2012年5月29日火曜日

閑話番外 その六十三





 久し振りに震生湖と渋沢丘陵へ行って来た。新婚旅行以来だから、三十五年振り(!)だ。渋沢丘陵からは、常に表丹沢が一望のつもりだったが、樹木の為視界が無く、所々展望が開けるのだ。思い込みとは、凄いですなあ。
 上の写真は権現山、奥の弘法山は陰になって、写って居ない。S、Kと登った山だ。
 妻が腰の痛みから始まり、背中や彼方此方が痛んで仕舞って、山には登れない。二年以上たつ。少しずつ良くはなって居る。で、リハの為権現山に今年二度登ったのだ。権現山ったってご覧の通り、丘んごたある低山で有る。
 まあまあ歩けたので、もう一度行って支障が無ければ(翌日膝が痛んだりするので)、あたしが三度も登った高取山へ連れて行こうと思って居る。其の高取山が下の写真だ。




 此処が無事出来たら、何度か登れば直るんじゃないかと思って居る。山の気を胸一杯吸えば、きっと直ると信じて居る。
 直って貰わないと、山で二人で弁当を食べてコーヒーを沸かし、ついでに酒迄飲む楽しみが、出来ない。今回の様に一人で弁当を広げても、ちっとも楽しく無い。
 頼むから早く直ってね。え、一番直りたいのは本人だって?それは失礼しました!

2012年5月27日日曜日

柄でも無い事 その三十六



 柄でも無い事三十五の続きになっちまうけど、焼き物好きな奴が、知人に自分の持って居る焼き物を気に居られると、物凄く嬉しい。自分の感性(オーバーですかね)を理解する感性を持って居る人なんだから!!
 金持ちの話。此の器が気に入ったので、貰いたい、と言われたとする。言われた方は困ると同時に嬉しい。自分が気に入った物を、良さが分かったな!!畜生、其処迄言うなら、くれてやる。持ってけ泥棒!!となるらしい。
 其の気持ちは、よっく分かって仕舞う。貧乏人の癖にだ。ま、焼き物の究極に関しては、貧乏も金持ちも関係無いってこってしょう。但し貧乏だと、本物の焼き物に出会う機会が少ないって事なんでしょうなあ。
 処で本物の焼き物って何さ。偽者の焼き物って有るの、例えば焼き物に見える紙の器とか。表現を間違えてます。上質の焼き物と言うべきなのだ。柿右衛門の偽物ってえのも本物じゃあ無いが、少なくともあたしには何の関係も無い(資金的に?ああ、そうだよ!)。
 前述だろうけど、焼き物は作者で決まるとは思って居ない。そりゃあ加藤唐九郎の器は素敵だろうが、中には其れ程でも無い物も有るだろう。え、彼は不出来な物は割っちゃうって?喩えが悪かったか。
 人間国宝を出したのが、間違いだった。普通、名前で評価する。従って箱書きを(品物よりも)大事にする。本末転倒で有る。良い焼き物が良いので有って、決して箱が良いのでは無い。
 無名の作者の名品も有れば、高名な作者の駄作も、たまには有るだろう。あと、使う人の好き好きも有る。
 従って、自分が気に入った物が良い物なので、誰の作でも関係無い。あたしゃあ箱は皆棄てちまって、中身を並べて有る。前述でした、失礼!いやさ、酔った年寄りは同じ事を繰り返すのですよ。スンマヘンなあ。

2012年5月24日木曜日

ハイクへのお誘い その十一




 写真は牧場の向こうの檜洞丸、蛭ヶ岳、不動ノ峰、外で有る。此処からは遥かに遠い山々です。
 ピークを真直ぐ横切ると、谷峨方面の道標が有る。其れに従って左に下る。道は整備万全、道標完備、トイレも山頂直下と登山道途中に完備、如何に多くの人が訪れるかが分かる。あたしが山頂に着いた時は人っ子一人居なかったが、時間が時間だったからだろう。
 写真は谷峨への道。良い道でしょう。




