2010年1月31日日曜日

色付くダイヤモンド その二

 

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 翌日は南岳へ登って、槍の肩の小屋迄。楽ちんだなあー♪と思った私は、頗る付きの馬鹿だった。昔々に登った時は確かに、楽ちんだなあー♪でした。時は流れる。意識の外で流れる。貴方が亜光速で運動して居ない限り、等しく時は流れ、気が付けば皺が増え、毛が薄くなって行くのが世の習いで、あがらうのは野暮ってもんです。
 グチャグチャ言うのが最早野暮、反省するです。簡単に言うと、南岳へは辛かったの。昔は何でも無かったのに(だからあ、其れを言っちゃあ無限ループなんだって)。
 やっと稜線に出て槍へ歩く私を見て、雷鳥が笑って居た。クソ(失礼)、バテたおじさんが面白いのか?(多分そうだ)
 どうにか肩の小屋に着いたのは目出度いが、好天は以上を以って終了。自然相手だから、文句は言わない。
 翌日は雨の縦走、フン、大好きだもんねー。しかも秋の雨の三千m級、やったぜ!人けの無い双六小屋の前で休憩。寒くて震えるのが休憩とは、ちと情無い。
 単独の時の休憩とは、味気無いものだ。疲れるから休むと言うのは同じなのだが、一人で息を吐き、後はキョロキョロして居るだけなのは、何とも詰まらないのだ。だからどうしても直ぐ出発してしまう。そんな事言ってる様じゃ、単独行の資格無しですな。ま、歳だから何ともならないって事で、ご勘弁。
 処で、単独の時の話は大体バテバテになって居る。先ず外れが無い。空クジ無しの大盤振舞い、どうしてだろう?
 ふっふっふ。思い当たったぜ。
 単独の休憩は詰まらないと書いたが、其れも一つ。だから碌に休まない様になる。でも、休まざるを得なくなる(バテて)のだから、回数と言うより時間の長さだろう。
 複数なら、ああだこうだと詰まらない事を言い合って喜んで居るうちに結構時間が経って居るものなのだ。一人だと直ぐ発つ。此の差は大きい。
 そして最大要因はペースで有る。自分のペースは常に過去のペースだ。二年前だろうと一年前だろうと関係無い、過去は過去。
 体の覚えて居るペースに、今の自分が付いて行けないって事なのだ。って事は、一年でガタッと衰えるって事かい?ビンゴ!!!
 いやー、歳は取りたいもので、一年一年新たな自分を見出せる、楽しいなあ嬉しいなあ♪
 自棄になるのは止そう、いい歳こいて見っとも無いだでよ。実は其の通りなので、去年のペースは今年は無理な訳だ。でも自分は其れが分からない。今年の自分も、去年の自分と同じだと何の疑いも無く、自分も、そして自分の体(此の部分が大きい)も思って居る。或いは十年前のペースが未だに染み付いて居るのかも知れない。当然の結果としてバテる。
 複数なら自分の過去のペースを守れないので、バテないで済む。どうです、こんなとこでしょう、きっと。
 (色付くダイヤモンド その三へ続く)

