2009年12月31日木曜日

クソ面倒な話 その十二

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 面倒な話の十一には作為が有って、何もアンドロメダ星雲を出す事は無く、もっと手近に銀河系内の話にすべきなのだが、分かり易くする為に、極端な例を上げました。
 太陽系に一番近い星は、ご存知のケンタウルス座アルファー、4,36光年の近さだ。残念乍ら文明は発見されて居ない。
 10光年以内に文明が存在する確立は、零では無い。20光年以内なら確率は上がる。
 20光年先の文明とコンタクトが取れたとしよう。メッセージの往復に四十年掛かるのは仕方無い。で、是非お目に掛かりたいとなったら、同じく世界中の大プロジェクトだ。現実に即して、亜光速は無理と設定する。
 何故無理なの?ロケットは反作用の原理で飛ぶので、何かを投げねばならない。其れを燃料と呼んで居る。燃料はガスとして噴射される。ガスは軽いものだが、質量×速度が作用するので、高速で噴射して推力を得る。ロケットの速度を上げるには大量の燃料を積まねばならず、するとロケットが大きく重くなり、更に大量の燃料を積む必要が……、なので、今の段階で亜光速は無理なのだ。
 従って、片道八十年位掛かるのかな。加速に掛けた時間は、きっちりと減速の時にも掛かるからで、さもなくば目的の横を凄まじい速度で通り過ぎて、ジャンジャンで有る。八十年も掛かればクルーはお亡くなりになっちまう。亜光速では無いので時間の経過には殆ど変化が無い為だ。
 又もや幽霊船。其れを避けるには多世代宇宙船を建造するしか無く、又しても超巨大最新技術の塊な船とならざるを得ない。さて、全世界のGNP位の予算かなあ、例に依って全くの山勘だけど。
 誰が計画推進を支持するだろう?
 人類は月に立ったのみだ。太陽系の規模で言えば、部屋の中で位置を変わった様なもの。理論上は、今の技術で火星へも行ける。但し、余りにも費用が掛かるので、何処もやらない(そしてリスクが大きいので)。
 太陽系内で此れなのだから、恒星間飛行なんざ夢の又夢。……夢が無い話ですなあ。
地球も何時か最後を迎える。其の日の為に人類脱出計画を考えるべきだ、と主張する科学者も居る。勿論全員は脱出不能、選ばれた極少数(比全人類)の人間が、宇宙船で新天地へ旅立つのだ。
 あたしゃあ其の考えには同感出来ない。地球の最後は皆の最期。一緒に死ぬのが最も自然な生き方(?)なのだ。人はやがて死ぬ、人類もやがて死ぬ。大自然の摂理で有る。ま、生有るものは必ず滅する、です。
 第一、 宙船で脱出したって、どうなるか分かったもんじゃ無い、と言うより、無限に宇宙を彷徨う幽霊船になるに決まって居る、と思って居るのです。
 年末に相応しくない話でした。良いお年をお迎え下さい。

2009年12月30日水曜日

閑話番外 その十六

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 面倒な話十一にアンドロメダ星雲の写真を載せたが、又もやパクッた物で、今後は此の手の写真(詰まり山以外)は全て盗品だと思って下さい(恥)(汗)(へん、悪いかよ)。
 居直る話では無く、アンドロメダ星雲に二つ付いて居る星雲の事で、面白くも我が銀河系と同じで、二つの星雲をお供に連れて居る。アンドロメダの大小マゼラン雲って事です。
 星雲とは面倒で、全部が(除アンドロメダ)銀河系内の星間ガスの事なので、こんがらがっちまうのだが、最近は小宇宙の事は星雲と言わずに、銀河と表現するので、混同はしなくなったのだ。
 詰まり我々も見る星やそれ以外の物は、全て銀河系内の物で、唯一の例外が隣の宇宙(正確には小宇宙)のアンドロメダ星雲なのです。
 目に見える、或いは小望遠鏡で見える物は多彩で、惑星、星、星雲、星団、彗星、Etc.ぜーんぶ、うちの宇宙。凄い話だなあ。
 うちの宇宙と同じクラスの小宇宙が、数千億とも知れず存在してるってえのは、何が何だか分からないのが、正直な処なんです。

2009年12月29日火曜日

休題 その三十

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 鳩山君を嫌って居る訳では無いが、あたしゃあ「朝三暮四内閣」と見て居る。取り合えず今が良くて、付けは明日回し、と言う事。
 でも、朝三暮四で喜ぶお猿さんは、我々国民なのだから、ま、仕方無いか。
 防衛費とスパコンについては語りたい。あたしには、命と引き換えでも守るべきものが有り、其の一つは国だ。
 言う人に言わせりゃ右翼で変態、キチガイおじさんなので(何処が?と思います。世界中の人間をキチガイおじさん扱いする訳?)、防衛費には触れないで置こう。
 さて、スパコンだが「世界一でなく世界二でも良いでしょう」と予算を切られた。馬鹿か?世界一を目指してやっと世界の水準に留まるもんなんだよ、技術ってえのは!
 じゃあ先生に伺うけど、小選挙区で二位を目指すのかい?分かってます、意味が違う。
 問題はスパコン本体では無い。開発技術が基礎体力となり、ICやPCに生きて来て、国際競争力を保持出来ると言う事なのだ。国際競争力なんざどうでも良いと思う貴方、日本に有る資源は技術だけだと、本当に知る必要が有るのです。
 スパコンについては、予算カットが撤回されて良かったが、他の科学予算はどうなんだろう?基礎研究は少なくとも内閣の任期中に利益を齎す事は無い。絶対無い!!
 基礎研究を疎かにする結果は、遙か先に表れる。今役に立たない事に力を注ぐ、国家百年の計で有る。植林と似てなくも無い。木を切って、今に生かすだけでは未来が無い。
 朝三暮四内閣には、当たり前だがそんな気は無いだろう。暫くは静観すべきで有ろう。取り合えず政権を握って舞い上がって居るのだろうから。
 手遅れにならないうちに、軌道修正が行われれば上等だ。ノーベル賞受賞者が先生(議員の事ですよ)に「貴方は歴史の審判に立つ覚悟が有るのですか?」と問い詰めたそうだが、全く同感!でも、先生に通じたかな?

