2018年10月31日水曜日

山の報告です その七十五



 去年の秋、主稜をやりたくて蛭に泊まったが、雪が降ったのとバスの時刻が遅いので大倉へピストンで戻った。今回はリベンジじゃあ、と十月二十五日に出掛けた。
 西丹沢のバスが昼間に二本しかなく、早過ぎるか遅すぎるかの感じで、蛭の小屋をやけに早く出るかのんびり出るかしかない。で、発想を変えて西丹沢から入山とした。
 ガイドブックと逆コースになる。何故逆になるかってえと、檜洞丸を越えて比高300mを下り、細かいアップダウンを繰り返して臼ヶ岳を越え、最後に比高300mの急坂を登ろうと言うので、こりゃあ嫌ですなあ。
 バスを降りたのが九時三十五分。地図上で六時間二十分コースなので、何とか日のあるうちに蛭に着かなければ、とやや焦る。チッチッチ、それがいかんの。ゆっくり行かなきゃ着けなくなるかもですぞ。
 ひたひたと唯一人、通り慣れた路を行くとゴーラ沢出会いだ。適当に川を渡って階段に取り付くと本格的登りが始まる。登るに従って少しずつ樹が色付き始める。僅かな標高差でも敏感に反応するのだ。
 最初のベンチで休憩、出発する時に若者が登って来た。タイツに短パン、如何にも早そうだ。案の定暫くで抜き去られた。勿論、もう二度と会えなかったのだ。
 段々紅(黄)葉がすすんで来る。息も上がるが腹も減って来た。エネルギー切れ寸前なのだ。あ、ストックを忘れて来たので、拾った木の枝を杖としていたので、その杖にすかる様にしてやっと稜線に立った。
 此処で先ずは腹ごしらえ、昼飯ごときを摂って出発。曇りだったが、たまに日が射す。二十分の軽い登りで檜洞丸頂上到着。数人が休んでいる。
 上の写真は檜洞丸からの蛭ヶ岳。頂上はもう冬枯れなのだ。
 一服点けて出発、先は長いのだ。新装なった青ヶ岳山荘前で中年男性が「蛭ですか」と聞いて来た。彼も蛭だそうだ。(続)

2018年10月28日日曜日

休題 その二百三十二



 沖縄戦に於ける死者は以下の通りである。
本土出身将兵   65、908人
県民 軍人・軍属 28,228人
   一般人   94、000人
計       188,136人

 十二万二千人以上の死者が沖縄県民である。軍人・軍属としてカウントされる現地召集者と言えども、昨日までは全くの一般人だった人なのだ。
 曽野綾子氏に「生贄の島」と言う作品がある。昭和四十八年に二百人近い生き残りの人にインタビューして書き上げた、看護師に志願した女子中学生を中心としたドキュメンタリーだ。文句なしの力作ではあるが、読み終えると心がぐったりと疲れる。その文中の、ひめゆりの壕で生き残った山城信子氏の証言を引用しよう。
 
 「(略)私はあのひめゆりの壕へはめったに行かない。花売りも壕の上で記念写真とってる人もいやだ。あそこへ行くと、苦しんでもがいていた友達の悲鳴が、つんざくように天地から聞こえて来る。泣けて泣けて、何もできないんです。壕の上に立つと、皆が私を懐しんで、私は中に引きずりこまれそうになる」

 沖縄の基地問題がこじれるのも、全く無理がないと思わされる。
「沖縄県人かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配を賜わらんことを」と書き残して自決した海軍太田少将の言葉を、今こそ思い出すべき時だと思う次第です。

2018年10月24日水曜日

休題 その二百三十一



 沖縄基地移転でもめている。根っ子は沖縄戦にありそうなので概要を書いておこう。
 西南諸島は第三十二軍が守備を担当していた。決戦の場となった本島には、第二十四師団、第六十二師団、独立混成四十四旅団の三個兵団が展開していた。外に日本軍としては非常に強力な軍砲兵団が配属されていた。
 本島の戦いは四月一日の米軍上陸から終戦の日迄続いた。互角に戦えたのは首里攻防戦迄で、五月二九日の首里撤退からは敗北の坂を転がり落ちる様に南部に追い詰められ、各個に撃破されていった。
 沖縄戦を特に悲惨なものにしたのは、民間人をも南部へ退避させた事である。民間人を激戦地へ送り込んだ事になる。南部はサンゴ礁の地盤の為、壕は掘れない。従って天然洞窟や沖縄独特の墓に入るしか身を守れない。一家が墓に避難していると軍に追い出される事例が多発した。
 外に出ると歌の通りに鉄の雨が降る。普通の雨と違うのは横からも降る事だ。追い出された家族は鉄の雨に打たれて、一家全滅となる。沖縄県民が本土に微妙な感情を抱くのも、至極尤もな事なのだ。
 軍にも言い分はある。本土決戦の準備の為に、一日でも長く米軍を沖縄に縛り付けておく事が任務であって、住民を守る義務は負っていなかった。これは32軍の罪と言うより、大本営の罪だと言うべきだろう。
 十七歳から四十五歳の男性は現地召集兵として戦闘補助の任に着いた。男子旧制中学生は鉄血勤皇隊として補助兵の役を、女子旧制中学生は看護師の役を担った。これらの旧制男女中学生は、二千人と推定される。 旧制中学校とは、現在で言う中学二年生から高校三年生迄の年齢に相当する。文字通りの少年少女達だったのだ。軍務に関しては一応志願制だったが、断るのは難しかっただろうし、断る気持ちを持たなかった生徒が大部分だった様だ。(続)

2018年10月21日日曜日

閑話番外 その百七



 木曽駒と将棋頭に行った時、地下足袋だったと書いた。初めて森林限界を超える稜線を地下足袋で歩いたのだ。あ、失礼、北八の天狗岳へ行った事があるので、二度目でした。
 足首が固定されないので、その付近に負担が掛かるのは樹林帯でも同じ事だ。違いは殆どが岩道と言う事で、何時でも岩を踏んでいる事だろう。
 当然岩に擦れる。しょっちゅう擦れる。従って両足とも、後ろ外側の表布が擦り切れてしまった。穴が開く迄には至らなかったが、寸前状態である。下りでやったかな、と言う感じだ。
 結構段差のある道を下るのだから、摺りもしようがね。ま、少々の荷物でバランスが悪くなってはいただろうが、立派に歳って事なんでしょう。
 でかいキスリングを背負って地下足袋で風の様に稜線を行った、伝説の加藤文太郎は何と凄い人だったのだろう。
 真似したんじゃないんですよ。登山靴を出そうとした時、地下足袋でも良いんじゃないかなあ、と何と無く思って地下足袋を出しただけの話です。真似なんて飛んでも無い、しない、より出来っこ無い! が正しい。
 一寸と不思議なのは、丹沢では日に何人かは「地下足袋ですか」と声を掛けられるのだが、今回はたった一人の男性しか声を掛けて来なかった。景色に目を奪われて人の足元なんかに目が向かないのかもね。
 変な奴にうっかり声なんか掛けるのはヤバイ。案外それが正解かもですなあ。