2012年8月30日木曜日

閑話 その八十六




 随分前に「一期一会無言の会話」と言う章が有った。実は、無言の会話ではなく、実際の会話だったのだ。其れを無言の会話とすると、多少膨らみが出るかな、と思って一寸と演出しました。外の章は一切演出抜きです。
 何で今更そんな事をゲロるの?何、「一期一会」を引き出したかったからなんで、廻りくどいですなあ。
 初心者向けの、源次郎沢に行ったのだ。八月初めの暑い日だ。滑や小滝を飛沫を浴びて越えて行くと(凄く気持良いんですよ!)、岩の上に点々と濡れた足跡が有る。
 誰か入って居るなと思って行くと、男性が休んで居た。メットにザイル、ハーネス着装、渓流シューズの完全装備で有る。
 沢で人に会うのは珍しい。彼は私の一つ上、茅ヶ崎から車で来たとの事。最近は毎年歩くのが遅くなる、と何処も同じ秋の夕暮れの話だ。こっちにも、身に覚えが山ほど有る。
 暫く話して別れ、私が先行し、暫くで滝が有った。見るからに水量多く、直答は無理っぽい。で、此処いらからだな、と無造作に斜面に取り付いたのは良いが、例に依ってのザレ土と脆い岩、木の根や篠竹を頼りの必死の登りになったのは、馬鹿丸出しで有った。
 源次郎はメジャーな沢で有る。必ず巻き道が有る筈だ。其れを探しもせずに、マイナーな沢と同じ流儀で取っ付いて、死に物狂い、挙句の果ては何処から川原に戻ろうかと、ウロウロオロオロとする。下りは怖いのだ。やって見れば即分かる。
 其処へ巻き道を登った男性が追い着いて来て、川原から声を掛けてくれた。姿を見たら川原迄の距離が掴める。ああ何と有難い、よし、此処からだ、とお陰で下れました。
 其の彼に、沢で人に会うのは稀なので、滝を登る姿を撮ってくれと頼まれ、引き受けた。脚の遅い男性を行っては待ち行っては待ちし乍ら、F7、F8は埋まって居て、とうとうF9迄来て仕舞った。空滝で唯の岩場だった。
 直登はしたくない空滝だ。写真は諦めてどうするかの談合となる。男性は巻き道が有ったと主張するが、ガレが被さり何も無い。私は前回はどうやって越えたのか考えたが、分からない(明らかな惚けだ)。直登したかも知れない。或いは枯れた大木が滝に掛かって居たかも知れない。多分そうだろう。続きます。

2012年8月28日火曜日

何処から入ろう その三



 此処迄書いて、何の本だっただろうと珍しくも調べたら、無い。百名山の記述しか出て来ない。私の思い違いで別の人の影響かも知れない。好い加減は売り物、ご笑納下さい。
 良いの、多少言葉遣いが違って居ても、還暦過ぎなんだからさ!
 開き直るのは止そう。思い込み、思い違いが多々有る(かも知れない、全部では無い)ブログですので、其の時はご遠慮無くご指摘下さい。ま、来る人は殆ど居ないんだけどね。
 あ、思い出した、田部重治だ!奥秩父をこよなく愛した人だ。同年代で影響を受けた人間はきっと多いと思う。
 従って、私は極スムーズに、丹沢、奥秩父、南アルプスと言う回路が、心の中に出来上がった様だ。とは言っても、其の順番に山登りが進んだ訳では無い。
 彼方此方寄り道して歩き、最後に南アルプスへ入ったのが真実だ。北アルプスの方へが、南アルプスよりずっと先に入って居る。
 済みませんねえ、全くの個人的遍歴を書き綴って、一体どうしようってんでしょうねえ。酔っ払うとどうしてもこうなんで、酔わない様には努めて居るのだけど、一口飲んだら、はい、其れまでよ~♪
 面白いジンクスが有った。私はどうしても八ヶ岳に行けなかった。何かで北八ッに行く事になったら、体を壊してドタキャン。高校生の頃だ。
 南八ッ縦走に同期生と出掛ける為、キスリングを背負って新宿駅に着くと、急に具合が悪くなる。仕方無く必要装備を皆に渡し、帰宅する為に小田急に乗ると、回復する。同じく高校生の頃だ。
 二十歳になって、バイト先の山好きの男と南八ッへ出掛けた。シメシメ、順調だぜ。やっと登れるぞ!何と、韋駄天台風がやって来て、麓迄歩いてユーターン。トホホ、ジンクスは生きて居た。結局、三十歳にならないと登れなかった。
 どうでも良い話を、済みません(短いので許してちょっ)。詰まり、入門の山って何処?って事でした。結論、夫々ですよね。

