2009年12月19日土曜日

閑話 その三十八

DH000016

 

 

 前章の、“迷ったなんて認めたくない”で、秋の宝剣岳の紅葉(?)の話をしたが、写真を撮ってなかったのが如何にもあたしらしく、別の時の夏山の写真をオズオズと出す阿保さ加減は、いよー立派、と褒めたい程で有る。(自嘲)
 此の時は極楽平にザックを置き、宝剣をピストンして木曾殿越で幕営のつもりだった。
 朝一番の梓で出発したのだから、昼過ぎから行動を起こした訳で、既にセオリーに反して居るが、三昔近く前の事だから、若さに免じて大目に見よう。え、自分に甘いって?そうなんですよねえ。
 で、時間に限りが有るから飛ばした(飛ばせた、勿論今は駄目)。
 書きたくなかったけど(じゃあ書くな!)、書きましょう。本来山小屋を悪く言いたく無いのはあたしの本心なのだが、木曾殿越の小屋の親父の対応は、あの日だけだったのかも知れないが、良くなく感じた。
私「(ザックを降ろし)ゼーゼー、今日は」
親父「いらっしゃい、お疲れ様でしたね」
私「ゼーゼー、幕営なんですが」
親父「(急に冷たい声)幕営?ああ、あっちへ下って張りな」
私「(カチン!)……」
 で、ザックを背負って去った。幕営料三百円(当時)なんざ客じゃ無いってえのは理解可能だが、幸せな事に其れ迄そんな親父に会った事が無かった。
 山小屋も商売だ、ボランテアでは無い。でも登山者には同じ山の仲間だとの気持ちは常に感じられたし、感じさせられた。
 其れが感じられなかったので、カチン!となり、「上等だ、頼まれてもお前の所にテントなんざあ張ってやるかい、空木迄行ってやらあ」と思った訳で、若さ故です。
 短気は損気、其れから取り付いた夕昏迫る空木岳の登りは利いた。急峻なの。一歩一歩の高さが大きい。こりゃあ親父の尊大な態度も分かる、誰でも此の登りは敬遠するぞ、と思い知ったが勿論戻る気はないく、ゼーゼー登り切って、避難小屋へ下る時はフラフラ。
 本当は違反なんだが、避難小屋の横にテントを張った時は、暫く呆然と座り込んで居た。いやあ、本当に疲れたですよ。
 避難小屋に泊まる方が法に適って居る上楽なのだが、二パーティ居たし、テントを担いで来て使用しないのも業腹だったので。今ならそんな拘りは無い、さっぱり無い、薬にしたくとも無い!
 第一、 腹を立てて空木岳に取り付かない、いや、取り付けない。ルンルン歌って木曾殿越でテントを張る。親父がどうで有ろうと、絶対張る。そして、ビールを買って飲む。其れが大人だ。
 小屋の悪口になっちゃった(恥)。たった其の日だけで判断は出来ない。良い人なのかも知れない。多分そうだと思う。さもなきゃ小屋番はしないだろう。御免なさい(ぺこり)。

2009年12月18日金曜日

一期一会の無言の会話 その二

FH000117

 

☆どうでも良い派。
 構わないのがポリシーと思われる。多くはベテランクラスだろう。少なくは、その侭来てしまった人達。手ぶらで大倉尾根で喘いでいたり、手提げバックで、蛭ヶ岳はどっちですか?と言う。結構危ない人達だ。天気の急変が無ければ良いのだが。
 多くは(詰まり、少なくは、以外の人)行動が素早い。大体が余り愛想は良くない。愛想を振り撒く為に山に来ているのでは無いからだろう、と思われる。結構頼もしい感じがするタイプである。