 どんどん麓に下って行く。必要な場所にはちゃんと道標が有るので、迷う事は無い。見晴らしも良く非常に心地良い。尤も、膝の痛みが無ければなのだが、其れはこっちの都合で、皆さんには無関係だ。
 前章の権現山の時、二本杉峠間近でチャイムが微かに聞こえた。鉄道唱歌だった。丹沢の山の中で何で鉄道唱歌?此の章で谷峨に向かって居る時もチャイムが鳴った。矢張り鉄道唱歌だった。
 やっと気付いた。谷峨や山北はJR東海の御殿場線で、ローカル線扱いされて居る(現にモロにローカル線だし)。併し思い返して見れば、前述だが、丹那トンネルが開通する迄は御殿場線が東海道本線だったのだ。従って駅舎も立派で有る。
 其の誇りを、足柄上郡山北町は忘れて居なかったのだろう。当て推量だけど、多分当って居ると思う。当たって居たら、山北町に敬意を表します。




 里に近づくと菜の花畑が有る。昔は丹沢の麓は何処でも菜の花畑だった(と記憶して居
る)。残念な事に、最近はまれにしか見なくなって仕舞った。
 駅に着くには川を渡らねばならない。昔はゆさゆさ揺れる吊り橋だった。今回は立派な橋になって居た。橋を渡れば畑の中の道、道標に従って行くと、最後の登りの車も通る大跨線橋で国道246号とJRを越える。橋の上から左に谷峨駅が見える。
 ご苦労様でした。此れで目的地に到着です。谷峨は無人駅なので、下車駅で運賃は払う事になります。
 あたしの場合は、列車を四十分程待ったので、持参した缶チューハイを飲み乍ら、駅前に咲く足柄桜を楽しんで居ました。早咲きの河津桜は知って居ても、同じ早咲きの足柄桜を知ったのは最近で、己の不明を恥じるのだが、酒が美味い事に変わりは無いのです。
 大野山の変わった(今は変わって無いのかも知れない)登り方でした。良かったら、一度お試し下さい。

2012年5月22日火曜日

閑話 その八十二



 イラストも背負子についても、閑話九で書いたのだが、歳取ってボケかけて居るので(実は惚けてる!)、同じ事の繰り返し、ご容赦!
 ご覧の通りの背負子で有る。しかもごっついアルミ製で、其れだけで結構重い。でも、此のタイプ以前は木製だったのだから、画期的なニュータイプと言えるだろう。
 アルミのフレームに縄を巻きつけて、背負子を構成して居るのが凄ざまじい。今なら、悪くても丈夫な布で有ろう。
 背負子の長所は、不定形の物を括り付けて背負える事だ。鍋割山から下って居る時、荷揚げと擦違った、彼は背負子にPCを括って居た、成る程、どうしてもPCはザックには収まらない。
 勿論、其の時の背負子は、今風の合理的な物で有る。如何にも丈夫で軽そうだ。イラストの様な40年近く前の物とは、全く違う。
 で、話は其の40年近く前の物の事。よく使った。当時あたしは、キスリング(超特大)と、小さいリュックしか持って居なかった。小屋泊りの一泊ではキスリングは大き過ぎる。小さなリュックでは足りない。そこで背負子の出番となる。
 八百屋で貰ったミカンのダンボールを括って、何でも放り込む。パッキンの苦労も無い。何でもOKだが、泣き所はダンボールが雨に弱い事。其れでも、一泊位なら何とかもった。
 一本立てよう、と大昔は言った。休憩しようと言う意味。杖を背負子に宛がって立った侭休むのだ。背負子を一々降ろしたり、背負ったりするのは、不安定なだけに大変なのだ。
 まあ、背負子でなければならない局面も有ったが、今思うとザックでも良い事も多かった。大鍋を括った時は、確かに役立った。
 外は、背負子の出番でも無かったかも知れない。詰まり、あたしが好きで背負子を背負って居たのだ。格好良いと思って居たのだ(汗)。でも、今でも其の気持ちは分かる。試しに背負子を背負って御覧なさい(え、嫌?)、貴方も直ぐに分かりますよ!

