2011年5月30日月曜日

おまけ



 新しく造りました。“おまけ”、です。写真を載せるコーナーだと思って下さい。
 数少ない読者のうちの御一人より、要請が有
りましたので、其れに答えられなきゃ男じゃ無い!一寸と力み過ぎかな。
 おまけですので、No.は付きません。
 で、奥穂の写真が無いのも何なので、大し
たもんじゃ無いけど、載せます。おまけなんで、ご容赦。

2011年5月28日土曜日

閑話番外 その五十一


 山の報告では、もう東京に帰ったと言うのに、未だ穂高の写真です。いやーさ、丹沢は特別として、他の山では上越と南アルプス派のあたしだけど、日本の山のスターの座は、間違い無く穂高だと認めざるを得ない。
 空と雲の章で、北穂沢から見上げた空が黒
かったと書いたが、今回は降りて来てから空を見上げた。登って居た時はアイゼン外れ騒ぎも有って、足元に神経を集中して空を見なかったので(見れなかったので)。涸沢から下りて来た北穂をみあげたんだけど、空は黒くは無い。って事は、当時は北穂沢を詰め上げたから、雪面にはっついて真上(まうえ)を見上げたから、黒く見えたんかなあ? 
 分からないけど、其の時黒く見えた空は、
もっと黒かったと思う。横尾から来たから、丁度良いタイミングだったのかな?或いは思い込みのどちらかだろう。
 どっちにせよ、もっと黒い空でした。涸沢
から見たやや黒い空が此れなんだけど、昔見た黒い空は、もうあたしの思い出にしか無いのですね。

2011年5月26日木曜日

山の報告です その二十一


 お馴染みの構図で失礼しました。此の構図の写真は日本に何万枚有るんだろう?
 名残は尽きねど、登った限りは下るのが定め、涸沢へ下り始めた。昔々は尻セードで一
気に涸沢へ滑り降りた。見ると彼方此方に尻セードの痕が有る。よし、一丁やってやるか!
 滑り出したとたん、其の加速の大きさに驚き、即ピッケルを打ち込んで停止。年を取る
とスピードに付いて行けなくなるものなんですなあ。で、三回程一寸と滑って、あとの殆どをテクテクと歩いて下ったと言うお粗末。
 暖かい日差しの下に撤収、ザックを背負う
前にぐるりを見回し、山々に別れを告げる。
 出来たら雪の無い徳沢迄は下りたい、と思
いつつ出発した。登って来るパーティと幾つも幾つも擦れ違う。中には前日の私の様なゾンビも混じって居る。大変に気の毒で有る。
 下って居るうち体が教えてくれた。徳沢は
無理だ、横尾にしておけ、と。素直に其の声に従い、横尾にテントを張る。横尾迄下れば暖かい。
 なんて思ったのが大間違いだった。ギンギン冷えて涸沢より寒かった。詰まり翌日も快
晴疑い無し。良かったね、登って行った諸君!
 翌朝、ペグは凍りつきポールも凍って居て
ばらせない。横尾なので気を抜いて、ポールを雪の上に放り出して設営したので、雪が付いて凍ったのだ。接続部を口に含み融かす。如何にも間抜けな姿で有る。
 上高地に着くと、ノータイムでバスが出、昼前には松本に着いて仕舞った。幸い梓には
時間が有ったので駅蕎麦を食べる。うーん、こうでなくっちゃ。ロング缶を手に車中の人となり、無事帰京した次第です。
 え、蝶に登る予定だったんじゃないかって?
ばれたか。旦那、もうご勘弁を、北穂一つで充分過ぎる程充分です。予定は未定です。
 山はお天気商売、ずーっと好天だったのは、ラッキーの一言で有った。そして、後心配を
掛けた方々にお詫び致します。御免なさい。

2011年5月24日火曜日

閑話番外 その五十


 涸沢を見下ろした写真だが、中央に何やら写って居るのがヒュッテとテント場だ。何が何だか分からないので、思いっ切り拡大するとこうなる。



 テント場の白い痕は撤収した跡で、此れから登って来る諸君が、其処にテントを張る訳だ。雪を踏まずに済むので、大喜びだろう。色が見えるのは、現物のテント。
 因みにあたしのテントは、一番左下の染み
の様な奴です。



