2009年8月30日日曜日

ハエの話? その一

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 済みません、前章は冗談なのだが、思いの外長くなったので、章として生かしてしまいました。(ぺこり)
 丹沢の東に山が有る(変な言い方、丹沢の山なんだから)。大山から大山三ツ峰を経て、土山峠で繋がっている。昔は南山と呼んだそうだが、丹沢の南に位置しているからではないだろう。大体からして、東北に位置しているのだ。何処の南なんだろう?
 丹沢山塊の東に、くっついているように見える山々であり、新幹線の車窓からも、それと良く分かる。最近はメジャーになった。宮ヶ瀬湖ができから。従って路も良くなり、展望台も造られている。小田急のパンフレットでも紹介されるようになった。
 昔はひどかった、それはそれはひどかった。高校の頃Tと登った。バスを降りても取り付き口が分からず、土地の人に聞いて、教わった山道に分け入った。コースは経ヶ岳から仏果山だ。
 因みに当時の其のあたりの人は完璧な“だんべ言葉”で聞き取るのが一苦労だったのだが、今は標準語のみである。隔世の感が有るとはいえ、一寸と私には詰まらないのだ。
 藪っぽい路が続いた。大した藪ではなかったが、私の装備が悪かった。半袖に短パンだ。常に引っ掻かれながら歩くのだ。痛かったかって?当たり前だ!経ヶ岳から仏果山もボサっぽい。唯々痛い稜線歩きで、景色なんざ記憶のかけらも無い。下りも唯々痛いだけだった。Tは長袖長ズボン、いかにも痛くなさそうで羨ましい。
 帰宅して風呂に入って驚いた。両手両足、ミミズ晴れが折り重なり、合間にしっかりした傷が走っているのは、棘に引っかかった痕だろう。手足共に腫れ上がり、その夜から熱迄出てしまったのだ。傷跡は、確りと三月は残ったという間抜けな話。
 余計なお世話でしょうが、マイナーな山に行く時は、長袖長ズボン、軍手も必携品。さもなくば、ひどく忘れ難い思い出の山になってしまうのだ。フッフッフッフ……。
 それから三十年近くたって、S、Kと出かけた。奇しくも同じルートだ。な、何と、藪なんて無い。何処にも無い。道標迄しっかり完備、あの苦労をどうしてくれんだよう!半袖短パンでも充分歩ける立派な路になっていた。メジャーになると、世の中が変わるのですなあ。
 半原越に来たら、クマン蜂が数匹唸りを立てて飛んでいる。怖いよ本当に。蜜蜂の十倍位の大きさなんだ!(そう見えた、へっへっへ臆病なので(恥))クマン蜂の飛行という曲が有るが、私が作曲家なら、もっと恐ろしげな曲にするに決まっている。
 私とKは立ち竦んでしまった。だって、一度刺されてもOKなのだが、二度目には、一回刺されて出来上がっている抗体が反応して、死ぬのだ。(何の為の抗体だろう?)尤も、そんな事は無いという説もある由だが、例に依っての無精者の私、調べもしないので分からない。 (ハエの話? その二へ続く)

2009年8月29日土曜日

閑話番外 その九

 前章で芝倉沢に触れたので、補足すると、昔々は沢の出会いあたりに成蹊大学山岳部の山小屋、“芝倉寮(?)”が有った様だ。此の目で見て居ないので断言は出来ないが、其の寮歌が山の歌の定番だったので、まずは有ったのだろう。
 「巻き割り飯炊き小屋掃除、皆(みんな)で皆でやったっけ」と言うあれで、覚えて居る人も居ると思う。あたしも良く歌った。一番広まった山の寮歌だろう。歌の通り「今では遠く皆去り、友を偲んで仰ぐ空」で有る。
 昔々は山ではしょっちゅう歌った。我々だけで無く、よそ様もそうだった。キャンプサイトで輪になって、山の歌を歌った。空に星が瞬く迄歌って居た。
 山男の歌、アルプス一万尺、雪山賛歌、アザミの唄、青い山脈、カチューシャ等々。
 今でもそうかって?飲むだけです!