2010年1月29日金曜日

柄でも無い事 その十一

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 其のピカピカのカローラは、きっと一度エンジンを焼いたのだろう。吹かない。アクセルを踏んでも駄目で、全く即座の反応は無い。追い越を掛けても、徐々に加速して、あたしゃあ「わー!」と叫ぶ思いをさせられる。ったく女はよー!失礼、男かも知れないですね。
 ピカピカったって、一年経てば小汚くなっちまうんだ、ははははは。諸行無行です。単に汚くパワーの無いカローラになっちまって、笑っちゃいますよね。ま、あたしが車を洗う気が、全く無い所為なんだけど。
 で、結局はボロボロになった。最後迄パワー不足、あたしに文句を言われ続けて、あんまりだ、申し訳無い、と今思います。
 あたしゃあ車と別れる時は、清酒と塩を捧げて、手を合わせて感謝をして別れる。今迄確り働いてくれたんだから……。
 次の車はドミンゴだ。冨士重工の車で、七人乗れる。当時の家族を全員乗せられる。其の上4駆で、切り替えは手元のスイッチでOK。夢んごたある(九州弁)。
 欠点は小型に纏めた為、幅が無く背が高い。ウエハスを立てて走る様なんで、横風を受けるとハンドルを取られる。高速道路で飛ばしたら、命懸けなのだ(分かれば同士です)。
 その代り雪と坂には絶対だった。
 ある日、4駆の侭ロックが解けず、常に4駆になって、ハンドルは変に重く、切るとガッガッガと異様な音を立て、やっと方向転換出来る。車庫入れなんざ、力任せに重いハンドルを切って、ガガガガと大騒ぎをする。其の上ガソリンを無闇に食う様になって、リッター5Km。何だよ、ジャガーかよ!
 はははは、見てれ居れば馬鹿ですなあ。だから修理工場で直しました。そしたら、凄―く快適になって、喜んで走り乍ら4駆のボタンを何気なく押した。阿保じゃ(今思ってだ、又壊れるとは思わないよ、普通は!)。其の侭フルタイム4駆に戻って、ガガガガの世界。あー!修理工場よ、本当に直したのかよ!
 もう終わりだ、仕事も辞めるから車は要らない、と決心したら叔父さんから電話。
叔父さん「健ちゃん、車に乗るのを止めた。車を売るから、値を付けてよ」
私「仕事を辞めるから、車は持たないんです」
叔父さん「幾らでも良いんだよ」
私「五万円なら……」
叔父さん「うーん、其れで良いよ」
 後で、車検の方が高かった(車検直後でした)と嘆かれたが、仕方無い。
 其の車も、子供達がガチャガチャに汚くしちまったので、叔父さんには見せられない、死んでも見せられない。其の車はFIT。
あたしは、本当はジープに乗りたい!今のでは無く昔のタイプ。フルオープンで山道を走りたい。冬ならマフラーを巻いて、眼鏡(昔のスキー眼鏡の様なセパレーツの)を掛けて、雪道を4駆で走るんだー!!
 最期に、柄でも無い事をほざきました。

2010年1月27日水曜日

色付くダイヤモンド その一

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 単独行で困るのは、麓のバス路線がどんどん廃止される事だ。殆ど登山者しか利用しない線だから、無理からぬとは思うが、パーティならいざ知らず、一人でタクシーに乗るのは、極貧契約社員の私としては、荷が重い。と言って、歩くには遠過ぎる。山に登る前からバテるのも、旦那、ご勘弁下せえ、の世界で、避けたいのは人情だ。
 合戦尾根を登りたくとも、中房温泉へバスが無い(筈だ)。ま、例の通り調べては居ない。その代り何処の登山口にも、車が止まって居る。車でしか山に行けなくなっちゃうじゃんかさー。嫌だよそんなの!飲めないし、大体、旅情が無いじゃないですか!
 前章の一期一会の時もそう。ブナ立尾根を下ってバス停に着いた(?)らバス停が無い。ウロウロ探し回ってっても無い物は無い。聞いたら路線は廃止だった。例に依って古い地図を持って行ったので……。結局、信濃大町へタクシーで有る。トホホホ……。
 処で、俗に日本三大急登と言われるのが、裏銀座のブナ立尾根、鹿島槍の赤岩尾根、甲斐駒の黒戸尾根。黒戸尾根だけは登降して居ないので何とも言えないが、ブナ立尾根は下るだけでもウンザリする。赤岩尾根もそう、同じくウンザリだ。
 ウンザリとは、段差の大きい(詰まり急な)下りを続けて、膝は笑い掛け、或いは笑い出し、しかも長いので何時までも続き、息を吐く間も無いので、もう勘弁してくんろー!と叫びたくなる状態を言うのだ。従ってウンザリなのです。
 登って来る人はもっと悲惨だ。一期一会の時も一パーティと擦れ違ったが、皆さんゾンビがやっと蠢いて居る(失礼)状態、生きて小屋に着いて下さい、と祈るのみ。オーバーでは無いのです。疑う方は、一度登ると(下っても)分かるのだ。
 バス路線が復活したと聞いた。折立への路線だ。富山地鉄の何とか言う(忘れちまった)無人駅から三時間位の路線だった筈だ。やったー、此のチャンスを生かさなきゃ、ダイヤモンドコースは一生やれない。
 余計な説明をしよう。知ってる方は御免なさいね。槍ヶ岳から三俣蓮華、其処から東へ向かい野口五郎を越えるのが裏銀座。西へ向かい黒部五郎を越えて太郎平に至るのがダイヤモンドコースで有る。
 此れをやれば、私の北アルプス主稜線のトレースは全て繋がる(朝日から親知らずが残るか……、此れは昔のルートには無いので、スルーしよう)。太郎平から薬師を越えて、剣岳へは、既に歩き済みで有る。
 一昔前の秋の日だった。五十を過ぎれば無理はしない(出来ない)。新幹線で名古屋、特急に乗り換えて飛騨高山、バスで新穂高に入り、染まる様な黄葉の中、槍平小屋へ着いたのは、早夕暮れ時だった。と書くと、何か素晴らしい入山に思えるけど、実際は寒い位なのに汗まみれ、やっと小屋に入って行った、が現実なのは、情無けれども真実なので、涙です。
 (色付くダイヤモンド その二へ続く)

