2009年7月30日木曜日

閑話 その二十六

店 035

 

 本文で、三昔半前の鹿島槍から槍ヶ岳への初冬の縦走のエピソードを書いたが、遣り遂げたと誤解されるといけないので、其の顛末をご報告申し上げましょう。
 結論から言うと、種池から下山して終わりだったので、何それ?と思われるのは尤もなんだけど、こちとら山の様に残った食料燃料を、ウンウン言って持ち帰る馬鹿さ加減はノーベル賞程では無いが町内会で表彰されるに値(あたい)するで有ろう見っとも無さ。
 全部、あたしの所為なので、Iよ、悪かったね、許してチョーよ。(不真面目だから許せない?ふん、読んでもない癖によ!)
 述べましょう。歩幅10Cmでやっと辿り着いた冷の幕営地は、当然ながら雪に覆われて居るので雪を踏み固めなければテントは張れないので、あたしは踏んだけどIが見れば唯ノロノロ動いて居るだけだったらしい。
I「大塚、大丈夫か?」
私「だいりょうぶら……(口が回らない)」
I「(間)おい、小屋に泊まるぞ」
 流石だねIよ、良くぞ見抜いたぜ、あたしゃあ完全に限界だった。
 で、冷の小屋に泊まる事になったのだが、当時も今と変わり無く十一月末の連休迄小屋は開いて居たので、あたしゃ凄く助かったと思ったです。だって、テントを張る事さえ出来ない状況だったんで、ボ~っとした頭で良いんじゃないと思っただけで、結果オーライで、Iに本当に感謝します。
 此の夜が小屋番最後の日(翌朝下山)、泊り客はあたし等だけ。Iは確りしててハイライトを幾つか差し出し、小屋番達は大喜びで待遇は全く変わったらしいけど、あたしゃあボ~っとしてるだけだから、何も分らん仁。
 詰まり、あたしゃ思考力体力共にゼロ状態なので、ただただ飯を(やっと)食って寝るのみで、はいお仕舞いなのだが、リーダーのIはそうは行かない。あたしの姿を見て縦走打ち切りを決断したのだろうが、相当迷った筈だ。責任者は孤独で有る。
 翌日も快晴、爺ヶ岳を超えて種池に着いたが現金なもので、もう降りるとなると惜しくなって、もう一泊しない?なぞと口走る浅ましさ。尤もそれ程初冬の山々が美しかったのだ。
 縦走を打ち切ったのは大正解だと再度知ったのは、道に降りてから扇沢のバス停への緩い登り道でゼーゼー喘いで、駄目だこりゃ、本当に俺はガタガタなんだなあ、と痛感して初めてガックリとし、悲しかったのです。
 バスはガラガラで、白い恋人達が車内に流れ、振り返ると白銀の山々、思わず滲んだ涙に山々も霞んだのでした。

2009年7月28日火曜日

カモシカに会いましょう その三

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 叫んだが手遅れだった。Bが落とした石が幾つか私を掠めて落ち、石が石を呼び、ガーっと石雪崩になってしまった。私は、ラク、ラク!(落石を知らせる合図)と叫んだが、全く無意味な行為だった。何せ小さな谷に石雪崩の轟音が響き渡っているのだから、そんな声はかき消されちまう。でも叫ばずにはいられない。人が居ないのは分かっていたが、足が震えた。
 沢のカーブ地点で石雪崩はおさまり、カランカランとの音を最後に静寂になったが、私の耳の中では、暫らく轟音が響いていた。はい、不注意でした、それからは充分気をつけています。(ペコリ)
 この日の宿が丹沢ホームだったのだ。豪華な一泊の翌朝、流れを越えて、三ノ塔へ突き上げる尾根に取り付いた。下部は植林だったが、やがて疎林と藪の、らしい尾根となった。ごそごそと頂上直下の藪から這い出し、驚いて見ているパーティに挨拶もせずに三ノ塔のピークを越え、急いで蓑毛へと下った。さて、今度は春岳沢を登るのだ。
 春岳沢はせっせせっせと登った、ぼやぼやしてると日が暮れる。小さなクラックに登山靴を突っ込んで登ったり、枯滝で私が捨てザイルに飛び付く様に手を伸ばした瞬間スリップ、Bが、あ!と叫んだが私はザイルを確り掴んでいてニヤリと笑って見せたり(見栄張ってんです。本当はドキドキだったので)、詰め上げて、大山山頂に立った時は日暮れが迫っていた。十二月半ばだったので、日暮れが一年で一番早い時期だ。二本の尾根と、二本の沢を仕上げた訳で、私とBはハイタッチをし、笑い合った。町には灯りが点き始めていた。いやー、青春ですなあ。え、その頃でさえ最早青春ではない?そうかなあ……。
 で、一気にバス停に走り降りた。当時はそんな真似ができたのだ(ほら、青春じゃんかさあ)。今、同じルートを同じく二日でやれと言われたら、ひたすら、できませんと謝るしかありません。三日で良いなら、条件に依っては手を打ちましょう。
 大分前に、場合によっては、丹沢ホームがカモシカを見せに連れて行ってくれる、と聞いた。今はどうだか分からないので、興味の有る方は丹沢ホームにお問い合わせ下さい。カモシカは朝、展望の良い場所に立つ習性が有る。さぞや立派な姿であろう。
 実はそうなのだ、まことに風格が有る。天然記念物の名に恥じない。見事立派の一言なのだ。
 昔々正月に池山尾根から空木岳(うつきだけ)を目指した。誰もいない静かな冬山であった。幕営はヨセマギあたりと決めていて、重いザックを背負ってやっと到着したら、絶好の幕営地にカモシカが立っていて、悠然と景色を見ている。気圧されしまって、だらし無い事に幕営を諦めた。貴方でも多分、同じ行動を取るんじゃないかなあ。