2009年12月27日日曜日

閑話 その三十九

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 一期一会の無言の会話は、船窪小屋から始めたが其処は二泊目だったので、補足します。
 初日は朝の梓で信濃大町へ、扇沢でバスを棄て、針ノ木雪渓を登って針ノ木小屋泊まり。真夏の太陽を浴びて居ても、雪渓を歩き出すとヒヤーッとするのは、何処も同じで、雪渓上のみ薄いガスが流れるのも、楽しい風物なのです。天然の冷蔵庫ですなあ。
 小屋は混んで居たが、自炊の客は私と男(勝手に付けた呼称)のみ、自炊場で知り合った訳だ。其処から野口五郎小屋迄、前後し乍ら行ったのだ。
 ビールを飲んで居ると真っ暗(一寸とオーバー)になって、雷鳴が轟く。ソラ来た!と飛び出すと(軒の下です)水煙の上がる土砂降り、其れをビール片手に満足気に眺めるあたしは、一寸と変なのかも知れない。そうだって?否定はしません、何たって山の夕立は豪勢な見ものなのだから。第一、自分は濡れないし(実に身勝手です)。
 本文の通り、夏の午後は必ずと言って良い程此れが有る。行動中の諸君はあっと言う間にびしょ濡れ、気の毒です、はははは……。
 あたしゃあ、相変わらず酷い奴ですなあ。でも、貴方もきっと同じ思いを抱くと思います。違う?違わないって、同じ場所で同じ状況に有れば、そう思うでしょう(……多分)。
 翌朝も快晴。清清(すがすが)しい空気の中、先ず蓮華岳へ登る。此処は高山植物の女王と呼ばれるコマ草が多い。写真は其のコマ草なのだが、何せ腕が悪いので、女王の貫禄が感じられない。勿論、あたしの所為なので、乞ご容赦。
 ぼやけたバックの、一際高く目立つのが舟窪岳で、其処迄は心地よい稜線漫歩が楽しめる。でも、此の稜線へ踏み込む人はそう多くは無い。皆さん針ノ木峠へ戻って行く。従って其れ迄の小屋と比べれば、舟窪小屋は本当に小さな小屋なのだ。人が来ないんだもん。
 で、舟窪小屋に泊まった人も、殆どは其処から下って仕舞う。野口五郎へ向かう人は、とても珍しい存在だ。
 舟窪から右手に急角度で高度を落として居るのが、其の忘れられた(と言うより相手にされない)稜線なので、見ただけで、何かなあと思わされて仕舞う。写真の範囲外には、低い樹林に細かいアップダウンが続いて居て、其れが烏帽子に向かって再び高度をぐーんと上げて居るのだ。ね、嫌でしょう?
 併し其処が目的でやって来た、あたしと男は仕方が無い。泣き言は言わずに頑張るしか無いのだ。ま、好んでやって来た馬鹿も居る、ってパターンの見本です。
 小さな舟窪小屋はご家族で運営して居る、と見た。如何にもあたし好みの小屋です。主人夫婦と娘さんで有る。其の奥さんが、水が有るよ冷たいよ、とあたしに声を掛けた処から、話が始まったのだ。
 其れからは、本文通りなのでした。

2009年12月26日土曜日

柄でも無い事 その八

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 本文の「一期一会の無言の会話」の補足です。なに、あたしの登山スタイルについて書こうと思って。嫌?全く当然です!
 親父のズボンからニッカをでっち上げ、上着を貰い、と書いて有るのだが、親父は並外れた洒落者だったので、其のズボンも上着も半端な物では無かったのだ。バーバリーの上着(済みません、他のブランドも山程有ったんだが、あたしゃバーバリーしか知らない)だったと思う。
 従って、銀座虎屋(御存知ですよね?)のハンチングもガキの手に入るのだ。似合う似合わないは別にして。
 ふっふっふ、今テーマをゲロっちまったぜ。キチガイ水の成せる業、正気に戻って修正なんかしないで、勢いで行け健三郎!
 あたしゃあ親父(含むお袋)の子かと疑う程、洒落気が無いのは知ってる人は知って居るので、例えば腰にタオルを下げて電車で通勤して居るが、IT君に言わせれば「現場(げんじょう)作業員其の物だぞ」となるのだが、其の通りなので何の問題も無い。
 山は里とは違う。
 今の話にしよう。貴方があたしと山に行くので駅で落ち合うとしよう。地下足袋の作業服姿のあたしが現れる。ゲー!っと思う、普通は。現に皆さんそう言うし。
 でも違うんだよねー。山に入った瞬間あたしが良い男に見えるそうなのだ。不思議だ。昔の写真を見ても、山では自分が良い男に見える。家族でさえそう言うのだ。へっへっへ、書いて居て照れます。
 駄目だ、酔っては居ても此処迄図々しく恥知らず、謙譲の美徳なんざ薬にしたくとも無くなっちゃあ、人間はお終いだ!でも、当初の決心通り、修正はしないぞ(汗)(躊躇い)(再度決心)(汗)……。
 スタイルはホームレス派と自認して居るあたしは、もうヒッチャカメッチャカ、一度薄ベージュの作業ズボンで沢を登ったら、見事にズボンが泥塗れなのが一目瞭然、それで小田急に乗ったら段々混んで来るのだが、あたしの横は空いた侭。無理からぬ事で有る。
 若い頃に変な洒落っ気で変なスタイルで得々として居た事を書いたが、本当にそうで、ナーゲルの他にキャラバンシューズを愛用し、ボロボロになって裂けても履き続け、スリッパを引っ掛けるも同然の山登り。かと思うと霜柱の立つ大山へ素足の下駄で登り、寒さに震えるハイカー達を尻目に下って見せる。結構危ない奴だ。
 でも、相当来て居るのは自覚して居るので、ご安心下さい。自覚が有るうちは大丈夫です(多分)。
 当時は体力に自信が有ったので、何とか様になったが、自信を失った今じゃあ、真似も出来ないし様にもなりません(涙)。駄目だ駄目だ、お洒落の話は柄でも無い!!