2010年1月23日土曜日

閑話番外 その十七

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 丹沢山からつるべ落としを下り、熊笹の峰へ登り返すと名前に違わぬ見事な笹原、何時でも綺麗だなあと感歎するのだが、人にも伝えたくってシャッターを切ったが、残念乍ら此の有様なのです。
 あの爽快感もスケールも全く出せないのは、カメラの所為では無く腕の所為なので、ご容赦。
 一度見に行って貰う以外に伝える方法が無いのが、悲しい現実です。

2010年1月19日火曜日

閑話 その四十一

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 汚い写真をどうしようってんだろう?
 詰まり登山靴の話だ。写真の靴はあたしの二代目で、初代はナーゲル(鋲靴)だったとは、前述です。
 スイス製の革靴で、丈夫で二十年以上履いた結果、ご覧の姿となったのだ。良く働いてくれた。初めての三千メートル級冬山も、此れで登った。初めての沢登りも、此れで登った。
 初代のナーゲルにもとことん愛着が有るが、時代遅れも甚だしかった。重いし、岩で滑るし、雪の上では熱伝導が良好な為冷たいし、メンテが途方も無く大変だし。
 見て楽しむには最高だろうが、あたしゃあ其の手の趣味は無い。二代に交換したのだが、靴底の写真だけでも残しておけば良かった、と思って居る。今となれば、立派な資料だ。
 前述の通り、全面トリコニーとは、滅多にお目に掛かれない、と言うより、殆ど存在しないのでは無いだろうか。特注で仕上げて貰ったんだから。でも、ニッピンの靴部門は其の注文に大して驚かなかった。ひょっとすると、同じ様な注文が結構有ったのかな。
 で、写真は二代目が愈々使用に耐えなくなって、別れる(詰まり棄てる)時に撮ったものだ。無理をすれば未だ履けるだろうが、ご覧の通り足首周りのスポンジも消え果て、靴紐を引っ掛けるフックも幾つも取れて、ビブラムを留めるあの丈夫な糸もボロボロ、修理すれば糸は直せるだろうが、直してどうします、明らかに限界を越えて仕舞ったのだから。
 仕方無く、泣き泣き別れました。第一、此れ以上酷使したら、本人(本靴)が辛いだろうと思ったから。ま、履くあたしも辛いので、時期だったのだ。
 三代目を購入したが、其れが笑っちゃうのが、あたしの安物買いの癖が出て、さかいやの滅茶苦茶安物を買って仕舞って、今でも現役で使って居る。
 え、使えれば良いじゃないの?
 其れはあたしの思想だが、使い勝手の良い方が良いんじゃ無いかなあ、と思ったりするのは、歳と言おうか堕落と言おうか、何でも使えりゃ文句は無い、との勢いは既に無い。情無くは有るですなあ。
 今の靴、暫く履いたら変形した。ま、雨の中も歩いたし、雪も散々踏んだけど、何せ、元々皮がペラペラ、買う時迷った程貧弱な素材だったので、無理から無い事だ。
 変形すると彼方此方に当たる。割と辛い。あと、紐が巧く結べなくなる。何せ変形したのだから、フックの位置も変になるので、紐を掛けても外れるのだ。
 いやー、今迄そんなペラペラな登山靴を持った経験が無かったもんで、本当に驚いた。尤も、見れば分かるだろうに、値段に目が眩む哀れさ、我乍ら泣けて来る。阿保じゃ。
 でも自分の登山靴なのだから、粗雑にはして居ない。夏の縦走や丹沢の冬には活躍して貰って居る。
 でも春山縦走は無理なんで、お留守番です。