2009年7月26日日曜日

閑話番外 その六

イラスト6

 

 カモシカに会いましょうその二の記述に誤りが有りましたので、お詫びと訂正を致します。
 どうでも良いって?其れを言ったらお仕舞いだぜ、とお馴染みのトラさんの台詞なんだが、前回の閑話番外で述べた通り、此れ自体がどうでも良い存在なので、其れを言ったらお仕舞いだぜ!(え、回りくどい?)
 で、丹沢ホームに初めて泊まったのはBと大山北尾根を終えて石雪崩を起こした日と記述したが、全くの間違いでした。
 思い起こせば、大きなオレンジ色の蛭が出た時は其の数年前の事。でも其の時が初めてでは無く、うーん、考えて見よう。え?普通は考えてから書くって?閑話番外は別で、思いついた時にアップするのです。
 単独では無かった。Tと一緒か?Kか?Sか?Nか?Uか?誰でも良いけど、じゃあ何処へ登った?う~ん、全然分からん……。
 なーんも覚えて無いと確信したので、追及は打ち切ります。(ペコリ)
 でもですよ、横浜の裏山に原生林が有るってえのは見事な事で、説明が必要ですか?
 説明しましょう、ぺっぺっぺ(お馴染みの手に唾を付ける音)。
 本文に有る通りなので重複しちゃうのだが、カモシカ、熊、猿、の三種が生息して居るのは南北中央アルプス、白山、東北地方脊梁山脈のみと思いきや、何と丹沢もそうなので、其れも札掛の様に伐採がなされて無い所が有ってこその事なのだろう。
 直ぐ近くで、地球が生まれてから紆余曲折を経ての其の侭の姿の場所が有る訳で、地の果てへ必死に、或いは大金を掛けて行く必要は無く、あたしゃあ近けりゃ良いと言う不精の代表選手なので、札掛を見て下さいと思って仕舞うのは至極当然の帰着なのでした。
 で、札掛の章を立てたのです。

2009年7月25日土曜日

クソ面倒な話 その四

店 034

 

 此れは酔わないで書くべきだったので、下調べも必要だったんだけど、酔って面倒になっちまって、突然書き始めたんだが、一般常識(日本人の)を真っ向否定に近い話、進化論に異議有り。
 元々其の声を上げたのは、驚くなかれ日本の今西錦司氏なので、登山家としての彼の著述を追ってるうちに、進化論を否定する彼の本に辿り着いたのです。
 曰く、種は変わるべくして変わる。
 目から鱗で有った。キリンの首が伸びたのは伸びるべくして伸びたので、伸びる中間の化石が発見されないのは当然の事なのだ。決して失われたリングでは無い。
 ダーウィンの進化論の骨子を挙げておく。
1、 種は突然変異で変わる
2、 1の結果、適者が生存する
 ネズミの様な生き物が突然変異で前肢が翼もどきに変異したら、飛べず走れず、適者生存に耐えたとは思えない。コウモリは一気に成るべくして成ったのだ。
 最近の日本学者の中にはウイルス感染説を唱える人も居るが、何だかこじ付けっぽく感じて仕舞うのはあたしだけだろうか。
 欧米ではデザイン説が台頭し、進化論者と議論を戦わして居るらしいが、あちらは背景が複雑で、デザイン派は研究室からの追放や、学会からの追放と、迫害が甚だしい様だ。
 進化論を教えてはいけない州も有るお国柄(聖書に反するから)なので、進化論者は戦闘的で有る。教会を敵として戦って来たのみならず、近代欧米社会のバックボーンを形成したのが進化論と言っても過言ではなかろう。
 骨子の2に依り、未開の民族は近代社会に不適な劣った種と位置づけ、アフリカ、アジアを植民地とし、住民を奴隷とする根拠を提供した事になる。詰まりネグロイド、モンゴロイドは人類では無い!従って平気でアポロジニを狩の獲物として殺しまくれた訳だ。
 結果欧米人にとっては(除、キリスト教原理主義者。ね、複雑です)進化論は絶対の真理で有るべきで、最早ダーウィニズムと呼ぶべきイズムとなって、あらゆる批判は許容されない。“迷信家”、“非科学的”と罵詈罵倒されて仕舞うのだ。
 あたしだって突然生物達が今の姿で現れたなんて、夢にも思っちゃ居ない。でも、進化論は科学と呼ぶには穴が有り過ぎる。素人が何を言うかって?素人でも分る事は分かるんじゃ無いの。
 突然異変で有利な特質を得る確率は0に近い。万が一(実際は億が一か兆が一)有利な特質を得ても、僅かな個体数では異変の無い大数に埋もれて消え去るのみだろう。
 てな訳で、あたしゃあ進化論なんざ一種の思想現象さ、と見て居るのだが、マスコミも文科省も全くそうは見て居ないのが、不思議千万なのです。