2012年8月26日日曜日

クソ面倒な話 その五十



 漢はご存知の通り、やがて三国に分裂し、晋が統一するが、其の頃迄、北方の匈奴と南方の漢の二大帝国は、平和共存を続ける。
 正確に言えば、匈奴は前漢末に東西に分裂し、西匈奴はカザフの彼方へ追われ、残った東匈奴は後漢時代に南北に分裂、北匈奴も西へ追われ歴史の舞台から去った。
 南匈奴は後漢に臣属し、辺境防衛を受け持ったのだ。詰まり、遊牧民が中華に身を置く始めで有る。杉山氏は、歴史転換と言う。
 其れから大分経って、欧州にフン族が出現し、ゲルマン民族の一部族のゴート族が押し出されて、ローマ領内に進入し、ローマ帝国滅亡の引き金になったが、フン族こそが西進した匈奴だと言う説は根強い。
 魅力的な説では有るが、文献が無い為証明不能だ。状況証拠は充分だが、直接証拠は無い。再審請求に依り無罪を勝ち取るパターンで有る。
 話を東方世界に戻そう。杉山氏の言う歴史転換とは、以降中国には匈奴系の国家がチベベット系国家が続くからで有る。五胡十六国の時代で有る。匈奴系だって?南匈奴の劉淵が始祖の新漢は分るが、隋・唐へ続くのは拓跋氏なのでは?
 尤もなご指摘で有る。
 匈奴とは民族名では無く、どちらかと言えば国家名なのだ。民族で言えば、チュルク・蒙古族となる。当時はチュルクと蒙古は分けられない。一つと言っても良いのだ。そして、拓跋族もチュルク・蒙古族なのだ。
 拓跋は鮮卑族(そら来た、又ひどい字を当てて居る)の一部族なのだが、其れが、暫くは中国の中心勢力となって、唐帝国の滅亡迄続くのだから、馬鹿にはならない。
 詰まり晋は出来たとたん(歴史的スパンで)に南へ追われて、地方政権に落ちぶれ、中央から北方はチュルク・蒙古族の政権が続いたのだ。そして、隋・唐帝国を築くに至る。
 中華思想では決して容認出来ないだろう。粉飾決算の書類が山積が、中国の歴史なのだ。併し、チュルク・蒙古族の歴史に、とても近いのが真実だ。歴史は真実が基本では?
 現在の中共は漢族の王朝です、念の為。

2012年8月23日木曜日

何処から入ろう その二



 そんな按配の時代の話なのだ。全てが荒っぽく、むき出しで、生の侭に生きざるを得なかった。ボヤボヤしてりゃあ、食って行けないと言う、至極当たり前の時代だった。今はネットで、生活保護を如何に上手く受けるかと(若者向けにだ!)、情報が飛び交って居る。其れに媚びる政府も有る。何時の間に腐っちまったのか、日本人よ!
 はい、深呼吸しました。山の話でした。
 谷川岳も近い。上野から夜行に乗れば、朝方には土合に着く。土合からは、マチガ沢も一の倉沢も幽ノ沢も、直ぐ其処で有る。峻険な岩場の殿堂だ。そして彼等は、やがて北アルプスや南アルプスの岩場へ向かって行った事だろう。
 勿論、そんな先鋭的な登山者はどちらかと言うと少数派で、多くは丹沢・奥多摩から奥秩父や奥日光へと目が向いて行った様だ。統計を取った訳では無いので、あくまで私の主観で有る。有体に言えば、無根拠且つ無責任な話だ。
 何だそれは、と思う人もきっと居るだろうけど、此の愚ログ自体がそんなもんなんで、一つ此処はご勘弁下さい(ペコリ)。
 で、何を言いたいにかってえと、奥秩父に向かった人の多くは南アルプス派になるのではないか、と無根拠且つ無責任に、述べたかったのだ。
 馬鹿じゃないのかって?ご尤もです!詰まり自分に当てはめて考えて居るので、人もそうじゃないかな?多分そうだろうな、きっとそうだ、の短略的思考の代表選手なんです!
 休題や面倒な話で、短略的思考をする人間をアホ扱いして居る割には、自分に甘いのを人間の性(さが)と言います(え、駄目?)。
 多くの人と同じく(だから違うって!)、私も深田久弥氏の影響を受けて、厚く苔むして大自然に抱かれる感の有る奥秩父の山々に、憧れを抱いたのだ。十代の頃で有る。
 (何処から入ろう その三へ続く)

