2009年1月31日土曜日

ただ一人の贅沢な夜 その一

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 予告通りに、やっと帰って来た大室山です。大変お待たせしました。(え、誰も待ってないって、え!)
 先ず姿が良い。八王子では富士隠しと呼ぶ。ははははは、金隠しかよ!……失礼しました、八王子方面の方々。
 加入道山とセットの山だ。自然歩道の犬越路から北に登れば一時間程で頂上だ。展望の山ではなく、見て立派な山だ。是非見掛けたら、立派!と言ってやって欲しい。でも見掛けだけで無く、登ってみても、とても良い山なのです。
 神ノ川から尾根に取り付いて、藪をこいでこいで、ボロボロになって頂上に着いた事が有る。途中に廃道と化した林道が有って、此れは一体何だろうと思って越えた。今の地図にはその尾根に路が有る。……無駄な努力だったんですなあ。
 手沢をYと詰めた時の事。前夜西丹沢に着いて、センターの中に寝袋を敷いて寝ようとした。ところが此れがひどい、石を床に植えて有る。痛いの痛くないのって、どっちだ?(この突っ込み、古いを通り越して化石じゃ、ド阿保!)あ、分かった、神奈川県はマゾなんだ。違うって!センターは寝る場所ではないの、分かった!?
 はい!分かりまちたでつ。
 止めよう……、一人漫才は虚しい。
 手沢は詰めからが勝負だった。意外だろうが、無名の沢の方が詰めはキツイ。有名な沢は人も来るし、ルートも辿り易い。マーカーまで有ったりするし、ハーケンと捨てザイルのご厄介になれる事も有る。滝にはプレートが貼って有り、藪にも踏み跡が有って、巻き道も分かり易い。意外とルート的には恵まれる(事もある)。でも、外した時の苦労は同じです。
 で、無名の(?)手沢の詰めです。藪という程ではない藪をこぎ続ける。これが意外と大変なの。詰らないガラガラを突破するのに、一本の笹や、すず竹を頼って、はーはー、ゼイゼイ言って、必死になるのです。根っからの物好きです。爽快感はなく、唯々キツイんだ……。一緒に来るYの神経をうっかり疑ってしまう。
 乾いた日で、斜面の土は粉末状になっている。ほこりっぽい?当たり前だ!休憩になるとYは軍手を外し、地に置く。ほこりに塗れた軍手は土と見分けが付かない。出発と言うと、Yは土から土を取って(そう見えた)手にはめる。とても哀れに思った覚えが有るが、同情はしませんでした。何だか情無いなあ、と思っただけ。思えば薄情な私です。それだけの話で、済みません。 (ただ一人の贅沢な夜 その二へ続く)

2009年1月29日木曜日

閑話 その十

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 山道具続きで、キスリングです。
 閑話その十で、ニッピンでキスリングを買ったと書いたが、結局二十五年使った。ボロボロになったので、新しいキスリングに買い換えた。そこで分かったのは、旧キスリングの綿布の厚さ。新品の倍近く厚い。従って重さも倍近く有った。成る程二十五年もつ筈だ。
 キスリングを使いこなすのは容易では無い。当時はキスリングのパッキングが出来て一人前と認められた。難しいんだ、馴れないとこれが。下手にやるとまん丸っくなって、とてもじゃ無いが、長い間背負って歩くには辛過ぎる。地獄の責め苦一歩手前だ。
 先ず軽い物は下に、重い物は上の手前。硬い物は手前にパッキン代わりの衣類を入れて、背中を保護する。で、最高の出来上がりは薄い長方形、一目で分かる見事さ。経験の無い貴方でも一発で分かります。詰まり、機能美。自然とジェット機が美しくなるのと同じ。美しく出来たキスリングは背負い易いのだ。
 威張る訳じゃ無いんだけど、私のパッキンは見事。え、自慢だって?良いでしょう!キスリングの自慢をする変な奴なんてもう殆ど居ないんだし、おまけに何の害も無いし……。
 憧れのキスリングは片桐の製品だった。手に入らないし高価だが、出来が全く違うそうで、サイドに登山靴が入ると聞いて、おー、何とでかいサイド!此れを読んで懐かしいと思った貴方、我が同士です。(え、嫌だって?)
 キスリングの欠点はパッキンの難しさの他に、紐を扱う事だ。細引きで締め上げ、確り結ぶのが不可欠。冬山では其れが辛い。だって手がかじかんで思う様に動いてくれないんだもん。紐も凍ってたりして。仕舞いには歯まで使って仕上げる。逆に到着した時は、指が動かず歯で紐を解く訳だから、今風のザックに接したら、どんなに愛するキスリングにも別れを、告げざるを得ない。(涙)
 キスリングと涙ながらに別れたのは、十年程前。でも今でも我が家に仕舞って有ります。何と言っても、私の山の原点なもので。
 極たまにキスリングのパーティに会う。と言っても数年前までの話だけど。まず大学のパーティとお決まりだ。あたしゃあ、思わず見とれて見送ってしまうです。多分自分の昔の姿とダブらせているのだろう。
 キスリングのパッキンには力が必要だ。踏みつけて押し込み、踏みつけて容を整えるのは当たり前。そして紐をあちこちに通して(旧品はそうだった、新品はフックが多用され、多少楽になっていた)結ぶ。終わった時には、ザックに血がついているのが常と言う有様。詰まり綿布に擦られた指から出血してるの。
 今風のザックは楽チンで、どんどん放り込んでパチンと留めて、一丁上がり。ただ、悪い癖で予算をケチり一寸と小さ目を購入した為、訳の分からない袋を三つもサイドにくっつけてだらし無く歩いているのが、何ともあたしらしい見っとも無さ、見たら笑えます。