2009年7月22日水曜日

カモシカに会いましょう その二

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 モロに脱線しました。丹沢ホームへの道の話でした。
 時代は移って今は、予約をすると丹沢ホームのマイクロバスが送迎してくれると聞いたが、私の様な古い人間はそんなものは当てになんかしないのだ。(多分……)これも伝聞なので、お問い合わせ下さい。
 札掛というと、雨と字が浮かぶ。雨の日に行った事が多かったのだろう。また、雨が似合う場所でもあるのだろう。
 友人達と、札掛から一ノ沢峠と物見峠を越えた事が有った。雨であった。雨に霞む木々には中々の風情があり、良いものだ。良くないのは、オレンジ色の平べったい大きな蛭がごろごろしていた事だ。どらー珍しいでかんわ!(名古屋弁が合いそうな奴だった)こんな奴に血を吸われたら貧血を起こしちまう、と注意していたら、しっかりと普通の蛭に食われていた。結構間抜けな私なのです。
 その後あの蛭には、何処でも全然お目にかかっていないが、ひょっとしてあそこらの名物なのだろうか?
 妻と長男(当時小学低学年)と一ノ沢峠付近を散策した時も、どういう訳か雨だった。傘をさして歩いた。木橋と桟道が多く、濡れているので滑り易い。長男は一度滑って転んだ。その一発でビビり、木橋と桟道にさしかると泣き叫ぶ。私に似て臆病なのだ。叱られ手を引かれ、其処を通過すると突然鼻歌を歌いだす。喉元過ぎれば熱さ忘れるにも程がある。詰まり私に似て能天気なのだ。この時の木々も幽玄な姿であった。札掛は本当に雨が似合います。
 初めて丹沢ホームに泊まった時は、これで良いのか、と思った。ベッドだし、風呂は有るし、電気は有るし、広間に押し込まれないし、山小屋と全く違う環境なので、怯えて、おどおどしてしまった。あの頃は純情だったのですなあ。
 B(雲取の時天幕を貸してくれた友人)と泊まったのが初めてだった。その時は、大山川を詰める事から、過酷な二日間の山行が始まったのだ。大山川はからっとした気持ちの良い沢だった。 頂上に着いて、其の侭(ろくに休みもせず、若かったんですなあ)大山から北尾根に入ったが、勿論当時(二昔半前)はル―トではない。此処いらからだとアンテナの横からボサを分けると踏み跡が有り、思いの他簡単に鉄塔へ着けた(だから大野君、鉄塔は大切な目標物なんだって!それは昭文社に言えって?ご尤も)。
 あの高圧鉄塔は凄い。見上げるだけで足が震える気分なのだ。え、そんな事ないって、ひょっとして高所恐怖症の私だけなの?そうなのかなあ……。
 もう先のルートが読めたので、一ノ沢峠を割愛して札掛へ近道を取ろうとしたが、それが偉い間違いだった。急がば回れは本当です。
 適当な小沢を下ると決めて降り始めた。はなからガレだった。Bはガレの下りに慣れていなかった。(慣れてる人います?)Bはけつをついて、ズリズリ降り始めた。あ、止せ、何すんだ、止めろ、危ない! (カモシカに会いましょう その三へ続く)

2009年7月19日日曜日

閑話 その二十五

 

店 033 コッヘルの蓋が雪を載せて燕沢へさーっと消えて行った事は本文で書いたが、其の時の春の山行の話。(の、ばかりで失礼。文章に偉くラフなもんで)
 入山は一の沢から、快晴の常念乗越を目指したのだが朝方迄の新雪が60Cm程も積って居て、斜面がきつくなるにつれ腹上のラッセルが延々と続き、捗らない事夥しい。唯助かったのは流石春の雪で、冬の新雪より固め易かった事だ。粉雪だったら前進不能だっただろう。
 膝で雪を抑えて足場を造り足を置いて踏み固めて、又膝で雪を抑え、汗だくの奮闘は何時果てるとも知れず、そこらじゅう雪崩の跡で結構危ないとは思うのだが気にする余裕も無く、一歩一歩に集中しクタクタになった頃やっと常念小屋が見えた。此れは途轍も無く嬉しかったです。
 天幕を張る余力なぞ全く無く、小屋に入ると暖かい別世界で、受付で素泊まりと言う口も回らず、すろまりれす。宿帳を書く手も震え、字にならない。何処から、と聞かれ、いちのさわれす、と縺れる舌で答えた。其れを大勢の登山者が見て居る。何でだ?
 靴を脱いで上がったら登山者達に囲まれて、一斉に尋問が始まった。
「一の沢からですか?」
「雪崩はどうでした?」
「下れるかな?」
「積雪はどうです?」
 詰まり、一、二日悪天候で足止めを喰らって居た諸君が下る為の情報を求めて居るのだが、あたしゃあ禄に舌も回らない状態なのだ。
「なられのあとはあったれす。雪は60CMくらいれ、のぼれたのれくられるれしう……」
小屋番「ま、お疲れでしょうから、後で聞いて下さい」
 と、救われたが、後で散々聞かれた。
 翌朝も快晴。強風に雪煙が巻き上がって居る。あたしは表銀座の予定を捨て燕を目指す事にした。新雪を掻き分け表銀座を、加藤文太郎ならぬ貧弱な我が身、出来っこ無いに決まって居る。
 小屋の皆さんは続々と一の沢を下って行く。あたしは唯一人、風に吹かれ乍ら燕へ向かう。大天井の小屋からはくっきりとトレースが直登して居て、其れを追う。と、頂上直下で二十人近い行列に追いついた。其れが止まって動かない。
 何だ、とは思うが狭い尾根で追い抜きも出来ず立って居ると、少しずつ進みピークに立って分かった。下りが偉く急なのだ。そろりそろりとアイゼンを利かして降りるしか無い。此の人達は大天井の小屋泊まりだった訳だ。
 振り返って見た大天井は綺麗でしたよ!写真は其の時の物で引き伸ばした奴をスキャンしたのだが、どうも変で、済みません。
 で、燕岳は満員のテント村であたしは端っこで幕営したと言う事なのでした。