2009年8月27日木曜日

休題 その二十三

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 博士の異常な愛情の続きです。
 本文にも書いたけど、ソ連(当時)の皆殺し装置は、似た様な物は未だに有るのだが、もっとマトモなもん(?)なんで、あれ程破滅的では無いとは判明して居るけど、一度(ひとたび)作動したらストップ不能で、本文では「安心して人類滅亡を心配して下さい」とかのたもうたが、其の通りに結構危ないのだ。
 アメリカにも有るのだろうか?公称しなけりゃ意味を成さないのだから、多分無いのだ。原潜と地下基地のICBM(多弾頭)で充分報復する自信が有るのだろう。それに映画のB52も未だに(!)現役だから、戦略核攻撃も行える訳だ。
 其のB52ですよ、アナログですなあ、当時は。何でも手動でダイヤルを合わせる。感動ものだと騒ぐのはあたしだけかい?
 話がずれた。陰の主役はB52の機長で、機長、何をするんですか!です。(古くて分からんでしょう、ふっふっふ)
 彼は任務を遂行するだけなんだが、描き方がメチャリアルなのは、キューブリックならではの拘りなんだろう。でも一寸とアブノーマルに描かれて居て、矢張りアブノーマル・ラブの世界だ。背景の音楽「ジョニーが戦場に行く時」(だったけ?)がこれまた嵌り過ぎの素晴らしさ!
 彼が実戦だと知って(本当は違う)、カーボーイハットを被ってから音楽が入る訳で、キューブリックはアメリカをおちょくってんのか?勿論そうなんで、ソ連も、或いは人類をもだ!こうなりゃあ、おまけに!!!!!
 全て雑にしか物事を把握出来ないあたしでさえ、今回の様に十何度も同じ映画を見て居れば、流石にメッセージは朧げには分かるのです。思い込みの可能性は否定しません。
 ハルは道具の象徴で(結局2001年になっちまった)、人が道具に使われる事になっては駄目だとのメッセージは完璧に伝わるので、皆殺し装置もおなじ、B52も同じ、空軍幕僚長(自衛隊じゃ無いんだから、別の名称だろう)も同じ、従って博士は、道具を象徴する(であろう)ナチをどうしようも無く引き摺って居て、右手は勝手に敬礼しちまうんで、噛んだり殴ったりする面白さは、文句の付け様も無く、天才に敬礼!(勿論、ナチ式敬礼です)
 道具に異存する人類は道具に支配されるに至る、がテーマ(おいおい、お前が決めるなよって?多分そうなんだよ!)なので、其れは正しいのだが、もっと深い処をキューブリックは見据えて居るかに思える。
 て事は、あたしの分析なんざ意味が無い?
 そうです、認めます、従って未だ見てない方は映画を見て下さい。

2009年8月24日月曜日

休題 その二十二

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 最初から謝っとくけど、判り切った話で、スタンリー・キューブリックです。イラストが間に合わず、他所の写真を張っちまって、済みません(ペコリ)。
 二十世紀の代表作に、博士の異常な愛情を挙げる声も割と多いらしいが、へっ、何を仰る兎さん、あたしに言わせりゃあさ、あれこそ二十世紀最高の映画で有って、あたしの単なる好みなのだろうが、マジっす。
 キューブリックがメジャーになってからの作品はたった十一作で寡作なんだけど、全部同じ監督?と思わせる多彩さ、斬新さ、切り口の新しさ(同じ?そうですなあ)、天才って言葉は彼の為に用意されたのかね。
 其の中であたしゃあ2001年と博士の異常な愛情をアゲです。
 2001年は文句無くSFの金字塔となって居るのは至極当然で、素人のあたしが四の五の言うだけ野暮だろうから、又何時か語りましょう。
 さて、博士の異常な愛情はそうは行かない。金字塔では無いようで、何でだろう?
 題名にもなって居る博士はやっと中番過ぎてから出て来るだけで、しかも出番は少ない。ま、多いと描くのが大変なんだろうから、無理も無いので、右手が勝手にナチ式敬礼をする車椅子の科学者を、しょっちゅう撮影するのは苦労なんだろう。(違うって?)
 現に、必死に右手を抑えてもがく博士を見て居るソ連の外交官が笑って仕舞って居たが、あのシーンがOKだったのは編集して居たキューブリックが笑っちゃって見落としたか、無理は無いとしてOKを出したかどちらかなんだろうが、完璧を求めるキューブリックでさえ、笑い転げて見逃したと思いたいシーンなのだ。(もし見てない人が居たならば是非見て見ましょう、その為にこそ此れをアップしたので)
 夫々の立場で夫々一生懸命考え、役を果たし、結局人類の破滅なんだが博士はそうは思わないのが良いので、大統領が呟く「人間は百年も地下で生きて行けるのだろうか」と言う言葉と綺麗な双璧を構成するので、此の二人を同一人物に演じさせたなは、よ、憎いね!因みに、英国の派遣空軍将校も同一人物なんで、三役です。本当に上手い役者だなあー!
 勝手に考えれば、結局破滅を前にどうしようも無い派遣将校と、結局破滅を前にどうしようも無い大統領と、破滅を前に得々と持論を述べる博士は同一人物?
 2001年と同じになっちまうが、視点を高みに置いてこそ見通せるので、神の立場で初めて描けるどったんばったんの人間模様、其れを見て笑って居るあたしゃあ唯の人。
 今日(平成二十一年七月二十九日)十何度目かに見直したが、泣けました。此の映画で泣けたのは初めてだなあ。空想的平和主義者にこそ見て貰いたい映画です。え、ヤバイ書き方だって?仕方無いでしょう、本当の事なんだから!長くなったので、続きます。