2011年5月22日日曜日

山の報告です その二十


 アイゼンを付け直して居たら、A氏とB氏がアドバイスをしてくれた処から。
A「此の紐はもう使わないから、使って」
私「有り難う御座います」

 紐をうけとったが、はて、どう縛るんだ?取り合えず外れるフックを縛ろうとすると。

A「違う違う、出歯に掛けて靴紐に縛るの」
私「ああ、成る程」

B「二回捻って、堅結びが良いよ。いや、どうしたもんかと、登り乍ら考えて居たんだ」

 何と優しい人達!!見ず知らずのアホ親父に気を掛けてくれて、あたしは恐縮するのみ。

 要するに、足先の針金(ペンチで捻ってびくとしないのだ)が外れなければ良いと見抜い
て居てくれた訳で、聞いた瞬間理解出来た。
 有り難う御座います。其の応
急処置で登って下れたのは、有難かったの一言。
 帰ってから妻に叱られた。壊れたアイゼン
を承知で持って行って、人様に心配を掛けるのは間違って居る!!新しいアイセンを買うべきだ!!!
 其の通り、あたしだってアイゼンをぶら下
げて雪の穂高を登るおじさんを見れば気に掛かるだろうし、其れも最初から不良品を持って来たなんて知れたら、突き落とされても文句は言えない。死んじゃうだろうけど。
 お陰で北穂のピークに立てました。小屋は一寸と下に屋根に一部が見えて居る。

 余りに当り前の写真を撮りたくは無かったんだけど、どうしても撮って仕舞うのを責めな
いでね。あたしが様など素人は、どうしてもシャッターを切って仕舞うのだ。其れに抵抗するのは不可能なのだ、
 現地に行って見れば分かる。あたしんごた
ある素人だったら全員撮る!!絶対撮るしか無い!!!!
 済みません。続きます。

2011年5月17日火曜日

山の報告です その十九


 ゆったりと、穂高の山々を肴に酒を飲む想定とは異なってぼんやりと、呑んだ。皆さんは表でやって居るが、あたしはテントの中。但し入り口は開けて有るので、肴は真正面の北穂(写真)。そして一寸と呑むと回って仕舞い、ビールを買いに行く必要も無い(涙)。
 何せゾンビ状なのでやる事が遅い。そのく
せ酒は回る。見る見るうちに夕食の時間となる。とか言い乍ら、大きめのペットにローヤル12年を入れて有るので、チビチビ呑んでは居るのだ(意地汚ねー)。
 夜は寒さに痛めつけられた。いやー、本当に冷えた。でも最高じゃんかさ、翌日の、詰
まりアタック日(五日)の快晴は保証されたって事なのだから。
 五日の朝は快晴だった。万歳!此の日の為にゾンビにもなり、夜の寒さにも耐えたのだ。

 食事を済ませ、ゆっくりお茶(パックだけど)なんぞ飲み乍ら一服燻らせる。今更焦ら
ない。どう見ても、今日の快晴は本物だ。
 荷物は小さなアタックザックのみ。これだ
ったら何とかなるだろう。アイゼンは、例の右足が外れる奴だが、何とかなるだろう(だから何ともならないんだって!)。
 デブリの横を抜け、登りに掛かると早速ア
イゼンが外れた。着け直すのだが、其の姿勢が偉く疲れる。外れない様に気を付け乍ら行くが、又外れる。其れを承知で持って来たアホなのだから、付け直して行くしか無いのは当然だが、どらー時間が掛かってかんわ。
 四回目に外れた時は、相当傾斜も増し、先
行者の踏み跡が階段状に続いて居る。アイゼンを着けるには不適な場所だし、傾斜が緩む迄此の侭行っちまえ、と右アイゼンをぶら下げ、生きて居る左アイゼンを頼りに登る。滅茶苦茶な奴ですなあ。
 すると三十歳位の若者が、横をピックをア
イスハンマーの様に打ち込み、出歯を蹴込み四つん這いで勢い良く登って、あたしの前に出る。若い者は馬力が違うな、と感心して見て居ると、踏み跡をカッティングし、整えつつ登って行く、それも右足部分だけを。
 はっと気付いた。

