくなるもので、かと言ってシナリオや脚本では慣れない人には読みづらいし、小説形式はあたしが不慣れだけど短編で一つ。 
 小説じゃ無く、絵本見たいなもんかな。

 夫燕と妻燕が出会ったのは、南の島でした。二羽は一目でお互いを気に入り、羽を寄せ合うように海を越え、遠い遠い日本の或る街へ飛んで来ました。
 夫燕と妻燕は、慣れない巣造りに一生懸命です。若い二羽には初めての事だったのです。そして五羽の雛が孵りました。
 夫燕と妻燕は毎日せっせと雛達に餌を運び、日が暮れる迄休む間も無いのです。夜になって、やっと二羽は翼を並べて眠るのです。
 其のうち一羽の雛が巣から落ちて死んでしまいました。でも、哀しい事に燕は数が数えられません。夫燕と妻燕は一羽の雛が死んだ事も知らずに、餌を運び続けました。
 秋が近づくと残った雛達もやっと成長して、空を飛べるようになったのです。夫燕と妻燕は顔を見合わせて喜びました。時期が来て、燕家族は他の燕達と南の島に帰りました。
 翌年、夫燕と妻燕は同じ街で巣を造り、又五羽の雛が孵りました。去年と同じく二羽は必死に餌を雛に運びます。自分達は何時餌を食べたか、覚えて無い程の働きなのです。此れは他の燕も同じで、子供を育てるのは命懸けの仕事なのです。
 雛が孵って十五日目の事です、虫を追って急旋回した夫燕はトラックにぶつかり、死んでしまったのです。
 妻燕は全く知りません。一生懸命餌を運んで、夜になっても夫燕が帰って来ないので、どうしたんだろう?と思いながら疲れて寝てしまうのです。毎日そうでした。でも、雛達がやけにお腹が空いているらしいので、翼が折れる程頑張って餌を取るのです。去年は夫燕と擦れ違ったけど、最近は全然擦れ違いません。不審に思うのは一瞬の事で、直ぐ忘れて虫を捕るのです。
 或る夜、妻燕がふと気付くと、隣に夫燕が寝て居ます。妻燕は嬉しくて、ほっとした幸せな気持ちで眠りました。
 朝になると夫燕は居ません。妻燕は、もう夫燕は餌を獲りに出掛けたのだと思いました。でも此の日も一度も夫燕と擦れ違いません。夜になっても、夫燕は居ません。妻燕は夢を見たのです。
 時期が来て、雛達は大空を飛び交います。日本を去る日、何処を見ても夫燕は居ません。妻燕はもう夫燕とは会えないのだと、やっと分かって、涙をこぼして南の空に飛び立ちました。
 後から五羽の子供が付いて行きます。遥か遠くの島に向かって飛んで行くのです。

 え、絵本にもなんないって?良いんだって、勝手なガス抜きなんだからさ。お粗末、失礼!

2009年6月22日月曜日

私が自炊に拘るのは その一

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 長い間山歩きをしていると、ひどい目に会う事も勿論多い。幾つか思い出す侭に書き出して見ようと思う。人がひどい目に会う話は、誰でも大好きでしょう?
 え、そんなの私だけだって?偽善だ、絶対に嘘だ! 人の不幸は蜜の味、人間が人間で有る限り、逃れられない罠なのだ。始めましょう、名づけて“ひどい目大会”です。(センスねー!)
 軽くジャブから。
 昔の天幕は重かった。綿布の厚手で作られており、ポールは木で、後にぶっといアルミに変わった。張り綱を無闇と引っ張り、それも丈夫な綿だった。雨で濡れたら重さは倍になる、丸で拷問用具のお友達と言うべき代物だ。
 それが化繊となり、ポールも湾曲する自立式になって、今のスタイルになったのだ。凄く張るのが楽になった。持つのも楽になった。その端境期(はざかいき)の事だ。友人のBから新式の天幕を借りて、雲取山へ出かけた。十一月末の或る日で有る。
B「 大塚、一度張って見ないと分からないからな、絶対練習しとけよ」
私「あいよ」
 何事にも好い加減な私は、ふん、天幕なんて馬鹿でも張れらー、と思っていたので好い加減な返事をして、その侭雲取りへ向かったのだった。ま、結果として馬鹿には張れなかった話だとは、読めたでしょう?
 天気はお陰様でもろガス。袖口は凍りつき、頂上の地面はガチガチ、しかも風がうんと強い。最高じゃん!手なんか動かなくなっちゃってるし、鼻水は流れ放題、リュックを解く指も思うに任さない。大好きなシチュエーションだ、何度経験したか!
 頂上には新型天幕がポツンと一つ張って有った。かじかむ手で天幕を引っ張り出し、ああ張るにはどうすれば良いのだ、と悪戦奮闘するが、さっぱり分からんのだ。だからBは地上でゆっくりと張る練習をしとけと言ったんだ(テンポのずれた納得です)。えーい、寒いし面倒、と天幕を頭から被って、炊事をして寝てしまった。
 翌朝もガス。とても寒い朝だ。何と恵まれた、天幕にくるまった芋虫になった私。吉永小百合の歌「 寒い朝 」なら構わないです。聞いても寒くない。だが、本当に寒い朝は、寒いんですよ。
 私はガバット天幕をめくった。鬱陶しかったからだ(分かる人は分かりますよね)。すると、新型天幕の中のおじさんが、びっくりしてこっちを見ているのと、目が合った。
私「(ニッコリ)生憎なお天気ですね」
おじさん「……」
 (私が自炊に拘るのは その二へ続く)

