2017年9月29日金曜日

秋はジャム猫の様に その五




 新緑の見事な所は紅(黄)葉も見事。て事は南山も良いって事だ。経ヶ岳や仏果山の山域である。何度も書いているけど、土山峠で丹沢主稜線と繋がっていて、立派に丹沢最東端と位置付けられるのだ。
 小さなアップダウンが続くけど、目の前の小ピークも見事に色付いている。道の手入れも確りしているので、思い立ったら出掛けるのに持って来いなのだ。
 標高は低い癖に(700mクラス)、思いの外に険しい山なので植林が少なくて、自然林が多く残った結果だろう。
 丹沢の植林が今の半分だったら、もっともっと魅力に富んでいただろうになあ。丹沢は私の持ち物じゃないので、ブツブツ言って諦めるとしよう。
 秋の鍋割山稜を歩くのは素敵だ。色付く山稜を充分楽しめる。おまけに樹越しに主稜の山々が見渡せる。そりゃあ樹越しでなければもっと良いのだが、此処は樹林が売りなので我慢しよう。
 鍋割山に飛び出ると、突然視界が開ける。真正面は富士山だ。此れが鍋割山の根強い人気の元なのだろう。閉から開への変化が実に鮮やかだ。つい、腰を落ち着かせたくなる山頂であるのです。
 そして下山し麓が近づくと、其れこそ煩い程の日暮の合唱となる。文字通りの蝉時雨である。頭からビッショリ日暮の声を浴びるのだ。爽快なのだ、エッヘン。 ん、其れは夏の終わりだった、失礼!
 降り切ると一時間半の林道歩きが待っているのが、チト辛い。でもですよ、秋ならば汗もかかずに歩ける。それに、迫り来る夕方の気配がとても良い。又分かんない事言ってるって? だからあ、やれば分かるんだって。
 秋の玄倉林道をせっせと下っていた。何処へ行った帰りだったんだ? 全く思い出せない。一人だった事だけは間違いない。歳は取りたくないもんですなあ。

2017年9月27日水曜日

休題 その百九十七




 水道の下請け会社の同僚だったItと飲んだ時に箱根蕎麦の話になった。
It「あれは美味い!」
私「富士そばとはランクが違うね」
It「ところが富士そばが好きって人間もいるんだよ。上手くできてるんだ」
 全くで有る。前の会社の同僚は、あじさいの様にのびきった蕎麦を湯通しする旧タイプの蕎麦が好きだった! 好みである。
 天ぷらの話とすれば、あたしは揚げたてのパリっとしたのより、汁に浸かってグタっとした方が好きだ。朋友のAnもそうなのだ。
 尤もAnは口内が弱く、パリっとした天ぷらだと傷がついてダメって事なので、好みの問題ではないのだけどね。従ってAnは煎餅もダメなのだ。
 箱根蕎麦が美味いというのはあくまで好みの問題だ。人それぞれである。
 数か月前にネットで立ち蕎麦ランキングを発表していた。何処の誰を何人対象にしたかも不明なので大して信頼は置けないが、だろうなと思わされる内容だった。
 忘却力には自信が有るので、一,三、五位しか覚えてない。富士そば、箱根蕎麦、小諸の順である。都心部のアンケートだとは明らかですなあ。
 富士そばは都心部を中心に百二十三店舗有るので当然だろう。箱根蕎麦は山手線内には四店舗位しかない筈だ。後は小田急線沿いに偏在している。
 小諸は最初に生蕎麦を茹でて出した店だ。オーバーだが、立ち蕎麦の革命だった。それに都心部に集中して出店している。小諸以来なのだ、生蕎麦を茹でて出す立ち蕎麦が当たり前になったのは。
 立ち蕎麦って一言で言うが、歴史の有る分野なのだ。立ち蕎麦激戦区の浅草橋で、長い間務めた経験で良く分かる。そして箱根蕎麦の群を抜いた美味さも分かる。好みの問題?