2009年7月18日土曜日

カモシカに会いましょう その一

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 札掛周辺は、特別保護区になって居たと思う。太古以来一度も伐採された事のない原生林の筈だ。国民宿舎丹沢ホームと山小屋が有る、静かな谷間である。
 其の周辺は幕府直轄領で、年に一度(二年に一度だったかな?)役人が盗伐を見回り、来た証拠の札を掛けて行ったので、札掛という地名になったので、伐採はされていない地域なのだ。
 普通はヤビツ峠から林道を歩く。一時間一寸との道のりだ。近道も有るが道通しに行くと、富士見山荘が立っている。でも、看板とは大違い、富士山は全く見えないのだ。一度泊まった時に、名前の謂れを聞いたと思うけど、歳のせいで忘れてしまった。
 暫く行くと青山荘が建っている。何時通る時も夜で、寄った事が無い小屋だ。私の中では夜の小屋との印象ができてしまっている。後は諸戸の事務所を通り、ひたすら歩くだけ。
 不思議なもので、歩いて居る限り目的地には着く、止まって居ると着かない。当たり前でしょう?でも、実感すると本当にその意味が分かるのです。 三昔半、Iと鹿島槍から槍ヶ岳への縦走を試みた事が有る。十一月末の初冬の大縦走、一週間の予定だった。
 ところが私の体調が絶不調、徹夜が続いてヘロヘロだったので、半分眠り乍ら山に入った感じで有る。悪い事は重なるもので、Iが腰を痛めて居て、荷物の多くは私のキスリングの中、背負うと、「う!」と言う代物。其れを絶不調の私が背にするのだから、悲惨其のものです。
 高千穂平迄で限界だった、とてもじゃないがもう歩けない。でも歩かなければ幕営地に着けない。仕方無く、歩幅を短縮10Cmに落として芋虫みたいな歩みとする。それでも必死に歩いてんですよ。
 其の時のIの気持ちは、Yを見る私の気持ちと同じだったのだろう。振り返ると遥か下をやっと登って来る姿が見えて、暫く待つしかないのだ。
「あー、何やってんだろう、とっとと登れないのかよ」
 そうだよ、登れればとっくに登ってるよ!やりたくってやり切れない、其れが悩みの種じゃん、ってさ。
 結局冷の幕営地に着けた、10Cmの歩幅でおまけにゆっくりゆっくりでも、歩いて居る限り目的地には着けるんです、人生捨てたもんじゃないのだ、天は自ら助く者を助くって事なのです。
 此の日の夕暮れ、薄く雪をまとった鹿島槍の姿は神々しいものだったが、朦朧とした私にはIの言葉も耳に入らない。
I「大塚、見ろ、凄いぞ」
私「……」付け加えれば「ボ~」。 (カモシカに会いましょう その二へ続く)

2009年7月16日木曜日

休題 その二十

店 032

 