2012年5月19日土曜日

ハイクへのお誘い その十




 写真は、稜線から見た丹沢湖のダムで有る。こんな詰まらない物を載せるなって?失礼しました!
 此の丹沢湖からのコースは、四月二日に歩いて下調べをしたのだ。そう、権現山と同じ日だ。権現山から下って、「ビール!」と喉迄出掛かって居るのを、拳を握り締めて堪えて蕎麦だけ頼み、つつーっとかっこんで飛び出して、又山に取り付いたの(涙)。従って、「大野山へ6.6kmと有って、一寸とがっくりする」、と書いた訳だ。写真の景色が不鮮明なのは午後だった所為で、ご容赦下さい。膝を痛めての初めてのロングコース(?)だったので一寸と心配だったが、ちゃんと下りで膝が痛んだので、未だ立派に故障中と言う事なのが分かって、良かった、とても良かった……。
 さて、分岐点から右へは軽いアップダウンを繰り返して行く。特に迷う所も危険な所も無い。左右の景色を楽しみ乍ら歩ける稜線で有る。やがて左に林道が現れ、暫く平行して歩いて、林道に合流する。
 其れからは林道歩きで有る。丹沢湖から登っても、林道歩きは付いて来る。此れは大野山が牧場になって居る為、頂上迄車道を通して有るからで、致し方ない処なのだ。
 其れでも此のコースの方が、ザレっぽかったり藪っぽかったり細かいアップダウンが煩(うるさ)かったり、大野山入り口からより、遥かに丹沢らしさが有る。
 ん、そう書くと、丹沢らしいとは、マイナスイメージのみになる。言い換えよう。丹沢らしさの一部が有る。此れで良いかな?一寸と苦しい感じだが、まあ良いとしましょう。(え、駄目?此の位大目に見るの!)
 十五分程で右へ湯元平への路を分ける。昔々、地図に記載も無い頃湯元平からイヌクビリをピストンした事が有った。分岐から先の稜線は歩いて有ったので、地図上の空白を埋めたのだ。我乍らご苦労なこった。二日に歩くと予知出来ればやらなかったが、あたしゃあエスパーでは無いので、一杯無駄な汗をかいたのだ。ん、思えば其れはとても良い汗で有る。「無駄な」、は取り消すべきで有ろう。はい、取り消しです!!
 地図でお分かりの通り、其のイヌクビリには十五分で着くが、林道が集まって来て居る。右の登りの林道を行くのだ。すると程無く723.1mの頂上だ。公園の様な風情で、周りは牧場で有る。




 勿論景観は素晴らしいのだ。不老山から三国山方面、丹沢湖の向こうには相甲国境稜線、そして檜洞丸と蛭ヶ岳。唯一雨山方面の視界が遮られて居るのが残念で有る。(続)

2012年5月17日木曜日

柄でも無い事 その三十五




 出石(いずし)と言えば、旅好きの人なら知って居るだろう。但馬の小京都と呼ばれる、風情有る街だ。今は豊岡市に属して居る。
 豊岡からバスで行くのだが、売りは情緒有る町並みと出石蕎麦。そして、知る人ぞ知る出石焼だ。其の出石焼を見んとて、わざわざ行きました。出張帰りに豊岡で降りて、泊ままって、物好きですなあ。
 昔は別にして、現代出石焼は白磁専門で有る。釉薬は一切使わず、白磁で勝負する。彫り物で飾った物では無く、地味な品物だと一見唯の白い焼き物で、此れなあにと思うだろうけど、其の白さが俗では無い。
 分かんないだろうなあ。
 飾り気の無い徳利と杯(さかずき)を買い求めて帰った。家人には案の定分からない。
「何此れ、仏壇用みたい」
 失礼な。いや、良い物なのだから仏壇用にして結構な訳で、其の発言で宜しいのだろう。
 違うのだ。良い物だと分かって無い発言なので、矢張り宜しく無い。訳の分からん事を書くのは止めよう。普通の白い器と並べて見せる。
「良いか、同じ白でも此の肌合い、白、全然別物なんだ、よっく見て」
「そうかしら」
 駄目だ。唯の白い器としか思えないのだ。飾り気の無い、と書いたが、杯には微妙な飾りが有る。底に小さな花びらの模様が3枚描かれ、異例にも釉薬が其の3枚に塗って有る。そして、一枚だけ、微かなピンクで彩って有り、酒を満たすと浮き上がって来るのだ。
 うーん、憎い造りだ。此の杯の良さを見抜いた人が一人だけ居る。知り合いのSt氏(女性だが酒豪)で、一目で気に入ってくれた。
 葉っぱの秘密も一発で分かった。白の肌の違いも、当然分かって居た。嬉しいよー、あたしが造ったんじゃ無いんだけど、良い物を分かって貰えるのは、嬉しいものです。