2009年6月21日日曜日

柄でも無い事 その二

店 027

 

 あたしゃあ今は現役で無く予備役みたいな契約社員なので、当然乍ら収入は微々たるもので、良く此れで生活出来るもんだと思うんだが、出来て居るから不思議で、此れは妻の努力の賜物なのだろう。
 で、何だと言うと焼き物の話です。
 現役時代に偶々覗いた個展が、美濃焼きの塚本治彦氏で(実名を出しても殆ど人の来ない孤島なので問題無いでしょう)、美濃大好きなあたしは一品購入してから個展の度に案内状を貰う。それも物凄い達筆で!
 今年も届いたが、どうしても見に行きたくなっちまった。何故かと言えば前述の玄関で割れた徳利の一つが備前の船徳利で、此れが未練にも残念で(前と話が違うって?御免なさい!)、何か代わりに良い物が欲しいと思った訳なの。どう見ても身の丈に合わない贅沢な望みですなあ。
 そこで妻と一悶着、当然です。
妻「もう山ほど焼き物は持ってるでしょう!ダンボールに迄詰まってじゃないの」
私「そうなんだけど……」
妻「大体録に使って無いでしょう、無駄ってそういう事なんです!」
私「そうなんだけど……、折角案内状を貰ってんだし、宛名は手書きだし」
妻「相手は商売よ、何考えてんの!」
私「だから、その、商品券が有るから……」
妻「無駄遣いの為に有る訳?」
私「違うけど……」
 結局、其の商品券はあたしが退職した時貰った物だったので。
妻「本来あなたの物なんだから、仕方無いね」
 て訳であたしゃあKデパートに行きました。流石に良い物が並んで居る。一周してから(全作品を見て)買う物を探す、と言うのは自分が買える(詰まり廉価な物、情んなかあ)良い物を探すのだが、不思議と一発で分かるので、此の日は鼠志野のぐい飲みだった。
係りの初老男性「良い物が残ってましたね」
 何と美しい台詞!尤も誰にでも言うのかも知れないが、取り合えずあたしは自分の目に狂いは無かったと安心する(間抜けかな?)。
 処がご承知の通りデパートで此の手の買い物をすると何故か偉く時間が掛かり、下手すると作家が現れ、此の時も現れました。若いのだ塚本君は。でも陶芸家と思うと変に緊張する小心者のあたし。
私「……伊賀も焼かれるのですね」
塚本氏「……はい」
 陶芸家は大抵無口で、あたしも無口だ。
私「黄瀬戸が良いですね……」
塚本氏「……はい」
 冷や汗がタラタラ垂れる(本当なの)がハンカチを持たないあたしゃあ手で拭く。
 其処へ名古屋のお茶の師匠が現れて、お茶を淹れるのだが、案内状にお茶の接待と有ったのを思い出すが手遅れ、冷や汗は脂汗に。
私「無作法です!」
 ま、自棄っぱちで一気に飲みました。つくづく情無い我が身、恥を曝しちまったぜ。

2009年6月19日金曜日

閑話番外 その四

 前の山の報告で三ツ峰に言った話をしたけど、雲海の中に入って行ったので、カメラをぶら下げて歩き乍ら手持ちで何枚も写真を撮ったのです。緑は鮮やかだし、光は輝いて居るし、此れは良いや、良い写真になってぺさ!
 現像して唖然、白茶けて仕舞って話の外。理由は簡単で、フイルムの賞味期限(って言うのかなあ?)が切れて居たのだ。其れもたった二年と一寸と。矢張り駄目?当たり前だ!
 前回に現像した時も確かに白茶けて居たけど、此れは当然だと思ったのは、一年以上カメラに入って居たフイルム(前年の春山と今年の春山が写って居るのだ!)だから無理も無いと思ったですよ。冷静になれば最早其の状況が異常。
 有効期限を其の時確認するのが普通だと、普通で無いあたしでも分かるのだから自業自得、残った二本のフイルムは捨てました(涙)。だって、リバーシブルは安く無いんだもの。
 で、新しいフイルムを買いました。相変わらずどうでも良い話でした(ペコリ)。