2017年9月23日土曜日

秋はシャム猫の様に その四




 秋は魔物だ。発作的に山が招く。会社の帰りに満月だったので、家に帰って折り返して車を飛ばし、三ノ塔へ登って、真夜中に月明りでコーヒーを沸かした話は、前にした。
 満月だったのでライトは不用だ。夜道を月が明るく照らしてくれる。山々も月明りに照らされて鎮まっている。秋なればこその贅沢ってもんでしょうが。
 帰宅は午前様。寝たかどうかで即御出勤だけれども、若さとは素晴らしいもので何でもナイナイ。今なら、勘弁してよ~、になっちまうのだ。帰らぬ昔ですなあ。
 秋の主脈の清々しさは、丹沢一であるのは疑い無いだろう。ま、春夏秋冬を問わず主脈は、丹沢で一番清々しいのだけどね。
 春や夏と違って空気が澄み渡っている。勿論冬もそうなのだが、寒過ぎて清々しさを堪能するにはちとキツい。疑う方は、冬の主脈で清々しさを堪能されるが宜しい。
 そうねえ、三十分も有れば鼻水だらけ、手はジンジン痛んで震えも来て、こりゃいけねえや、と仰る事疑い無しなのだ。
 従って秋だ。澄んだ空気と空を知るのは秋なのだ。主脈でなくてもそうなのだけど、主脈は其の代表ってこってす。
 秋の大室山は、夏の意地悪い(失礼)山とは別物になる。何時迄も辿り着かない頂上には変わりが無いのだが、蒸さない! そして纏わり付く煩い虫もいない!
 世の中が変わるのだ。木々は色付き空気は爽やか。登りにくい路だって、自然と稼げるのだ。あ、変なコースを念頭に置いた話なんで、違和感が有ったら失礼。当然乍ら普通の登山道だって、見事に秋なのですぞ。
 破風口で吹き付けて来る風は、寒いと言うべきだろう。夏とは全く違う、清冽な風だ。おお、秋だなあ、って思わされる。そして加入道へ向かうのだ。

2017年9月19日火曜日

休題 その百九十六




 封切ったばかりのエイリアンについてなのだが、ネタバレし放題なので、これから観に行く予定が有る方はスルーして下さい。
 エイリアン・コヴェナントを妻と一緒にいそいそと観て来た。いそいそは誇張である。内心は二人とも「どうせダメだろうなあ」だった。そして其れは正解だった。
 リドリー・スコットでもどうしようも無かったと言う事だろう。尤も前作のプロメテウスでも無闇とがっかりさせられたのだから、今更何を言ってるの、であります。
 怪しげな人造人間が改良(?)を加えたお蔭でエイリアンの動きは無闇と素早くなり、且つ破壊力も大きくなっている。
 所詮それだけの事で、閉じた空間内での恐怖である事は変わらない。従ってパターンになってしまっている。
 そこで人造人間の恐怖(?)を絡ませて、パターンを破ろうと試みたのだろうが、変に煩雑になった感は否めない。理屈っぽい恐怖は弱い。肌で感じる恐怖が強い。
 続編を造る気満々な終わり方をするが、果たして続編は有るのだろうか。此の作品の当たり方で決まるのだろう。
 若し当たれば(当たるとは思えないが)壮大なストーリーを展開するつもりかも知れない。それはそれで結構だが、興味を持てないね、ってえのが正直な処だ。
 エイリアンシリーズはレプリーが去って、終わったとあたしは思っている。最高の華は第二話だった。最高の出来は、勿論第一話だ。
 当たったから続編を、で成功する例はマレである。此のシリーズはそのマレな例だろう。併しもう限界を(遥かに)超えた。
 前記の通り、新たな壮大なストーリーの展開があって大当たりをする可能性も、決してゼロではない。
 そうなったら、あたしは自分の不明に恥じ入るばかりだが、そうはなるまいよ。