2009年1月25日日曜日

林道でニギニギ その三

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  で、何を言ってるかってえと、山ではあっという間に迷う、事も有る。増してや、路の無い所に於いてはです。迷わない方がどうかしているのだ。皆さんは、どうかちゃんとした道を歩いて下さい。
 訳が分からなくなった。大野山・高松山に戻ろう。
 高松山に、高校生の時、クラブの連中と登った。制服姿であった。当時の高校生は真面目なのだ、えっへん。その癖ビールを持って行った(え、それ何だ?)。当時は未だ缶は無く、小さな瓶で、多分アサヒスタイニーだっただろう。(有りましたねえ)
 乾杯!栓を抜くと、泡、泡、泡、揺すられ、ぬるまったビールは、泡と消えた。ははははは……。
 大野山に、高校生の時に登った。K、S、(この二人はお馴染みのメンバー)U、D、外数人だった。制服姿であった。当時の高校生はまじ……、止めよう。
 Uは腕を吊っている。体育の柔道の授業の時、私と乱取りをし、私に投げられる体勢になったのに(投げられる体勢になったら投げられろというのが、体育の柔道のルール)、Uは往生際悪く足掻き、変に潰れて伸びた腕の上に私が落下した。ボキッと鈍い音が聞こえた。Uの悲鳴も……。
 それでもUは大野山に登った。腕を吊って。大野山は当時も牧場だった。従って余り山に登った気がしないのだ。だからって高校生には関係ない。山に来ただけで嬉しく、はしゃいでいた。ははははは、可愛いなあ、当時の高校生!
 何か胸が甘酸っぱくなった。(やばい!テルスターとか、プリーズプリーズミーとか、寒い朝とかが、聞こえる。勿論PPMも、星娘も、真珠採りのタンゴや、碧空も!)
 止めた、止めた、おセンチなおじさんなんて、不気味この上なしだ。
 寄(やどろぎ)で撮った白黒の写真が記憶に有る。S、K、と三人で秦野峠から高松山へ歩いた時の物だ。その時は峠への路は未だ辿れた。あれが、登山道では無い所(当時)を歩いた初めての経験だった。
 スタイルはニッカズボンに、キスリングを小型にしたような綿布のリュック。厚手の長袖シャツ。理に適っているじゃんさー。我々は結構やったもんなんだ。そう言えば私の靴はナーゲル!歩く博物館ものだ。(ナーゲルって知ってます?知ってる貴方は偉いと言おうか古いと言おうか、どっちにしろ立派!)
 二十歳位だった。それなのにとても疲れたと前に書いたが、踏み跡、植林道を地図を頼りに行き、たまにボサに入るという行程に、思いの外神経を使ったのだろう。三人とも、疲れたー、と言った記憶が有る。
 で、それが癖になっちまったのが、可哀想な私……。
 高松山・大野山は展望が良い。それに丹沢核心部を南面からじっくりと見る事ができる位置に有る。其の上登り易いのが嬉しい。これから丹沢と付き合いたいと考えている方は、先ず登って見るべき山だと愚考します。

2009年1月24日土曜日

林道でニギニギ その二

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 ???原小屋沢はぴったり詰めると水場へ出て、藪をこがずに済む良い沢なのだ。私もぴったり詰めた。水場から登山道迄、立派な路になっていて苦労しないのが売りなのに???どうやって迷うのだろう。
 でも事実です。事実は小説よりも奇なり。何日目かに、捜索隊の声が聞こえる。お―い、おーい、何々さーん。その人はさぞかし喜んだ事だろう、これで助かった!でも、助けてー、と叫ぶが声がかすれて届かない。無情にも捜索隊の声は遠ざかって行く。さぞや絶望した事だろう。結局彼は、偶然路を間違えて来た人に発見され、生還できたとの事。奇跡的だ。兎に角その人は、山にはホイッスルを持って行くべきだと、力説した由。余程声が出せなかったのが悲しかったのだろう。
 次の例は二月末。季節が過酷だ。熊木沢ルートか、弁当沢ノ頭コースかを下った人(済みません忘れちまった、アルツだ)が、迷って降り切れなくなった。
 ??でも前例よりは未だ分かる。所々不明瞭なコースだ。変に深みにはまると、崖で動けなくなる。で、彼は五日近く生き抜いて林道へ降りる事ができた。普通は数時間で林道へ行けるんだけども、それはこの際言わない。大した生命力で有る。私なら二晩で安らかな眠りに着いてしまっただろう。彼は冬眠中の蛙を掘って食べたそうだ。立派なレンジャー隊員になれる。
 彼はユーシンへ着けば助かると思い続けていたのだろう。当時ユーシンには小屋が有った。何とか林道に降り着いたそうだ。処が車道が少し高いので這い上がれない。相当ヤバイ、彼の体力は最早限界に達していたのだろう。上体だけを出していたら車が来た。手を振って叫びたいが、力が入らないのだ。あーもどかしい。仕方なくニギニギをした。一度減速して止まりかけた車は、急加速して走り去った。
 責められない。林道の横で何だか分からん汚い物(失礼、でも汚いに決まってる)がニギニギしていりゃあ、誰でも逃げる。勿論私もだ。(ひょっとして貴方もそうでは?)
 彼はさぞやがっかりした事だろう。お、捨てる神あれば拾う神あり、次の車が来た。ラッキー!今度は殊勝な方であった。降りて来て、どうしました?と聞いてくれたそうな。偉い、貴方は偉い、日本人も、まだまだ捨てたものではない!レンジャーの彼、蚊の鳴くような声(多分)で答えて曰く「ユーシンへ、連れて行って下さい」。
 哀れです。ユーシンだけが生きる望みだなんて。そんな人生、真っ平だ!
 冗談を言ってる場合じゃない。車の彼は分かっている人だった。ユーシンどころじゃないでしょう、と、車に乗せて松田の病院へ走った。だから彼の経験を聞けた。有難う御座います、車の方。 (林道でニギニギ その三へ続く)

2009年1月23日金曜日

閑話 その九

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 私の背負子は四十年前にニッピンで買った。重いアルミのフレームに綿布の負い紐が付いて、本体部分は荒縄を捲き付けて有ると言う凄まじい物だが、当時はニュータイプだった。
 あちこちで便利に使った。ダンボールを二個楽々括れるが、多くの場合はダンボール一個の上にリュックを乗せた。無造作に多くの物を運べるのが偉い利点で有る。
 欠点は、常に重心は後ろなので、後ろに引っ張り続けられるのと、綿布の負い紐が硬く遠慮会釈無く、無闇と肩に食い込んで来る事だ。尤も此ればかりは有りとあらゆる背負子の共通欠点で、ニッピンの所為では決して無い。
 兎に角、一時間も歩くと両腕共感覚を失い、紐から腕を抜くにも苦労する有様、大変です。でも四十代半ば迄は使っていました。其の後は大荷物が無くなって、仕舞って有るだけ。
 ボッカの皆さんは今でも背負子に大荷物を括って登っている。偉いなあ!!!
 ニッピンの関係者はおいでですかー?
 良し、居ないみたいだ。では語っちゃおう。昔の話ですよ、今のニッピンとは別世界だから誤解の無い様に!当時(四十五年以上前)は進駐軍(米軍)払い下げの用具が山で主流だった。国産品
は東京ではニッピンで買うのが通り相場。色々情報が入る。
曰く「ニッピンのピッケルで制動を掛けたら、シャフトが折れたって!」
 え、下手すると(下手しなくても)死ぬぞ。
曰く「アイゼンの爪が溶接部分で折れたって」
 げ、此れもやばい、下手すると死ぬぞ。大体からしてアイゼンって、打ち出しだろう。
 でも何でも安かったもんねー。安ければ良いのが私のポリシー、否、イデオロギー(おいおい、余りに恥ずかしい事夥しく無い?)。良いんです。安全より経済が優先するのだ、私の場合は!責任は、勿論我に有りですよ。
 キスリング、ナーゲル、ピッケル、ヤッケ、アイゼン、シェラフ、天幕、そして背負子、ヘッドライトから燃料とあらゆる小物迄買い揃え、何の問題も無く、何十年も使い続けたもんねー(本当に)。人の噂も(全面的には)当てにはならない。一つ有った事が大袈裟に伝わるもんなんだ、と若くして知ったのは極めて幸い、ニッピンさんのお陰です。
 若しニッピンの関係者が読んでいたら(読んでっこ無いって!)、そう言う意図なので怒らないで下さいね。
 今買い物するのはさかいや、飯田橋に有る。前は凄く良かった。品揃いが半端じゃ無かった。今は残念ながら、ミーハー路線に切り替えた感が有る(え、お前向けじゃ無いかだって、でも一寸と高くなったし……)。
 山道具のコンビニ石井スポーツ(失礼!)と是非差別化をお願いしたい。これも石井さんに失礼な文章、お詫びしますが、本心です。
 山道具は大切で尚且つ楽しい。見ていると夢が広がる。あの山で使おう、此の山でと。
 ま、結局自分で、使い易い物を探すのです。