2009年12月25日金曜日

一期一会の無言の会話 その四

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男「お!おじさん、ちゃんと着けて良かったな」
私「見損なうなよ、一緒に出ていれば一緒に着いてるよ」
男「どうだかね」
私「美味そうなもん食ってるな」
男「いや、急に食いたくなってさ」
私「はっはっは」
 そんなとこだろう。マイナーな所を船窪から来たのは二人だけというのが、変な連帯感を生んだのだと思う。男は槍へ向かう。私はブナ立尾根で下る。一期一会である。
 で、一期一会で無い場合の事。知り合いに会った事は何度も有るので、置いておく。夏山で赤石から下り、椹島の小屋で隣り合わせたパーティが有った。翌年の夏山でそのパーティに声を掛けられた。結構驚くものだ。
 冬の早川尾根を縦走した時、鳳凰で会った青年に、翌年の春の巻機山で出会った。これも驚いた。
 両方とも鍵は私の背負っていたキスリングだ。だって、当時でも背負っている人は珍しいんだもの。だから相手がこっちを見つけてくれる。山で出会った人と又会いたければ、旗を立てて歩くのが良いと思う。例えば「日本一」とか。次に会った時にも、相手が一発で分かるだろう。もっとも私は声を掛けないだろうけど。
 雪山でトレースをつけて進んでいると、向こうからパーティが来る。わー!うれしい!もうルートは確定するのだ。それにラッセルも不要になる。此処から先にはトレースが有るのだから。短い間に、それぞれの来たルートの情報を素早く交換し、あっさりと別れる。矢張り山は一期一会だ。
 藪をこいでいる時、そういう出会いが有っとしたら、下手すると抱き合って泣くかも知れない。もうこの先は縺れた篠竹を力任せにこじ開けなくて良いのだから。いや待って、ホームレス派のおじさんと抱き合って泣くのは、とてつもなく嫌だ。(あっちもそう言ってるよ!)
 幸いにもその経験は一度も無い。藪の中で物好き同士が出会うのは、多分地球軌道で、人工衛星の破片同士が出会うような確率なのだろう。人のうじゃうじゃ歩いている山は結構鬱陶しいし、人の全くいない山は好きだけど、矢張り、多少寂しくは感じる。面白いものだ。街に居れば山恋しい、山に入れば街恋しい。誰かの詩にあった。
 どこの山でも行き合う人が、イザという時の頼みの綱だ。え、地下足袋を履いたおじさんだって、あー、会ったよ、姫次で藪をくんくん嗅いでた変な人だろう。(ビンゴ!)
 そう、これで私は首尾良く助かるか、或いは、遺体を無事に発見して貰えるのだ。袖擦り合うも他生の縁(前述)、お互い登山者同士、さり気無く助け合いましょうね。

2009年12月23日水曜日

休題 その二十九

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 乱暴話のIT君が嬉しそうに言う。
IT「いやー、世の中には未だ良い人も居るもんだよ」
 突然何だ、夕べの酒が残ってるのか。
IT「電車に上等な背広の男が乗って来て、網棚にペットボトルと雑誌を置くのよ」
私「ほう」
IT「奴は座って新聞を読み出してさ、此れが嫌味ったらしく、バサッバサッと大きな音で新聞を折るのよ」
私「自己を顕示する行いね」
IT「そう。ムカムカしてたら奴が降りるんだ、網棚のゴミはその侭でさ」
私「最低じゃない」
IT「怒鳴ろうと思った瞬間、六十代の男性が声を掛けたんだ、貴方、忘れ物ですよ、ってさ」
私「へー」
IT「奴は其の男性を睨み付けたけど、ゴミは持って降りたよ。俺は嬉しくなって、其の男性と話し込んじゃった」
私「ほう」
 私は、へー、とか、ほー、としか言ってない。丸で阿保だが、乱暴事はIT君専門につき、仕方の無い事で有る。
 別の時のゴミの話。
IT「派手な学生のねーちゃんが座ったとたん、ジュースを飲んで菓子を食い出したんだ」
 シンガポールなら犯罪で有る。
IT「バリバリ喰い続けんだよ」
 派手に装って居るだけに、見っとも無い事夥しかったのだろう。
IT「駅に着いたら、座席をゴミだらけの侭降りるんだ」
 家はゴミ屋敷に決まって居る。IT「おい、忘れ物だよ!と言ったら、渋々持って行ったよ」
私「はっはっはっは」
 古来日本人を律して居たのは世間様で、人の目が怖い、此れが道徳のベースだった様だ。其の悪い部分が、旅の恥は掻き捨て。
 今は世間様は無い。人の目も無い。律するものが無い。崩壊しつつ有る社会のサンプルとしては、得難いものだ。ま、此れも経済が破綻して、本当の貧乏国になれば、自然と直るとあたしゃあ思ってるが、保証の限りでは無い。
 乱暴話のYNが言う。
YN「シルバーシートに寝そべってる若い奴が居たから、脚を掴んで引きずり落としてやったんだ」
 YNのやりそうな事だ。
YN「何すんだ!ってえから、あ?と見たら黙りやがった」
 見た、のでは無く、凄まじく睨んだ、が正解だっただろうと思う。いずれにせよ、何か当然の注意をするのも、簡単には出来ない。ITやYNの様に腕に覚えが必要だ。何でも話し合って解決と言う幻想が、此の現実を作った訳です。

