2014年1月31日金曜日

休題 その百二十六




 前章で夏彦氏について書いた。では、七平氏にも触れよう。
 彼は昔のベストセラー「日本人とユダヤ人」を、イザヤ・ベンダサンと言う偽名で書いたとは、今や定説で有る。大体からして、イザ ヤ・ベンダサンとは、ふざけた偽名だ。ひらがなと漢字に直せばお分かりでしょう。彼らしいです。
 「空気の研究」で、日本人は其の時空気に束縛されて判断をさせられるが、其の空気が去ると、何故そう判断したかが分からなくなる、と洞察して居る。以下に一部引用する。
 「彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない」
 南京大虐殺の虚構にも、論理的に挑んで居る。彼はフィリッピン戦線に下級将校として従軍し、九死に一生を得て生還した。其の軍事的知識から切り込んで居る。
 此処では南京の附属的問題の、百人斬りに ついて取り上げよう。明らかなでっち上げ戦意高揚記事なのだが(七平氏が詳細に説明して居る)、記事になっただけで、一人の将校が死刑になった。記事を書いた特派員の喚問も無しにで有る。
 「問題は、ただその「論理」というものに迎合するか、あるいはそれに抵抗して自己の良心を何とか守り抜くか、という点だけであろう。この記事を「事実」と判断するにあたって、内心の躊躇を感じなかった判事はおるまい」
 「ある異常体験者の偏見」と言う著書が有る。七平氏の、絶望的戦場の体験から、人間を読み解こうとしたものだ。
 「「武装」という問題は、うっかりこれにふれると「再軍備論者」なぞという罵声をあびるから、みなこれに触れたがらない。しかし人間には「武器を保持すると平和でいられる」という、実に矛盾した、そして非常にこまっ た要素があることは事実なのだから、本気で平和を追及するなら、この「武装」というものがもつ不思議な要素は徹底的に追及すべきであって、これを避けた平和論は虚構にすぎない」
 勿論七平氏は、戦争なぞ懲り懲りだと、骨身に染みて居る。平和を求めるなら、軍事面の研究は避けられない、と言って居るのだ。其れを避けるから虚構だと。
是非ご存じない方は、彼の本もお読み下さい。

2014年1月28日火曜日

ようござんすか、勝負! その二




  では、パーティ同士で競うのは有るだろうか。此れは有りそうだ。併し競技の様に、同一条件の元に勝負する、ってえのは多分無いだろう。どれだけ実績を積み重ねて行くか、を争うのだろう。
 其れが下手すると、有名になる勝負になって仕舞えば最悪だ。有名な山岳会になる近道は、マスコミに載る事(昔の事ですよ!)。詰まり、遭難騒ぎが多い所が有名になった。
 きっと誤解を呼んだだろう。幾ら昔だからと言って、遭難を競うなんてえのは無い、絶対無い! と明言します。
 トレイルランニングは、山中の厳しい勝負の世界だ。だけど、トレイルランニングは登山では無い。全く別のジャンルで有ると、私は思う。フィールドが山で有る事だけが、唯一の共通点だ。
 何を以って、別ジャンルと言い切るのかって? トレイルランニングはトライアスロンの山ヴァージョンと思えませんか?
 三千峰とは言うまい。二千峰の冬にやって見れば良い。どんな事になるのか。詰まり、トレイルランニングは登山では無い。此れで分かって貰えたでしょうかね?分からなくても、結論は変わらないのです。
 国体をきっかけとして、丹沢が整備されたとは前述。昔の国体は、オリエンテーリングや、荷物を背負ってのトレイルランと言った過酷な競技を行って居た様だ(時代だろうけど、アホじゃ!)。場所は競技場では無く大自然なのだから、何時どんな事故が起きても不思議では無い。
 流石に現在では、フリークライミングの種類のみの競技になった。此れは一種の競技場内競技なので、自然相手では無く、従って事故の起きる可能性もぐっと減ったので、極めて妥当な判断だろう。
 そう見て来ると、登山はスポーツに分類され乍らも、勝負が無いと言う変わり種と思って良さそうだ。
 (ようござんすか、勝負! その三へ続く)

2014年1月26日日曜日

おまけ





 爺ヶ岳から、思いっ切り引っ張った剣ヶ岳で有る。手持ちだったので、どうしてシャープさに欠けるのはご容赦。
 去年の暮れに、室堂近辺の雪崩で、スキーを楽しんで居た人達が巻き込まれ、六人が亡くなった。剣では無いが、ご近所では有る。
 スキーヤーは雪崩から逃げられると言う俗説が有るが、運良く逃げられる事も有る、が正しいのだろう。
 亡くなった方は、災難としか言いようが無い。全員の遺体が素早く収容出来たのは、場所が良かった所為だろう。此れが深い山の中なら、とても無理な話だ。以って瞑すべし、で有ります。
 あたしに何か有って帰京しない場合、遺族に取って一番嫌なのは、何処でどう死んだか分からない事だろう。ずーっと、心の中では探し続けるのだ。
 遺体に対面すれば、其れで区切りが着く。矢張り死んだのだ、と納得出来る。
 従って、あたしが山に行く時はコースを書いて置き、もし帰って来なければNに連絡する様に、と言って有る。
Nよ、面倒だろうけど、其の節は遺体の発見と収容を宜しく!!

2014年1月23日木曜日

ようござんすか、勝負! その一




  物事の殆どには、勝ち負けがつきものなのが、此の世の習いだ。「嫌な渡世だぜ」と言って済めば良いけど、そうは行かないのが現実なので、嫌だねえ。
 人の生き方に勝ち負けをつけようも無いと思うが、世の中はそうは言わない。会社なら地位を争う。経営者なら成功(利益のみに非ず)を争う。文学者なら部数(かなあ?一寸と自信無し)を争う。相場師なら利益を争う。銀行なら、止そう、切りが無いし下らない。
 登山はスポーツに分類される筈だ。だって、外の何に分類出来ますか??経済?教養?芸術?政治?法律?技術?理論?哲学?宗教?物理?医学?考古学?化学?数学?え、話がずれてるって? 分かってますよ。
 スポーツは勝負の世界だ。球技は球を争い、陸上競技は速さ高さ距離を競い、体操は技を競い、格闘技は相手を捻じ伏せる。
 さて、登山では何を競うのだろう?未踏峰が多かった時代は、初登頂を競っただろう。未登攀ルートが有った頃は、初登攀を競っただろう。
 今や残されて居るのは、より困難な条件下で、唯でさえ困難な高嶺を登る事位なのではないだろうか。其れは、誰にでも出来る事では無い。極まれな、超人の世界で有る。
 テニスは、好きな人なら誰でも出来るし、現にやって居る。野球も然り。マラソンも然り。団体競技はチームに属する必要が有るが、結構色んな競技が盛んに行われて居る。勝っては祝杯を挙げ、負けては残念会で飲む。競技より、そっちに主力を置いてるのでは?と思えるのは、山仲間と同じ事だ。
 さて、其の山仲間だが、内部で競って居る訳では無い。私が知らないだけで、パーティ内でタイムや技術を競って、ランク付けをして居る所が有るかも知れない。でも其れは、本来の山のパーティから逸脱して居る。大体からして、そんな所には入りたくも無い。
 (ようござんすか、勝負! その二へ続く)