2009年1月20日火曜日

林道でニギニギ その一

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 大野山、高松山について語ろう。両山共丹沢南面の牧歌的な山で、大野山は昔から牧場になっている。塔ヶ岳から東に向かう稜線は、鍋割山、桧岳(ひのきだつかと読む )、伊勢沢ノ頭、秦野峠と続き、峠で稜線は別れ、南下すれば高松山へ、西行すれば、ブッツェ平を経て大野山に至る。
 今はどちらの山も秦野峠からの路が記載されている。時代は変わったんですなあ。私が十代の頃、秦野峠から高松山を辿ったが、藪こぎ半分植林半分で、馬力の有る頃だったのに結構きつい思いをした。三十代の頃、大野山から秦野峠へ辿ったが、同じくで、大変だった。
 林道を作り始めると、秦野峠への登山路も見る見る廃道と化し、頑張ったがとうとう峠に着けなかった事が有った。秋の爽やかな日だった。そういう日は、一人で歩いているのが、妙に寂しく感じるものだ。尤もそれがまた無性に良いのだから、人の気持ちとは不可解極まり無いものだ。堰堤を幾つも越え、さてここいらから登る筈だと思うが路が無い。踏み跡も無い(多分見落としていたのだ)。滅茶苦茶を覚悟して藪に分け入れば何とかなっただろうが、あそこらの藪は相当ひどいのだ。で、止む無く撤退しました(当然、一寸と情け無くは有りました)。
 去年(平成二十年)二月、雨山峠から秦野峠へ歩いた。三昔前に歩いて以来で有る。結構藪山だとの印象だったが、藪が無い。冬だからだろうか。多分そうだろう。秦野峠からは林道をブラブラと下った。確か登山道は沢沿いだったな、なぞと思っているうち、あっけ無く橋に降り着いた。思いの外歩き易い。
 閑話休題(さて、とか、話はずれましたが、の意味。え、知ってるって?失礼!)高松山のヒネゴ沢を詰め、ビリ堂南の638mピークから西へ尾根を辿り、途中で沢に下って別の尾根へ登り返し、尺里(ひさりと読む)へ戻った事が有る。今、地図を見ると尾根は林道になっている。藪でビリビリになってしまったのだ。割と変態です。
 皆さん、真似をしないで下さい!大塚がやったんだから簡単だと決めては駄目です。何せ私は中学の頃から丹沢を歩いている。臆病で高所恐怖症でも、年季が違う、経験が違う。真似して良いのは年季の入った物好きの方だけですよ。
 くどくて済みません。
 でも、思わぬ所で思わぬ思いをした人が大勢いる。その内の、幸運な例を二つ程。(不幸な例は沢山あると思うが、最早真相を本人が語れないのだ)
 前章にも書いた原小屋平の水場、蛭から右手の原小屋沢源流へ、水を汲みに行った人があったと思いなさい。夏です。その人が登山道に戻れなくなり、原小屋沢源頭を六日さまよう事になった。 (林道でニギニギ その二へ続く)

2009年1月19日月曜日

閑話 その八

冬、人

 一人でラッセルしたのは精々300m、限界でした、もはやとっくに若く無い!すごすごウソッコ沢小屋へ戻った。今から下っても一日一本のバスは無い。それに運休だろうし。すると尾根を詰めると言っていた男性もすごすごと現れた。ラッセル敗退の同士よ、ご苦労さん!
 翌朝は曇り。私は下山、敗退の同士は雪遊び。畑薙ダムの公衆電話からタクシー会社に電話。
タクシー屋「雪が降ったので行けません。どこか下の集落から又電話下さい」
 何だよ静岡交通!此の位の雪なら東京のタクシーだって平気の平左だぞ、東北のタクシーなら、片目片腕で鼻歌でやって来るってんだ!ああそうかい、やってやろうじゃねえかい、歩いて見せらあ、こちとら登山者でえっ!(え、其の意気をラッセルで見せろって?……無言)
 結局、雪を見に来た車に拾われ静岡駅に送って貰いました。口ほどにも無いです、はい。
 さて其の翌年、三度(みたびと読んで下さい)静岡駅。目出度くバスで何時もの通り、ウソッコ沢小屋は一人きり。茶臼の夜は若者と中年の単独行者と同宿だ。偉く寒い、二年前は満員だったので暖かかったのだ。今回は三人のみだから、森々と冷える。
若者「ダイオードのヘッドランプを買ったんですけど、電池が六十時間もつんですよ」
私・中年「ほー、凄い」
若者「唯、色がブルーなんで寒い感じです」
 若者はヘッドランプを取り出し
若者「あれ、変だ、点かない」
中年「なーんだ、電池切れだろう」
若者「新品電池なんだけど」
私「冷えると電池は消耗するよ」
 若者は電池を入れ替えた。ぱっと青い光が広がったが、確かに寒々しい。
若者「本当だ、冬だと電池がもたないんだ」
中年「此の色は寒くていけねえや」
 中年氏は十本程(!)ローソクを出し、火を点け、私と若者もローソクを出し火を点けた。確かに物理的にも精神的にも暖かい。やけにローソクだらけで一寸と変では有るが。
中年「な、こっちの方が良いや」
 で、翌朝は二年前と同じガスとより強い風。一応稜線には出たが、完璧に歩行困難、匍匐では上河内岳には辿り着けない。諦めて振り返るとガスが薄れ、茶臼小屋が折り良く見えて朝日に染まっている。やったー。