☆ホームレス派。
 不適切な表現をお詫びします。差別したり馬鹿にしているのではなく、分かり易い表現をしたのです。何を隠そう、私がそのホームレス派だ(え、隠しようもないって?)。若き日の洒落っ気は今いずこ、ふん、さよならだけが人生さ。
 ずぶ濡れで寝たり、ガレ場を這いずったり、ツェルトで震えて暮らしたり、雨の斜面でドロドロになったり、ザレで滑ったり、汗が足元に滴り落ちたり、足を取られて転げ落ちたり、川に落ちたり、藪でズタズタになったり、ツタに絡まれて足掻いたり、そんな事を繰り返していて、気づいたらホームレス派になっていた。
  先ず汚いのが常態。どうせ汚くなっちまうのだから。洒落っ気は一切無用、そんなもの邪魔になるだけだ、生きて帰る事だけを考えろ!無駄は、文字通り無駄だ!!……思えば、偉くひどい世界ですなあ。潤いなんてかけらもない。そんな世界に好んで入る馬鹿もいる。モロに掛け値なしの好事家って事です。
 リュックにカップをぶら下げている人が、結構多い。私が見てもなかなか良いものである。ステンかチタニウムのカップが欲しいと思ってしまう。併し其の様な贅沢は、ホームレス派には有り得ない。藪から出たら、当然無くなっている。
 藪は何でも巻き上げる。表にぶら下げている物なぞイの一番だ。腕時計すら巻き上げられる。Yは、ポケットに入れてたレーバンのサングラスも取られた。
 私の本心は、カッコマン、成りたくって成りきれない、それが悩みの種だ。

 柄に合わない事を書いてしまった。(汗)
 行き会う登山者は一期一会である。(違う例は後で)
 夏山の船窪小屋に着いた。水を汲みに行こうとすると、小屋の女将さんが「汲みたての水が有ります、冷たいよ」と言う。畜生、登山者の心理を読み抜いていやがる。悔しいが、喜んで買いました。
 (一期一会の無言の会話 その三へ続く)

2009年12月14日月曜日

閑話番外 その十五

FH000034

 

 年末が近づいた。で、気付いたのだが、此の絶海の孤島「丹沢と共に」は丸一年掲載が続いたのだ。
 初めての掲載、「始めに」は二十年十一月三十日、此れはA君が加工してくれて、表題の一部「初めまして」となって居る。登山靴のイラストの付いたあれで有る。
 一年とは長い様でも有り、短くも有る。

 本当に少数の方が、覗きに来てくれたお陰様で、掲載を続けられました。改めて厚くお礼申し上げます。
 歳が改まっても、あたしの駄文は相変わらずに決まって居るので、呆れ返らないで下さったら、幸甚此の上無しなので有ります。

           健三郎拝

2009年12月13日日曜日

クソ面倒な話 その十一

m31[1]

 

 銀河系宇宙と一言で言うが、途轍も無く巨大なもので、差し渡しが20万光年、1千億から2千億の恒星が集まって居る。恒星の数に幅が有るのは、中心部がガスの為精密に観測出来ない所為らしい。
 銀河系宇宙は単独で存在して居るのではない。小さな星団を二つお供に連れて居る。大マゼラン雲と小マゼラン雲で、夫々10万程度の恒星の集まりだが、残念ながら北半球からは見えない。
 肉眼で見える最も遠いものは、ご存知のアンドロメダ星雲、200万光年先の直ぐお隣さん銀河だ。うちの銀河とアンドロメダ星雲でペアーを成して居る。他に星の数程有る銀河達は、レンズやアンテナの力を借りなければ見る事は出来ないのだ。遥かに離れて仕舞って、我々ペアーは虚空にぽつんと存在して居るかに思える程だ。
 アンドロメダ星雲の一つの文明とコンタクトが取れたとしましょう。なんてったってお隣さんなんだからさ。何かの問い合わせを受けて答えを発信する。
「はい、其の回答は添付ファイルをご覧下さい。ADOBEリーダーが必要です。地球では一同、お会い出来る日を楽しみに致しております」
 其のメッセージは、相手に200万年たって届く。誰が覚えて居るのだろう?或いは、今更200万年前の回答が、何の役に立つのだろう?第一、其の文明は存在を続けて居るのだろか?
 はなから話が違うのは、地球がメッセージを受けた時点で、既に200万年前のメッセージなので、相手はもう存在して居ない文明の確率が高いと言うより、マトモに考えれば、存在してない!
 「お会い出来る日を楽しみに致しております」なんて、空虚な挨拶と言う以外に無い。お会い出来るなんてこたあ、有り得ない!!
 もしもお会いしたいと全地球で決定したら、壮大なプロジェクトとなる。現在より遥か進んだ技術が有ったとして、片道300万年はたっぷり掛ける訳だから、壮大な宇宙船が必要だ。実際は亜光速で進むので時間の経過は遅れるから、10万年の旅位に相当するだろう、多分。そんな面倒計算はあたしゃ出来ないから、単なる山勘だけどね。
 でも10万年。大勢が乗り込み、生存し、子供を生み、死に、子供が子供を生み、死に、人類が文明を造り始めてから現在への時間の三十倍の時を宇宙船で過ごすのだから、確り考えれば間違い無く全員が死に絶える。超巨大な幽霊船が宇宙を走り続ける訳で、完璧なあたし好みのユーモアです。
 宇宙人からのメッセージを探し続けて居るが、同時に発生した文明では交信不能。時間差が有っても確率的に、今其れを捉えるのは、広大な砂漠で落とした小さなルビーを見つける様なものだと、あたしは思って居ます。