2009年8月22日土曜日

ふらっと寄り道一ノ倉岳 その三

 

店 016

 夜中にツェルトに顔を叩かれ目覚めた。風でペグが抜けたのだろう。ツェルトは崩壊寸前でたなびいている。その癖やけに明るい。表に出たら、満月、煌々たる月明かりに上越の雪山達が照らし出されている。
 風の音がさぞ高かっただろう。併し全く覚えが無い。覚えているのは、シーン、という音なのだ。本当にシーン、と音がした。(と印象に残っている)
 月光に映える雪を纏った山々は、満月を頭上に戴き、シーンと静まり返っていた。(矛盾が有る、シーンという音を立てていた、が正しい)
 あんな神々しい風景は、他には無いんじゃないか、と今でも思ってしまう。尤もたった一人の雪山の幕営というシュチュエーションも、大きく物を言ってるんでしょう。あと煌々たる満月と強風も。
 ペグを埋めなおしたが、寝る気になれず(だって、ツェルトが青く光っているんだもん)コーヒーを沸かした。ラッキーな事にその時はインスタントではなく、レギュラーのカップ用コーヒー(知ってます?)だったのだ。本当に滅多に無い事だ。
 封を切った瞬間ツェルトの中は、コーヒーの香りで満たされた。私は蕎麦とお茶には拘るが、コーヒーには殆ど拘らない。でも、あの時の香りは、忘れられない。(禁煙の方御免)煙草の煙が、ビビビビビと震えたのは勿論です。
 本当は冗談で、次行こー、って乗りで始めたのだが、題名が悪かった。いっそ、チョモランマとかK2とかにすれば済んだものを。だって行った事が無いので、先を続けられないでしょうが。
 今は、芝倉岳(一寸と下る)にも一ノ倉岳にも避難小屋が有る。芝倉岳のは見ていないが、一ノ倉岳山頂のは、例のカマボコ型だ。
 説明します。コンクリートの土台の上にカマボコ型の鉄製で窓の付いた、立つと頭がつかえる様な避難小屋(ドラム缶?)。あんな珍しい小屋を考え出すのは、豪雪と強風の上越の人々なればこそだろう。笠ヶ岳も小障子も同型なのだ。面白いですよ。
 カマボコ型で一寸と困るのは、木の床が脆弱で、やけに揺れる事。動く時には声をかけ、火器を抑えないと間違いなく倒れてしまう。多少不自由でもでも、風には無闇と強そうだから良しとしよう。
 元馬鹿の私は幸せだった。当時避難小屋が有って誰もいなければ、其処に泊まるに決まっているから、きっとあの、シーン、という音を知る事も無く、人生を終えただろう。それは余りに勿体ない事だ。
 誤解した人、いますか?(いないと思うけど)避難小屋のお陰でどれだけの人が命を救われているかは、良く分かっています。でも、今の感想はあくまで私内部の話ですから、そういう事だと、ご理解下さい。
 冗談が長引いちまった。ふん、結局俺は野暮天だぜ!

2009年8月18日火曜日

閑話 その二十八

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 自慢たらしく装備の悪さを書いて居るが、嘘ではなくモロ古くてボロボロなのです。古くないのは購入した当座のみで、ずーっと使い続けるので結果としてそうなっちゃう。
 購入する時も、止せば良いのについ安い物を選ぶ悪癖に負け、安物で身を固める、えっへん。で、泣く思いをする事も有る。
 昔々半(二十五年前の事)、正月に千曲川源流を経て金峰へ歩いた。当然信濃川上からバスで梓山へ入ったので、前夜は小淵沢の駅泊で有る。
 当時の事だから待合室で眠れる。今は駄目、最終列車が通ると皆追い出され、シャッターが閉まって仕舞う。何処の駅(除無人駅)もそうで、山もやりにくくなった。やな時代になっちまった、昔は良かったなあ、何て後愛想で言ってるだけなんで、あたしゃあ其れ程は老い込んでない、残念でしたね~♪
 冗談は良いとして、小淵沢の待合室が、何とストーブを焚いて居る。う~ん、矢張り良い時代だったなあ。(今でもそう?そうかあ)
 処が良くないの。シェラフの中で暑くて堪らず汗だらけ、モゾモゾとカッターやズボンを脱いで何とか凌いだが、シェラフの中で衣類を脱ぐのは結構大変で、傍で見ている人は、モゾモゾ動く不気味なシェラフと思った事だろう。
 翌日は曇天の下、千曲川源流を目指すうち、正月の山中だと言うのに雨が降り出した。何だよー、普通は雪だろが!異常気象の先取りか?道理で夕べ暑かった訳だ。
 其処であたしのボロ装備がものを言うので、特価のゴアもどきアノラック上下は、元から粗悪の上賞味期限が切れて長いもんだで、雨が容赦無く浸み込む。ビッショリと濡れちまった、はっはっはっは。だって、冬山で雨は想定外なんだもん。
 前線通過に依り、異常な温風は一転して寒気となり(詰まり普通の冬の風になり)、哀れ濡れそぼったアノラックはバリバリと凍り付いて仕舞った。そして冬型に安定した極寒の山となったので、とても目出度い。
 此の日は甲武信から西の小ピークで幕営、凍り付いた服でシェラフに入っても、寒いの冷たいの、救いは羽毛でなく化繊だったので、シェラフがペッタンコになって凍らなかった事位、楽しい夜でしたよ!
 二日目は快晴の雪山、脛迄のラッセルが続き、国師の登りで五人のパーティと擦れ違い、「こんにちわ!」と挨拶も弾む。人に会うのも嬉しいが、此の先はトレースを辿れば良いので精神的にもすっごーく楽なのだ。思わずニタニタして居ても責めないで下さい。
 此の日は金峰の肩で幕営。森林限界を越えて居たので、如何にも冬山だなあと言う風情、凍って居て寒くて冷たくて、とても楽しい夜は前夜に勝るのだ、貴方をお誘いしたいです。
 帰って直ぐゴアのアノラックを買いました、其れもモンベルを思い切って。冬山で雨に会っても良いようにです。備え有れば憂い無し。