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 写真をと思いビニール袋からカメラを出した瞬間、ビニール袋は風が手から捥ぎ取って、あっと言う間に宙に消えた。強風ですなあ。
 下山の一手だがトレースも風で消えている。其処は良くしたもので、前日こんな事も有ろうと、トラバースの目標を覚えておいたのだ。歳を取って良かったのはそんなとこかなあ。
 で、無事下山、おまけに後から降りて来た若者の車で静岡駅迄送って貰えた。それで、上河内岳は?それは、何時の日にか行きたいのです。最早見果てぬ夢なのだろうか。

2009年1月18日日曜日

閑話 その七

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 本文に三度も挑戦した変な沢という章が有るが、三度も挑戦して失敗した冬山の話で、丹沢と離れるが、山繫がりでご容赦。
 南アルプス南部の上河内岳、茶臼岳と聖岳の間で茶臼の方に近い山で有る。普通は、何処其の、かみ何とかだけって?と聞かれる山。
 一昔前、静岡駅からバスで三時間、終点は夏と違い畑薙ダムの手前、ダム迄歩いて丁度一時間の国民宿舎前なので、偉く余分な苦労をさせられる。冬山装備はうんと重いのだ。
 初日はウソッコ沢小屋(此処も横窪小屋も茶臼小屋も、冬は無人小屋)を独り占め。翌日茶臼小屋にひーひー言って辿り着くと、快晴のどっぴんかん、茶臼岳をピストンしたが、思えば、この日が上河内岳に登り得る唯一の日で有ったのだ。
 茶臼の小屋は、荒川岳から縦走して来たパーティや、聖岳からのパーティがいて大混雑、私は上の棚に静岡は清水から来た五十代と三十代の男性二人連れと一緒に入った。五十代氏は疲れていて、さっさと寝ようとする。
三十代氏「え、もう寝ちまうのかい、面白い話の一つもしてくれよ」
 流石、清水ならではの言い回し!でも五十代氏は寝てしまった。面白い話の一つも無く。
 翌朝、降ってはいないがガスと強風、私は一発で諦め、食事をして下山支度をしていると、果敢にアタックに出掛けた其の二人が雪塗れで帰って来た。
曰く「全然駄目、吹き飛ばされそうだった」
 そうでしょうとも。で、さっさと下山し、バスを待つ間、国民宿舎で食事をし、帰京。

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 翌年、又静岡駅に着くと、降雪の為バスは運休。な、何て事!と慌ててJRで金屋へ行き大井川鉄道に飛び乗る。井川にタクシーは無いと聞いていたので千頭で下車、タクシーで畑薙ダムの三十分程手前迄入る。其処からは凍結が酷く限界だった。初日は例によってウソッコ沢小屋。単独行の男性が居て、尾根を真直ぐ突き上げ茶臼を目指すとの事。
 翌朝は降雪。ま、アタックは明日だから良いや、と登りに掛かる。雪はどんどん降る。私はゼイゼイと喘いで登る。三十代ならとっとと登るだったのになあ。
 横窪小屋に十人程のパーティが休んでいた。
曰く「積雪が酷く、引き返して来たんです」
 やばい!半端で無くマズイ。でも折角タクシーを飛ばして来たのだ、やれるだけやって見よう、今のパーティは大事を取り過ぎたのかも知れないし……。お馬鹿ですねえ、そんな事有りっこ無いでしょう!去年はスパッと状況判断できたのに、万余のタクシー代に目が眩んだんだ、情無い貧乏貧相な私。若い大パーティには無理でも、単独のおじさんなら出来ると思った訳?
 どんどん行きました、彼等が引き返した地点迄は。其処からは膝上のラッセル、しかも雪は降り積もる。傾斜が増すと腿上の深さになってしまい、汗だくに頑張って諦めました。長くなりました、続きは閑話その八で。

2009年1月17日土曜日

蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その六

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 Yも先行者が休憩しているのを認め、慌てて軍手で拭っていたが、拭いきれる量では無い!Yの仲間だと思われるのが、とても恥ずかしかったです。そう思う自分が恥ずかしいです。でも、それは当然だと弁護する自分もいて、とても複雑です。此の心境が分かる貴方は最早哲学者です。
 で、其処からは私がラッセル(軽いやつだけど)を変わって蛭迄行ったが、あのYのぶら下げていた洟水は、今でも謎だ。是非見せて上げたいです。(嫌だって?当然です!)
 この夜は、暗くなってからザイルを肩にした青年を先頭に十数人の中高年パーティが小屋にやって来た。北海道から来たそうだ。ザイルは鬼ヶ岩の下りで使用したとの事。鬼ヶ岩に新雪が付くと、登れるが下りは見当がつかず、大苦労となる。青年は荷物を下ろすと、大鍋を持って暗い表へ飛び出して行った。雪を取って水を造るのである。外の中高年メンバーはバテバテで、Rさんがお茶を配って走り回っている。
 いやー、見事な青年でした。あのパーティを無事に連れて来、せっせと世話をしているのだ。こういう人を見ると、私は手放しで感心し心から尊敬してしまうのだ。
 いびきと洟水は別にして、山好きにはこたえられない小屋だった。でも今は無い。YもRさんのいない小屋には行きたがらない。では、頂上を辞するとしよう。
 ブナの林をひたすら下ると原小屋平。左右どちらにも水場が有る。そこから一登りで姫次です。
 ある目茶苦茶熱い(変換ミスではなく熱かったのです)日、私は東野から姫次へ登って来た。樹林の中で蒸されて蒸されて、完全に参った。でも此処迄来ればあと二時間足らずで蛭だ。現に蛭がすぐそこ(?)に見える。ベンチには二人の青年が寝転がっていた。私も荷物を下ろし、ベンチに座る。即座にベンチが私の汗でびっしょり濡れる。
私「君達、蛭かい」
青年「そのつもりだったんですけど、引き返します」
私「え、すぐそこだよ、一緒に行こうよ、見えてるじゃない。ゆっくり行けば着くさ」
青年「足がつっちゃって、歩けないっす」
 もう一人の青年が無言で頷く。
私「……そうか、つったか。暑いからねえ」
青年「……限界です」
 気の毒な青年達。本当に暑かったから。そんな日は滅多に無いので、安心して下さい。普通は此処(姫次)迄登れば、とても涼しいのです。
 後は前に書いた通り、八町坂を黍殻に向かって下り、最後のピークは焼山となる。展望をゆっくりとお楽しみ下さい、焼山からは一気に里へ下るだけなのだから。
 この章の終わりに、