私「あの、ひょっとすると私の為にカッティングしてくれてるんですか」

若者「はい」
私「わ、済みません!私は大丈夫です、本当
に大丈夫ですから」
若者「大丈夫ですか?」

私「本当です。有り難う御座います」
 若者は、頷いてグングン登って行った。後
姿に手を合わせたかった。あと、何百回ステップを切るつもりだったんだろう。今時の若い者は、何て死んでも言わないぞ!!
 傾斜が緩んだ。早速アイゼンを着けて居た
ら同年代の男性に声を掛けられた。Aとする。
A「紐をあげるから、縛ったらどうかな」

 続けて登って来た男性(B)も話に加わる。
 此の続きは又。

2011年5月14日土曜日

閑話番外 その四十九



 「今年は少ないなあ」と誰かが言って居た。涸沢の幕営地(写真)での事。少ないのはテントの数で有る。前に春に来たのは三十年近くも昔だから何とも言えないが、きっと少ないのだろう。
 最終日に天神で話した二人連れは、今年蝶ヶ岳へ登る人は、例年の五分の一だ
とセンターで聞いたと言って居た。
 大災害の後なので、何らかの影響は出
て居るのだろう。少なくとも東北のパーティは動かないだろう。警察、消防署、自衛隊、海上保安庁、自治体のパーティも動かないだろう。東北の工場をフォローしなければならない他地区の工場は、休み処じゃ無いかも知れない。
 それでもテント場は賑やかに、元気溌剌(除あたし)、何たって天国んごたあ
る環境なんだから、青春を謳歌したまえ、若者達よ!

2011年5月11日水曜日

山の報告です その十八



十七の続きで足が進まなくなった処でした。
 どうしてなんだ?とショックだったが、考えて見れば無理からぬ事で有る。此の十数年春山はYと二人連れで、単独の春山は本当に久し振りだ。
 単独だと荷物が重くなる。テントでも火機でも食器でも燃料でも、単独だって同じく必要な為、全部私のザックに納まる訳だ。
 十年前なら何でもなかっただろう。あたしは此の十年で徐々に食が細って、今では我が家一の小食だ。友人達と比べても、甚だしく小食だ。体重も57か58K
gに安定した。
 燃費は良いが、荷物を積めない車になっちまった訳だ。以上はあたしの推測だが、多分当って居るだろう。さもなければ、何か病気が有るか、だ。現に癌を二度やったしね。
 やっと、ヒュッテと小屋の分岐票に着く。一寸と上がればテント場なのだが、それが出来ずにザックを背負った侭腰を下ろす。そして暫く動けない。
 意を決して立ち上がり、やっと幕営地に着いたら、一番手前に撤収した跡が有り、ザックをどさっと下ろす。此れで雪を踏んで張る場所を造らなくて済む。嬉しいよー!
 尤も此の時のあたしはゾンビ状態で、それもダニー・ボイルでは無く、古典的なよろよろ蠢くタイプのそれで有る。従って、雪は踏めなかっただろう。極めてラッキーだった。
 処であたしはダニー・ボイルと相性が悪い。倅は彼のフアンで、ビーチなんざほめ捲くるのだが、あたしゃあ観たって何も面白く無い。一本だけ評価出来るのは、スラムドッグのみで、相性とは有るものだとつくづく思う。
 休題ではなかった。春の涸沢の話に戻る。
 ヒュッテに登録に行く。両手にコヘルとポリタンを持って。近くのテントの若者に聞いて有る、水は蛇口から流れると(嬉し涙)。
 あたしはテントを張る場所(自分が決めるんだけど)に着くと、キョロキョロと雪を見回す。綺麗な雪を集めて水にするんだから。
 上越の誰も来ない山と、北アルプスはこんなに違うのか!蛇口が有って、水は汲み放題、雪を融かさなくて良いんだって?
 助かった。ゾンビのあたしゃあ、雪を取るのでさえ、どれだけ時間が掛かる事か。
 手続きを終えてテントを張った。幕営料は無料。雪崩の危険が有るので自己責任と言う事で。笑っちゃうね、そんなら何時でもあたしは自己責任。雪の山に登る奴は、どう考えても自己責任。
 手続きをしたヒュッテの周りのテーブルには、中高年の諸君が、ビールを手に談笑して居る。幕営地に戻ると、若者の世界。
 あーそうか、あたしの歳では小屋に泊まるんだ。其れが当たり前なんだ。あたしがテントを、春の涸沢に担ぎ上げるのは今年が最後のチャンスだったんだ。来年は無理だろう。
 更に続きます。