2009年8月16日日曜日

ふらっと寄り道一ノ倉岳 その二

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 思えば、そのやり取りが完璧に刷り込まれてしまったのだ。声をかけてくれた人が悪いのではないのは、言う迄も無い。私が至らない事夥しい。
 雪を登り始めたが、やけに傾斜がきつい。と、突然壁になった。しかも壁と雪はそっくり返って、大きく間が開いている。え、地図と違うじゃん。緩やかな沢なんだろう、芝倉沢は!一体どうなっちまったんだろう。
 おいおい、好い加減気づけよ、地図は何の為に持ってんだよ。丸で三ツ峰の馬鹿ップルじゃないか。あ、彼等の事を馬鹿にできなくなってしまった……。
 思った、そうか、雪が多ければ登れるんだ、五月じゃ雪も融けるよな。よし来年四月、雪の多い時期に再チャレンジだ!……本当に浅はかです。
 翌年四月、浅はか者が再び新前橋で蕎麦を食べて、土合に降り立った。土合に登ったと言うべきかな?どっちにしろご苦労な事である。
 此の年も雪を踏んでせっせと歩き、幽ノ沢を越える。さて、いよいよ芝倉沢だ。今年こそやるぞー!
 登るにつれ斜面は急になり、またもや壁になってしまった。左右を見ても壁だ。何でだろう?
 おまけにカメラまで壊した。諦めて下る前に写真でも、と思いカメラを出したら落とした。当時はバカチョン(固有名詞)を使っていたのだが、それが締まった雪面を跳ね飛びながら落ちる。慌てて追いかけ、大分下で雪渓の隙間に嵌ったカメラを拾い上げたが、死んでいた……。
 もう読めましたか?そう、堅炭沢だったのだ。地図に記載は無いが、案内書を読み直してその存在を知った。己の馬鹿さを、思いっ切り罵ってやりました。
 翌々週、三度(たび)馬鹿なあたしが土合に降りた。いっそ定期券でも買え、馬鹿!一寸と待って、考えれば馬鹿はひどい。二年かけたとはいえ、気がついたんだから、せめて、元馬鹿と表現してやろうじゃないか。(自分に甘くて失礼)
 今度は見事(?)に芝倉沢に入れた。地図通りの沢で(当たり前だ!)、心配していた雪庇も無く、無事に稜線に立てた。元馬鹿は三度目にしてやっと踏めた一ノ倉岳に感激していた。万歳、万歳、万々歳!
 書いていて、我ながら何とかなんないの?と思えてしまう……。
 とはいえ、この日は山を独り占め、一ノ倉岳にツェルトを張って暮らした。若い癖に贅沢な山登りでしょう?天気は最高、強風も最高でルンルン(エーン)。ツェルト内で煙草を吸うと煙が、風の当たる衝撃で細かくビビビと震えるのだ。結構面白い見もので有る。 (ふらっと寄り道一ノ倉岳 その三へ続く)

2009年8月15日土曜日

クソ面倒な話 その五

店 038

 