 主脈を決して急いではならない

 一日で走り抜ける人もいるけど、中高年には(否、全ての人にとって)とてつも無く勿体無い事です。

 

2009年1月15日木曜日

閑話 その六

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 写真の話です。
 各章の先頭に上手くも無い写真を載せているが、文章だけが並んでいるよりはマシかな,枯れ木も山の賑わい、との考えなので、お目汚し失礼!
 私はたまたま休んだ時にシャッターを切るだけで、其の一枚を目指して山に行く人達とは、心掛けから腕前までとことん違う。威張る積もりは無いが、ど素人だもんね~♪
 以前はペンタックスを使っていたが、割と自動化されていて、電池に頼る物だった。昭和六十三年の春、五竜へ行き本人なりに結構良い写真が撮れたぞとほくそ笑み、現像された物を見たら殆どがオーバー、「ああああ……」と嘆き、写真屋に相談したら、積雪期はマニュアルに限るとアドバイスを受け、ニコンF2を購入し今日に至っているのです。
 しかも生意気に、初心者はポジの方が撮った其の侭で仕上がるから勉強になると、何かで読んですっかりその気になって、マウント迄しちまう間抜けさは、今だに続いているのだ。えっへん。(???)
 そのポジを富士フイルムでデーターにして貰い載せているのだが、其れ(昭和六十三年)以前の写真は無い。写真は相当撮って有るのだが、引越し(平成二十年十一月、つい此の間)の時、写真だけ残してネガを全部捨ててしまったのだ、妻が……。私が自分で梱包しなかったのが元々悪いし、「え、必要な物なの?」と訳の分からない妻を責める訳にもいかず、泣き寝入り、従って最近(済みません、二十年間では最近なんです、此の歳になると)の写真ばかりで有る。
 後で本文に出て来る私達でやっていた零細山岳会で写真係をすると、Sは抜群に上手く、IとTは並の腕で私とNは下手、Kはすこぶる付の下手だった。Sはプロのカメラマンになった。栴檀は双葉の頃より芳しい、を地でいった訳だ。尤も記録係として文章を書かせれば、私は結構優秀だった(え、そうでも無い?)。
 此のブログの面倒を見てくれているAは写真が上手い。センスが私なんぞとは桁違いなのだ(私と比べるなって?ご尤も!)。何気無い物を何気無く撮り、それが良い作品になってしまう。矢張り写真はセンスの世界なのだろう。私の出番なぞ無いのが当たり前です。
 マウントした写真なので、現像成ると我が家でスライド会を開催する。掻き集められた家人は良い迷惑で、欠伸はするは私語は交わすは、元気だった頃の母は「あそこに人の顔が写ってる!」なぞと口走るし、騒がしい中無理やりスライドを映し続ける私も、相当な困ったちゃんで有る。
 家人にぼろ糞に言われた写真を披露するのも気が引けるが、冒頭にお断りした通りの訳なので、嫌でしょうがお付き合いいただけたら有難いのです。

2009年1月14日水曜日

蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その五

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 ある朝、皆さん並んで朝食をお盆で受け取って来る。早速横目で覗き込むと、封も切らない農協ご飯と味噌汁、キューちゃんの漬物と振りかけだった。受け取った人の情けない顔。大喜びで同行のYに教える。
私「Y、農協ご飯と味噌汁、漬物と振りかけだけだ、可哀そうに」
Y「しーっ、聞こえるよ」
私「見たか、あの情ない顔、はっはっはっは」
Y「……ひどい」
 書いていて呆れる。私は丸でたちの悪いヤジ馬そのものだ。其の上僻み野郎。人間の屑寸前とは此の事、深く反省しますです。
 そのYの話。Yは私の事を、やれヤジ馬だ、余計なお世話だというが、私は本質的に人に迷惑をかけたり(それほどは)しない。だがYは違う。
 別の時、季節は秋。北関東訛りの四十代末と思われる男性二人が、夕食を食べながら打ち合わせていた。勿論、旧蛭ヶ岳山荘の話。
「明日は四時には発って、朝飯は桧洞丸でどうだ」
「良いね。良し、ライト点けて、早発ちだ」
 この遣り取りは、尻上がりの北関東訛りですよ!
 この夜、この二人は私とYと、相部屋になった、Yは「いびきをかきます、済みません」とか言って、二人は、知らないものだから、「どうぞ、どうぞ」と呑気なもの。知らないとは恐ろしい。
 猛獣の叫びのようないびきが響いた。私は慣れっこ、何でもない。勿論、北関東の二人は慣れてないのでしょうね。翌朝五時、私達が朝食を食べていると、出発していなければならない二人が、ノロノロと、朝食の支度を向こうでしている。きっと、いびきで寝られず、出発できなかったのだ……。犯人Yは背を向けているので、全く気がつかない。知らぬが仏とはこの事で有る。
 北関東の二人は、チラチラと私を恨めしそうに見る。あ、違う俺じゃなく、こいつだ、とも言えず、その視線が怖かった。Yの人でなし!
 ついでにもう一つY談を。と言ってもYの話という意味です、期待した貴方、残念でしたね。へっへっへっへ……。(悪趣味?)
 焼山から姫次を越えて、蛭の登りにかかろうという時だ。積雪は30Cm、焼山から途切れずに二人の足跡が続いていて、そのトレースに乗って来たのだ。その先行者二人が雪上に立って休んでいた。遅れているYを振り返って見た。胸の前に何かブラブラさせて歩いて来る。一体何だ?
 近づいて来たら驚いた。洟水(はなみず)が二本、何と胸迄垂れて、歩くにつれて左右に揺れているのだ。そんなの見た事有りますか?普通だったらたらたら流れるものでしょう、洟水って。それが長い固形物と化して揺れているなんて、それも二本……。 (蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その六に続く)