2011年5月9日月曜日

山の報告です その十七



 “空に雲”の章で、雪の穂高にはもう登れないのかな、と書いたが、今年ならギリギリ行ける、と突然思って出掛けたのです。理由は何だって?何も無い。そう思っただけ。
 若い頃の登り方はきっぱりと忘れ、細かく刻んで行くのだ。初日は徳沢迄。二日目は涸沢。三日目に北穂をピストンし、横尾、出来たら徳沢へ下る。四日目、蝶ヶ岳をピストンして、穂高を眺める。五日目に帰京。え、丸で年寄り登山だって?そう、其の通り!
 装備を詰め込んだザックは25
Kg超、駅に向かうのもヨタヨタで、妻も心配したそうな。格好悪いが目的は雪の穂高、格好なんざどうでも良い事。雪の穂高に登るのが全てだ。
 三日(火)満員の梓一号に乗り込み、昼には上高地。例に依ってあたりは観光客で一杯、間を擦り抜け歩き乍ら思い続ける。急ぐな、良いか、本番は明後日なんだぞ。体力を温存しろ。
 で、初日は雪も無い徳沢園の幕営地で、暖かい夜を過ごしたのだ(テントを張った直後一寸と降られたけど)。後は皆、偉く寒い夜になるのも知らずに。
 二日目、六時半には歩き出す。何たって涸沢迄なんだから、コースタイムでも四時間十分。何だよこりゃあ、人に聞かれりゃあ恥ずかしいなあ、でも、コースを外に造りようもなかったので。昼には涸沢に着いて、雪の上でゆったりと暮らすのだ、フッフッフッフ。
 天気は上々だし、テントを張ったら時間もたっぷり有って、持ち上げた缶チューハイ(一日一本当て)じゃ足らないだろうから、小屋でビールも好きなだけ買って、贅沢な景色を楽しみつつ日向ぼっこなんて思って居たのだから、浅はかなもので有る。猿並みの頭としか思えない。
 取り合えず、あれ?と思う程、苦労無く横尾に着いた。流石に雪の多かった今年は、幕営地は一面の雪だ。一服つけて自分に言い聞かせる。メインは明日だ、ゆっくり行こうぜ。
 此処迄来れば、流石に観光客は居ない。大ききなザックの幕営組か、小ぶりのザックの小屋泊まりか、いずれにせよ登山者の世界だ。
 それと、夏と違うのは、若者(二十代、三十代、四十代)が半数以上を占めて居る事。春山ならではの事だ。夏山では有り得ない。 横尾の橋も立派になった。昔は丸木橋だったが、今はしっかりした吊り橋だ。
 橋を渡ればあと三時間、笑っちゃいますよね。と、思って居たのが大違い、炊事洗濯丸で駄目、一言文句を言ったなら♪。
 段々雪は深まる。トレースはしっかりと有る。トレースを辿るだけなのだが、脚が重くなって行き、つい先を見上げる。好調な時は見もしないのにさあ。すると、何処迄も雪の斜面が続き、ガックリする。 屏風も遥か下の急登となった頃には、足が進まなくなった。一歩出して二回息をつき、又一歩。情無い話は続きます。