2009年6月17日水曜日

山の報告です その五

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 平成十八年、十九年と続けて正月に八ツの行者小屋に泊まった。昔なら当然幕営なのだが、折角小屋が有るのだから、とすっかり堕落極まり無いおじさんに落ちぶれたのだ。う、う、多少悲しい(涙)。
 目的は、阿弥陀から赤岳を撮りたいという柄にも無いものなので、二回共見事に失敗したのは言う迄も無い事。
 小屋泊まりは天国で有る。暖かい!水は汲み放題!ビールも飲める!Drファーストでなくとも魂を売ってしまう、だから自分を責めるのは止めよう。え、自分に甘い?う~む、還暦過ぎだから許してちょんまげ。(余りに古くて失礼!)
 小屋入り口の自炊場に居ると、テントの連中が水を貰いに来る。学生が二人来た。
学生A「わー、先輩、暖かいですねー」
学生B「そうだ」
 水をどっさり汲んだ(パーティ分なのだ)二人は出て行く。
学生Aの声「寒いっすよー!」
 あたしゃあ思わず吹き出す。
 トイレへは廊下を少し下がって行く。良くしたもので、床のラインから下は凍りついて居るのが面白い。トイレには石油ストーブが燃えて居て、幸せだなあ。
 肝心な阿弥陀の話。十八年は入山日快晴、アタック日ガス。それでも登りました、猛烈に吹かれながら。勿論展望なんざ薬にしたくも有りゃしない、とっとと下ってお仕舞い。
 十九年も入山日快晴。唯、前日までの降雪の為一面白一色、トレースも深く刻まれて居る。翌朝は晴れ、やったねと飛び出したが、阿弥陀へのトレースは無い。踏み込むには雪が深過ぎて、トレースに乗って赤岳へ登って仕舞って、阿弥陀は失敗。
 この時小屋に戻ると、登山者二人と小屋の若い衆が洗面器を横に何やらやって居る。アノラック(此の呼び方で良いのだろうか?)上下を脱ぎながら見ると登山者の一人の傷の手当をしている。良く見るとその男のアノラックは血で真っ赤になっている。岩登りで滑落したらしい。ザイルで確保されては居たが、岩に叩き付けられた様だ。
 丁度頭の傷の手当が終った処だった。次は脚だ。
小屋の若い衆「下着を切りますよ」
男「買ったばかりなんだよ」
小屋の若い衆「手当てが出来ないでしょう」
男「じゃあ、やって。(連れに向かい)女房には内緒だぜ」
 怪我よりも、新品の下着(冬山用は高いのです)を駄目にしたのを奥さんに知られる事が気になるとは、思わず近親感を抱いて仕舞ったのです。
 ヘリを断り、自力で下るとの事、剛毅なものだと感心した次第、怪我も無いのにゼーゼー歩く我が身の情け無さを痛感させられた一幕で有りました。