 SF系B級映画好きの癖に、実も蓋も無い話です。
 前述だけど、タイムマシンは有り得ないので、光速を越えると時間が逆行するなんて言う珍説が一時有ったが、吹飯もので、最近は消え去ったのは、ご同慶の行ったり来たり。
 エントロピーが減少すれば時間が逆行するとは誰が言い出したんだったか、少なくともあたしが様な素人が安酒場で気炎を上げてんでなく、一応物理学者が発表したのだから、学者なんざ当てにするもんじゃないって事ですなあ(失礼!まともな人も大勢居ます)。
 大体、独立系に於いてエントロピーは常に増大する、熱学の第何法則だったっけ?考えりゃあ独立系に於いてエントロピーは常に揺らぐ、が正しいのでは?
 本文には、エントロピーは増大するのみ、と書いたが、独立系ならそうではない。エントロピーの低い状態を設定すれば後は増大するのみと言う事でしょう。
 コップに一滴ミルクを落とせば拡散して行くが、ミルクが一点に集まる逆はなく、当たり前田の、ク、ク、クラ……(汗)。
 コップに一滴ミルクを落とすとは、人為的に低エントロピーを設定した事は明白だ。従って、エントロピーが揺らぐ度に時間も揺らぐ事なぞ無いのです。
 ファインマン君も珍説を唱えて居る。曰く、マックスウエルの電磁気学の方程式には解が二つ有るので、遅延波に対する先進波の存在を認めれば、先進波は過去へ運動する。
 電磁気学の方程式が分かってるのかって?当然分かってないが、物事は分かるのだ。
 過去への運動ってどうやって計測するんだろう。前述の通り方程式に二つ解が有れば、実情に合わない解は捨て去るべきで、マイナス2mの幅やマイナス2個のリンゴは存在しない!従って先進波は捨て去るのが妥当だ。
 先進波を使って過去へ情報を送ろうなぞと騒いだ人達も居るが、頭を冷やしましょうよ。
 ワームホールに飛び込んで過去へ戻る、と言う珍説も持て囃された。
 カラクリはワームホールに飛び込んだ先の時間が遅れて居るので、戻って来た時は遅れた時間、詰まり過去だと言う馬鹿馬鹿しい話で、ジャンジャン。
 分かりにくいですか?では、日付変更線を越えれば其処は昨日、で、直ぐ戻れば其処も昨日、の筈は無いでしょう、と言う事です。
 何とか過去へ戻る方法を探そうとの執念は理解出来ないでも無いけど、時間は一方向に流れる(どう流れるの?他に表現が出来ないのでご容赦)のみなので、タイムマシンは無い(きっぱり)。
 それでもSFには無くてはならないアイテムなので、煩い事は抜きにしてB級映画を楽しみましょう。さもないと、ターミネーターも見れなくなっちまう。

2009年8月12日水曜日

ふらっと寄り道一ノ倉岳 その一

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 え、一ノ倉岳って、丹沢なの?

 勿論違います。

 この章終わり。

 済みません、この章自体が冗談です。本当は、此の侭、次の章へ行きたかったのです。ははははは……、そうしたら何だか分からなくて馬鹿臭くて面白いでしょう。でも、一寸と不安を感じて言い訳をする羽目になっちまったぜ。ったく……。あ、読者の皆さんの感性に不安を感じた訳ではありませんからね、念の為。
 じゃあ何に不安を感じたかと問われれば、そのー、……、先を急ぎますので又今度。
 私の冗談は相当面白いと私は思っているのだが、人は詰まらないとか、或いは、分からないとか、ふざけてんのか!と言う。家族でさえもだ。何でだろう????
 分からない人は仕方が無いとして、ふざけて立てた(やっぱしふざけてんだ)といっても、折角一ノ倉岳の名前が出た限りは、思い出話の一つもしましよう。(え、嫌だって?勝手な事は言わないの!)
 昔々(とうとう御伽噺になったぞ!)、夜行で土合に着いたと思いなさい。新前橋で待ち時間がたっぷり有る(当時の夜行列車は皆そうだったのだ)ので、駅蕎麦は確りと食べて有るのだ。さて、例の大階段を登る。見上げる先は霞んで見えない。当時の事だ、外に何パーティも一緒に登る。大階段に、登山靴の足音が響き渡る。やっと改札に着くと一汗かいているのだが、この話が分かる人は、そうはいないでしょう。
 土合の大階段は旅番組でしょっちゅう取り上げられているので、皆さんその存在はご承知だろうけど、この話が分かる人がいないとは、大階段一杯に登山者が、ザイルを肩に掛けたり、大きなザックを背負ったり、思い思いの装備で一斉に登って行く風景の事で、今は見る事は無いのです。
 改札口にやっと着いた皆さんは一休みして、ヘッドランプを点けて歩き出す。私もそう。そのうち夜も白んで来る。皆さん、一ノ倉やマチガ沢や幽ノ沢や他に散って行く。あたしは旧道の雪道を更に進むが、あんなにいた登山者は最早姿も無いのが常であった。
 芝倉沢の入り口では、ほぼ明るくなっていた。五月始めだったのだ。登る準備をしていると、通りかかったパーティの一人が声をかけてくれた。
その人「芝倉沢をやるんですね」
私「ええ」