2010年1月17日日曜日

柄でも無い事 その十

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 看板に偽り有り、「柄通りの話」になっちまうのでご勘弁。
 車にも拘らない。とことん拘らない。車の役割は、そう、走る事。其れ以上でも其れ以下でも無い、とあたしゃあ確信して居る。
 従って、ピカピカにしなければ気が済まない人の気持ちが分からない。あたしはいい年なのに未熟なのだ。普段突っかけて歩く下駄を、必死に磨き上げる行為としか思えない。否、思えなかった。
 今は一寸と分かる。あたしの車とランクが違うのだ。凄く可愛くて、大切で、手入れに怠り無いのだろう。
 あたしは銘柄にも拘らない。ベンツ、衝突しても丈夫だろうな。日産、エンジンが長持ちするぞ。スバル、山道に強いな。三菱、此れもエンジンが良いぞ。フェラーリ、高速道路で無敵だな。日野、バスはいらない、置く所も無いし。BM、下取りが高くて良いな。
 そんな按配なので、車好きに言わせりゃあ話の外に位置付けされる。
 Bシャッターに勤めて居た頃、会社の車に乗って居た。何時でも泥だらけ、長尺梯子を頭に積んで、勿論洗車なんざあした事が無いのだ。契約スタンドが見兼ねて、勝手に洗ってくれた事は有った。
 先輩が言う「大塚は自分の車なら綺麗にするんだろう」。見損なって居る。あたしは会社の車だから汚くしてるってな、ケチな野郎なんかじゃ無い。現に自分の車を持ったら、其の上を行く汚さだ。えっへん。
 最初の車はグレーのカローラ、エンジンは最高だったが、車体は凄ざまじいものだ。何たって面白いのは、天井布がベロリンと剥がれて垂れ下がって居る事だ。糊が効力を失ったので垂れ下がるので、天井は油でヌルヌル、従ってテープで抑えるのは無理。
 運転席には傘が置いて有る。バックする時に、其の傘で布を持ち上げ後方視界を得る為だ。結構苦労では有る。
 妻の父の葬儀の時、参列者をあたしの車にも乗せる事になって、困った。仕方無く布を切り取った。
 参列者が降りた後、天井を見ると、髪の毛がべっとりと張り付いて居る。取り合えず見なかった事にした。
 此の車で困ったのは、後部左ドアーが、開けるとガキッと噛んで閉まらなくなる事だ。慣れない人は皆驚く。あたしが行って、体重を掛けて押すと、閉まる。ふっふっふ、何でもコツってもんが有るのさ。
 見た目は艶消し、闇に溶け込む酷さだったが、走りだけは良く、山道でもドンドン行けて、あたしには良い車だった。乗り潰す迄乗った。お世話になった車で有る。
 次もカローラだった。白で綺麗な車。あ、何時でも買うのは中古です。白のカローラは三万キロにも達しないピカピカ。前の持ち主は女性だっただろうと思わされる。
 申し訳無いけど、続きます。