2009年12月20日日曜日

一期一会の無言の会話 その三

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 針の木から前後して来た男(四十位、以下男と書く)は水場へ向かった。と、突然の夕立。突然とは言葉の彩なので、山中では二時を過ぎると、先ず夕立は来るのに決まっている。この日は一寸と早かっただけだ。激しい雨を見ながら一服つけていると、男がずぶ濡れで戻って来た。二人は思わず、目を合わせニヤッとした。以下は二人の口に出さないやり取り。
男「ひでえ目に会ったぜ、あんたラッキーだったな」
私「フン、お気の毒だったね。俺は年だから、楽させて貰うよ」
男「楽をした上に濡れもしない、歳は取りたいもんだ」
私「どうぞ、お取りなさい、はははは」
 此処船窪から烏帽子迄は、忘れられた山域だ。後立山縦走路と天下の裏銀座コースの間の、標高が低く樹林帯のガレっぽい、偉くマイナーな部分だ。訪れる人は極めて(其の前後のコースと比べ)少ない。
 私と男が明日其処を行くと知って喜んだ三人のパーティがいた。彼等は今日其処をやって来たのだ。彼等は雀躍(こおどり)りして言う。
A「そりゃあひどいからね」
男「そんなにひどい?」
B「路は悪いな、気をつけなよ」
私「でも、七時間コースだってじゃない」
C「あ、そんなの何のあてにもならない」
A「アップダウンがうるさいからね」
私「どの位かかったの?」
A「九時間位かな」
男「え!」
C「ペースはゆっくりだったけどね」
B「ゆっくりでなきゃ、無理だね」
男「……早立ちだな」
B「そうした方が良いね、悪い事は言わないからさ」
私と男の気持ち「言ってるじゃないか!」
 散々脅されて表で夕飯を食べて(私と男は自炊だった)いると、そのコースを学生が二人やって来る。もう薄暗くなっていた。二人はやっと小屋へ登って来る。
私「ご苦労さん、どうだった?」
男「道はきつかったかい」
学生「……良い修行になりました」
私・男「……」
もう一人の学生「着けて嬉しいっす」
 ヤバイ、修行の為に山に来ているのでは無いのだ。私と男は顔を見合わせた。翌朝、ライトの灯りで朝飯の支度をしていたら、男がヘッドライトを点け、飯も食わず出発して行く。あ、汚ねー、先を越された!
 慌ててラーメンを食べ、飛び出した。確かに良く無い路だったが、脅すだけ脅されていたお陰で其れ程の事もなく(と感じられた)、どうにか野口五郎小屋に着いた。男が小屋の前のベンチで、ミカンの缶詰をむしゃむしゃと食べている。目が合ってお互いにニヤッとした。以下は口に出さないやり取りだ。
 (一期一会の無言の会話 その四へ続く)