2011年5月8日日曜日

クソ面倒な話 その三十一


 今回の地震と津波を、より悲惨で最悪な災害にして仕舞ったのは、福島第一原発の崩壊で有る事は言うまでも無いだろう。
 唯でさえ、戦後最大の死者行方不明者を出した大惨事に、尚更陰惨な印象を上乗せしてくれた。もう勘弁してよ、の世界で有る。
 能天気を言うなと怒らないで下さい。絶対当事者の気持ちは分かりっこないとは知ってけど、それでも心は痛んで居るのです。あの津波の痕を見て、泣かない奴は人では無い。
 あのヤクザにしか見えない
Yaは、地震の日に電話をして来て、電話で泣かれた。彼の知り合いが居る訳では無い。被害の甚大さがYaを泣かせたのだ。乱暴者でも、心は立派じゃないですか。残念なのは、心と見た目のギャップが、余りに大き過ぎる事だ。
 で、地震に耐えた原発も、津波で止めを刺されて、政府のモタモタも重なって、デフコンがチェルノブイリと同程度の7に引き上げられた。全く違うのに。風評被害が増すだけの事なのに、菅総理よ、原子力は得意分野なんでしょう、本人がそう言ってんだから。
 本人が言う程当てにならない事は無いと、改めて分からせて呉れて感謝します、総理。
 何処がチェルノブイリ並みなのか説明すべきだと思う。伊達に東工大を出た訳じゃ無いでしょう?専門は違うって?あ、そう。
 あたしは単純野郎だもんで、思った通りにしか言えないので、人を怒らして仕舞う事も多いだろう。馬鹿とはそんなもんなんです。
 大体からして、原子力は人類の手に余る存在では無いのか、とは思い始めて居る。でも、開けちまったパンドラの壷(日本では函と訳されてるが、原典は壷です)を開けた限りは、後戻り出来ない。
 核兵器は、あたしの下らない命を賭けて、廃止は無理だ。どんなに決議し、厳しい監視体制を引いても、どっかが、いや、あっちこっちの国が、内緒に持って居る事を保証する。
 さて、何で核兵器で方や原子力発電なの?言葉を整理しよう。核発電と正確に言うべきだ。此れは専門家の意見の受け売りなんで、全くそう有るべきだと同感した次第です。
 此の愚ログでは、以降は核発電と称する事にしよう。表現は正確で有るべきだから。
 驚くかな、或いは見抜かれてるかな?
 暫くは核発電は必要悪だと、あたしは思って居る。暫くったって、数十年単位の話。
 理由は簡単で、核発電の代わりを果たす物が無い。色々アイデアは有る。太陽電池?滅茶苦茶経費が掛かる癖に、録に電気も造れないんだよ。おまけに偉く不安定。
 風力発電、笑っちゃうね。欧州は別にして、気象の複雑な日本で成功した例は無い。火力発電。あっちこっちの島は沈んで行く事だろう。ベニスも沈むのだ。ベニスは良い。でも沈む島は一つの国で、国民は何処へ逃げる?
 暫くは嫌でも核発電と共存以外は無いとしか思えない。どうです頭に来ましたか?

2011年5月7日土曜日

下駄より地下足袋 その四


 何で下駄で大山に登ったかって?晩秋の快晴の一日、学校に行くつもりだったんだが、余りの空の青さと鮮やかな山の姿に誘われて、其の侭伊勢原から大山行きのバスに乗ったと言う訳なのだ。それに、学校になんかに行きたくも無かったので。たちの悪い奴ですなあ。
 学校に下駄で通って居たのかって?其の手
の馬鹿な質問は無用にして欲しいです。だって下駄で通って居たからこそ、学校をサボって、山にも下駄で登る事になったんでしょう。靴で通ってれば、大山には靴で登る訳でしょうが!
 偉そうにホザく事では有りませんでした。
謝罪し訂正致します。
 はい、下駄で通って居ました。これで良い
かな。うん。
 履物の章なんですけど、挨拶が遅れまして
済みません。尤も、下駄とか、ボロボロでスリッパみたくなったキャラバンシューズで散々歩いた私としては(下駄は一度だけ)、何を語れば良いのだろう♪
 歌では無かった。

 スリッパみたくなったキャラバンシューズ
は凄かった。サイドも前も裂けて居る。かろうじて紐で足にくっついて居るのだ。酷いもんですなあ。最早靴では無い。
 それでも、ハイキング位は、やれば充分可
能なので、スリッパでもやりゃあ出来るって事でしょう。それに、白状すりゃあ其のボロを足に纏って居るのが、粋だと思って居たのだから、何をか言わんです。
 だったら地下足袋の方が良い。ボロを突っ
掛けて居るよりも、よっぽど良い。山仕事の人達が地下足袋を履くのは偶然では無い。
 NHKで、山の歩き方を特集した番組が有
って、下りは地下足袋が偉く楽で負担が少ないと言って居たと、其れを見て居た会社の同僚に教わったが、さも有らん。
 だから私も、尾根でも地下足袋を履く様に
なった訳で、経験上其れは分かって居たのだろう。うーん、そう考えれば私も、其れ程アホでは無い様だ。唯、繰り返すが、緩い下りは痛い。本当に痛いのだよ!
 とか言い乍ら、最近の地下足袋は技術の進
歩(或いはニーズの変化)で底が厚くなって来た。去年よりずっと、厚くーなった♪
 だもんで(名古屋弁、失礼)、結構楽に歩
ける様にはなった。でも、冬は矢張り無理なので、靴をお薦めします。前記だが、妻と秋深い北八ツの天狗岳では、地下足袋の小さな破れが、死ぬ程冷たく感じられたのだから。
 地下足袋は鳶職専用では無い。土方も使え
ば山登りの人間も使う。メーカーも努力して居るのだろう。多分、地下足袋の技術では日本が世界一だろう(おいおい、どの国に地下足袋が有るんだよ)。
 て事で、私は生きて居る限り、山には地下
足袋で行きたいと思ってるのです。