 ジョニー・デップに脱帽して居る。
 カメレオン俳優と言われて居るが、全く其の通りで、え、同じ俳優なの?と驚く程多彩な人物を演じ、存在感が有り文句無し。
 パイレーツ・オブ・カリビアンの一作目ではジョニー・デップは脇だったが二作目からは主役に据えられた。当然だ、ジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)の出て居ないシーンは無闇と退屈なのだ。映画自体がお子ちゃま系のどったんばったんなので、ジョニー・デップが支えて居たと言うべきだろう。
 シークレット・ウインドウやフロム・ヘルがジャック・スパロウと同一人物とは思えない。チョコレート工場もそう。
 レジェンド・オブ・メキシコでは脇だったが、主演のバンディラスをぱっくりと喰って居た。
 シザーズ・ハンド、エド・ウッドと思い出すと、やけに個性の強い変な人間の役ばかりで有る。変人を演じて彼の右に出る俳優は居ないと言う事なんだろう。マトモな役を振ったらどうなるんだろう?多分変に影が有るか、やけに飛び抜けてしまって、監督は御気に召さないのだろう。
 彼の様な実力派俳優は何人も居た。ダスティ・ホフマン、アル・パチーノ、ロバート・デニーロ等々。処があたしは彼等をそう好きでは無い。と言うより彼等が全盛だった頃の映画(三昔程前かな)が好きでは無い、が正しい。変にこねくり回した作品が多く、映画館に足を運ぶ気も起きなかった。
 ま、時代があたしに追いついて来たって事です。(え、偉い勘違いだって?良いの、本人がそう思ってんだから!)
 其の人の持ち味が強烈で、一色だけの演技で一世を風靡するのも凄い。チャールトン・ヘストンやシュワちゃん、三船敏郎等。嵌る役にはぴったり嵌って、納得させられちまうのは流石だ。ジョニー・デップは其の反対側に位置づけられる。
 ジョニー・デップを知らない人は居ないと思うけど、万が一居たら一度見てみる事をお薦めします。代表的な作品は前述の通り。あとはニック・オブ・タイム、脇だけどフェイクかな。
 一本見ても凄さは分からないかも知れないので、2、3本見て下さいね。
 あたしゃあ何だって、頼まれても無いのにジョニー・デップの宣伝なんて始めちまったんだ?
 自分の感動した俳優を紹介したかっただけで、とっくに知ってるよ、余計なお世話だ!と言われれば、ご尤もです、と頭を下げるので有ります。
 其の上に尚も言わせて貰えば(くどい?)、ジム・キャリーも絶対お薦めですよ!

2009年7月15日水曜日

閑話番外 その五

店 031

 

 どうでも良い事なので、どうでも良い事はいい、とお思いの方はスルーして下さい。と言う事は此の丹沢と共にがどうでも良い代物なんだから、皆さんスルーしちゃう訳だ。ふん、良いのさ、去る者追わずってね。(憮然)
 古いフローが出て来たので、懐かしくて文にしちまったのです。
 あたしはPCなんざ全くチンプンカンプン、此の愚ログもAの助けを得てやってる訳で、典型的な時代に取り残された駄目親父なのだ、えっへん。
 その癖COBOLやBASICは結構使えたのが面白いもので、プロのSEが出来ないと言うものもこなして、せせら笑って好い気なもんで有ったですなあ。
 此のフローは初期のもので、後期になる程処理を纏めてセグメントとし、そこへ飛ばして流れが明白に分かる様に作って有る。
 でも一番面白かったのはマシン語で、三菱製の其れは1000ステップしか無く、全てアドレス指定なので頭を力一杯使わされ、ウンウン唸ってコアを節約する醍醐味は、やって見たら病み付きになる事疑い無し、是非お試し下さい、ったってもう無いか、そんなマシンは……。
古い人間が古い物を見つけた、って話で、全くどうでも良くて失礼致しました。

2009年7月12日日曜日

閑話 その二十四

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 本文の鍋割山の章で雨山山稜に触れたので、補足をしよう。
 初めて歩いたのはあたしが三十歳位だったから、三昔前。友人五人と夕方遅く寄(やどりぎ)でバスを降り、あたしが勝手に鉄砲道と呼ぶ一直線の道を稲郷のみろく山荘へ向かった。日はとっぷりと暮れ、煌々たる月明かり、遥かにポツンと灯が見える。良い情景ですなあ、今でも克明に思い出せる。其処が今夜の宿だ。
 因みに此の友人五人の一人がお馴染みのYで、哀れにも今に至る迄山を歩き続ける事になろうとは、当時のYには知る由も無い。
 当時のみろく山荘は、校舎を転用した建物だった様だ(分校々舎なので小さい)。
 翌日は雨。うーん、目的が雨山山稜と廃道となった秦野峠からの路を下る事だったので、一同は難色を示す。当然で有る。あたしは妥協案として、雨山峠へは登り、鍋割峠迄歩いて下ると提案し賛同を得た。ヘッヘッヘ、あっしはそんな気持ちはこれっぽっちも有りやしません、目的貫徹のみです。
 で、雨の中雨山峠に着きました。平成二十年に歩いたルートとは全然違った沢沿いの路で、三十年たつと路も変わるのですなあ。小休止の後あたしは雨山へ登り始めた。後から聞いたのだが、皆は「え!」と思ったそうで、「話が違う……」と口に出さないのが偉い。詰まり半分覚悟をして居たのだろう(違うって?いや、きっとそうだろう)。
 当時の雨山山稜は薮山だったので、ガサガサを続け薮を抜け、又薮に入る。雨の中にしては途轍も無い楽しみだ。薮を抜けて振り返って待つとKSが苦い顔で薮から出て来る。それが当時の映画の大魔神と所作表情がそっくりで、酷く面白かったから今でもYと其の話をして笑うが、KSに取っては笑い事では無かった筈だ。
 もう一人の男性が此のブログの陰の製作者のA、其の頃はメタボで無かったAは、平然と薮から現れる。Aよ、山を続けて居れば良かったのに、メタボなんざ金輪際知らずに済んだだろうに!
 秦野峠からの廃道はどうにか辿れて、稲郷に到達したのは大いに目出度い。でも皆さんボロボロになって仕舞った様で、気の毒!
 今の道は辿り易い。一寸と迷う事も有るが大事は無い。と言う事はどっちが良いんだか分からないので、一生懸命薮をこいで、無事に帰れて良かったって、凄く幸せじゃないのかなあ。(確かにあたしゃあ一寸と変ですね)
 今の雨山山稜は、地味なれども味わい深し、しかも安全だろうから(比大昔)、暇な時に行って見たら如何でしょう。
 御不明な点はお問い合わせ下さい。はい、喜んでお答え致します。