2009年6月14日日曜日

山のお汁粉パーティ 其の四

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 高校一年の時、クラスで出掛けた。ボーイスカウト経験者のU(大野山へ腕をつって行ったUで有る)をリーダーとし、担任の先生も同行してくれた。
 Uは日向山を下ってから道を間違え、広沢寺方面へ向かった。暫くしてUが気付き、慌て出すと、先生が間違えを指摘してくれ、此処でこう間違えたんだ、と説明して下さった。
 流石恩師で有る。間違えた瞬間に言わず、本人が気付くのを待つ、出来そうで出来ない事だ。此れでUは(多分)地図を読み間違える事は無くなっただろう。
 前章でも触れた辺室山、土山峠に車を置いてYと登った。蛭の帰り道に立ち寄ったのだ。私はこの様な行為をデザートと呼んで居る。勿論、Yはデザートが嫌い(本当のデザートなら大好きなのだ)なのだが、リーダーの好みとなれば仕方無い、泣き泣き付き合ってくれて、可哀そうだね~♪
 驚いた事に道が有り、道標迄立って居る。獣道を辿り、藪をこぐつもりだったのに。大野君が赤線を引くのも無理は無い。Yは喜んだが私は収まらない。何だよー、道じゃんかさー、こうなったら見てろよ!
 病気の私は、即下山は西面の小沢と決め、辺室山を越えてジャンクションに至り、Yを残して物見峠へ行って来た。何、トレースを繋ぎたかっただけ。何で?だから病気の私、と断っておいたのだ。
 ジャンクションから沢に下り始める。堰堤か小さな滝か忘れたが、一箇所巻きに掛かった。未だYは沢登りの経験が殆ど無い頃だ。
私「木や枝に無造作に頼るんじゃないよ」
Y「はい」
 と答えつつYの掴んだ木がぼきっと折れ、Yは落下した。
私「あっ!」
 奇跡的にYの両足は斜面(六十度以上、もろ急斜面)に生えた木にトンとぶつかり、1mの落下で済んだ。尤も落ちたとしても3m半位だったのだが、無事だと言う保証は無い。
 此れ以降、Yは木を掴む時は慎重に強度を試す様になったので、経験とは物を言うもので有る。
 では。終わりにもう一つ。渋沢丘陵という丘陵が秦野の裏に有った。今でも有るが鳶尾山と同じく、住宅地になってしまった。でも、昔と変わらず、表丹沢の絶好の展望台であるので、行った事が無い方は一度訪れると良いと思います。震生湖という湖(池)も健在で、新しい地図にもルートが記載されている。第一、駅から近いのが魅力でもある。展望は素晴らしいので、後で触れましょう。
 冒頭に忘年山行の話を持って来たが、思えば零細山岳会では唯一の忘年会の企てだったのだ。暮れに山には行ったが、何時でも新宿に戻ってから、散々飲んでいたのだ。従って、山で忘年会をする事はとても素晴らしいものだと、今になって、はっきり分かる歳になったのです。改めるに遅いという事は無い。これからせっせとやりましょう!

2009年6月13日土曜日

休題 その十七

店 026

 

 最近、更年期が男にも有ると認知されたのは目出度い。男の場合は酷くなると自殺するので困る。女は強い、滅法強い、更年期で自殺なんて、有るだろうけど少ないのでは?
 調べれば良いんだろうけど、あたしゃ何度も書いて居る通り面倒な事はしたく無いので、当然調べない、えっへん。もしマメでマトモな奴ならこんなブログは書いて居ない(書く暇も無い)。良いんだか悪いんだかね。
 元々人類は女性が原型なのはご存知の通りで、男と成る遺伝子が送り込まれて来て初めて、ほい来た男に改造するべえさ、と女性を男にガンガン突貫工事でデッチ上げる(本当の事です)。
 ついでに書いとけば(知ってる事ばかりでスマソ、へへへ、2チャンネル用語です)、人類の母は唯一人の女性に決まって、ま、聖書のイヴです。遥か太古のアフリカの女性なのだが残念乍ら姓名不詳(当たり前だ!)、DNA鑑定で解明済みなのだ。
 ドグマと言う映画が前に有ったが、欧米諸国では軒並み上映禁止、キリスト教国では許せない作品なんだろう。マット・デイモンが良く出演したな、と感心した。其の映画に登場するゴッドは黒人の女性だった。正しいじゃんかさあ。
 えーと、更年期ならぬ更季期の話。更季期?あたしの造語なんで探しても辞書には無い。
 十代末から二十台初め迄は、春が来ると激しい焦燥感に襲われ、何か始めなくちゃと、身悶えする様な感覚に責め立てられた。其れをあたしゃあ「盛りが付いた」と呼んで居た。春を迎える更季期だったのだ。
 三十代末から四十代半ばの頃は、秋が深まると猛烈に足が臭くなった。家に一歩入ると家人は一斉に「臭い!」と叫んだ。犬を飼って居たとしたら、其の犬は気絶しただろう。一ヶ月弱で臭いは消えるのが常だった。冬を迎える更季期だったのだ。
 更年期らしきものは、眠れなくなった事だろうか。夜中に目覚めると二、三時間は起きて居て、起きなければならない時間の一寸と前に入眠するので、起きる時の辛さは格別で有る。結果、より早く寝て其の恐怖を避ける様になった。
 あとは酒をガブガブ飲む様になった事だろうか。此れは違いました、単なる遺伝性酒飲みです。或いは単なる酒好き男でした。
 春に昂ぶる気持ち、秋に臭くなる足、遠い出来事となって仕舞ってもう無いです、更季期なんて瑞々しいものは。すっかり枯れちまったもんだなあ。

2009年6月12日金曜日

山のお汁粉パーティ その三

 