2012年5月15日火曜日

ハイクへのお誘い その九





 大野山については、大分前に本文で書いた。昔は(或いは今でも)大野山入り口から登り、谷峨へ下るのが一般的だった。唯、此のコースはどうしても林道歩きが多くなるのが欠点で、尚且つ見晴らしは素晴らしいのだが、丹沢らしさが無いのも何だかなあと思わされる。
 で、昔は無かったルート(今じゃ当たり前かも知れないが、古い人間なんでご容赦)で、丹沢湖から入ると言うのは如何かと思った次第なのだ。
 写真は、其の丹沢湖からの大野山です。禿げちょびんな山ですなあ。牧場なんで。
 又もや松田からバスで、丹沢湖で降りる。進行方向の反対へ歩き、神縄トンネル手前150m位の右のコンクリート階段を登る。トンネル迄行ったら行過ぎなので、戻り乍ら左側を見れば嫌でも見つかる。
 階段を登り切ると道標が有り、大野山へ6.6kmと有って、一寸とがっくりする。気を取り直して道標に従い左に向かおう。
 暫くで左に道標、道は真直ぐの登りと一寸と右の水平道に分かれるが、此処は登るの一手。登り切ると一本目の鉄塔だ。真直ぐ行くと二本目の鉄塔が有り、更に更に三本目の鉄塔へと登る。そして此処からは下る。どんどん下る。登り返すのが分かって居るだけに、がっかりする下りで有る。多分貴方もだ。
 何となく薄暗く、藪っぽくてザラザラした下り路だ。下りきると道標が、大野山とヴィジターセンターを指して居る。勿論大野山を目指して登るのだ。間違っても、センターへ下ってはいけない。(危険と言う事ではなく、目的は大野山と言う事で)
 後は疎林と植林の混在した路を、ひたすら登れば、稜線へ達する。大野山から秦野峠へ続く稜線だ。此処の分岐点道標には、丹沢湖と大野山しか示されて居ない。秦野峠へは大野君の地図でもご覧の通り破線だ。下の写真は、其の秦野峠への踏み跡。今回は入らない様にしよう。又何時かにね。




 此処迄来れば後はずっと楽になる。丹沢湖や山々を楽しもう。と言っても樹木越しなのは仕方無い。バス停からは一時間一寸で着く筈で有る。(続)

2012年5月14日月曜日

閑話 その八十一



 あたしが上越の低い山で悪戦苦闘して帰京したら、どんどん遭難のニュースが入って来た。結局此の連休で十人の方が無くなった。
 白馬蓮華岳で六人全滅。涸沢岳で一人、爺ヶ岳で一人、奥穂高で二人で有る。奥穂高の滑落を除いて、後は皆低体温症、昔風に言えば疲労凍死で有る。
 皆さん素人では無く、ベテランの方々の様だが、疲労凍死と読んで我が目を疑った。昭和三十年代、四十年代では無い。平成の御世で有る。装備が全く違う。少々の事では、疲労凍死は出来ない時代だ。
 特に不思議だったのは、白馬のパーティで有る。第一報では、Tシャツの上に夏用の雨具を着て倒れて居る、と言うものだった。夏用の雨具が非難っぽく語られて居たが、あたしも夏用の雨具が春山の装備だ。準冬山装備で有る。完全装備では無い。
 ベテラン達に、装備の手落ちが有る訳が無い。案の定最新情報では、六人のザックには、羽毛服、冬用ズボン、バーナーにテェルト迄入って居たと言う。
 ではどうして、其の宝物を活用せずに、全滅して仕舞ったのだろう?四人は医師だそうじゃないか、本当に謎だ。
 どうやらこうらしい。天気が段々悪化して体温を奪われ続けても、本人達は気付かない。医師だって、気付かない時は気付かない。そして決定的な悪天候、そうね、突然の強風と降雪、詰まり吹雪が襲って来て、温度は一気に氷点下に落ち、あっと言う間に、ザックから物を出す力さえ失った。
 あたしも一気に氷点下の経験は、何度か有る。幸いな事に、其れ迄も悪天候で、確り着込んで居たか、ガンガン照りで汗をかいては居たが、決して低体温では無かった事だ。
 併し、今晴れて居るのが突然曇ってガスが湧いて冷たい風が吹き抜ける。こっちは、さあ来たぞ!と雨具を大慌てで着けると、同時に吹き降りとなり、足元の雪もバリバリと凍って行く。本当に、あっと言う間だ。
 其の推測が、多分当って居るのだろう。ベテランでも、山は容赦してくれない。六人の、いや、十人のご冥福を祈るのみで有ります。