2009年1月11日日曜日

蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その四

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 正面は富士山で有る。一寸と目の下には臼ヶ岳と桧洞丸が形良く鎮座していて、其の右隣には大室山。左には塔へ連なる稜線が、右には姫次から袖平への柔らかな尾根が見える。冬なら富士の右に白銀の南アルプスが望めるのだ。流石丹沢山塊の最高峰、掛け値なしの絶景なのだ。
 ある秋の夕暮れ、ビール片手に景色を見ていると十人程のパーティが桧洞側から登って来、一寸と景色に目をやり、原小屋平方面に下りて行った。多分幕営なのだろう(内緒です、丹沢は本来幕営禁止です)、日暮れが近づいた為急いでいた様だ。
 間も無く、男性に伴われた娘が登って来た。今の本隊に遅れたらしい。
男性「良く頑張った。後は下りだからね」
娘「……」
 娘さんは夕暮れの景観を見、感動で(そしてもう登らなくて良いという安堵で)静かに泣き出した。美しい光景だ。
 二人が去って間も無く、太めの中年女性を、男一人がザイルで引っ張り、もう一人が後ろから押し上げて、登って来た。これがそのパーティのラストのグループだったのだ。
男「(ゼイゼイ)さあ、日が暮れる」
女性「(ゼイゼイ)うー……」
別の男「(ゼイゼイ)さあ、頑張ろう」
女性「(ゼイゼイ)うー……」
 美しくない。唯々気の毒だった。夕暮れの景観に似合う状況とは、おのずと限られるものなんですね……。
 雪が積もると綺麗なスカブラが現れる事も有る。粉雪が風に巻き上げられ、真っ青な空で煌く。綺麗わー!(失礼、関西のおばはんでもないのに)
 夜、小屋の裏に回ると、黒々とした大山を前景に、相模平野と関東平野の大夜景、光の海なのだ。少々の寒さなんざ我慢しよう。当時はダルマの空き瓶が山になっていたから、気をつけよう(ま、今は無いんだけど)。Rさんはダルマ(ウイスキーですよ)が好きだった。前にも触れたがビールも好きだった。ま、酒なら何でも好きだったのかも知れない。
 私はこう見えて(こうって何?)シャイで人見知りで、人には無関心の傾向が大いに有るが、山では変わるみたいだ。あのパーティはどこそこへ向かうみたい、とか、あの人はテルモスにコーヒーが入っているとか、どうでも良い事が気になってしまう。(詰まりヤジ馬?)
 特に小屋で出す食事が興味津津。私は何時でも自炊宿泊なので、ご苦労にもわざわざ見に行く。昔の蛭の小屋は、原則自炊なので、ろくな食事は無いとうたっていた。最高じゃんかさー、そう来なくっちゃ!北アルプスの小屋なぞ、しっかりした食事なので、食堂を覗きに行っても面白くも何とも無い。自分の粗末な食事が悲しくなるだけ。フン、楽して美味いもんでも食って、豚になっちまえ!(済みません、僻み根性です、捻くれてるもんで……)
 蛭では混んだ時こそねらい目だ。煮炊きが間に合わないのでレトルト食品になる。フッフッフッフ……。 (蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その五に続く)

2009年1月10日土曜日

閑話 その五

イラスト

 “閑話”は写真でなく、なるべくイラストで行こうと思っています。本当にどうでも良い事だろうけど(読んでいる人にとって、ま、若し居ればだけど)、閑話その五で触れた流産してしまった本と関係が有るのです。 
 流産した本は予算の都合上写真は使わず(使えず)、イラストを挿入する事になっており、表紙はこのブログ冒頭の“始めまして”の靴の絵。しかも白黒。考えて見れば貧弱ですなあ(考えなくても貧弱だって?……正しいんだけど、一寸と悲しい)。
 本には所々にイラストを入れ、それを描いたのは妻なのです。下手でも何でも、忙しい中(当時は母の介護の真っ最中)せっせと描いてくれた以上は、何とか活用したいと思うですよ、普通の神経なら。幸い私は普通の神経なので(?)活用するのです。迷惑なら、謝っちまいます、御免なさい!
 残念なのは妻が山の絵の苦手な事。従って山用具の絵が主になってしまう。
 山頂でスケッチをする人が偶に居る。今は便利な道具が有り、一本の筆で色を変え、さらさらと描き上げて行く。横で覗いても上手いなあと関心してしまう。私は妻にそんな暇は与えず、ただただ歩かせたので、妻にとっては、景色なんぞは夢のうち(山の歌に有りましたね)、山を描けないのは当然の事です。私の責任って訳でご容赦下さい。
 絵は写真と違う。一見写真かと思われる絵でも、伝わって来るもの、迫力、その裏に有るものが全然違う。描いた人の心が反映されるからだろうか。聞いて下さい、お前に絵が分かるの?全然分かんないもんねー。分からないし描けないしー、それでも本物は分かる、目の当たりにすれば、私でさえ嫌でも分かってしまうのだ。
 ピカソ展を見に行ったと思いなさい。変な電球の絵が有る。黄色い光が照明器具から流れ出している絵。その光が本当に流れて見えるの。凄い!で、その絵葉書を買って来て、トイレに貼って有るけど、光は全然流れない。決して場所の所為では無い。唯の分からん絵。本物は凄いと知りました。
 あ、ピカソとか絵の話は、妻のイラストとは関係無い話です。誤解の無い様に。
 詰まり、万が一読んで居る方に、変なイラストの入っている言い訳をしているのです。ヤバイ、妻が此れをうっかり読んだら怒る。フッフッフ、大丈夫、読みっこ無いって。
 って事は、此処は女房すら訪れない絶海の孤島……。ほっとしたり悲しくなったり、人生とは複雑ですなあ。
 そう言う事で、今後共宜しくお願い致します!