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 長男と夏の北岳に登った時は、ラッキーにも好天で、四度目にして初めて、北岳から景色を見る事ができた。その帰りにバスを途中下車して、芦安村の立ち寄り湯へ入った。
 今は残念ながら芦安村は無い、懐かしくも風情有る名前だったのに。合併して南アルプス市。え?何それ!でも住民の好みなら他人が口を出す事ではないのだけど、余りにセンスが良くて……。
 で、話を戻すと、ご存知の通り、山帰りの温泉は天国(俗な表現で済みません)なのだ。風呂上りに、ビールは無いのと聞くと、無い。腹が減っていたので、食べるもはと聞くと、それも無い。川向こうに食堂が有るとの話で行きました。
 川向こうったって遠いの!うんと歩いて着いたら、教育委員会経営(?)で、ビールは無い。え~ん、山梨県はビールに恨みが有るに決まっている!現に、ワインだけは有ったし……。状況証拠としては完璧だ。
 仕方なく、私は蕎麦を長男はうどんを食べた。これは美味かった、しかも両方とも美味かった。今迄の、私の蕎麦食いの経験で言えるのは、蕎麦が美味い店は決まってうどんも美味い(蕎麦専門店にうどんも有れば)。その逆は少ない。
 良く、逆もまた真なりと言うが、それは滅多に無い事なので、強調の意味で使うのじゃないのかと思う。対偶が常に成立するのは当然なんだけど、逆は滅多に、いや殆ど成立しないのだ。
 例一「大塚は酒飲みです」その逆は「酒飲みは(全て)大塚です」。カッコをつけたのは、それで正しく伝えられるからだ。え、言い訳だ?文章の通りだって。ああそうかい、例が悪かったよ!
 例二「山には木が生えている」その逆は「木が生えていれば(全て)山だ」これで納得ですね。ああ、汗かいた。慣れない事はしないこった。
 丹沢周辺の公衆風呂に戻るけど、前にS、Kと松田で飲んだ話をしたけれど、それは中川温泉のブナの湯にアルコールが無かった為に、松田で店を探した結果で、それはそれで、良いといえば、良いか……。でも、風呂上りのビール位、利用者の為に用意しても、決してバチは当たらないと思いますよ、ね、役場の皆様。
 この章は、お気づきの方もいるだろうが、丹沢周辺の低山を書こうとして立てたものだ。他に現役で案内されているのは、白山と城山が有るが済みません、行った事が有りません。(ぺこり)
 日向薬師(ひうがで無くひなたです)から日向山へ登り、大釜弁天を経て七沢へ出るコースが有る。大釜弁天は滑(なめ)が続く。暫く下ると対岸は岸壁となり、良くクライマーが張り付いてはロックの訓練をして居る場所だ。 (山のお汁粉パーティ その四へ続く)

2009年6月11日木曜日

山の報告です その四

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 三ツ峰に行きました(六月六日、七日)。改装なったみやま山荘にも泊まったのだ。写真は三ツ峰が写って居るだけの無関係な酷く雑物で、失礼。
 白ツツジは終って仕舞って残念だけど、五月中は土日全て潰れて、やっと空き日が出来たら雨だと言う不幸せ。でも、大倉尾根を登るうちに雨が上がったのは上出来。併し寒かったなあ。
 みやま山荘は綺麗になったー、四十年前よりずっと綺麗にーなったー♪。
 歌は良いとして、あたしがトップにチェックイン、続いて七人のパーティ(皆尻上がりの北関東弁)、三人パーティ、初老の単独男性、又三人パーティ、続いて男性二人、都合十七人が泊まった。
 珍しいのは若い女性が多かった事。七人パーティのうち三人が若い女性で一人が中年女性。二つの三人パーティは、二人の若い女性、もう一つは一人の若い女性がメンバーで、若い女性は合計六人。お婆さん(失礼!)は皆無。殆ど無いですよ、こんなの。
 誤解しないで欲しい。あたしゃ若い女性が好きな訳では無くて、若い人が山に来るのが嬉しいので、其れが女性なら、やがて若い男性が釣られ来るで有ろう事が嬉しいのです。
 自炊はあたし一人で、皆さん、食事でーすの声にいそいそと席に着くが、残念至極にも食堂には扉が有って閉ざされて仕舞い、野次馬のあたしでも扉を開けて覗く事は出来ない、何を食べて居たんだろう。(本当にどうでも良い事ですよね、済みません)
 朝は五時半に丹沢山を辞し、三ツ峰を一気に下ったが、未だ出来るんだあ、驚いた次第、筋肉痛には苦しんだけれど。
 紅葉或いは黄葉の綺麗な所は新緑も綺麗のセオリー通り一面の新緑が朝日に輝き、其の上雲海の上なのでラッキー此の上無しで富士山迄見える。北関東訛りの若い娘曰く。
「登って来て良かった!(注、尻上がり)」
 んだよ、本当に来た甲斐有っただよ!
 三ツ峰は巻き道が多く、割とヒヤヒヤさせられるが、危ない所には桟道とか梯子が掛かって居るので慎重に通過すれば問題無い。危ないと思える所では誰もが慎重になるので事故は稀(まれ)だ。詰まらない所で事故が起きるのは、油断なのでしょう。油断するのが凡人の常とは、決まり事です。
 皆さん西丹沢を目指して居て、三ツ峰を下るのはあたしだけ。ま、折角来たのだから当然と言えば当然なんだけど、三ツ峰だって凄く素敵な尾根なんだ。
 登りたく無いとは前述だが、三人登って来た。あんた等は偉い、良く登る気になったもんだ、あたしや御遠慮申し上げます。雲海の上から雲海に入るのは独特の面白さが有って、半分雲の中では光が筋を成して幻想的なのだ。ま、其れから下るのが長くてウンザリするんだけど。
 なかなか良い山行でした。
 余分な事だけど、帰りのバスの運転手の言ってる事が意味不明、英語より分からんのだ。
「あしょ、うっへ、とこっせで、はりゃま」
 神奈中さん、運転手に日本語を教えてね。