2009年12月19日土曜日

閑話 その三十八

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 前章の、“迷ったなんて認めたくない”で、秋の宝剣岳の紅葉(?)の話をしたが、写真を撮ってなかったのが如何にもあたしらしく、別の時の夏山の写真をオズオズと出す阿保さ加減は、いよー立派、と褒めたい程で有る。(自嘲)
 此の時は極楽平にザックを置き、宝剣をピストンして木曾殿越で幕営のつもりだった。
 朝一番の梓で出発したのだから、昼過ぎから行動を起こした訳で、既にセオリーに反して居るが、三昔近く前の事だから、若さに免じて大目に見よう。え、自分に甘いって?そうなんですよねえ。
 で、時間に限りが有るから飛ばした(飛ばせた、勿論今は駄目)。
 書きたくなかったけど(じゃあ書くな!)、書きましょう。本来山小屋を悪く言いたく無いのはあたしの本心なのだが、木曾殿越の小屋の親父の対応は、あの日だけだったのかも知れないが、良くなく感じた。
私「(ザックを降ろし)ゼーゼー、今日は」
親父「いらっしゃい、お疲れ様でしたね」
私「ゼーゼー、幕営なんですが」
親父「(急に冷たい声)幕営?ああ、あっちへ下って張りな」
私「(カチン!)……」
 で、ザックを背負って去った。幕営料三百円(当時)なんざ客じゃ無いってえのは理解可能だが、幸せな事に其れ迄そんな親父に会った事が無かった。
 山小屋も商売だ、ボランテアでは無い。でも登山者には同じ山の仲間だとの気持ちは常に感じられたし、感じさせられた。
 其れが感じられなかったので、カチン!となり、「上等だ、頼まれてもお前の所にテントなんざあ張ってやるかい、空木迄行ってやらあ」と思った訳で、若さ故です。
 短気は損気、其れから取り付いた夕昏迫る空木岳の登りは利いた。急峻なの。一歩一歩の高さが大きい。こりゃあ親父の尊大な態度も分かる、誰でも此の登りは敬遠するぞ、と思い知ったが勿論戻る気はないく、ゼーゼー登り切って、避難小屋へ下る時はフラフラ。
 本当は違反なんだが、避難小屋の横にテントを張った時は、暫く呆然と座り込んで居た。いやあ、本当に疲れたですよ。
 避難小屋に泊まる方が法に適って居る上楽なのだが、二パーティ居たし、テントを担いで来て使用しないのも業腹だったので。今ならそんな拘りは無い、さっぱり無い、薬にしたくとも無い!
 第一、 腹を立てて空木岳に取り付かない、いや、取り付けない。ルンルン歌って木曾殿越でテントを張る。親父がどうで有ろうと、絶対張る。そして、ビールを買って飲む。其れが大人だ。
 小屋の悪口になっちゃった(恥)。たった其の日だけで判断は出来ない。良い人なのかも知れない。多分そうだと思う。さもなきゃ小屋番はしないだろう。御免なさい(ぺこり)。

2009年12月18日金曜日

一期一会の無言の会話 その二

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☆どうでも良い派。
 構わないのがポリシーと思われる。多くはベテランクラスだろう。少なくは、その侭来てしまった人達。手ぶらで大倉尾根で喘いでいたり、手提げバックで、蛭ヶ岳はどっちですか?と言う。結構危ない人達だ。天気の急変が無ければ良いのだが。
 多くは(詰まり、少なくは、以外の人)行動が素早い。大体が余り愛想は良くない。愛想を振り撒く為に山に来ているのでは無いからだろう、と思われる。結構頼もしい感じがするタイプである。

☆ホームレス派。
 不適切な表現をお詫びします。差別したり馬鹿にしているのではなく、分かり易い表現をしたのです。何を隠そう、私がそのホームレス派だ(え、隠しようもないって?)。若き日の洒落っ気は今いずこ、ふん、さよならだけが人生さ。
 ずぶ濡れで寝たり、ガレ場を這いずったり、ツェルトで震えて暮らしたり、雨の斜面でドロドロになったり、ザレで滑ったり、汗が足元に滴り落ちたり、足を取られて転げ落ちたり、川に落ちたり、藪でズタズタになったり、ツタに絡まれて足掻いたり、そんな事を繰り返していて、気づいたらホームレス派になっていた。
  先ず汚いのが常態。どうせ汚くなっちまうのだから。洒落っ気は一切無用、そんなもの邪魔になるだけだ、生きて帰る事だけを考えろ!無駄は、文字通り無駄だ!!……思えば、偉くひどい世界ですなあ。潤いなんてかけらもない。そんな世界に好んで入る馬鹿もいる。モロに掛け値なしの好事家って事です。
 リュックにカップをぶら下げている人が、結構多い。私が見てもなかなか良いものである。ステンかチタニウムのカップが欲しいと思ってしまう。併し其の様な贅沢は、ホームレス派には有り得ない。藪から出たら、当然無くなっている。
 藪は何でも巻き上げる。表にぶら下げている物なぞイの一番だ。腕時計すら巻き上げられる。Yは、ポケットに入れてたレーバンのサングラスも取られた。
 私の本心は、カッコマン、成りたくって成りきれない、それが悩みの種だ。

 柄に合わない事を書いてしまった。(汗)
 行き会う登山者は一期一会である。(違う例は後で)
 夏山の船窪小屋に着いた。水を汲みに行こうとすると、小屋の女将さんが「汲みたての水が有ります、冷たいよ」と言う。畜生、登山者の心理を読み抜いていやがる。悔しいが、喜んで買いました。
 (一期一会の無言の会話 その三へ続く)

2009年12月14日月曜日

閑話番外 その十五

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 年末が近づいた。で、気付いたのだが、此の絶海の孤島「丹沢と共に」は丸一年掲載が続いたのだ。
 初めての掲載、「始めに」は二十年十一月三十日、此れはA君が加工してくれて、表題の一部「初めまして」となって居る。登山靴のイラストの付いたあれで有る。
 一年とは長い様でも有り、短くも有る。

 本当に少数の方が、覗きに来てくれたお陰様で、掲載を続けられました。改めて厚くお礼申し上げます。
 歳が改まっても、あたしの駄文は相変わらずに決まって居るので、呆れ返らないで下さったら、幸甚此の上無しなので有ります。