 (ふらっと寄り道一ノ倉岳 その二へ続く)

2009年8月9日日曜日

閑話番外 その八

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 閑話その二十八の補足なんだけど、本当は写真を載せたかったが、腕前がこうだから自分が見ても駄目だこりゃあなので、渋る妻を拝み倒してガスの絵を描いて貰ったのです。尚此の写真は文とは無関係で、済みません。
 渋る妻とは、描く事で無く、描く物の話なので、ガスなんざ描きたく無いのは当然です。
 其れでも描き始めりゃあ、いそいそと一所懸命描いて居る姿は、立派と言おうか業と言おうか、どちらにしろあたしに取っては有り難いのです。
 で、本題に戻すと、三伏峠への登降は最早オールドルートで、峠近く迄林道が開通し、殆どの人は車でやって来て三伏峠へ向かうそうで、塩川小屋は最早閑古鳥の巣、昔の光今いずこ、ああ、荒城の夜半の月。
 其れは夏の話で、冬は林道を車は通れないので仕方無く登山客が来るけど、何だか頼り無い諸君みたい(小屋の親父が言うんだから、あたしは知らないよ)で、塩見岳に行って来たと言う登山者を見て、「本当か?嘘ずらよ!」と思うと語って居た。
 小屋の親父の眼力は馬鹿にならない。多分当たって居る、かも知れない。
 でも、あの急登をさっさとこなすのは結構骨で、現に去年(あたしが泊まった一年前)は下りで滑落した人が亡くなったそうで、其れは無理無いと納得出来る下りだ。
 番外を立てて迄何を言いたいかってっと、塩川小屋もやがて姿を消すのかなあ。夏の盛りでさえ、台湾人を入れて四人しか泊まらない。昔だったら二十人は泊り客が居た(想像だけど)筈で、経営は成り立たないと見て分かるし、親父もそう言ってるので、偉いこっちゃ!親父の気の変わらんうちにもう一度冬の塩見をやらなきゃあ、出来なくなっちまう!
 でも三伏から塩見のピストンは辛いから、嘘ついて手近なとこで済ましちまおうかなあ。
 親父にばれるだろうから、困ったなあ……。

2009年8月8日土曜日

閑話 その二十七

店 037  閑話その二十八で高山裏の小屋の話をしたが、翌日は三伏峠泊まりと思って居たのだが、足の向く侭塩川小屋迄下って仕舞い、其処で泊まった。入山四泊目の宿で有った。三年前の話。
 三十代半ばの正月、塩見岳をやった時に三伏峠を登降したが、こんなに急な路だったとの印象は全く無く、改めて歳月と己の衰えを思い知る下りで有ったので、膝が笑っちまって、あたしも笑っちまったぜ。
 風呂に入れるのは川沿いの小屋なればの贅沢で、山の疲れが抜けると言おうか、どっと出ると言おうか、いずれにせよ、適切な表現不能なので簡単に言えば、最高!!
 其の間に高山裏で同宿だった男性(四十代、以下男と呼ぶ)が降りて来、青年(学生だった)が一人バスで上がって来た。泊り客は三人かと思って居ると車が来て、一人の男性(三十代後半)を下ろして去って行く。あたしは小屋の横でアブを払い退け乍らビールを飲んで居た。
 車の男性は英語で何か聞いて来た。何だ?自慢じゃ無いがいんぐりっしゅはからきし駄目、慌てて男と青年に助けを求めるが、二人共あいきゃんのっと状態で、何と情無い奴等だ!言う資格無し?全くです。
 でも、あたしと男は青年を責めた。
私「現役だろう、何とかしてよ」
青年「本当に、英語苦手なんですよ」
男「仕様が無いなあ、若いくせに」
 ま、勝手なもんです。小屋の親父は信州弁だけ、当然英語なんざ、英語を聞いてる様でさっぱり分からん(?)。
 結局彼は従台湾来的男人で、身振り手振りで分かったのはガスを売ってないか?との問いなのだが、小屋には無い。偶々(たまたま)男のガスが同じ物だったので、男は彼に贈呈した。彼は恐縮する。
男「もう帰るだけだからどうぞ」
私「別客気、別客気」
 と、片言の中国語で通訳。じゃあ中国語で話せば良いと思うでしょうが、相手の言ってる事が聞き取れないので会話は不成立なのだ。
 今度は彼はコピーのラフな地図を出して、此のルートを行くが、此の小屋迄一日で行けるか?と聞いて居るらしい。
私「不能、要両ヶ日子」
男「こんな地図じゃ破れるな」
 今度はあたしが地図を進呈、一寸とした日台友好で有る。しかし、どの小屋も英語が通じるとは思えないが、泊り客が何とかしてくれるだろう。
 現に、彼は男と青年と一緒に小屋の食事を食べて居た。あたしゃ自炊なのでとっとと寝て仕舞ったが、何とかなるものです。
 翌朝、「わざわざ歩くなんて、気が知れない」と言う男の声を後に、バスを待たずに鹿塩へ歩き出したが、少しでも早く帰りたかっただけで、遠い鹿塩のバス停へ向かい、どんどん歩いて行ったのでした。