2009年1月7日水曜日

蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その三

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 Rさんを嫌う人もいるかに聞く。でも、旧蛭ヶ岳山荘に何度も泊まった人は知っているだろう。最高の山小屋で、最高の山小屋の主人だったと。
 Yと、秋深い頃岩水沢を詰めた。(蛭ヶ岳にはYと行く事が多かった)Yが参っていて、汗だらけで進まない。花立の大階段を塞ぐ人のように、両手を広げて左右に揺れている。足を動かすので、お、進むのかと思うと、一歩下がってしまうのだ……。待ってる私は風に吹かれ放題、袖口は凍り付き、濡れた地下足袋で足の指が千切れる程痛い。でも待つしかないのは、結構きつい。お願いだから下らずに登ってくれYよ!
 やっと頂上。ストーブを楽しみに小屋に入ったら、数人の登山者がポケットに手を突っ込み立っている。情無い事にストーブは燃えていない。従ってとても寒い。で、仕方なく私達もポケットに手を突っ込んで立っていた(座ると寒いのです)。
 そこへRさんが現れた。荷揚げをしていたのだ。小屋がシーンとしていたから、誰も居ないと思っていたらしいRさんは驚いた。皆が記帳しようとすると、「ま、先ずお茶を、お茶を」と慌ててお茶を出し、ストーブを点けた。当たり前?そう、何時でも当たり前の事をした人です。だから素晴らしい。
 居ない事もあった。バイトしか居ない。聞くと、パットレスだと言う。そう、北岳です。バイト君は今日降りたかったと、嘆いていたが、Rさんは翌日帰って来た。最後迄現役の登山者だった。
 水が無い小屋なので、水汲みが大変なのだ。原小屋平の水場で汲む。私が空身で歩いても、行きに五十分、帰りに一時間半はかかる。もし水汲みをさせられたら、私なら一散に逃げ去るだろう。其処を、Rさんはしょっちゅう往復していたのだ。
 混む日はビールは一人一本と制限された。バイト君の話だと、Rさんが、自分で飲む分を必死に確保しているとの事。全て熊木沢コースから担ぎ上げるのだから、偉い苦労である。熊木沢コースは息つく間もない急登の連続なのだ。飲んで下さい、自分で苦労して担ぎ上げたのだから!尤も、慣れた客はビールを買わない人に「貴方の分のビールを買いますよ。へっへっへ」とか言って、何本もせしめてはいたが。
 Rさんと、その熊木沢コースで擦れ違った事が有る。私は下りだったし、リュックも軽くて気楽だ。Rさんは、背負子にでかい荷物を括って、流石に息も絶え絶えだった。
私「Rさん、大変ですね」
R「ハーハー、歳です、ハーハー」
 その貴重なビールにケチを付ける人も居る。
曰く「何だ、このぬるいビールは、冷蔵庫も無いのか」
 無いよ、見ろよ、ランプだろう、電気は無いの、ランプじゃビールは冷やせないんだ!文句が有るなら、北アルプスか尾瀬に行け。間違っても、南アルプス南部や蛭には来るんじゃない!
 勿論、心の中で思っただけです。怒鳴りつけても良かったかな、とは思う。思わず熱くなっちまった。表に出て涼みましょう。 (蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その四へ続く)

2009年1月5日月曜日

蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その二

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 去年の秋(平成十九年)、突然長男が表尾根に行きたいと言い出した。山好きでも無いのに何の間違いだ、悪い物でも拾って喰ったのだろう。おまけに予定日は雨。装備はGパンとスニーカー、木綿の格好良いシャツ。
私「明日は雨だぞ」
倅「だから静かで良いんだよ」
私「雨具は俺のを持ってけ」
倅「地図とリュックを貸して欲しいんだけど」
私「良いよ」
 服装についてはわざと触れなかった。言っても分からないが行けば分かる。嫌でも分かる。少なくとも死にゃあしないさ。案の定、雨の表尾根を歩いてしっかり思い知って、長男は帰って来た。
倅「Gパンは駄目だ、冷たくて固くて、酷い苦労だったよ」
私「そうだろう。ポリエステルにするだね」
倅「コットンは山に向かないんだね」
 そう、良くぞ気づいた。でも昔はポリエステルは無かった。ゴアも無かった。せいぜいウールが救いの神だった。だから、凄く山の怖さを強調した。今は逆の怖さが有ります。優秀な装備、整った環境、快適な山小屋(食事つき、頼めば弁当迄OK)。で、安易に登り(登れるし)、中高年がばたばた死ぬ。平成十七年には二百名以上(!)の遭難死者が出た。もう遭 難の記事は見たくないのです。原点に戻るべきだと思う。どの時代でも山は公園ではなく、大自然なのだ。再認識しよう。そうでなければ、遭難碑の四人が浮かばれない。
 繰言は大概にして棚沢ノ頭に登ろう。水場が有って嬉しい。蛭ヶ岳には水は無いから、補充して下さい。丹沢には珍しく、凄く近い水場ですからね。あれ、私は誰を対象に書いているんだ?案内書でもないのに。丹沢好きな人が対象だから、ま、これでも良いか、と思って下されば有り難いです。
 不動ノ峰から鬼ヶ岩に至る行程は、至宝のコースなのだ。嘘だと思う人は是非一度歩いてみましょう。これは本当に止めない。東丹沢此処に有りの感を抱く事間違い無し!
 鬼が岩の上で記念写真をとる人は転げ落ちないように気を付けましょう。落ちたら、とてつも無く酷い事になるので。
 鬼が岩から蛭ヶ岳への登りは、見た目と違い思いのほか楽だ。一寸と前はブナの中を登ったのだが、最近は階段を登る。悲しいが、自然保護なので仕方ない。ブツブツ言って諦めよう。
 蛭の小屋は新築なって、神奈川県営になった。県営小屋は置いておいて、私が語りたいのは旧蛭ヶ岳山荘、そう、Rさんの小屋だ。
 Rさんを嫌う人もいるかに聞く。でも、旧蛭ヶ岳山荘に何度も泊まった人は知っているだろう。最高の山小屋で、最高の山小屋の主人だったと。 (蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その三へ続く)

2009年1月4日日曜日

閑話 その四

イラスト10

 先ずは白状致します。旦那、あっしがやりやした。
 閑話その一で、本文に挿入すると書いた訳は、本来出版される筈だったものを手直してブ
ログにアップしたからで、敗残の晒し者とはこの事です。 平成十八年、定年迄一年半の時
に新たな仕事を始めんと退職し、団塊の世代の同期生を出し抜く心算が大失敗、技術を
身に付けようとの志は立派ながら選んだのは何故だか医療事務。此の歳でも挑戦可能だと
判断した訳で。 ハローワークの職員は「医療事務?止めませんけどね」と意味有り気にの
たまい、だったら止めてくれよ!と今になって思うのだけれど、その時はやる気満々、講習
を三ヵ月受け、それこそ必死にやって、目出度く医療事務の最難関といわれる、合格率27
~29%の資格を取得しました。処が医療事務は女性の仕事、男女機会均等法とは別世界
で男は不要、たまに有る男の求人は要経験者で、詰まり私はお呼びで無いの一言だったの
です(涙)。
 同時進行で書いていたのがこれ、死ぬまでには丹沢の本をだしたいと思っていたので書き殴
り、持ち込んだのが“新風舎”(ご存知でですか?自費出版詐欺で訴えられた出版社です)、
マニュアル通りに「一気に読みました、これは世に出すべきです」と煽てられ、豚も煽てりゃ木
に登るの喩えその侭(恥ずかしながら私は煽てに無闇と弱くて、いや、どうも……)、なけなし
の退職金の一部を払い込み、校正を重ねてさて来月には出版と、ワクワクと待っていたら、あえなく“新風舎”は倒産、残ったのは呆然とした私と原稿のみ(再び涙)。
 笑っちゃうでしょう。笑って下さい。笑う門には福来たる。幸せになってください。
 毒にも薬にもならないこんな本を出しても資源の無駄遣いと無理やり納得していたが、そこは未練タラタラの私の事、友人がブログを出せと薦めてくれていた事を思い出し、彼に頼んでこれを立ち上げて貰った次第で、いや、情無いのです。
 その友人とは後で登場するAで、コンピューター畑のバリバリ、すっかりとことんお世話になっています。
 従って、ブログの容を取ってはいるが、消えてしまった本の亡霊というのが正しい位置づけで、なんともだらしない打ち明け話、申し訳有りません。
 はっきりさせておかないと、何じゃこりゃと思われるのも困るし、自分が忸怩たるものを抱えてしまうのも嫌なので、白状してしまいました。
 改めて笑って下さい!