2009年12月12日土曜日

一期一会の無言の会話 その一

DH000043

 

 山には色々な人がいる。目に付くのは、矢張り中高年の登山者だ。たまに大学のパーティと擦れ違ったりすると、嬉しくて思わず見送ってしまう程だ。ま、七割強は中高年でしょう。若い人よ、山は良いですぞ!
 スカート姿の女性を塔ノ嶽で見かけた事が有った。ロングスカートの洒落た人だった。昔の山の写真では、良くスカート姿の女性が写っている。男性はチョッキを着込み、パイプを銜えてハンチング姿がパターンだ。従って違和感は全然感じられず、とても素敵に思えた。
 否応なしにスカートで登らされた例も有る。私が高校を卒業した年、クラブの後輩達がハイキングに行った。何処に行ったのと聞くと、表尾根だと言う。私は怒った。山登りじゃないか、装備はちゃんとしてたんだろうな!
 飛んでも御座いません。そこらの散策感覚で、数人の女生徒は制服姿だった。箱襞スカートにブレザーが制服だ。うちの高校は何で制服で山に行くのが好きなんだろう。
 可哀相に、行者の鎖もスカートで降りたのだ。靴だって普通の通学靴に決まっている。整備されていない時代の大倉尾根だ、下るのも大変だっただろう。滑ったり、転んだりして苦労したのだろう。
 ま、こんな先輩だからそんな後輩になってしまうのだろう。気の毒な制服の女生徒達よ。
 パイプの事だが、私が二十そこそこのガキの頃の話だ。大分恥ずかしい。セピア色の写真の真似をして、父のズボンを切ってニッカズボンをでっち上げ、父のウールの上着と銀座虎屋のハンチングを貰い、気取って着込んでいた。おまけに、パイプまで銜えていたのだ。(汗)
 かと思うと、短パンに網シャツ、その上に赤いチョッキだけをはおり、キスリングを背負って山を歩いていた(汗)。本人はかっこいい!と思っていたのだ。若いから何とかなったのだろう。今の私なら完璧な、危ないおじさんだ。ガキの頃は(本人なりに)お洒落だったんですなあ。自分で驚いた。私を知る人も、のけぞって驚くだろう。
 ついでだ、勢いで山のファッションに触れよう(とうとう気が触れたか!)

☆お洒落派。
 多くは最新の服装、装備で固めている。最新でなくても、さり気無く着こなしている。お洒落派の良い処は、見る人に不快感を与えない。ただ、山馴れない人は、どうしても身に着いていないので、一寸と浮くが、それも時間の問題で、直ぐ身に着くようになるものなのです。
 Sは最新ファッション派だ。何時でも最新装備を持って来る。着て来る。残念な事にそれが似合うのだ。中高年の登山者達にもお洒落派が、意外と多い(意外じゃないかも)。ばりっとして、元気に山歩きをしている。とても良い事だと、応援していますからね。(え、私の応援なんて迷惑だって?)
 (一期一会の無言の会話 その二へ続く)

2009年12月11日金曜日

閑話番外 その十四

FH000010

 