2009年7月11日土曜日

私が自炊に拘るのは その五

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 水場ではさぞや水を飲み狂っただろうが、不思議と全く覚えていない。覚えているのは、歩きながら葉っぱに溜まった朝露を啜った事。
 次の峠でSをリーダーにB班五人が合流した。詰まり予備日が一日有ったという事だ。天幕は豪勢にも三張になった。二張りは男性用と女性用、小型の一つは食料庫である。私とNは隙を見て、食料庫へ忍び込み、ヨーカンや缶詰をがつがつと食べた。栄光のA班は、飢えの為、哀れ泥棒班に成り下がってしまったのだ。翌日食料係りのKは「おう、変だ、足りない」、と不思議がっていた。改めて、Nよ、Kよ、御免なさい!
 自業自得を一つ、軽いやつで。
 正月に赤石鉱泉で幕営、小屋にビールを買いに行った。小屋の中は暖かく、表とは別世界である。こっちは好きで天幕暮らしをしているのだからそれは良い。凄いのは冬山でビールが飲める事。赤石鉱泉様、有り難う!
 コンロで雪を融かしながらビールをぐっと飲み、一服つける、至福の時である。当時の私はルール違反をしていた。キオスクで買ったコーヒーの缶を灰皿にしていたのだ。(今はしてませんよ)
 読めましたか?そうです、一口飲んだビールに間違って灰を入れて、ジュッ!トホホホホ……。又靴を履き、小屋迄行ってビールを買い、雪を払って天幕に入る。ご存知の通り、意外と面倒な行動なのです。靴を脱ぐ時つったりして……。ま、マナー違反には良い薬ってとこですなあ。
 最後にも軽い奴を。   
 昔々々、花立山荘の軒下でシェラフに入って寝た事があった。此れも冬だったので、雪の上だった。流石に登山ブームの頃だ、冬の夜中にも登って来るパーティが幾つかあった。タフな奴等だ。「おい、あいつ寝てるのか、死んでんじゃないのか」なぞと勝手な事を言う声が聞こえる。若い頃はそんな事が言いたいものなのだ。
 明け方余りの寒さで目覚めた(シェラフはニッピンのスリーシーズン用だったので、当然冬は寒い)。自然の要求も強くて仕方無くシェラフを出たが、強い西風が吹いている。風に寄り掛かる様にして水無川に向かって用をたしていたら、風が巻いた。
 よろめく(寄り掛かっていた風が突然無くなったので)と同時に飛沫が胸から顔にまでかかった。あ、ばっちぃ、と思いますか?そんなの、私には何て事もないのだ。所詮汗と似た成分の液体なんだから。気になったのは、それが冷たい事(正確に言うと冷たくなる事)。
 それを除けばかかり放題である。汗びしょなら垂らして歩いているのと何ら変わりは無い。誰だ、俺は何時も歩きながら垂らしているよ、と言う奴は!
 又もや汚い話になってしまいました。此処いらで“ひどい目大会“はお開きに致します。お後が宜しいようで。

2009年7月9日木曜日

休題 その十九

店 030

 

 テレビで見る(殆ど見ないのだが)戦国の合戦シーンには唖然とさせられる。映画もご同様なのだが、皆ワーワー叫んで刀を振り回して渡り合って居る。え、ヤクザの出入りか?
 ヤクザの出入りだって、メインの武器は先っちょに焼きを入れた竹槍だ。
 具足に身を固めた武士が、刀で斬り倒される。何か、具足はプラスチック製か?ま、撮影ではプラスチック製に違い無いが、戦国時代の具足がプラスチック製で有る筈は無く、従って刀で斬れる訳が無い。
 それに、ああ何だか分からず敵味方入り混じっての混戦なんざ、殆ど有り得ない。第一誰が味方で誰が敵?
 実際に刀を抜くのは、倒した敵の首を切り落とす時位なものだ。接戦用の武器は勿論槍、或いは棒(鉄の輪を付けたり工夫は有る)。ぶつかり合うのは集団同士で、必ず先頭は槍を揃えて槍衾を構成して居る。其れも段々と長くなり、三間槍(約5,4m)が主流となっては、おいそれとは飛び込めない。
 処が接戦すらざらに有った訳では無い様で、両軍対峙して喚声は挙げるが、激突には至らず(戦国時代の人間でも命は惜しいのだ)活躍するのは、弓、種子島、場合に依っては投石。
 武士道を弓矢の道と言うでしょう。武士の表芸は乗馬と弓だった。「飛び道具とは卑怯なりー!」と言ったのは、精神文化が爛熟した江戸時代の話で有って、戦国時代はリアルな時代、飛び道具が主役だったのです。
 暇な(失礼!)先生が居て、古文書を調べて合戦での死因を算出した。お陰であたしがこんな大口を叩いて居るのだが。