2012年8月21日火曜日

クソ面倒な話 その五十



 古い文献に拠るしか歴史は読み解けない。其の文献の有るのは、エジプト、メソポタミア、ギリシャ・ローマ、ペルシャ、中国。広大なユーラシア(エジプトは違った)の80%は、文献的には空白地帯で有る。
 実際は空白の筈は無い。残された文献から其の空白地帯を、埋めるしか無い。其処は騎馬民族とも、遊牧民とも称される民族(?)とオアシス国家、或いはオアシス都市の世界で有ったらしい。残念乍ら彼等は文字を持たず、従って実態を書き残して居ない。(え、当たり前だって?失礼しました)
 東アジアに絞ろう。頼るは中国の文献のみ。勿論、中華の国で有る。あらゆる粉飾を行って、自国の正当性を保って居るだろう。裏を読まなければならない。
 あたしには読めない。でも、読んでくれる人が居た。杉山正明氏だ。彼は凄い、シャーロックホームズ並だ。越えて居るかも。
 ご承知の通り、中国の始めての統一王朝は秦で有る。だから英語でチャイナなのだ。では、支那(漢字にしたのだ)の何処が悪いの?
 危ねえ危ねえ、話があっちに行っちまうぜ。で、秦が陳呉の反乱からあっけ無く滅び、漢の劉邦と楚の項羽の闘いとなって、漢の劉邦が勝利して三百年を越える大帝国を(間に僅かに新が入るが)築いた、とあたしは習った。
 杉山正明氏は、違うと言う。劉邦は北方の大勢力で有る匈奴と、覇を争わねばならなかった。結果大敗して和を請い、匈奴の属国に甘んじた。
知らなかった。でも漢書を読めばそう解釈せざるを得ない。目から鱗だ。で、七代皇帝の武帝に至って、匈奴との本格的戦争に入った。
 ところで、匈奴とは酷い字を当てたものだ。中華思想其のものだが、日本でも未だに有難がって、卑弥呼なぞと言う蔑称を押戴いて居るが、相手が勝手に当てた字なのだ。無視して、別文字かマスコミの大好きなカタカナにして見たら如何なのかなあ。
 武帝と匈奴の戦いは五十年近く続いた。其れも全面戦争だったらしい。世界史的にも例が無いのでは?欧州の百年戦争と言っても、たまに戦闘が有る位のものだったらしい。
 こっちは力一杯戦って五十年、従って双方疲弊した。武帝が亡くなったら、即座に漢からの申し入れに依って、講和が結ばれた。
 併し、其のつけ(五十年戦争)は余りに大きく、両帝国共に衰退へ向かって行く事になるのだ。知ってました?続きます。

2012年8月18日土曜日

何処から入ろう その一




 冬山入門の本で、初っ端に取り上げられて居たのが、丹沢主脈だったとは「冬の丹沢」の章に書いた。冬山でなくとも、山の入門と言えば、東京付近では丹沢か奥多摩と、相場は決まって居た。多分今でも、其れは変わらないだろう。
 何たって近い。其の癖両方共偉くマトモな山で有る。でも、沢をやる諸君は、一も二も無く丹沢にやって来た。初級から上級迄、お好みの沢が取り揃って居るからだろう。
 ザイルを肩に女物の下駄を突っ掛けて沢に入って行くのが、当時のお洒落だった様だが、流行りものは廃れもの(はやりものはすたれもの、念の為)、今ではそんな姿を拝む事は出来ない。一体何時の話なの?はい、五十年前です!
 半世紀前だと、馬鹿ああああ!!! はい、済みませんです……。
で、沢好きの諸君は、次段階には谷川岳を目指すと、決まって居る訳では無いが、そうなった様だ。空前の遭難ブーム(嫌な言葉だ)を、彼等が担った訳だ。我乍らひどい言い方ですなあ……。
 でも、象徴的な遭難が有る。昭和三十五年九月、谷川岳一の倉沢の衝立岩上部(コップ状岩)で助けを求める声が有った。当時の衝立岩はやっと初とはん(変換不能)されたばかりだった。従って近づく事すら困難だった。今の様な高度な技術なんざ無い、自然と自分が、全ての頃の話だ。
 やっと近く迄登って分かった事は、既に二人共死亡して居る事と、中吊りになって居る事だ。しかし近づけない従って遺体の収容は出来ない。
 結局、対岸から自衛隊の狙撃隊が千三百発の銃弾を撃ち込んで、やっとザイルを切断し、落下した遺体を収容した。
 (何処から入ろう その二へ続く)