2012年5月11日金曜日

山の報告です その二十七



 ガスの中はこんな感じで、ずーっとこうなんです。

 やってはいけないミスを犯した。シェラフの口元がビッショリだったので、バーナーの火で乾かしたのだ。丸で馬鹿で有る。当然布地が熔けて3cm程の穴が開いて、ダウンが飛び出して中に舞う。慌てて予備の靴紐で穴の部分を摘みグルグル巻きにする。
 夕食後、用足しに表に出て来て戻ると、コヘル一杯融かして置いた水が綺麗に無くなって居る。ツェルトを出る時、一寸とツェルトを引張ったが、其の時一番端に有ったコヘルがひっくり返ったのだ。
 見ると、ツェルトの一番低くなった角が池になって、装備や衣類が沈んで居る。う、う、情無い。ツェルトの底は二枚の布を紐で留めて有るだけと言う簡易さが幸いだった。不幸中の幸いで有る。荷物をどかし、水の溜まった所を持ち上げれば、水は皆底から出て行く。お陰で、更にあらゆる物が、濡れた。
 此の夜はどんなに頑張っても、下と左に滑り落ちて行く。寝て居る処では無い。とか言いつつ三時間は寝たのは、ラッキーだった。
 明けて二日、相変わらずの雨。前夜ドジって水を失ったので(再度雪を取って融かすのが余りにメンドチかった)、有るのはポリタンの水のみ。コーヒーを沸かし、ロールパン一つとチーズ一ヶ、食後の梅昆布茶でお終い。ま、今日の行程は短いし、下り中心だからこんなんで上等だい。
 濡れて重さの増したパッキンを済まし(普通最終日は荷物が軽いが、今回は違った)、出発したら、早々に迷った。閉まった、昨日確り方向確認しておくべきだった。いやー、何せ見渡せたもんで。でも今朝はガスの中、なーんも見えないし、なーんも分かんない。
 自然に進むで有ろう方向に下り出して、はっと気付いた。こっちに行くしか無い様に見えるが、確認しないと後で泣きを見るぞ。
 方向と地図を合わせると明らかに違う。馬鹿のやる事はそんなもんだ。あたしなら、視界の効くうちに方向の目印を付けておく。え、お前がやらなかったんだって?そうです!!
 登り返してピークに立ち、方向を確認すると、偉い急斜面を下るしか無い(狭い視界だ)。一瞬、ガスの流れで其の先に稜線らしき感じが有った。下って正解だった。稜線だった。
 思えばアホです。三国峠に程近い、標高の低い山域の雪の中でドッタンバッタン、本人は命懸けのオリエンテーリング、あたしが高見で見て居れば、笑っちゃうだろう。でも、分かんないもんは分かんないの!其れが嫌ならマイナーな雪山には入らない事だ。はい、全くそうでした。好きでやってんです。
 其れから何度方向確認をしただろう。風と雨に打たれ乍ら。馬鹿は死ななきゃ直らない。でも、ガスの中に鉄塔が見えた時は嬉しかった。間違い無く長倉山の直下なのだ。もう大丈夫だ、あと僅かだ。でも、油断はしないで、方向を取りつつ、国道17号線に降立った。
 後は国道を下ってバスに乗れば良い。巧い具合にバス(一時間から二時間に一本)の三十分前に着き、装備を外せたのは良かった。
 越後湯沢で駅蕎麦を食べ、缶チューハイを手に持ってイソイソと、新幹線に乗り込んだのでした。