 何とも詰まらない写真を載せたのは、滅多に見る事の無いアングルだからなので、椿丸付近からの展望。
 流石の大野君の地図でも、空白地帯になって居るので、参考迄に、と言う事です。
 右の目立つ山は世附権現山。こう見ると中々立派な山では有る。

2009年12月8日火曜日

柄でも無い事 その七

RIMG0001

 

 岡山へも仕事で良く行った。岡山と言えば備前焼。駅の案内所で良い店は何処かと聞いら素備庵と言う店を紹介してくれた。駅から割と近いのも、其の理由だと思う。
 無用な心配だが一応断っておくが、宣伝じゃ無いですよ。以下はあたしの感じた侭で、一銭も貰ってません。これでOKだろうか。
 素備庵に一歩入って驚いた。デパートや土産売り場で備前焼は結構見たが、其れとは別の物が広くも無い店内にぎっしりと並んで居る。え、今迄見て来たあれは何だったんだ?
 同じ色合い、同じ感触、同じ雰囲気、火襷や牡丹餅は有るんだが、形は違えど皆同じ。一発で分かった。粗製乱造(失礼)備前焼だったんだ。ガス窯か電気窯でどんどん造る、従って皆同じ雰囲気。あたしにさえ分かるんだから、多くの人にも分かって、備前焼ったって、大した物じゃ無いなあ、と思われて仕舞っても無理からぬ。強いて言えば県知事の責任で、備前焼とは斯様な物と定むると、明確にすべきだ。偽者(失礼)を備前焼と思われて、岡山県にとっても良い筈は無い。
 素備庵に無造作に並んで居る品物は、デパートならば美術品売り場にしか無い物ばかり。値段は其れよりかは安いが、土産物屋とは桁が違う。どう見ても尤もなので、ビニールのカッパとゴアの雨具とは桁が違うに決まって居る。
 素備庵の主人は語る。熱く語る。
「松の木で焼くんです。そうしなければ備前本来の味は出せない」
 そうなんだ。知らなかった。
「名前が通って居るからどう、では無い。作品が良いか悪いか。皆さん、有名作家を追い求めますが、笑止!」
 うーむ、同感だ。
「私は真面目に備前焼に取り組む作家を応援します。アドバイスは惜しみません」
 そうでしょとも!元は、熱血高校教師で有った由、備前焼に魅せられて店を開いたとの事。今では備前焼の講師も勤めれば、若い作家の指導もする。あたしも何度も通って指導(?)を受けたが、そのような人は岡山県の宝、否、日本の宝です。
 あたしが力んでも意味が無い。
 素備庵以外で備前焼を買う気が無くなったのは、幸なのか不幸なのか。ま、今となりゃあ不幸で、もう岡山には行く事も無いから、備前焼が買えなくなっちまった。尤も金が無いから、どっちにしろ買えないので、幸だったとも言えますなあ。
 愚痴は置いといて、あの無骨で地味で変哲も無く見える備前が、夫々の色合い、個性、色気を感じる事が出来る様になったのは、素備庵のお陰で有る。
 備前が地味だ?フッフッフ、良い物を見て無いね。美術品売り場でも美術館でも、確り見て歩いて見なさい(え、地味なんて言って無い,自分が書いたんだって?失礼!)。備前もお薦めです!!

2009年12月6日日曜日

閑話 その三十七

DH000071

 