2012年8月16日木曜日

柄でも無い事 その三十九



 あたしの山用帽子の遍歴です。え、どうでも良いって?おいちゃん、それを言ったらお仕舞いだぜ。お仕舞いで結構だって?ヘルへ行きやがれ!!(此れは言い過ぎですなあ。当然自分が行くのが、先ってこってす)
 十代から二十代前半迄は、虎屋のハンチングだったとは、前に書いた。全くねえ、ガキが高級ハンチング、ふざけてるにも程が有るってえもんだ。
 ま、若気の至りって事です。でも、本人に言わせりゃ其れなりに様になって居たと、え、なってないって?そうかなあ……。
 次がタオル時代。此れは五十代の頭迄続いたのだから、二十五年間で有る。今でこそ、奥田民雄のお陰で市民権を得たが、当時はタオルを帽子代わりにするのは珍しかった筈だ。
 何故タオルだったのだろう。覚えて居ない。無精者が帽子を持ち歩くのが面倒で、持ってたタオルを頭に巻いて、こりゃ結構良いぞ、となったのだろう、多分。
 其れがジーンズの短パンとキスリングに変に似合った(と本人は思った)。で、定番になったものと思われる。
 変化は四十代半ばから始まって居た。ジーンズの短パンは、キリっと締まった感じは良いのだが、汗で濡れたら乾かない。何時でも濡れた侭だ。段々辛くなって、エステル系の短パンに変えた。此れは偉く乾きが良い。
 唯、形が冒険映画の探検隊みたいな奴で、タオルともキスリングとも合わない。キスリングの扱いも段々辛くなって来て居たので、ザックを変えた。年を取ったって事です。何せキスリングのパッキンは一仕事、新型ザックの五倍は手間だろう。
 其れから暫くで、丸く縁の有る帽子になった。今までの戦闘的(?)なスタイルが、やけに牧歌的になった訳だ。年相応だろう。
 今はユニクロの安物キャップで、何度も洗濯して型崩れし、笑える一品となりました。

2012年8月13日月曜日

山の報告です その三十二




 暑い暑いと嘆きつつ、早い夕飯を済ました頃に、やっとアブも減った。雷鳴だけで雨も降らないから、火器、カップ、コーヒー、酒を持って表に出る、嘘の様に涼しいのだ、息が白い!!
 其れからゆっくりと、コーヒーを沸かし、酒を飲んで、段々暗くなるのを楽しんだ。真っ暗になる寸前にテントに戻った。結構贅沢な時間を過ごしたものだ。我々の柄でもないが、たまには良いでしょう。
 恒例の夜中の宴会も、当然挙行された。宴会がお開きとなれば、Yは例に依ってあっと言う間に寝付く。見事なものだ。脚がつって苦しんだ男だとは、どうしても思えない。あたしは眠れずゴロゴロして居る。それでも多少は寝た様で、四時半だよとYに起こされた。
 テントを撤収し、ブナノ丸へ登る。展望が有れば菰釣山をピストンと思って居たが、相変わらずのガスなので、下山に掛かる。古い地図には掲載されて居る登山道だ。大野君の地図には載って居ない。