2009年6月10日水曜日

山のお汁粉パーティ その二

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 で、その寄から尺里峠(ひさり)への林道を登って峠に着いた。そんなの何が面白いのかって?歩いた事がない道だったから歩いたんだよ!
 峠から高松山へは向かわず、逆に第六天へ登った。そこからは尾根を外さないように、松田山を歩いたのだ。たまに路が尾根を外れると、ボサを分けて尾根を行く。気持ちの良い尾根歩きだったのだが、ボサを分けて見ると、突然ゴルフ場に飛び出した。え、聞いてねえよ!
 何時、誰に断って松田山をゴルフ場にしたってえんだ。俺の山を返せ!ま、私の山ではないので法律上の権利は無い、ブツブツ言いながら、ゴルフ場の車道を歩いて、大回りをして新松田に戻りました。その時も古い地図だったもので……。
 鐘ヶ嶽は大山東北に有る560m程の山だが、いかにも歴史が有ると思わされる。古い階段、道標、仏像、見事ですよ。何度も登ったが、楽しい山だ。
 夏の暑い日、次女を連れて登った。前にも書いたが次女は虫に無闇と弱い。不幸であった。特に暑い夏で、虫が異常発生していたのだ。はははははは、気の毒に。歩いていると始終虫がぶつかって来る。カナブンとか蝉とかアブとか、何でも有り。次女はキャーキャー叫ぶが、どうしようも無い。叱ったり、おだてたり、脅したりして歩かせた。「歩かないと、もっと虫が出るぞ」とかだった筈だ。次女にはさぞかし悪夢同然だったであろう。
 鐘ヶ嶽を下って山神隧道上に出、そこから登り始めたら虫が減った。めでたい。ルートの記載はないが、路ではある。一寸と急で、根っ子に縋って登る。
 尾根に登ると、見晴台と札が有る。私は、見晴らせない台と、呼んでいる。
 そこから右へ登ると大山へ続く尾根。私達は左へ下った。整備はされていないが、歩ける路だ。しばらくで東屋(あずまや)が有り、ひょうたん広場と札が有る。私は、ひょうたん狭場、と呼んでいる。そこから一下りで弁天の森キャンプ場だ。結局次女は半べそで、虫の山を歩いた訳だ。
 この周りが、S、Kが引き回されて辟易した山域なのだ。そして、七沢温泉が最終目的地となる。広い露天風呂が迎えてくれるのだ。そして、風呂上りの一杯、フッフッフ。しまった、章が変わったのだった。
 弘法山は鶴巻温泉から登る。山菜も取れるし、桜は見事だし、紅葉も楽しめると、中々優れものなのだ。最後は秦野盆地へ下って行く。その途中の善波峠から大山南尾根が始まるのだ。
 その鶴巻温泉に、弘法の湯という公衆浴場ができた。S、Kと山帰りに寄ったが、良い湯である。私的には、全面禁煙というのが、今一つなのだ。公衆浴場は結構多い。中川温泉のブナの湯、道志村の道志の湯、山中湖の石割の湯、等々。
 石割の湯を除いて、禁煙か禁酒か、或いは両方ともというのは、お役所の業なのだろうか。いや、私が滅び行く人種なのだろう。滅び行く人種はトキの雛のように大切にしてやりましょうよ。(え、駄目?) (山のお汁粉パーティ その三へ続く)

