2023年6月28日水曜日

閑話 その四百十一


  Yと堀山で幕営して来た。又堀山か、バカ!とのお気持ちは分るですよ。一つここは堪えてやって下さい。二人共良い歳になったんで。

 十四時堀山待ち合わせ、こりゃゆっくりで良いなと、十二時三十五分のバスに乗り込む時に気付いた。閉まった、大倉出発が十一時五十分位だ、泊りの荷物を背負って一時間一寸とで堀山に着けっこない、え~ん、一時間の勘違いをしちゃったよお。

 何時もなら荷物があるからゆっくりと、なのだが、今回は一時間間違えたので急いだ。とは言っても情けなくも急げない。気持ちだけは急いで、できる範囲で歩度を伸ばす。

 はーはー言い乍らシークレット幕営地に着くと、Yはグランドシートを広げてる処だった。十五分前に着いたとの事で、蒸されて蒸されて、途中二回も休んで駒留小屋の手前でつったと。偉く苦労をした様子だ。あたしが一時間間違えて丁度良くなったって訳だ。

 そう言えば蒸した。梅雨の合間だから当然ですな。あたしも焦ってる所為もあるが、汗がぽたぽた落ちた。汗かきのYはさぞや酷い汗だったのだろう。テントに入っても、一寸と動くと「つった」と痛がっている。本格的なつりではないのが救いである。あたしはつりはしなかったが、疲れた。多少でもピッチを上げると響きますなあ。

 曇天だったが日が差して来た。上の写真がそれ。蒸し暑さは日暮れ迄続いた。日暮れからは一気に涼しくなった。低いとは言え山の中だ。網シャツで夏用シェラフに入っていたので、セーターを着込んだ。うつらうつらしていると、Yもシャツを着込み始めた。そこから恒例の夜中(?)の宴会だ。翌日は下るだけだから、遠慮なく飲めて嬉しい。

 翌朝は雨だったが、撤収時には上がった。こんな日なのに結構登って来る。皆さん塔を目指すのだ。偉いなあ。こちとら堀山泊りだよ。何時の日か、塔に挑戦ですよ。

2023年6月25日日曜日

休題 その四百七十九


  ネットフリックス製作のテレビシリーズ「クイーンズ・ギャンビット」が高評価なので見た。全七話に上手く纏められていて、テレビドラマ特有の引き延ばしがないのが良い。

 クイーンズ・ギャンビットとはチェスの定石の名前で、将棋で言えば棒銀とか中飛車の様な命名だろう。あたしはチェスを知らないので将棋の様なもんだろうと思っているが、ルールを知らなくても大丈夫、充分面白い事請け合います。お前の請け合いじゃ当てにならないってえのも承知してますってw

 孤児院の女の子がチェスの天才だったって話。変な陰謀や、やけに絡む悪役や、思い違い擦れ違い、あたしの嫌う人間関係の葛藤があっさりと描かれているのがとても良い。

 実に嫌な奴や変な奴をテレビも映画も描きたがるが、チェスの勝負の世界ではそんな存在は邪魔なだけだ。尤も、一番変な奴は主人公なのだが。アルコールや薬物依存症寸前、下手すりゃ廃人まっしぐらw

 多少男女の問題や、養父との軋轢もあるが、そんなのは一寸としたエピソード扱い。チェスばかりやってちゃ客が逃げ散るだろうから、これは仕方ない。

 サポートする人も腹に一物あって、とかのうんざり系ではなく、素直にサポートしてくれる。素直じゃないのは主人公のみw

 天才少女が頭角を現すにつれ、ファッションも華麗になって行く。あたしはファッションに疎いので語らない方が良いだろう。でも視聴者の間では話題になった様である。確かに変な女の子がどんどん美人になって行く。

 ネタバレっぽいが、最期の大試合の時に仲間達(と呼んで良いのかな?かっての対戦相手です)が封じ手の後に、国際電話でアドバイスを送る、圧巻のシーンである。

 試合では常に礼儀正しく、相手を重んじる姿勢をお互いに取る。試合なんだからそうでなくっちゃさあ。この映画の清々しい後味はそこからも来ているかもです。

2023年6月22日木曜日

クソ面倒な話 その九十九


  前章の続き、飯山陽氏の指摘する次の問題。

 LGBTを認めない。コーランで禁じられているので、同性愛に死刑(!)を科す国が九ヵ国ある。犯罪と規定している国は約七十ヵ国、LGBT推進の諸君、どうしますかね。イランに後込んで主張されては如何かな?

 〇女性の価値は男性の半分。これもコーランに明記されている。従って妻は夫に絶対に服従しなければならず、従わない妻はこれを殴れ、あ、コーランのっ言葉ですよ、あたしじゃないですからね。フェミニストの皆さん、聞き捨てならんのじゃないですか?

 あと七つあるがこんなとこで宜しかろう。価値観が日本を含む自由主義諸国とは異なるのだ。「平和」の意味もイスラム教では「全世界がイスラム教に帰依した状態を指す言葉だ。話せば分かる話ではない。絶対的真理に異を唱えても、絶対に聞き入れられない。コーランは神の言葉なのだから。

 飯山氏はイスラム教を攻撃しているのではない。正確にイスラム教を理解しようとしている。矛先は日本のイスラム学会に向いている。反体制的でイスラム好きでイスラム擁護派、さもなければポストや予算は認められない。学問の自由言論の自由は封殺されており、為に日本のイスラム研究は不毛だと嘆く。

 そればかりではない、イスラム研究主流派からは”差別主義者””この女は研究者としての資質がない””無教養丸出し”等々のレッテル貼りをされ、論旨については言及される事はなくひたすら人格攻撃をされる。このやり方は、理に悖る者の常套手段である。

 敢えて近代文明諸国と言うが、それらの国とイスラム教とは全く異なる価値観をゆうしている。善悪ではなく事実である。これらの価値観を大多数のイスラム教徒が認めているのも事実なのだ。

 異なる存在イスラム教、どう付き合って行くべきかを、飯山氏は模索しているのです。