2012年5月9日水曜日

クソ面倒な話 その四十六



 四十五の続きだから、現政権を罵って居るので、現政権がお好きな人は、さようならです。
 で、其の考えない(考えられない)政府を選んだのは国民で、領土を奪われても、国民の所為なのだ。
 意味不明でしょうか。(そんな事あ無かろう)
 今回は領土の話だ。中国の古代王朝(秦に依る統一前)のどっかで(何処かって?覚えて無い、自分で調べてね)隣国が色々と要求して来た。大臣は怒って、拒否して戦うべしと言うが、王は笑って隣国の求めに応じる。王妃も財宝も馬も言いなりに与える。
 或る日、僅かな領土を割譲の要求が有った。大臣はほっとした。今迄は偉い出費だった。不毛の領土をくれてやるなぞ、容易い(たやすい)こった。で、いそいそと、王に要求を呑む様に進言した。
 王は大臣の首を撥ね、隣国に攻め込んで滅ぼした。理由は、国は領土と国民で有り財産では無い。不可侵で有るべき領土を要求するのは、国を乗っ取る為だからだ。
 此れは中国の教えで有る。彼等(中国政府)が知らない筈が無い。今、日本は試されて居る。政府が何処迄馬鹿で、領土を簡単に手放すかを。
 もし、簡単に手放せば、何処迄行けば本気になるのだろう?対馬か?沖縄か?九州か?
 冗談だと思った貴方、あっと言う間に欧州西部を席捲したヒットラーと言う男をご存知ですか?そしてヒットラーの好きにさせたのは、平和主義だったのは、ご存知ですか?
 今此処に有る危機に気付かないとしたら、現政府は存在理由が無く、在るだけ邪魔な存在と成り果てる。其の証明は、歴史がするだろう。でも、其れでは手遅れと言う事だ。
 石原都知事が尖閣諸島を買い取ると発言し、大きな反響を呼んで居る。流石で有る。九割の人が賛同したと言うのだから、未だ日本も棄てたものでは無い。寄付も随分集まりつつ有る様だ。政府には何も出来ない事を、国民は見切って居る。
 何時迄やるんだろう、何も出来ないのに、現政権はです。

2012年5月7日月曜日

山の報告です その二十六




 写真は一日の午後、一時的に視界が開けた時のもので、殆どはガスの中だったのだ。
 明けて一日、雨は降り続いて居る。連休前半は好天だと言ってたでしょう、気象庁さん!
 雨具を着込み、東へ向かう。此処いらは分かりやすくて良い。やがて登りに掛かる。登りだと安心するのだ、取り合えず稜線は外して居ない訳だ。
 雪を踏みつつピークに立つ。珍しく(初めて)道標が有って、西稲包山だった。シメシメ、ここ迄は間違えて居ないぞ。
 雪面のガスの中では、なーんにも見えないので、下りを定めるのが大変だ。トレースでも有ると助かるが、そんなもんは無い。此の季節に入る人は、先ず無いのだろう。
 ひたすら地図と磁石が活躍する。現在地が明白な時は良い。滅茶苦茶に良い。多くの場合は、現在地すら推定になる。小ピークに立っても、それが地図に記載されて無い事が多い(特に五万図)。
 従って今回は路が記載されて居る五万図と、古い、路の未記載な四万図の両方を持って行った。此れは大成功だった。ひだが読める上に鉄塔の記載が有るので、鉄塔に行き当たると自分の位置が確定出来る。此れは有難い。
 何度か方角を確かめ乍ら、稲包山に着く。雪は消えて夏道が出て居る。大いに助かると道を行くと、直ぐに道は雪に隠れて又雪面歩きで有る。何とか鞍部に着いて登りに掛かると雪が消えた。地形で判断すると、左手の笹薮の中に道が有る筈だ。
 で、其の笹薮を這い登る事にしたのだが、例に依って雪の重みで下向きになった笹の上を登るのだから足元はツルツル滑るのみ、両手で掴んだ笹のみが頼りで、僅かな距離を登り切った時は、へたり込みそうになった。
 予想通り道は有った。同時にあれ程渇望して居た視界も開けた。やったー!!お陰で不安無くキワノ平ノ頭に着けた。此処でツェルトを張る積もりだったが(え、4千m位しか歩いてないって?良いの、荷物は重いし方向決定で苦労して時間を食ったの!)、適地が無く風が無闇と強いのだ。
 見通せるのを良い事に、次のピークへ下って稜線を外し、風が当らない場所に張った。
 流石に好い加減なあたしも、ガスの稜線では慎重だったが、ツェルトの場所では、モロに本来の好い加減さが出た。前後に傾いて居るのは良い。良く有るパターンだ。此の日はおまけに左右にも傾いて居たのだ。
 船で言えば、ピッチングとローディングが重なった様なもんで、全く救いが無い。一寸と動いても、どっちかに滑り落ちる。何時でも頭を下げて居て、体も伸ばせない。腰は痛くなる。チューハイを飲むにも、天井が邪魔なのだ。其の上又雨が強くなって来た。もう濡れて居ない物は何も無い。(続)