 高山帯の定義は日本と外国では異なって居る様だ。日本では這松帯からを高山帯とするが、外国では樹木が無くなる地点からをそう定義する。従って這松が生えて居るなら高山帯では無い。
 其の這松だが、北東アジア特有の植物で、植域が長い舌の様にベロンと南に延びて居るのが日本列島で有り、其の最南端が南アの光岳(てかりだけ)だ。詰まり世界の這松最南端と言う事。
 全く知らなかったのだが、日本の高山帯は世界に例の無い多様性が有るそうで、分かり易く言うと、箱庭的風景の様だ。
 岩と岩屑とお花畑と這松と残雪、極当たり前と思って見て居たが、外国の山は岩なら岩のみ、花は極珍しく、雪田も存在せず氷河になって仕舞う。植生も単純で高度に合わせて同じ種類の植物で埋められる、と本で読んだ。
 ふーん、そうだったんだ、其れも山の景観を生涯の研究テーマに選んだ変わり者の(失礼)学者が居てくれたお陰で、知る事が出来た訳で、其の先生は仲間や先生からも偉く変わり者扱いをされたそうだ。併しそう言う総合的見地に立った研究は素敵です。
 何で多彩な風景が構成されたかと言うと、日本の山は、世界一の強風帯と世界一の豪雪帯で、其の作用だそうだ。知らなかった。豪雪帯は知って居たが、強風だったんだ。確かに冬の硫黄岳通過這うしかなかった。
 で、這松だが、厳冬期には雪の下に埋もれてなければ、厳しい寒気と強風の為生存出来ず、寒気が緩めば直ぐ雪が融けて日光を受けられる環境が必要だそうだ。這松帯とはそう言う所だったんだ。
 因みに這松は1m成長するのに三十年掛かる筈だが、頑張って下さいね。
 お花畑は岩屑帯(専門用語が有るだろうが、知らない)に展開して、種々の花々が咲き乱れる。此れも外国には無いのか……。殺風景ですなあ。日本に住んで居て良かった。あのお花畑の見事さ、妻にも見せて上げたいのだが、未だ機会が無い。北岳にでも連れて行けば良いのです。
 南北中央アルプスでは、最近良く外国人登山者を見掛ける。わざわざ登山の為に来日したのか、と聞いた事は無いので、日本に居住して居る人が大部分だろうと思って居るが、中には珍しい日本独特の高山帯を訪ねて来た人も居るかも知れない。今度聞いて見よう(どうやって?身振りでかい)。
 結論、そんな良い山を登って居たとは全く知らなかったので、感謝して山登りに励みましょう。

2009年12月4日金曜日

休題 その二十八

無題

 

 我が家の紋所は丸に一引き。分からない?丸に十の字は薩摩の島津の紋所で、十が一になったと思って下さい。
 両方共源氏の紋で、我が家も源氏なんだが、先祖は渡辺の綱(と言われて居る)、羅生門で鬼の腕を切った、頼公四天王の一人と言えば分かる人も居るだろう。頼公とは源頼光で、四天王で有名なのは坂田の金時、俗に言う足柄山の金太郎で有る。
 文化を大切にしないと、国民同士で話が通じなくなる。英語を教えるより国語を教えるのがマトモな考えで、今の風潮はマトモでは無いって事?そうだ!英語は必要なら使える様になる、戦後の売春婦を見ろ(古くて分からない?学校は何を教えてんだ!)。
 乱暴な話で失礼。でも幕末の侍達が欧米に行ったが、言葉なんざ全然分からんでも偉く尊敬された。心掛け、覚悟、使命感、誇り!全部今は意味の無い(或いは薄い)事柄になっちまって、自分の国も知らなきゃ、相手の国の文化も歴史も知らねえ、言葉だけは出来る、って事は戦後のパンパンを大量に創りたいのかよ!!!
 あ、又もや失礼!常の如く酔って居るんで済みません、話を戻します。
 源氏と言っても傍系の又傍系、渡辺と名乗って居たのは渡辺の荘を領して居たので、今の大阪市だ。大塚と名乗ったのは、其の渡辺の綱の傍系の傍系が、どっかの大塚荘にでも住み着いたからだろう。
 我が家の話はどうでも良くて、総本家源氏の事。
 直系は八幡太郎義家の家系だが、頼朝の孫の代で途絶えたので、義家の弟の新羅三郎義光の家系が跡を継ぎ、其の直系が甲斐の武田家なのだ。傍系としては島津、南部、小笠原と多彩で有る。詰まり武田信玄は源氏の統領なので、当然乍ら天下を治める使命が有ると思って居たのだろうとは、当然思い当たる。でも、あくまで私見です。
 信長が天下を目指して居たと偶に読むが、多分、美濃、伊勢、近江を手に入れた頃からチラッと思い始めた、と考えるのが正解ではないかと思う。其れでも未だ周囲は強敵だらけだった訳なので、浅井、朝倉を滅ぼす迄は夢想の状況で有る。
 一方信玄は、本気で京に登り天下を平定する気だった様だ。唯、上杉謙信が居たもので、常に彼を牽制する策を打たねばならず、苦労です。謙信公はご承知の通り、自ら毘沙門天の生まれ変われと信じて居た戦の天才なので、信玄も頭が痛い話で有る。
 前述だが、労咳の身では残り時間が少ない。労咳なのでデップリ太っては居ない。従って有名な信玄の肖像画は間違いなのだ。
 やっと、謙信を動けなくし、信長も多方面に兵力を割かざるを得なくして(なまじな戦略家では無い)、三万近い軍勢で京を目指す途次に病没し、無念とあたしは思うのです。