           健三郎拝

2009年12月13日日曜日

クソ面倒な話 その十一

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 銀河系宇宙と一言で言うが、途轍も無く巨大なもので、差し渡しが20万光年、1千億から2千億の恒星が集まって居る。恒星の数に幅が有るのは、中心部がガスの為精密に観測出来ない所為らしい。
 銀河系宇宙は単独で存在して居るのではない。小さな星団を二つお供に連れて居る。大マゼラン雲と小マゼラン雲で、夫々10万程度の恒星の集まりだが、残念ながら北半球からは見えない。
 肉眼で見える最も遠いものは、ご存知のアンドロメダ星雲、200万光年先の直ぐお隣さん銀河だ。うちの銀河とアンドロメダ星雲でペアーを成して居る。他に星の数程有る銀河達は、レンズやアンテナの力を借りなければ見る事は出来ないのだ。遥かに離れて仕舞って、我々ペアーは虚空にぽつんと存在して居るかに思える程だ。
 アンドロメダ星雲の一つの文明とコンタクトが取れたとしましょう。なんてったってお隣さんなんだからさ。何かの問い合わせを受けて答えを発信する。
「はい、其の回答は添付ファイルをご覧下さい。ADOBEリーダーが必要です。地球では一同、お会い出来る日を楽しみに致しております」
 其のメッセージは、相手に200万年たって届く。誰が覚えて居るのだろう?或いは、今更200万年前の回答が、何の役に立つのだろう?第一、其の文明は存在を続けて居るのだろか?
 はなから話が違うのは、地球がメッセージを受けた時点で、既に200万年前のメッセージなので、相手はもう存在して居ない文明の確率が高いと言うより、マトモに考えれば、存在してない!
 「お会い出来る日を楽しみに致しております」なんて、空虚な挨拶と言う以外に無い。お会い出来るなんてこたあ、有り得ない!!
 もしもお会いしたいと全地球で決定したら、壮大なプロジェクトとなる。現在より遥か進んだ技術が有ったとして、片道300万年はたっぷり掛ける訳だから、壮大な宇宙船が必要だ。実際は亜光速で進むので時間の経過は遅れるから、10万年の旅位に相当するだろう、多分。そんな面倒計算はあたしゃ出来ないから、単なる山勘だけどね。
 でも10万年。大勢が乗り込み、生存し、子供を生み、死に、子供が子供を生み、死に、人類が文明を造り始めてから現在への時間の三十倍の時を宇宙船で過ごすのだから、確り考えれば間違い無く全員が死に絶える。超巨大な幽霊船が宇宙を走り続ける訳で、完璧なあたし好みのユーモアです。
 宇宙人からのメッセージを探し続けて居るが、同時に発生した文明では交信不能。時間差が有っても確率的に、今其れを捉えるのは、広大な砂漠で落とした小さなルビーを見つける様なものだと、あたしは思って居ます。

2009年12月12日土曜日

一期一会の無言の会話 その一

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 山には色々な人がいる。目に付くのは、矢張り中高年の登山者だ。たまに大学のパーティと擦れ違ったりすると、嬉しくて思わず見送ってしまう程だ。ま、七割強は中高年でしょう。若い人よ、山は良いですぞ!
 スカート姿の女性を塔ノ嶽で見かけた事が有った。ロングスカートの洒落た人だった。昔の山の写真では、良くスカート姿の女性が写っている。男性はチョッキを着込み、パイプを銜えてハンチング姿がパターンだ。従って違和感は全然感じられず、とても素敵に思えた。
 否応なしにスカートで登らされた例も有る。私が高校を卒業した年、クラブの後輩達がハイキングに行った。何処に行ったのと聞くと、表尾根だと言う。私は怒った。山登りじゃないか、装備はちゃんとしてたんだろうな!
 飛んでも御座いません。そこらの散策感覚で、数人の女生徒は制服姿だった。箱襞スカートにブレザーが制服だ。うちの高校は何で制服で山に行くのが好きなんだろう。
 可哀相に、行者の鎖もスカートで降りたのだ。靴だって普通の通学靴に決まっている。整備されていない時代の大倉尾根だ、下るのも大変だっただろう。滑ったり、転んだりして苦労したのだろう。
 ま、こんな先輩だからそんな後輩になってしまうのだろう。気の毒な制服の女生徒達よ。
 パイプの事だが、私が二十そこそこのガキの頃の話だ。大分恥ずかしい。セピア色の写真の真似をして、父のズボンを切ってニッカズボンをでっち上げ、父のウールの上着と銀座虎屋のハンチングを貰い、気取って着込んでいた。おまけに、パイプまで銜えていたのだ。(汗)
 かと思うと、短パンに網シャツ、その上に赤いチョッキだけをはおり、キスリングを背負って山を歩いていた(汗)。本人はかっこいい!と思っていたのだ。若いから何とかなったのだろう。今の私なら完璧な、危ないおじさんだ。ガキの頃は(本人なりに)お洒落だったんですなあ。自分で驚いた。私を知る人も、のけぞって驚くだろう。
 ついでだ、勢いで山のファッションに触れよう(とうとう気が触れたか!)

☆お洒落派。
 多くは最新の服装、装備で固めている。最新でなくても、さり気無く着こなしている。お洒落派の良い処は、見る人に不快感を与えない。ただ、山馴れない人は、どうしても身に着いていないので、一寸と浮くが、それも時間の問題で、直ぐ身に着くようになるものなのです。
 Sは最新ファッション派だ。何時でも最新装備を持って来る。着て来る。残念な事にそれが似合うのだ。中高年の登山者達にもお洒落派が、意外と多い(意外じゃないかも)。ばりっとして、元気に山歩きをしている。とても良い事だと、応援していますからね。(え、私の応援なんて迷惑だって?)
 (一期一会の無言の会話 その二へ続く)

2009年12月11日金曜日

閑話番外 その十四

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 何とも詰まらない写真を載せたのは、滅多に見る事の無いアングルだからなので、椿丸付近からの展望。
 流石の大野君の地図でも、空白地帯になって居るので、参考迄に、と言う事です。
 右の目立つ山は世附権現山。こう見ると中々立派な山では有る。