2011年5月2日月曜日

閑話番外 その四十八


 未だ此の間の山で引っ張ろうってんで、御免なさい(ペコリ)。
 久しぶりに思いっきり吹かれ、おまけに朝には晴れで新雪、これで喜ばなくっちゃ登山者では無い。
 事故は起こしかけはしたが、全く無事。って訳で、小さな山登りだったけど、印象が強いのです。
 写真は、登りたかった日白山です。戻って良かった。あの状況じゃ絶対辿り着けなかったでしょう。

2011年5月1日日曜日

下駄より地下足袋 その三


 何の話だっけ?靴だった。
 ま、登山靴さえ使い捨ての時代です。何か
間違えて居るのでは?と思うのは歳の所為かなあ。其れでも多分、私の感覚の方が、古くても正しいのだろうと思う。
 塔へ登って来ても、皮の登山靴は十人見る
かどうかだ。あ、データーとして滅茶苦茶不備でした。何人中の十人かが大切なのだ。
 そうねえ、馬鹿尾根のピストンとして、百
人位、多い時は二百人位の人と擦れ違ったり前後したりするので、中を取って百五十人としよう(相変わらず好い加減な私)。6.7%で有る。一割は切って居たのだ。此れは私の感じてた処と一致するので、多分近いとこだろう。
 革靴は、判で押した様に年配者だ。何せメ
ンテが良ければ革靴は長持ちする。二十年三十年は当たり前。重いったって、縦走には重い方が安定して有利な位だ。従って、使い慣れた革靴を安っぽい(失礼!でも、そう見えるので)ゴアに履き替える気持ちは、更々無いって事なんでしょう。
 従って、地下足袋に至っては、絶対無い。
地下足袋が有れば癌が治ると言われても、無いものは無い。最近は尾根筋で、地下足袋に出会った事は、山仕事のおじさんを除いて、一度も無い。残念乍ら、此れじゃあ治る癌も治らない。
 もっと昔は下駄で箱根を越えた。詰まり、
山に登った。箱根の山は天下の険♪と歌が有るでしょうが。天城越えも下駄だったろうか。伊豆の踊り子はどうだっただろう。あ、あの学生は、確かに下駄履きだ!!
 伊豆の踊り子、母は最高の踊り子役は山口
百恵だと力説して居た。私は、内藤洋子フアンだったので、当然異議が有った。今思えば、母が正しかった。
 又、休題の内容になっちまった。歳は取り
たいもんだぜ。え、酒の所為も有るって?えーん、嬉しいよ、庇って下さって!兎に角、此の続きは休題でって事にしましょう。
 前述だが、初冬の大山に下駄で登った時は、
下りが辛かった。霜柱が融けてギュチャグチャな道に下駄の歯をとられ、進みにくい事夥しい。
 山頂から向かったのは日向薬師、真直ぐ大
山口へ向かえば、霜融けも少なく(石畳が多い為)ずーっと楽だったろうに、行って見たかったんですなあ、下駄で日向薬師へ。一種の病気だと思って下さい。
 酷い路を下る(其れも下駄で)と、鼻緒が
伸びきって指のまたにモロに食い込んで来て、とても痛い。おまけにドロに塗れちまうんだ。其の上足が冷たくて辛いのだ。ま、至極当然な事なんだけど。
 日向薬師へはどうにか辿り着いたが、下駄
は山登り、特に霜融けの時には、有効な履物では無い。え、分かってるって?其れなら良いんだけど……。
 (下駄より地下足袋 その四へ続く)