戦国中期迄
1 矢 2 石 3 槍

戦国中期から末
1 鉄砲 2 矢 3 石 4 槍

 鉄砲が加わっただけで変化が無い。
 石は、投石に加えて攻城戦の時落とす石も入って居るのでは無いだろうか?投石部隊は武田軍の其れが有名だが、挑発したり敵陣を乱したりする役で、死因の二位、三位に飛び出る程の威力は無いと思われるので。
 いざ接近戦となれば槍、何たって槍。槍に(テレビや映画の様に)刀で立ち向かって御覧なさい、余程腕に差が無けりゃ、刀に勝ち目なんざ有りっこ無い!槍の後には棍棒や訳の分からん(鎌とか)武器が続き、刀なんざ末席で小さくなって居る。
 従って江戸幕府は鉄砲と槍には煩かった。槍を立てて往来を通れるのは、大名か旗本だけだった筈だ。権威の象徴との意も有っただろうが、武器としての能力を警戒して居たとも想像出来る。
 まともな合戦シーンを期待してはいけないのかなあ。長柄が叩き合い、矢がビュンビュン飛んで、槍の穂先を揃えた武者が迫って来る。予算の都合だか、やる気が無いのか、どっちにしろ、日本の視聴者は偽者漬けです。

2009年7月7日火曜日

私が自炊に拘るのは その四

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 つい此の間(平成二十一年五月)、S、Kと飲んだ時、その時の話しになった。
S「大塚は詰まんないんだよ、ウィスキーはと言っても、いらない、酒はと言っても、飲まない、これじゃなあ」
私「だから、体調を壊してたの、必死に歩いたの!」
 頑強なSよ、私の様な虚弱な人間の気持ちも分からなくっちゃさあ。
 話が変わる前に謝っておきます。滅茶苦茶なNよ、御免なさい。
 零細山岳会で、奥秩父縦走合流登山を行った。金峰から入って、氷川(今の奥多摩駅)へ下る迄に二パーティが合流して、最後は十数人になるという、壮大(?)な企てであったのだ。
 A班は初っ端から歩き始める。私とNだ。何と情無い事。私は自分の食料を全て家に置いて行ってしまったのだ。詰まり、食料は定量の半分しか無いのだ。我ながら、粗忽で呆れる。それ以来、荷詰めはリストと照らし合わせ、完璧になったのは至極当然の事。
 二日目、予期せず尾根上の路で幕営する事になってしまった。何せ天幕が重い、綿布の八人用天幕だから、此れ一つで一人分の荷物になる。A班だからそれを背負って行く義務が有る訳だ。従って幕営地に辿り着けずに力が尽きた。荷物は滅茶苦茶重いし、食料も乏しいし……。
 仕方無く狭い尾根にでかい天幕を張った。路は天幕に占領され、横を擦り抜けるのも容易では無い。でも良いさ、もう夕方で誰も来る気遣いは無い。
 米が足りないのでお粥を造る。時間を掛けてとろりとろりと煮て、米を膨らませるのだ。そうすれば、取り合えずは腹一杯食べられる。尤も直ぐ腹は減るんだけどけどね。持っていた水は殆ど粥作りに使用した。勿論、尾根筋には水場なんざ有りゃあしない。
 お粥に塩気を付ける為に、塩の袋を傾けたが、入らない。似たような振る舞いの多い長男を非難する資格は、私には無い。愚かにも、袋のけつを叩いたのだ。どっと塩が入った。あ、どうしよう!
 一口食べた。
N「大塚、辛くないぞ」
 Nよ、君は良い人だ!
 二口、三口と塩辛くなって行く。その後はただただ塩辛い。当たり前である。
私「N、辛いから梅干を食おう」
 おかずは梅干だった。ははははは……、梅干が甘く感じられた。
N「大塚、気持ち悪くなった」
私「吐くな、食う物は無いんだ」
 我ながら酷い台詞で有る。
私「俺もムカムカして来た。吐く前に寝ちまおう」
N「それが良いな……」
 若さである。翌日生きて目を覚まし、B班と合流する幕営地へちゃんと到着したのだ。今ならテントの中に、干からびた死体が二体並んで発見されるのでしょうなあ。塩かなんか吹いちゃって、はっはっは(失礼、自分の所為なのに不謹慎でした)。 (私が自炊に拘るのは その五へ続く)