2009年12月2日水曜日

閑話 その三十六

 相応しい写真、イラストが無いので失礼。
 前の本棚には“風雪のビバーク”が有った。松涛明氏の登山記録を其の侭製本したものだ。此の本を著名なものにしたのは、遭難死の直前に書き綴った文章だ。
 彼は冬の北鎌尾根をアタック中、友人の故障の為に行動出来ず共に死を迎える。加藤文太郎の最期に通じる。場所も同じ北鎌尾根なのだ。
 辛くて読めない。でもご遺族の許可も得ずに引用したいと思います。ものぐさで御免なさい。

 一月六日 フーセツ
全身硬ッテ力ナシ
何トカ湯俣迄ト思ウモ
有元ヲ捨テルニシノビズ、
死ヲ決す
オカアサン
 アナタノヤサシサニ
 タダカンシャ、一アシ
 先ニオトウサンノ
 所ヘ行キマス。
 何ノコーヨウモ出
 来ズ死ヌツミヲ
 オユルシ下サイ
 …………
 サイゴマデ
 タタカウモイノチ、
 友ノ辺ニ
 スツルモイノチ、
共ニユク
 …………
我々ガ死ンデ
 死ガイハ水ニトケ、
ヤガテ海ニ入リ、
魚ヲ肥ヤシ、又
人ノ身体ヲ作る
 個人ハカリノ姿
 グルグルマワル

 鉛筆は指で持つ事は出来なかっただろう。手で握って書いたのだろうと思われる。
 昭和二十三年の事だ。あたしが満一歳。本文や閑話と重複するが、何度でも書く。今なら無事に有元氏と共に、お母さんの待つ家へ帰れただろう。
 当時の装備はコットンなので、何日か続いた雨(!)でテントもツェルトも凍って使用不能、雪洞暮らしとなるのだが、急峻な岩稜で雪洞を掘る場所は殆ど無いので、最悪の事態を迎えるのだが、今ならテントもツェルトも表面しか凍らないので、充分使用可能だ。
 決定打はラジュース(石油を焚くホエブス)の故障らしいが、今ならガスなので、故障は考えられない。従って二人共無事だ。そうだったらどんなにお母さんが喜んだだろう。
 六十年前の山登りは、本当の冒険だった。くどいが、装備は格段に良くなっても大自然は変わらない。お互い親を泣かさない様にしましょう(あたしには親は無しだけど)。

2009年11月29日日曜日

迷ったなんて認めたくない その六

 