2009年8月5日水曜日

休題 その二十一

店 036

 

 感性とは不思議なもんで、説明は絶対不可能、万一作品が有れば作品で表現するしか無いし、作品が無い場合、或いは形に出来ない時は諦めるの一手のみ。
 酔っ払ってるけど(あたしが書く時は何時でもそうなんで、詰まり酔っ払いのブログ、誰も来ないのは至極当然だなあ、はっはっはっは……(涙))、こうなりゃあ何が何だか分かんない。
 で、難しい(?)事は置いておいて、酔っ払いのあたしの話に戻っちまうけど、書いたものは一応見直します、酔っ払って書いてんだから不安なんです。誤字脱字は当たり前、何だこりゃあ!の世界が展開されるですよ。其の見直しは飲み乍らやってる訳だから、やがて其の世界(酔っ払いって事)に同化されちまって、どうしようも無いもんがアップされて居るのが、悲しいかな現状なので、御免なさいの言葉以外浮かびません(ペコリ)。
 話を戻すと、何だっけ?こうなりゃあ、とことん酔っ払いの世界で押しちまおうっと。 IT君みたくなっちまったけど、元々同根なんだから良いやね。で、何だか分からないけど、前に書いたか書かなかったか忘れちまったんだが、時代があたしに追いついて来たって、本当にそう思うあたしは幸せ者です。お目出度い?異議なーし!ばんざーいい!!
 あ、ウトウトしちまったぜ。
 よっしゃ、涎を拭いてしゃきっとすっぺさ。えーと、時代があたしに追いついて来たって自分で思うのは勝手だけど、説得力はゼロなので、実例を一つ。
 芝居でメインテーマの曲として選んだのが、バッハンベル(だったっけ?)のカノン。色々クラシックを聞いて(著作権が切れて無料なので)これだ!と決めたが、半年後にはそこら中カノンだらけになっちまって、妻と共に驚いたのだ。あのカノンだらけの一時期を知らないのけえ?遅れた奴!(酔っ払いの戯言、忘れてチャブダイ)
 で次は、勇敢なるスコットランド兵。米軍でも戦死者を送る時に演奏するですよ。本家のグレートブリテンではどうなんだろう?イングランド、ウエールズ、アイルランドが異議を唱えるんだろうなあ。なにせ王家連合国家なだから、バランスがびみょ~う♪
 駄目だ、うんと酔ってると話が偉く飛ぶ。
 其の曲を聞き乍ら詰まらないシナリオを書いて居たです。で、又もや半年後(だったけな?ま、その凸凹)カバーが出たり、ドラマのメインテーマになったりフィーバー、妻と驚いたのでした。
 時代が追いついて来た話なんかじゃないって?全くその通り、ご尤も!!!
 酔っ払いが訳の分かんない事言って済みません。余りの陸の孤島なので自棄酔いしちまって、はっはっはっは……(涙)。