2009年6月7日日曜日

休題 その十六

店 025

 

 戦(いくさ)で補給を絶たれた時は負け、古今東西を問わず鉄則で有る。
 諸葛孔明が何度も魏の司馬仲達(“い”が変換不能、略します)との決戦を試みたが、常に補給に苦しんでいたのは、演義の文中にも其れと明らかに読み取れる。苦し紛れに木牛木馬迄登場させて居る。
 ベトナム戦争を北ベトナムが闘い抜く事が出来たのは、中国からの補給が有り、其れを前線にラオス経由で送り続けたからで、其の為の苦労は言語に絶するものだろうが、兎に角補給は確保し得たのだ。従って最終勝利を得た。戦争とは補給の事でも有る。
 旧日本軍は、島嶼では勿論、ビルマでもニューギニアでも、フイリッピンでも、判で押した様に補給を断たれてから闘いが始まって居る。詰まり最早負けが決まってから、戦闘開始なのでとっくに勝負は着いていたのだ。
 もう負けて居る戦を戦い続けて死んで行った将兵は、どう思ったのだろう。
 島の玉砕の場合、記録に多く残って居るのは、必ず連合艦隊がやって来て敵を粉砕して呉れるから、何とかそれ迄頑張ろう、だ。でも其の連合艦隊の殆どは、海底に沈んで居るのだ。沈んだ艦隊は助けに来れない!奮闘決死努力、とても人間業とは思えない頑張りを見せた。
 偉いなんてあたしが言ったら叱られる。唯々頭を下げるしか無い。
 連合艦隊がやって来ると同じ位記録に残って居るのは、本土防衛の時間を稼ごう、だ。自分が頑張って敵を一人でも多く倒し、一日でも長く此の島を守れば其の分本土の準備が整う。其の時の本土とは、自分の故郷で有り、親で有り、兄弟で有り、或いは妻で有り子で有っただろう。
 野戦病院でも後方の病院でも、現役の若い兵はすっと息を引き取ったそうだ。「お母さん」と呟いて……。
 妻子持ちの兵は死に抵抗しつつ息を引き取ったそうだ。残される妻子の苦労を思えば死ねないのだ……。
 心から戦争は有ってならないと思う。平和団体の諸君とも社民党の諸君とも抱き合ってそう叫びたくなる(共産党の諸君とは嫌だね、自衛隊廃止を言い乍ら、赤軍創立、党を守る為の戦争は正義なんだから、ハッキリそう言えよ)。
 あたしは現実主義者だから、戦争は嫌だと叫んでも戦争は無くならないと思って居るのが平和団体の諸君や社民党の諸君との大きな違いかな。前述なので繰り返さない。
 此の章の趣旨は、日本が補給を断たれたら途端に負けでどっかの属国に成るしか無い。食料もエネルギーも全く自給出来ない、先進国随一の脆弱国家なんだから。補給確保の方策を考えよう!奴隷になりたくなけりゃさ。
 どの国が日本の補給を断つ、其れで何の得が有るかって?頭は考える為に有るので、帽子をかぶる為では無い。分かんないかなあ?