2010年1月16日土曜日

クソ面倒な話 その十三

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 クソ(失礼)十二で地球も最期を迎えると書いたが、正確に表現すると、人類も最期を迎える、となる。何故かと言うと、地球が消滅する時期と、人類が消滅する時期は異なるからで、地球はピンピンとして存在して居ても、人類が死に絶えて仕舞うのだ。
 どうやって死に絶える?SF作家達は涎を垂らして調査し、色々な事例を設定する。勿論映画会社も其のテーマを、作品化する。
 尤も、現在を襲う人類滅亡の危機が中心で、遙か未来に思いを致したのは、宇宙家族位しか思い浮かばない。
 小惑星や彗星の衝突は定番だ。恐竜絶滅の原因も其れとなって居るが、あたしゃあ異議有りだけども今は其の話じゃ無いので置いておく。
 天体の地球衝突は充分有り得る。現在の観測技術では、数キロメートルの大きさの小惑星全ての軌道を把握は出来ない。毎年新たな小惑星が幾つも発見されて居るのが現状だ。
 予測されない小惑星が現れ、地球衝突の軌道を描いて居る場合、確認は衝突一週間前に出来る。全てが間に合わない事夥しい。しかも、何時起きても不思議では無い事柄なのだ。
 天体衝突は無いか、有っても人類滅亡は避けられたとしよう。目出度い事だ。
 十億年で、太陽の光度増大の影響に依り地球の平均気温は摂氏八十度になると、予測されて居る。荒っぽく、定率で太陽光度が増すとして、五億年で平均気温は四十度となる。
 大した事は無いと思いますか?今の平均気温は、此処十年で随分上昇したとは言え、ほぼ零度。どうです、驚いたでしょう?詰まり、今より四十度気温が上がる訳で、ま、人類が生きて行けるのは、極地に限られて仕舞うのは当然。でもどれだけの人が極地で暮らせるのだろうか。廃墟となった都市はは骸骨で覆われるのだ。
 生態系も破壊されるだろうから、食料にも苦労するだろう。好転する見込みは無い生活だから、其の日暮らし。何か嫌だなあ。
 悲酸過ぎて、映画は不入りに決まって居る。サンシャイン2057の様に、人間が太陽の活動をどうにかするなんて、豚すら笑う御伽噺、現実はシビアなのだ。太陽の中心は15000000K、地球に有る全ての核兵器(人類を何度も絶滅させられる量だが)を一遍に爆発させても、太陽が一秒間に発するエネルギーには及ばない。
 所詮人間に宇宙をどうにかする力は、どう見ても無い。現に、科学が進んだと言い乍ら、未だに台風にも地震にも津波にも無力なのは、否定出来ない事実だ。
 増してや宇宙規模となると、人類は笑っちゃう程無力なのは至極当然の事だ。所詮人間は、地球の生んだ自然の一部なんだろう。
 夢の無い事ばかり書きますなあ。正確一番。でも、五億年に近く人類は生きられます。あくまで計算上で、保証は誰にも出来ません。

2010年1月13日水曜日

私にとっての天神尾根 その四

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 写真は本文と無関係です(ペコリ)。
 もう詰められない、詰められてもギュウギュウは私が嫌だ(我侭で済みません)。「有り難う御座います、結構ですので」と、戸を閉める。周りの平らな所は既に三張りのテントで埋まって居て、ツエルトすら張る余地は無いのだ。こうなりゃあ、張れる所迄行くの一手。行ってやろうじゃないか!(よ、男、健三郎!)
 で、岩稜ばかりでツエルトも張れず、一生懸命登って万太郎を超えて、毛渡乗越迄頑張って仕舞ったが、結局其れが幸いだったと知るのは、翌日で有る。
 毛渡乗越は樹林の狭い鞍部に道標が有るだけ。夕暮れが迫り、仕方無く道標にツエルトを引っ掛け、頭から被って夕飯の支度を始める。樹林は傾斜が強く、ツエルトは無理だったのだ。ま、慣れた状況では有るのんだけど、嬉しいんだか悲しいんだか、良く分からん。
 予報違わず夜より降り出した雨は、夜半より風を伴い、山が唸る。ツエルトも叫びはためくが、体で確り押さえてうつらうつらする。不安なのは言う迄も無い。救いは樹林帯で有った事だ。さも無くば、芋虫の様にツエルトにくるまり、風雨に耐えねばならなかった。
 さて、翌朝。相変わらずの天候で、万歳!朝飯は何をとったのだろう。当時の事だ、パンとチーズとコンソメスープ、多分そんなとこでしょう。
 雨は強くは無いが、風が強い。途轍もなく強い。嬉しい状況で有る。
 エビス大黒を注意して越え、仙ノ倉へ登る。万太郎を昨日越えておいて良かった。仙ノ倉の風が凄まじい。前から吹き付けるので体を傾け姿勢を低くして進むが、目を開けて居られない。砂がバチバチ当たるのだ。痛いの痛く無いのって、時々砂以上小石未満の塊迄当たる。風に揺すぶられてフラフラし、砂に叩かれ、平標を越えて下りに掛かってからやっと、強風からは解放された。
 小障子非難小屋と其の周りのテントの諸君は、其の風の中万太郎迄越えたのだ。さぞや苦しんだ事だろう。其の点私は結果としてラッキーだった。仙ノ倉を越えれば何とかなる訳だから。
 ん、小障子の諸君は、こんな天気に行動するこたあない、と停滞を決め込んだか?私じゃなかった、そんなぐうたらな奴は上越の山には居ない。
 自己弁護だけど、此処迄ぐうたらに堕ちたのは還暦あたりからで、其れ迄は真摯に行動して居た。笑っちゃあいけねえ、本当なんですぞ。
 天神尾根を何度歩いただろう、十五度位だろうか。ドッピンカンの日も有れば、雨の日も有り、雪の日も有る。当たり前だなあ。
 丹沢と上越の天神尾根の共通点は、名前だけで有る。他は何も無い。環境もスケールも景観も、全く違う。とことん違う。でも、私に取っては、両方とも馴染みの深い天神尾根なのです。