2009年8月2日日曜日

カモシカに会いましょう その四

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 仕方なく尾根を登り始めたが、適当な幕営地が無い。もう登るのは体力的にも時間的にも限界なので、こうなれば何とか交渉して、カモシカ様に場所を譲ってもらうしかない、と意を決して引き返したら、彼はもういなくて、ほっとしたのです。情無い話だが、カモシカは目の当たりにすると本当に立派なのだ。
 話を札掛に戻そう。脱線せるのが売りなんで、こらえてつかあせい。
 札掛から塔ノ嶽へは、長尾尾根で登れる。昭和三十八年の案内書には「静寂な原生林で、思索瞑想にふけるのによく、行きかう人とて少ない」とある。今は植林が増え原生林は減ったが、行きかう人とて少ない、は未だに立派に生きている。ただ私は、山を登りながら思索瞑想にふけった覚えはない(有る人いますか?)。断片的な考えが浮かんでは消えるだけである。ひょっとすると、頭の造りが雑なのだろうか。
 特に最近は「あー辛いなー」とか、「あのコブでやすむぞ」とか、「あとどれだけ歩かなきゃならないんだ」とか、飛んでもなく情無い思いしか浮かばない。廃人寸前である。最早廃人だって?言い過ぎだ!もう一寸とは保つのでは、と希望的に思ったりして……。
 長尾尾根も何度も登降したが、雨だったのは一度だけだ。そのコースは札掛を通ったのに決まっているのだが、へー、降られない時も結構有ったんだ。印象では札掛イコール雨なのだが。
 と、此処迄書いて気が付いた。思い出せば一人の時は全く降られていない。パーティだったり、友人達を連れて行ったりすると、殆どが雨か雪に降られ、前述のBと一緒の時は珍しくも例外だったのだ。私とB以外は皆雨男、雨女なんだ。ふ~ん、そうかあ、謎が解けたぜ。(本当かなあ?)
 長尾尾根を登り切ると新大日の小屋の前に着く。此処から塔迄は一息で登れる。新大日は不思議と寒いという印象がある。理由は、不明だ。夏だって通っているだろうに。確かに風通しが良い場所では有る。ま、たまたま休んだ時は寒い日だったと言う事でしょう。私の印象なんざ、所詮そんなとこです。
 札掛から登れる山は、その長尾尾根と、大山北尾根と、物見峠コース位なものだ。従って極くマイナーな扱いを受けている。宮ヶ瀬へも、ヤビツ峠へも林道歩きだ。宮ヶ瀬への林道も歩いて見たたが、お薦めする程のものではない。どうしても歩きたいと言う人がいれば、やるべきです。
 札掛は登山基地ではない。札掛なのだ。最近はハイキングコースもたっぷり作られている(登山じゃないですよ)。札掛の原生林を楽しむのが、本来なのだ。できたら車でなく、歩いて訪ねて欲しい。鷹もムササビもモモンガーも蛙も飛ぶ。狸も兎も狐もミミズも走る。運が良ければカモシカも見る事ができるだろう。(保障はしません)
 雨の日が、特にお薦めです。

2009年8月1日土曜日

閑話番外 その七

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 書策小屋の親父、渋谷書策氏が亡くなりました。享年九十三歳、八十八歳直前迄小屋に居たのですが、大往生と思います。
 書策氏については此の本文でも触れて居るのですが、去年の十二月だし、当時は今より誰も来なかったので、再度文章を載せて哀悼の意とさせて頂きます。

 鎖場から登ると書策(かいさくと読む)小屋が有る。此処では立ち止まらねばならない訳が個人的に有る。今は休業中となっているが、再開されるのだろうか?
 親父は美味いコーヒーを入れてくれた。書策新道も一人で切り開いた。水道水を6リットル程担ぎ上げたら、「 何だ、水道水だって?そこに入れといてくれ」と、ポリバケツを指した。洗い水にする訳だ。畜生め、拘りが有る親父だった。老いてしまってからは、コーヒーも入れられなくなった。
 妻とセドノ沢を詰めた時だ。ルートを取り違え、変なザレ尾根とボサに散々痛めつけられた末、登山道にやっとの思いで這い上った。妻の草鞋は奮闘努力の結果、開き切って藁がはみ出し放題の姿であった。しかも泥まみれで有る。録でもない亭主を持つとそんな目に会うのですぞ。
 妻と、泥まみれで書策小屋に入り、ビールと言ったら無いと言う。じゃあコーヒーと言うと、ポットとネスカフェーの大瓶を出した。な、何だこりゃ!前は豆を挽いて薫り高いコーヒーを出してくれたじゃないかよ。しかも値段は同じだ。これじゃ潰れるぞ親父、しっかりしろ!
 壁には自分の新聞記事が一杯張ってあり、得意げに説明するのだが、コーヒーをどうしてくれるんだ……。
 それからは、通るたびに気にはなった。営業はしてるようだが、客はいなかった。売る物が無いのだろうから、当然だ。
 数年たって、Yと通りかかった。ハイカーが小屋の周りに休んでいる。小屋の戸は半開きで、親父、生きてはいるなと、ホッとした。すると、離れた便所から杖をついてよろよろと親父がやって来た。あ、親父だ。Yに言った。「 悪いが、親父の姿を見てしまった限りは、寄るぞ」
 例によってビールは無い。コーヒーはネスカフェー。しかも湿気って、半分固まっている……。
親父「うどんしか食べられないんだ」
 親父は歯が一本しか無い。
親父「昨日行水していたら、急に雨が降って、いや、息が止まるかと思う程冷たかった」
Y「それは辛かったでしょう」
 もう山を降りろよ親父、死ぬぞ。
私「荷揚げはどうしてるの?」
親父「皆がやってくれてね」
私・Y「……」
 もはや営業小屋ではない。自分の記事の説明も無かった……。
 外の小屋で聞いた。書策の親父はいくら説得しても山を降りず、ここで死ぬと言い張る、と。首尾良く死ねただろうか。多分多くの人を煩わして、降りた事だろう(最近分かったが、県警のヘリが出て無理やり下ろしたとの事)。苦労された方々は、本当にご苦労様でした。その方々には申し訳ないけど、親父は本望だったろうと、私は勝手に思います。

 ご冥福をお祈り申し上げます。