2009年6月4日木曜日

山のお汁粉パーティ その一

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 昔は丹沢の東麓に鳶尾山という山が有った。今は鳶尾団地になってしまい、山だった面影もない。
 三昔以上も昔、我々零細山岳会で忘年山行に出かけた。お汁粉を作るので、背負い子に大鍋を括りつけ、水も運び上げて、お汁粉をたっぷり作ったのだ。標高は低いとはいえ、相模平野の端に位置するだけあって展望はとても良い。左の大山から始まって、大山三ツ峰から仏果山へ山が連なり、その後ろには丹沢三ツ峰や主脈の山々が望める。で、眼前は相模平野が足元から広がるのである。豪華絢爛な低山であった。
 古い案内書を見ても、鳶尾山の案内が無い。多分何かで読んで選んだのだろう。それとも地図で探し出したのだろうか。皆でたっぷりとお汁粉を食べて、キャッキャと騒いだが、我々が借り切りの山頂なので誰もいない、騒ぎ放題である。楽しいですよ、お汁粉パーティは。
 安心して下さい、これは勿論一次会です。またバスに乗り、馬渡で降りて塩川鉱泉で二次会を行った。今の地図には塩川鉱泉の記載はない。鄙びたという形容がぴったりの宿で、裏に有る塩川滝も見応えの有る立派な滝であった。
 風呂に入ってから乾杯となった訳だが、日もとっぷりと暮れて、松田で飲んでさえ旅情を味わえるのだから、山の中の鉱泉宿と来れば、遥けくも遠くで飲むものよ、と不可思議な思いである。
 もっともそれは、今の私の思いであって、当時の若者達は、唯飲んで喜んでいた事だろうと思う。帰るので、バス亭へ真っ暗な細い路を歩いて行った場面が、変に印象に強く残って、忘れられないのだ。
 S、K、N、I、T、W、H 、Eの皆さーん覚えてますか、あの塩川鉱泉の素晴らしい忘年会の夜を!(チッ、誰も読んでないか)
 松田山は小田急から良く見えるので、皆さんご存知と思われる。南面は一面相州ミカンの畑だ。地理的には高松山の続きである。文字通り松田の裏山だが、意外と斜面はきつい。ミカンを育てる人達は苦労だろう。
 松田と言えば、一寸と驚いた事が有る。寄(やどろぎ)へ向かうバスで、後ろの女性達の会話である。たまたま寄出身者が、法事か何か(分かりませんけど)で乗り合わせたようだ。
A「松田は良いわ、暖かいし、水もぬるいし」
B「そう、それに便利なのよねー」
A「本当よ、松田に住んだら、もう離れられないわ」
 驚いた。寄は余程寒くて、水が冷たくて、不便な所なのだ。勿論山の中の里なんだからそれは至極当然なのだが、松田だってとても寒くて水が冷たくて不便な所なんだぞ、と思ってしまったのだ。松田町の方々、御免なさい。(ぺこり) (山のお汁粉パーティ その二へ続く)

2009年6月3日水曜日

閑話 その二十二

店 024


 冬(或いは春)の上高地は、昔々は聖域だった。入るには飛騨側から西穂小屋を経て下るか、沢渡(さわんど)から釜トンネルを越えて歩くしかなかった。冬の釜トンネルは氷に覆われツルツルの難所だった。しかも出口は雪崩多発地点で危険此の上無しの有様、従って冬(或いは春)の上高地は一部の登山者のみが足を踏み入れる場所だったのだ。
 春の奥穂を目指して、大きなキスリングを背負い、上高地の遠かった事。汗が滴り落ちる。それだけに大正池の見えた嬉しさは表現不能、やっと来れた……。
 時代は移る。今は釜トンネル直下迄車が入れる。釜トンネルも整備が成って、デコボコでは無い。雪崩止めも完備、冬でもどうぞ!
 一昔前(釜トンは未整備だったが)からそうなった。散策の人がゾロゾロ居る。写真教室の一行が彼方此方に三脚を立てて居る。温泉ホテルさえ営業して居る。最早聖域では無い。神々は穂高にお移りになったのだろう。
 悪い事では無い。あの景色を写真でなく見る事が出来るのだから、素晴らしいと言うべきだ。
 と言いつつも、何処かに一寸と寂しさを感じるのは、あたしが半端な登山者の証拠で、本物の登山者にとっては上高地は単なる入り口で、本命は穂高。上高地が人で溢れて居ても何の問題も無い。あたしでも、夏はそうなんだから。
 Nに言わせりゃ「アブローチが短縮されて助かるよ」位のものだろう。「出来たら冬の上高地へバスを走らせて欲しい」と言うかも知れない、いや、きっと言う。
 時代の移りとは、Nの台詞でさえ甘いのだ。夏、Bと北穂に登って居る時、引っ切り無しにヘリが来ては去って行く。涸沢に荷揚げをして居るのだ。すると一機のヘリが高度を上げ、休んで居た我々の真ん前へ来てホバリングする。
 あたしとBは立ち上がり「何だ、何だ」と驚く。当たり前ですよね、ヘリとお見合いだ。
 ヘリはくるっと向きを変え、涸沢に下り二人の客を下ろして去った。え、あの二人は荷揚げのヘリに便乗したんだ。
私「幾ら払ったんだ」
B「分からん」
私「幾らなら払う?」
B「払わん」
 Bはそういう奴だ。あたしゃあ払うよ!一万円なら。まあ絶対一万円じゃ乗せてくれないだろうけど。
私「今来たのは、登山者が居ますとか言って見せに来たんだな」
B「動物園の猿って事か」
 Bよ、悪く取るな。翌日あの二人が登るルートの下見を兼ねて居たのかも知れないぞ。
 今はスキーの世界でも、ヘリで上に行くのは当たり前で、あたしの様な旧人は、唯々驚くのみなのです。