2009年7月4日土曜日

閑話 その二十三

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 南アルプス南部の山小屋は話にならないと言う人が結構居るが、あたしゃあ全く別意見なんで、ああでなくっちゃさあ、と思って仕舞う。変人閣下かな?
 何で話にならないか、飯は原則出さない(出しても粗末)、小屋は滅茶苦茶ボロい、便所は汚い、水場は遠い、親父はやけに威張ってる。
 そうだよ、あったりめえだろが!!其れが本来の山小屋なんだよ!山小屋の原形が残って居る貴重な場所なのだ、大切にするべし、なので有る。(やっぱあたしゃあ変人なのかなあ?)
 濃鳥小屋も評判は良く無い。メインストリートに有るから余計風当たりは強いのだろう。六年程前に泊まったが、全く問題無い小屋で有った。至極良い小屋で、文句を付ける奴の気が知れない。
 あたしゃ単独の時は、コーヒーはコンビニの紙コップ付インスタントだ。砂糖、コーヒーを用意しなくて良いのと、食器を洗わないで済むので、詰まりとことん不精を決め込む。
 濃鳥小屋にはインスタントコーヒーが有り自由に飲んで良い事になって居たが、あたしは自分の紙コップを飲んで居た。
親父「コーヒーなら其処に有るずらよ」
私「自分で持ってるから」
親父「あ、そうか。OKOK」
 何でも用意の良いのを喜ぶ。従って自炊でシェラフ持参と聞くと又喜ぶ。
親父「最近は何でも小屋に有ると勘違いする奴が多くて、危なくて見てらんねえ」
 とこぼすのだが、全く同感だ。遭難でも有れば真っ先に飛び出さねばならないのだ。儲からない上に、割りに合わない商いだ。危ない登山者を見てブツブツ言うのも無理は無い。
 高山裏(荒川三山の一寸と三伏峠寄り)では親父に一発かまされた。昼頃着いて、今日は早いが此処泊まりとしようと小屋の外で休んで居たら、大学の大パーティが来て幕営地へ向かい、水汲みの新人はザックを背に水場へ向かう、お馴染みの光景で有る。
 やがて数人の其のパーティの代表者に、親父がトイレと手洗いの説明を始めたので、あたしも一緒に聞いて居た。
親父「おい、何ニヤニヤして見てんだよ!」
 え、あたしかい?ニヤニヤなんかしてない。
私「今日は此処泊まりなんで、説明を聞いてんですよ」
親父「あ、そうか、お客さんか」
 で、矢張り素泊まりシェラフ持ちに喜ぶ。
親父「急に天候が変わって、小屋へ着けなきゃあどうなっちまうんだい」
私「全くねえ」
 案の定其の日は三時間程土砂降り、雷もゴロゴロの大騒ぎだった由。あたしゃあ誰も居ない小屋で昼寝の真っ最中だったので知らぬが仏、ふと目覚めると雨具の登山者で小屋は一杯、何だどうしたと驚いた。
親父「良く寝てたなあ、あの雷を知らないか」
私「全然知らない」
親父「はっはっは」
 何処が威張ってんだろう?極当たり前の小屋の親父としか思えない。其れが不愉快に感じる人は、本文でも書いたが、北アルプスか尾瀬に行くべきだ。あっちは立派に商売として成り立つので客扱いはとても良いから、きっと御満足頂けるでしょう。

2009年7月1日水曜日

私が自炊に拘るのは その三

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 悪い事に我々は自炊ではなく、小屋の食事頼みであった。何時順番が回って来るか全く分からない。だってズラーっと並んで食事を待って居るんだから。
 腹はペコペコである。重ねて悪い事に、行動食をSに任せてあった。Sは飲んべえなので、行動食はウイスキーと、酒のつまみみたいな物ばかり取り揃え、しかも干し肉とかサラミとか。私は肉が嫌いなの!ノビロが有ったので、仕方なく、バリバリ食べた。とても胸がやけた。
 夜中に気持ち悪くなり、目を覚ました。鰯の缶詰のように、頭足逆に詰め込まれて寝ていたのだ。昔は乱暴で、それが当たり前だった。自分の顔には誰かの靴下(それも何日も履き続けたやつ)がくっついている訳だ。勿論私の靴下も誰かの顔にくっついているのだから、お互い様である。
 いかん、吐き気がこみ上げて来た。廊下に出ると、其処にも隙間無く人が寝ている。マッチを擦って灯りとし、人を踏まないように進む。う、と戻してしまった。幸いな事に水分摂取が少なかった為か、固形状の反吐で有った。(汚い話、失礼)半分飲み込み、半分口に入れた侭急ぐ。マッチの頭がポロリと落ち「アチッ」と声が上がったがもう構っていられない、次の反吐が来かかっている!人を踏みつけ走る。罵声も怒声も知った事か。じゃあ、反吐を掛けられたいのかよ!
 トイレに来ると此処も人の列。オーマイガッ!エジプト軍に追われ、紅海を前に絶望したモーセの気持が良く分かる。すると、女性便所から一人出て来た。紅海が割れたのだ!
 入ろうとする女性を押しのけ、個室に飛び込んだ。うーん、とてもモーセの行動とは思えない。さぞや、非難や叫び声があっただろうが、私には幸いにも、その後の記憶が無い。だって、切羽詰っていたんだから!
 此の日で完全に体調を崩したのだが、縦走は続く。ラッキーにも、悪天候も続く。私とSが雨の中を歩き出した時、小屋が麓と通信をしている声が聞こえた。
「稜線は暴風雨です。登山者は全員停滞します。あ、待って下さい、二人三俣へ向かいます」
 私達だ。はい、歩きました。飯は食えず、夜は眠れず(何でだろう?)、食わず眠らずで、風に吹かれてそれから二日歩き通して、夜行で帰った。若さの勝利だ。今の私なら絶対死んでいる。従って、死ない為に縦走には出掛けず、小屋で停滞する。どんなに混んでいようとだ。
 それからだ、小屋泊まりなら自炊!お盆には絶対幕営にする!行動食は自分でしっかり管理する!と決めたのだ。とことん懲りましたので……。 (私が自炊に拘るのは その四へ続く)