2010年1月11日月曜日

休題 その三十一

 

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 汎トルコ主義は今では流行らないが、第一次大戦の頃は盛んに語られて居たらしい。代表的な人物はトルコのエンヴェルパシャで、陸軍大臣で有った。
 突然何の話?いやー、偶には遙かユーラシア大陸中央に思いを馳せるのも、悪く無いかなと思ったもんで。
 ポスポラスの欧州側から中国国内迄、トルコ語で旅が出来るのだ。
 トルコからアゼルバイジャン、バクーでカスピ海を渡ってトルクメニスタンへ、ウズベキスタン、カザフスタン、キリギスを経て中国西部のタリム盆地、此処にもトルコ系のウイグル族が住んで居る。
 俗に言う中央アジアは、トルクスタンとも呼ばれる。トルコ人の土地との意味だ。元々はペルシャの影響が強く、ペルシャ系の住民が住んで居た所だが、トルコ族の進出に依ってトルコ化されて、現在に至って居る。
 その後もトルコ族は西進を続け、中近東を支配して居たアッパース朝の首都バクダットに入り、カリフ(イスラムの最高権力者)よりスルタンの称号を得て、実質的にイスラム世界を統合する法的権利を獲得する。
 セルジューク、オスマンの両帝国に依ってアナトリアから欧州側に迄トルコの領土が広がったのは、ご承知の通り。
 十四世紀末に中央アジアに出現したティムール帝国は、セルジューク朝を滅亡寸前迄追い詰めた。ティムール自身はチンギスハーンの子孫と称して居たが、トルコ系で有る。
 十五世紀初め、明へ進軍を開始し、明軍を破ったが、病死し帝国は分裂消滅した。
 其の後セルジューク朝は十字軍の侵略を受ける。最初はエレサレムを訪れる巡礼達だと思い、アナトリアのトルコ人は道案内迄したと言う。結果、エレサレムのトルコ人、アラブ人、ユダヤ人は虐殺されて仕舞った訳で、野蛮人のやりそうな事だ。
 野蛮人と書いたが、当時のヨーロッパ人は文字通り野蛮人で、食事は手づかみ、汚れた手は髭で拭くと言う暮らしで、セルジュークの文明に接して初めて、ナイフ、フォークを知ったのだ。
 居座って欲しい侭に暮らす十字軍を破ったのがサラディーンだが、彼はエレサレムを陥落させた時も復讐の虐殺を行わず、十字軍を帰してやって居る。ね、欧州人を野蛮人と呼ぶのは当然でしょう?
 で、何だってえと、広大な地域に広がったトルコ系民族(チュルクと総称する)は、言葉こそほぼ同じだが、環境、文化に大きな差が出来て仕舞って居て、チュルクへの帰属意識は無い様だ。
従って、汎トルコ主義は流行らないと書いたのです。
 でも、イスタンブルからウイグルへの広大なユーラシアの中心部、其処で独自の文化文明を築いて居るチュルクに、あたしは遠い憧れを抱くのです