 幸い確りした踏み跡が有る。路と言っても良いだろう。やがて植林に入るが、あっちだろと適当に下ると、ぴったりオートキャンプ場に着いた。
 流れに入り、泥塗れの地下足袋を洗う。Yは登山靴の泥を落とす。周りは川遊びの家族で有る。迷惑なおじさん達ですなあ。
 管理棟に下山した、と声を掛けると、お茶を飲んで行けと言うので、遠慮無くご馳走になる事にした。お婆ちゃんがキュウリの漬物をどっさり出してくれる。
主人「道志村では此の沢を登ったもんが居ないんだ、どう?」
私「詰めは悪いですねえ」
主人「何処を下ったの?」
私「前ノ岳経由で下ったけど、道標が不備だから、迷うでしょうね」
主人「毎年遭難者が出て、消防団が出動さ」
 で、亡くなった人も居ると言う。情報交換をして居ると、お婆ちゃんが今度はモロキュウをどっさり出してくれた。しかも味噌は自家製だ!ミネラルを失って居るYは、味噌を舐める様に味わって居る。当然だ。体の要求なのだ。
 一晩車を置いただけの(五百円也)、客とも言えない我々へのご親切、有り難う御座います。沢を登るのでご心配を掛けたのでしょう。感謝致しております。

2012年8月11日土曜日

山の報告です その三十一




 一服つけて寛いだりしたので、Yの身体が危険は去った、と判断したと見える。実際は壁にはホールド、スタンスは有るものの、未だ続くのだ。唯、其の手掛かりも足掛かりも、ボロっと崩れるのだが。
 あたしが先ず登る。岩角に力を掛けず、抑える様にして登るのだ。とても危なくて楽しい。。。。。 で、Yが登ろうとした。
Y「あ、つった!」
私「何処だ!」
Y「大腿四頭筋、両方!」
 岩場なので、嫌でも脚を伸ばさなければならない。其れも力を入れて。すると、グーっとつるのだ。理の当然で有る。Yは動くに動けない。結局、サブザイルを下ろしてYの手掛かりとし、登り切れたのだ。
 其れでメデタシメデタシでは無い。直ぐ其処に稜線が見えて居るってえのに、急峻なザレ土(ザレと泥の混合体)が続く。
私「Y、俺が先に登って、空身で戻って来る」
 登り始めて直ぐ悟った。
私「駄目だ、とてもじゃないが戻れない!」
Y「大丈夫、ゆっくり行くから」
 心強いお言葉で有る。ザレ土なので、脚を伸ばさなくても済むから何とかなるだろう。雷の音が聞こえる。ザーっと来るぞと覚悟して登り、やっと稜線に這い上がったら、其処は東海道自然歩道、丸で別世界なのだ。
 ガスの稜線、其の真下には過酷な世界が展開して居る。其れを知る人は少ない。
 ザックを降ろし、サブザイルを肩にYの援助に向かおうと、一寸と下ると、もうYが登って来るのが見えた。
私「大丈夫か、一人で来れるか!」
Y「大丈夫、行ける!」
私「オーライ、じゃあ偵察に行く」
 稜線に戻り、右へ登ると読み通り、直ぐに油沢ノ頭だった。無理すればテントを張れると見て、今度は逆に鞍部方面に行くが適地が無い。油沢ノ頭で決定で有る。
 テントは張れたが、アブがワンワン集まって来て、網戸も開けられない。既にあたしは十八ヶ所位、Yも八ヶ所程は喰われて居る。もう何処が痒いのかも分からない。腕全体が痒く、腫れて居る。前に本文で、Yがブヨに大量に喰われたのを、笑った報いだろう。折角風の涼しいピークに居るのに、テントに雪隠詰めで有る。コーヒーを沸かしても、無闇と暑いのだ。酷いでしょう?(続)