2012年5月5日土曜日

山の報告です その二十五




 国道17号線が越える(隧道だけど)三国峠から西の三坂峠迄の間は、上越国境線の中でも一番標高の低い部分だ。最高峰が稲包山で1597.7mなのだから、押して知るべしで有る。
 最近路になった。最近たって、十八年前の地図には記載が無いと言う事だから、大分前に出来て居たかも知れない。
 平成二十二年に白砂山に登った時は、其の三坂峠から西進した。今回は東進して三国峠へ歩いて来た。此れで白砂山から尾瀬迄のトレースが完成した訳で、大変目出度い。景鶴は最初から度外視して居たので、完全では無いが九割八分は完成だろう。最終目的地は尾瀬だったのだから。
 路になったと言っても、前回も今回も雪の上を歩くのだから、路だか何だか分からい。それに珍しい程マーカーも道標(山頂には有る)も無い。雪に隠されて居たかも知れない。
 出発は三十日、単独で有る。越後湯沢からバスでプリンス迄入り、暫くは車道を行くが、途中からは雪道だ。車道が終ると困る。前述の通り路は雪の下だし、地図の渡渉地点には丸木橋としか記載が無い。
 前回は酷く大雪だったので、雪橋の上を渡ったが、今回は皆落ちて居る。地形と照らして丸木橋を探すが、そんな物は雪で落ちてる公算大なので、当てになんかなんない。
 川原をウロウロし、此処を渡るかと見ては躊躇う。だって、雪解け水が渦を巻いて流れて居て、とてもじゃないが飛び移れる距離では無い。空身で若ければ別だが、20Kg以上のザックを背負ったおじさんでは無理だ。落ちて無事とも思えない。
 其のうち両岸切り立って来ると、雪を蹴って高巻きして川原に降りる。三度も繰り返すと、疲れるし不安だし気は焦るので、参る。
 有った、雪橋が掛かって居た。けども、今にも落ちそうで、真ん中は既にへこんでいる。併し此れしか無い。意を決して渡ったが、必死の思いだった。いやー、笑っちゃいますね。
 其れからひたすら登って、三坂峠より西と思われる地点にツェルトを張った。此の夜からから雨になった。ツェルトは風邪に煽られ、バタバタ鳴り続ける。聞いてるあたしは眠れない。十二時を過ぎても眠れない。




 仕舞いには起き出して、一服つけて焼酎を飲みだす有様。結局、二時間位は眠ったでしょうか。(続)

2012年5月3日木曜日

体中がつった! その九




 山で、やっと歩いているおじさんを見かけたら、私かも知れません。地下足袋だったら先ず当たりです。どうか石を投げたり、罵ったりして、苛めないでやって下さい。歩くのでやっとなんですから。出来たら哀れんでやって欲しいですよ。(ペコペコ)
 追記です。翌年(平成十九年春)リベンジを期して源次郎へはいりました。難無く本筋を行き、花立直下に出たのだけど、十八年の苦労が嘘みたい。体調もあったのかな?
 其れは有るのだ。体調に依って、通り慣れた登山道も全く違う。景色すら全く違って見える。体は正直なのです。
 軽い話で締めよう。迷惑なYは超能力者だったのだ。春山前にトレーニングで塔をピストンする事にした。12㎏の荷物がノルマだった。私はYより三十分遅い電車で追いかける予定だ。
私「花立か、塔で追いつくさ」
Y「いや、花立の大階段の下あたりだと思うけど、12㎏だから」
私「まあ、花立だな」
 笑って下さい。この歳に12㎏は応えるのだ。一生懸登って、花立に着いたがいない。小屋を覗くがいない。せっせと塔に登り、登山者を見て回るがいない。小屋の中にもいない。さては寝坊して後から来るなと判断し、探しながら降り始めた。
又も、花立にはいない。大階段を下って、将に下りきろうとするその時、奇跡の様にYがふらふらと現れた。どんぴたり!Yの予言通りの大階段の下だった。凄い!もっとも、想定した状況とは大分異なるが、場所だけは寸分の狂いもない。
 Yは追いつかなければと焦り、飛ばしたらしく、バテバテになっていた。汗が滴り落ちて、目は虚ろに泳いでいる。そんなに焦らなくても良いのに。そこから二人でゆっくりと下り、O屋で一杯やりました。まあ、チューハイの美味かった事!
 ある程度の年配の方、ひどい目大会に出場しないように、(お互いに)気をつけましょうね。