2009年12月8日火曜日

柄でも無い事 その七

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 岡山へも仕事で良く行った。岡山と言えば備前焼。駅の案内所で良い店は何処かと聞いら素備庵と言う店を紹介してくれた。駅から割と近いのも、其の理由だと思う。
 無用な心配だが一応断っておくが、宣伝じゃ無いですよ。以下はあたしの感じた侭で、一銭も貰ってません。これでOKだろうか。
 素備庵に一歩入って驚いた。デパートや土産売り場で備前焼は結構見たが、其れとは別の物が広くも無い店内にぎっしりと並んで居る。え、今迄見て来たあれは何だったんだ?
 同じ色合い、同じ感触、同じ雰囲気、火襷や牡丹餅は有るんだが、形は違えど皆同じ。一発で分かった。粗製乱造(失礼)備前焼だったんだ。ガス窯か電気窯でどんどん造る、従って皆同じ雰囲気。あたしにさえ分かるんだから、多くの人にも分かって、備前焼ったって、大した物じゃ無いなあ、と思われて仕舞っても無理からぬ。強いて言えば県知事の責任で、備前焼とは斯様な物と定むると、明確にすべきだ。偽者(失礼)を備前焼と思われて、岡山県にとっても良い筈は無い。
 素備庵に無造作に並んで居る品物は、デパートならば美術品売り場にしか無い物ばかり。値段は其れよりかは安いが、土産物屋とは桁が違う。どう見ても尤もなので、ビニールのカッパとゴアの雨具とは桁が違うに決まって居る。
 素備庵の主人は語る。熱く語る。
「松の木で焼くんです。そうしなければ備前本来の味は出せない」
 そうなんだ。知らなかった。
「名前が通って居るからどう、では無い。作品が良いか悪いか。皆さん、有名作家を追い求めますが、笑止!」
 うーむ、同感だ。
「私は真面目に備前焼に取り組む作家を応援します。アドバイスは惜しみません」
 そうでしょとも!元は、熱血高校教師で有った由、備前焼に魅せられて店を開いたとの事。今では備前焼の講師も勤めれば、若い作家の指導もする。あたしも何度も通って指導(?)を受けたが、そのような人は岡山県の宝、否、日本の宝です。
 あたしが力んでも意味が無い。
 素備庵以外で備前焼を買う気が無くなったのは、幸なのか不幸なのか。ま、今となりゃあ不幸で、もう岡山には行く事も無いから、備前焼が買えなくなっちまった。尤も金が無いから、どっちにしろ買えないので、幸だったとも言えますなあ。
 愚痴は置いといて、あの無骨で地味で変哲も無く見える備前が、夫々の色合い、個性、色気を感じる事が出来る様になったのは、素備庵のお陰で有る。
 備前が地味だ?フッフッフ、良い物を見て無いね。美術品売り場でも美術館でも、確り見て歩いて見なさい(え、地味なんて言って無い,自分が書いたんだって?失礼!)。備前もお薦めです!!

2009年12月6日日曜日

閑話 その三十七

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 高山帯の定義は日本と外国では異なって居る様だ。日本では這松帯からを高山帯とするが、外国では樹木が無くなる地点からをそう定義する。従って這松が生えて居るなら高山帯では無い。
 其の這松だが、北東アジア特有の植物で、植域が長い舌の様にベロンと南に延びて居るのが日本列島で有り、其の最南端が南アの光岳(てかりだけ)だ。詰まり世界の這松最南端と言う事。
 全く知らなかったのだが、日本の高山帯は世界に例の無い多様性が有るそうで、分かり易く言うと、箱庭的風景の様だ。
 岩と岩屑とお花畑と這松と残雪、極当たり前と思って見て居たが、外国の山は岩なら岩のみ、花は極珍しく、雪田も存在せず氷河になって仕舞う。植生も単純で高度に合わせて同じ種類の植物で埋められる、と本で読んだ。
 ふーん、そうだったんだ、其れも山の景観を生涯の研究テーマに選んだ変わり者の(失礼)学者が居てくれたお陰で、知る事が出来た訳で、其の先生は仲間や先生からも偉く変わり者扱いをされたそうだ。併しそう言う総合的見地に立った研究は素敵です。
 何で多彩な風景が構成されたかと言うと、日本の山は、世界一の強風帯と世界一の豪雪帯で、其の作用だそうだ。知らなかった。豪雪帯は知って居たが、強風だったんだ。確かに冬の硫黄岳通過這うしかなかった。
 で、這松だが、厳冬期には雪の下に埋もれてなければ、厳しい寒気と強風の為生存出来ず、寒気が緩めば直ぐ雪が融けて日光を受けられる環境が必要だそうだ。這松帯とはそう言う所だったんだ。
 因みに這松は1m成長するのに三十年掛かる筈だが、頑張って下さいね。
 お花畑は岩屑帯(専門用語が有るだろうが、知らない)に展開して、種々の花々が咲き乱れる。此れも外国には無いのか……。殺風景ですなあ。日本に住んで居て良かった。あのお花畑の見事さ、妻にも見せて上げたいのだが、未だ機会が無い。北岳にでも連れて行けば良いのです。
 南北中央アルプスでは、最近良く外国人登山者を見掛ける。わざわざ登山の為に来日したのか、と聞いた事は無いので、日本に居住して居る人が大部分だろうと思って居るが、中には珍しい日本独特の高山帯を訪ねて来た人も居るかも知れない。今度聞いて見よう(どうやって?身振りでかい)。
 結論、そんな良い山を登って居たとは全く知らなかったので、感謝して山登りに励みましょう。