2012年8月9日木曜日

山の報告です その三十



 
 これまた閑話で良いだろうけど、うっかり此処に書いて仕舞った。同行者はY。道志道(国道413)をクネクネと行って、モチハギ沢のオートキャンプ場に車を停め、水遊びを楽しむ人々を横目に、沢に入った。
 そーら来た、聞いた事も無い沢だ。きっと小さな沢だろう。ビンゴ!流域1.8kmの可愛い沢で、ブナノ丸の西方に詰め上げる。
 七月二十八日、当然暑い日で、尚も素敵なのは、風が通らない沢だった!従って一面苔むして居る、万歳!救いは小沢の癖に水量が多い事位だ。
 淡々とした沢歩きが続く。蒸されてびしょびしょだが、顔や腕を洗い乍ら行く、やがて傾斜が増して沢らしくなる。四十度を越える登りが続くが、此の侭収まってくれる筈が無い、と本能は囁く。人の気配は全く無い。ひょっとすると、あたし達が初登り?
 や、来た、僅か5m位の壁だ。足元は四十五度のガレザレで、壁は逆層気味、背には幕営具一式。
 其れでも登ろうと試みて、手掛かりに指を掛けると、ぼろっと崩れた。どうやら岩の振りをして居る砂の様で有る。
 戻って別の枝に入るには、登り過ぎて居る。余りに辛い。横に逃げるのは、周りが切り立って居て、不可能此の上無しで有る。
 残る手は、空身になって這い登るのみ。で、サブザイルを肩に、地下足袋の長所をモロに生かして、つるっとしてない所(詰まりザラっとした所)へ底を押し付け、摩擦の抵抗を利用して、指、掌、肘迄活躍し、小さなギャップへ上がれた。ヤモリんごたある。
 ギャップと言っても、確りした足場では無い。先ず、あたしのザックを引き上げる。ザックは泥塗れになって、上がって来た。
 次が重要だ。体重77kgにザックの重さを加えたYを、上げねばならない。彼は登山靴なので、ヤモリは出来ない。
 悪い足場を踏ん張って、引き上げに掛かる。Yも必死にホールド、スタンスを求めるが、碌なものが無い。ある程度登って、ズリっと滑った。途端にあたしに力が掛かり、腰が浮いた。あぶねえあぶねえ、一緒に落っこちるとこだったぜ。
 何とか堪えられたのは何より。Yの手がギャップの縁に掛かり、呼吸を合わせて引き上げると、見事にYはギャップに立った。
 やったー!ファイト一発だな、と喜び合い、ま、一服つけようと、旨い煙草を吸ったのが大間違いとは、神ならぬ身の、で有ります。(続)

2012年8月6日月曜日

閑話 その八十五





 丹沢に限らず、日本には笹が多い。ササの葉さーらさら♪の歌の通りに、サラサラ鳴るのでササと名付けられたと言う説が有る。多分そうなんだろう。
 稲科竹亜科なので、南方起源で有る。北方の笹は樺太・千島南部に極く僅か、温帯では殆んどが日本列島に生息して居る。本当に不思議な国(自然)で有る。
 山も独特なら、植物も独特(ま、当たり前か)、他には絶対に無い。無い無い尽くしの世界が、日本なのだ。知ってました?
 文化面では極東に位置するので、世界で滅びたものが正倉院に有る。全く同じく、自然でもそうで有る。あたしゃあ外国なんざ死んでも行きたくも無いクソ(失礼!)親父だもんで、断言は出来ないが、日本の山は他と全く違うと思う。いやさ、山の研究家の本を読んだから分かっただけなんだけどね(恥)。
 独特な日本の山だから、色々有る。お花畑や這松や諸々の植生やササや。
 本来が稲なのだから、笹と雪とはアンマッチなのだ。そうねえ、ヒマラヤ杉がアマゾンのジャングルに有る様なもんだ。うーん、ピンと来ないって?
 白熊が、サバンナを歩いて居ると言ったらどうだろう?そんな感じに近いのだ。
 でも、あたしには(そして殆んどの人にも)、余りにも当たり前な景色なので、何の感動も無い。這松を見ても、自然の奇跡だ、と誰も気付かないのと同じだ。
お花畑を見ても、氷河期が去って行く時、逃げ様を失って、日本の高山に集まって、今に到るのと、全く同じ現象だ。
 日本の山は、極めてユニークな山なので有る。他には無い。幾ら高くても、厳しくとも、絶壁が凄かろうと、外国の山は単調極まり無い。あ、此れは其の研究者の言ってる事で、あたしゃあ外国の山を見た事すら無いのでね。
 そう知ると、あたしが丹沢命と言って、外国に遠征なんて思い付きもしないのは、理に適ってたのですなあ。

2012年8月4日土曜日

ハイクへのお誘い その十七




 写真は見晴台から見た、大山山頂です。
 見晴台を後に下社方面に向かおう。ほぼ水平路(下り勝ち)を二十分だから、着いた様なものだ。路の整備も一級で、尚且つ注意を促す看板も豊富だ。
 右に滝を見れば、半分以上は来た事になる。滝は大山川の二重の滝で、大昔に此の滝は巻き、大山川を詰めた事が有るけど、からっとした良い沢登りだったと記憶が有る。
 滝から暫くで右へ階段で登るのが、下社、ケーブルカー乗り場への路だ。勿論、道標にもそう書かれて居る。
 案内は下社に寄らず、直進して男坂を下るのだが、下り飽きた人や、脚が疲れた人はケーブルカーがお薦めで有る。地図上二十分の石段下りがカットできるのだ。