2009年1月3日土曜日

蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その一

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 東京より望む夕映えの丹沢は、左端の大山から始まるが、主脈縦走は大人気の(?)大倉尾根の登りから始まる。
 塔ヶ岳迄は、大倉尾根の章の通りです。さて、塔ヶ岳から蛭ヶ岳が、東丹沢のハイライト、熊笹とブナ林、バイケイ草と三つ葉つつじ、ガスの中では幽玄で、晴れれば見事壮快な稜線歩きなのだ。富士山と桧洞丸、大室山を友として、疲れを忘れる、かも知れない。どっちにせよ疲れる人は疲れるのだ、はっはっはっはっは!失礼しました、勿論私自身の事です。
 残念なのは、最近はブナ林の元気が無い事だ。酸性雨の影響だと思われるが、Co2等の排出を、何とか皆で抑える努力をしましょう!私も極力車は使いません……。
 塔ヶ岳を発てば幾ばくもなく日高(ひつたかと読む)を越え、しばらくで龍ヶ馬場だ。ここから見る朝日は相模湾を金色に染め、息を飲む美しさ。一度だけだが、見る事ができた。もっとも塔から見ても同じだろうが、もう一段引いた感じが絶妙なのだ。
 丹沢山は三ツ境と呼ばれていた(愛甲、中、足柄上の三郡の境)らしいが、丹沢唯一の一等三角点が有るので、丹沢山になったようだ。らしいとか、ようだ、ばかりで御免なさい。面倒くさがり屋なので、調べる労を惜しむのです。(ものを書く資格無しだって?はい、同意します!)
 ここの小屋はみやま山荘で、最近新築なったが、未だ訪れていない。古い建物の時はご厄介になったんだけど。D、K、S、Uと泊まった時はひたすら雨で、一晩中ブリキ屋根(当時)を叩く音が響いていた。予定は主脈縦走だったが、強気が売りのD(此のパーティのリーダーだった)が弱気になり「大塚さん、どうしよう」と不気味な事を言う。普段は、「おい大塚、こうするからな、文句言うな」なのだが。結局主脈縦走を諦め三ツ峰を下った。雨の三ツ峰も素敵でした。というより、三ツ峰は雨の時こそ素敵な一面を見せるのだ。
 丹沢山の下りを、ツルベオトシと言うが、その前の鞍部に遭難碑が有る。今も有るのかなあ。去年は見かけなかったが、朽ち果てたかも知れない(平成二十年春に探しが、矢張り見つけられなかった)。戦前の慶応高校生四人の遭難碑だ。当時は小屋は塔にしかなく主脈も天候次第では命懸けの縦走だった。だから悪天候の中、高校生が枕を並べて死んでいたのだ。今とは装備が違う。桁違いに違う。ゴアなんて無い。降ればびしょびしょ、そこで吹かれれば一発。不謹慎に聞こえるでしょうが本当なのだ。疑う人は、全て木綿の衣料で身を固め、雨の山を歩いて見て欲しい。絶対思い知る(きっぱり)。 

蛭ヶ岳のビールのぬるい訳 その二へ続く) 

2009年1月1日木曜日

閑話 その三

イラスト3

 蛭ヶ岳の名前は蛭が多いからだと何かで読んだが、確かに東面は蛭だらけで、早戸川を渡渉する時なぞは必ず蛭にやられる。
 釣り人は良い、馬鹿長と称する胸迄覆う長靴(?)を装備している。こちとら、登山靴を脱ぎ、ひたすら渡るのみなので、蛭からすれば鴨葱状態、わっと寄って来るのも無理からぬとは理解してはいるのです。
 蛭の身の上話では無い。そんなもん聞きたくも無い。
 蛭ヶ岳山荘が一番混むのは(詰まり丹沢が一番混むのは)五月なのだ。当然、当たり前田のクラッカー。古くて御免(ペコリ)。暑く無く寒く無く、絶好の季節の上に連休と来ちゃあ山好きは勇んで出掛け、大変な事になるらしい。私はその時期は大抵は上越なので知らないが、旧蛭ヶ岳山荘で教わったのだ。
 当時は二百人収容の小屋だったが、そんな人数では無く、どんどん人が来るそうで、仕舞いには土間は愚か、階段に迄人が寝ている状態で、他の小屋で覚えが有るが悲惨とは此の事です。
 お盆の北穂小屋に泊まった時、天候悪化で幕営客も飛び込んで来て超々満員(私は巡り合わせ良く、しょっちゅうそんな目に会います)。短パン半袖ですっかり日焼けして熱くて痛くて(経験有るでしょう?)居たたまれず土間に逃げたら、同じ思いの同士達が数人シェラフカバーに入って転がって居る。残念ながら私のカバーはザックに入っていて、それも山の様に積み重ねられたザックの一番底、試みたけど取り出すのは不可能、丸くなって寝るしか無く、偉く寒かったのです。
 蛭ヶ岳山荘に泊まる人は未だ良い。良くないのは夕暮れ迫るのに降りて行く人達。
 曰く「済みません、懐中電気は有りますか?」
 有るけど売り物では無く小屋の必需品なので、無いと答えざるを得ない。当然で有る、何考えてんだ!それが親子連れだったりするそうで、「可哀そうに、苦労したでしょうね」と言う事になる。
 「水を売ってください」も多かったそうで、水は無いと書いて有るだろう!とは言えず水場を説明するが、切羽詰った人には内緒で分けていたそうで、大変ですなあ。今の県営小屋は水もヘリで大量に荷揚げするので大丈夫、売って呉れるが、ビールと同じ値段。当然の事、ヘリの料金は内容で無く重さだから。とても無粋ですと、ヘリに言ってやりたい。
 混む時は常連客が狩り出される様だ。ある混んだ日、ビールを運んで来てくれた中年の男性は「登って来たら、突然手伝ってと言われて、いやー、参ったですよ」と満更でも無い様子で語った。
 そうでしょう、そんな時は一人や二人では無理だ。猫の手も借りたい状態。でも、猫の手を借りて役に立つの???見た事無いから言明はしないが、役に立たないと思う。と言う文が最早馬鹿っぽい。はい、反省します!
 主脈の話に入るので、一寸とした前触れの積もりでした。失礼しました。