 呆然と濁流を見つめていても、結論は一つに決まっている。馬鹿な考え休むに似たり、DH000003なのだ。
私「Z、気の毒だが引き返……」
Z「(被せて)大塚さん、橋を掛けよう!」
 Zは挫けない男だ。或いは、「引き返す」の一言を死んでも聞きたくなかっただけかも知れない。Zは3m程の枯れ木を引っ張って来た。私も手を貸した。こうなったのは、私の判断ミスなのだ、止めとけ無駄な企てだとは、とてもじゃないが言えなかった。枯れ木を川に放り込んだら、あっと言う間も無く流れて消えた。二人は無言でびしょ濡れのザックを背負った。
  やっと下った路を、やっと登って行く。
 私は幕営地を探しながら歩いた。稜線へ戻るのは時間的に不可能だからだ。急な路ばかり、たまに有る平地は川原で、増水を考えると危なくて天幕は張れない。日が暮れて来た。行動は限界である。路は平な所に差し掛かっていた。良し、此処で幕営だ。
 狭い路に無理やり天幕を張っていると、ポールがポキッと折れた。折れたポールを切り離し、グジャッとした奴をでっち上げた時は、真っ暗になっていた。雨は降り続けている。ポールが折れるような古い天幕だったので、雨は漏り放題、天幕の中には水がたぷたぷと溜り、金魚が飼える有様である。
 そこで前に触れた取っておきのマッチの話となるのだ。胸ポケットのライターは、濡れた手で擦ったので、死んだ。Zのライターも濡れて死んでいた。私のライトとローソクを入れる袋の底には、二重に包装されたマッチとライターが有るのだ。フッフッフッフ、登山者の心がけってもんよ(痛い思いをして知った事なんだから、威張る筋合いでは無い)。
 タオルを良く絞りって手を拭い、雨漏りに気をつけてコンロに火を点けた。成功!これで遅い食事をとる事ができた。
 翌日は雨が上がり、難無く稜線へ戻り、木曾側へ下って無事帰京できたが、車内で一緒になった人達は、我々のすえた臭いに閉口したと思う、何せビショビショの着干し(濡れた服を着た侭体温で乾かす事)だったので、済みませんでした。
 迷ったというより、右往左往した話だったが、Zには辛い思いをさせてしまった。でも、良い思い出になったでしょう?(あれ、Kと同じ発言だ)
 お互い、迷うのは地上だけにして、山では慎重に、決して迷わぬよう行動しましょう。迷うと、ひどい目大会をやる羽目になっちまうんで。
 でも絶対迷わないって事は有り得ないので、万が一迷ったら、じたばたせずに、状況の回復を待つべきで、谷に降りるなんてえのは、絶対駄目ですよ。(老婆心ながら)

2009年11月28日土曜日

クソ面倒な話 その十

IvyMike2

 

 その九に続いて分かった様な分かんない様な事を書くが、ブルーバックスの受け売りで、増殖炉は使えば使う程燃料が増えると聞いて、そりゃあ変だ、エネルギー保存の法則はどうなったんだ、と本を買った訳なのだ。
 ね、当然の疑問でしょう?お陰ですっかり納得出来たのは目出度い。
 燃えないウランをプルトニウムに変え、其れを燃料とするのだが、面倒な事にプルトニウムにも同位体が多く、燃えるのは239と241なので又もや濃縮しなければならない。日本では其の作業はフランスの企業に委託して居る。
 プルトニウムは「此の世で最も危険な物質」と言われて居る。空気に晒されると激しく酸化し、酸化プルトニウムになり、まずい事に超微粒子となって飛び散る。此れを吸い込んだら百年目なのだ。
 プルトニウム239の半減期は二万四千百年、詰まりあたしの一生なんざ二百分の一以下。うっかり吸い込んだあたしは、一生元気なプルトニウムの放射線を体内に浴び続ける訳だ。此れは辛い。
 ビーグル犬を使った実験では100%肺癌が発生したそうで、人間なら大丈夫と言う保証は、残念乍ら無い。
 プルトニウム型原爆は、純度94%の239が5Kgで完成し、ウラン型は純度90%の235が15KgでOKで有る。依って、プルトニウム型の方が小型に出来るが、5Kgで核分裂を始めて仕舞うので、小さく区切って、一気に結合させなければならない。
 従って、アメリカとしてはタイプの異なる原爆を夫々実験(それも人体実験)したかった訳だ。考えすぎ?戦争の勝負はとっくに着いて居て、あちらさんも其れは十分承知だよ!
 人間とは、悪魔ものけぞる様な悪魔にでもなれるのです。
 話があっちに行ったので戻そう。どうしても興奮しちゃうんです。
 原発は必要悪だとあたしは認識して居るので、化石燃料は限りが有る上にCo2を排出するので、燃せば燃料を作り出す増殖炉の魅力は棄て難い。でも、デメリットは確かに大きい。手を加えれば核兵器になると言うのも、危険過ぎる。
 核融合炉が実現すれば、酸化プルトニウムや放射能の危険とはおさらば出来るだろう。究極のクリーンエネルギーでは有るし、此れからの人類を支える力になるのは疑い無い。
 欠点は実用化が難しい事、それも半端じゃ無くだ。もう一つは、核融合って結局は水爆なので、人間が人間で在る限り、何らかの不安は拭い去れないのです。