2009年12月4日金曜日

休題 その二十八

無題

 

 我が家の紋所は丸に一引き。分からない?丸に十の字は薩摩の島津の紋所で、十が一になったと思って下さい。
 両方共源氏の紋で、我が家も源氏なんだが、先祖は渡辺の綱(と言われて居る)、羅生門で鬼の腕を切った、頼公四天王の一人と言えば分かる人も居るだろう。頼公とは源頼光で、四天王で有名なのは坂田の金時、俗に言う足柄山の金太郎で有る。
 文化を大切にしないと、国民同士で話が通じなくなる。英語を教えるより国語を教えるのがマトモな考えで、今の風潮はマトモでは無いって事?そうだ!英語は必要なら使える様になる、戦後の売春婦を見ろ(古くて分からない?学校は何を教えてんだ!)。
 乱暴な話で失礼。でも幕末の侍達が欧米に行ったが、言葉なんざ全然分からんでも偉く尊敬された。心掛け、覚悟、使命感、誇り!全部今は意味の無い(或いは薄い)事柄になっちまって、自分の国も知らなきゃ、相手の国の文化も歴史も知らねえ、言葉だけは出来る、って事は戦後のパンパンを大量に創りたいのかよ!!!
 あ、又もや失礼!常の如く酔って居るんで済みません、話を戻します。
 源氏と言っても傍系の又傍系、渡辺と名乗って居たのは渡辺の荘を領して居たので、今の大阪市だ。大塚と名乗ったのは、其の渡辺の綱の傍系の傍系が、どっかの大塚荘にでも住み着いたからだろう。
 我が家の話はどうでも良くて、総本家源氏の事。
 直系は八幡太郎義家の家系だが、頼朝の孫の代で途絶えたので、義家の弟の新羅三郎義光の家系が跡を継ぎ、其の直系が甲斐の武田家なのだ。傍系としては島津、南部、小笠原と多彩で有る。詰まり武田信玄は源氏の統領なので、当然乍ら天下を治める使命が有ると思って居たのだろうとは、当然思い当たる。でも、あくまで私見です。
 信長が天下を目指して居たと偶に読むが、多分、美濃、伊勢、近江を手に入れた頃からチラッと思い始めた、と考えるのが正解ではないかと思う。其れでも未だ周囲は強敵だらけだった訳なので、浅井、朝倉を滅ぼす迄は夢想の状況で有る。
 一方信玄は、本気で京に登り天下を平定する気だった様だ。唯、上杉謙信が居たもので、常に彼を牽制する策を打たねばならず、苦労です。謙信公はご承知の通り、自ら毘沙門天の生まれ変われと信じて居た戦の天才なので、信玄も頭が痛い話で有る。
 前述だが、労咳の身では残り時間が少ない。労咳なのでデップリ太っては居ない。従って有名な信玄の肖像画は間違いなのだ。
 やっと、謙信を動けなくし、信長も多方面に兵力を割かざるを得なくして(なまじな戦略家では無い)、三万近い軍勢で京を目指す途次に病没し、無念とあたしは思うのです。

2009年12月2日水曜日

閑話 その三十六

 相応しい写真、イラストが無いので失礼。
 前の本棚には“風雪のビバーク”が有った。松涛明氏の登山記録を其の侭製本したものだ。此の本を著名なものにしたのは、遭難死の直前に書き綴った文章だ。
 彼は冬の北鎌尾根をアタック中、友人の故障の為に行動出来ず共に死を迎える。加藤文太郎の最期に通じる。場所も同じ北鎌尾根なのだ。
 辛くて読めない。でもご遺族の許可も得ずに引用したいと思います。ものぐさで御免なさい。

 一月六日 フーセツ
全身硬ッテ力ナシ
何トカ湯俣迄ト思ウモ
有元ヲ捨テルニシノビズ、
死ヲ決す
オカアサン
 アナタノヤサシサニ
 タダカンシャ、一アシ
 先ニオトウサンノ
 所ヘ行キマス。
 何ノコーヨウモ出
 来ズ死ヌツミヲ
 オユルシ下サイ
 …………
 サイゴマデ
 タタカウモイノチ、
 友ノ辺ニ
 スツルモイノチ、
共ニユク
 …………
我々ガ死ンデ
 死ガイハ水ニトケ、
ヤガテ海ニ入リ、
魚ヲ肥ヤシ、又
人ノ身体ヲ作る
 個人ハカリノ姿
 グルグルマワル

 鉛筆は指で持つ事は出来なかっただろう。手で握って書いたのだろうと思われる。
 昭和二十三年の事だ。あたしが満一歳。本文や閑話と重複するが、何度でも書く。今なら無事に有元氏と共に、お母さんの待つ家へ帰れただろう。
 当時の装備はコットンなので、何日か続いた雨(!)でテントもツェルトも凍って使用不能、雪洞暮らしとなるのだが、急峻な岩稜で雪洞を掘る場所は殆ど無いので、最悪の事態を迎えるのだが、今ならテントもツェルトも表面しか凍らないので、充分使用可能だ。
 決定打はラジュース(石油を焚くホエブス)の故障らしいが、今ならガスなので、故障は考えられない。従って二人共無事だ。そうだったらどんなにお母さんが喜んだだろう。
 六十年前の山登りは、本当の冒険だった。くどいが、装備は格段に良くなっても大自然は変わらない。お互い親を泣かさない様にしましょう(あたしには親は無しだけど)。