 そう、男坂は歴史の染み込んだ石段、それも段差の大きい奴を、ひたすら下るのだ。とても面白いし楽しいけれど、若しも疲れた人には、単なる難行苦行となるだろう。
 さて、下社への路を分けると、直ぐに石段だ。どんどん続く。そうねえ、二十段ずつ位に分かれて居ただろうか。
 で、二十分も下ると左にケーブルカー乗り場が有り、其処からは男坂から解放されて、普通の石段となり、両側は、みやげ物やと豆腐料理屋(大山名物、美味しいです!)と其の他の店で、入浴も宴会も、お好み次第なのだ。




 大分前にアップした大山の章で、入浴した後、最終バス寸前迄飲んで居たと言うのも、此のうちの一軒なのだ。
 大山の案内で、最後にメインルートに下ろしたのは、ひょっとすると入浴と豆腐料理と宴会好きの人も居るかな、と思っての事なので、お好きな人にはお薦めです。
 さて、おみやげ参道を抜けると左は大駐車場だ。真直ぐに下る。左にトイレが有ったら、其の先がバス停で有る。バスは少なくとも一時間に二本は有るので、後心配無く。
 何たってメジャーな山なので、心配無用な処が良い。人が多くて驚かれるかも知れないが、何、誰も噛んだりしないから大丈夫です。

2012年8月2日木曜日

ハイクへのお誘い その十六




 つい山女を語っちまった。山男が少ないのは、女性の方が根性が有るって事だろう。え、其れは昔からだって?確かにそうだ!
 彼の追分から四十五分位で山頂に着く。其の間には様々なドラマが有る。いかん、此処は山の報告では無かった。
 少し位は良いだろう。寝そべって居た山女は、ノロノロ起きて出掛けた。あたしは離れて煙草を吸って居た。煙草の煙は不快だろうから。彼女の寝て居たベンチは汗でビッショリ濡れて居た。良くぞ頑張った、山女よ!
 彼女に追い付くのは、思いの外時間が掛かった、十五分位かな。初老の夫婦を抜いた。奥さんは道端の石に腰を下ろす処だった。
奥さん「疲れちゃって」
私「暑いですからねえ」
奥さん「あ、地下足袋?」
私「地下足袋です」
 当然乍ら、珍しかったのだろう。やがて鳥居が見えた。頂上直下で有る。一登りで雨降神社だ。




 最初の写真は、高取山方面だ。ゴルフ場の横が其の高取山だ。長く延びた集落は、大山町の続きだ。足元は相模平野から関東平野迄、一望で有る。唯、日向は暑い、日陰は流石頂上、ヒンヤリとする。
 公衆トイレを越えて裏に回ると、丹沢の山々が揃って居る。普段は富士山も聳えて居るのだが、此の日は雲の中だった。景色を楽しんで表に戻ると、件(くだん)の山女が現れ、日陰に休んだ。無事に着いたかとホッとしたのです。
 山頂に居た人は、十四、五人、平日だと言うのに賑わって居る。四人パーティの山女が来たのも此の時。「おめでとう!」と言い交わし、バーナーを出して何か作り始めた。あたしは見届ける程暇では無い。お握りを二つ食べて、山頂を辞した。
 下りは見晴台方面だ。道標を良く確かめて間違えない様に。十分も下ると、左へ唐沢峠への路を分けるが、勿論直進する。木の階段が連続する下りだ。焦らずに行こう。回りの緑は、中々美しい。



 山頂から地図上で五十分、飽きる位下って一寸と登り返すと、見晴台で有る。木の台とベンチがズラーっと並ぶが、日向なので座る気はしない。冬なら最高だろうが。思わず、お前の彼女は真夏の火鉢、みんな嫌がる手を出さない、なぞと下らない事を呟く。
 皆さんは東屋へびっしりと入って日差しを避けて居る。あたしは木陰で小休止だ。(続)