2010年1月9日土曜日

私にとっての天神尾根 その三

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 詰り、普通日帰りの山を二泊でやる訳で有る。ね、酷いでしょう。馬鹿なら完全に煮詰まった状態なのは間違い無い。でも良いのだ、遊びに来た様なものなのだから。白状すれば、雪山に遊びに来たのだ。
 通り掛った登山者は、ノンビリして居る我々が泊まりだと知ると、決まって「良いですねー」と言う。フッフッフ、羨ましければやれば良いのさ、簡単なんだから。
 完全に定着登山の、滅茶苦茶ダラダラバージョンだ。普通の定着登山は、結構大変なのだ。後述の、Iに連れられて初めての春山の先発隊の時は、横尾のベースから北穂をピストン、翌日は槍をピストン。真っ暗なうちに起きて日の昇る前から歩き出し、ベースには昼頃には戻って昼寝なぞなさる訳で、谷川岳の我々と結果的には似て居るが内容が月とスッポン、別物なので有る。
 暗いうちに出発し、昼には戻る訳は、雪が締まってアイゼンが効くうちに登ろうと言う事で、雪が腐りアイゼンに団子となって付着するのを嫌うからだ。
 まともなら、北穂は九時間半、槍は十一時間コースで、若かったあの頃何も怖くなかった♪と歌では無く、ぶっ飛ばして昼には戻って来ただけの事。谷川岳は、な、何と三時間半コース、如何に好い加減か分かって頂けますか?えっへん。(一寸と恥ずかしい)
 雪山でダラダラ、嬉しいなあ、綺麗だなあ、酒が美味いなあ、楽ちんだなあ、わーい、又やろーっと!
 天神尾根だった。自棄になって子供みたく騒いで居る場合では無い。
 秋に登った事が有る。三昔前の事、思えば上越の山で秋は其の一回のみ、夏はやがてアップする八海山のみ、後は全て春山で有る。私には、上越即ち春山なんですなあ。
 天神尾根は中頃より樹木が殆ど姿を消す。森林限界では無いのだが、豪雪の為樹木が存在不能なのだろう。偉く過酷だ。
 従って紅葉と言うより、紅草で山が色付いて居る。爽やかな秋晴れの日で、行き交う登山者も多かった。擦れ違ったおじさん(え、私もだって?当時は違ったの!)が尻上がりの北関東弁で言う。
「でかいザックだなあ、人でも入ってんかい」
 私は殺人者か?でも一応幕営装備(と言っても避難小屋泊まりの予定なので、テントで無くツエルト)だから大きい。皆さんは秋の天神尾根ピストンなので軽装だから、私のでかいザックを異様に感じたのだろう。
 谷川岳山頂からは嘘の様な風景の展開が望めた。色付く上越の山々よ!でも、私は気圧の谷が接近して居る事を承知して居た。此の晴天は今日限り、明日は荒れる、と。そして谷川岳から先は、嘘の様に人影が消え、静寂な山となる。
 小障子非難小屋が今宵の宿だ。やっと到着、例のカマボコ型の小屋(?)の戸を開けると、十人程の目が迎える。詰まり既に満員状態。
「どうぞ、詰めますから入って下さい」と声を掛けてくれる。何と優しい人達!
 (私にとっての天神尾根 その四へ続く)

2010年1月8日金曜日

閑話 その四十

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 閑話十でキスリングについては書いたのだが、どうしても愛着が有って、再度取り上げるのです。
写真は二代目の物で、初代品より薄っぺらにはなって居るが、使い勝手は良い品物だ。フックに紐を掛ければOKと言うのは、とても楽だとはもう書いた。
 唯、幅72Cm(超特大サイズ)は同じなのだが、長さ(高さ)が短い。初代は目一杯詰めると頭より30Cm以上も高くなった。二代は20Cm以下で有る。
 写真でザックの上に見える赤い物は、アイゼンに嵌めたカバーゴムだ。均整の取れた形だが、若い頃の縦走ではこんな荷物では収まらず、此の侭グーンと縦長になっちまった物を背負って居たのだから、今思うと身震いする。30Kgは軽く越えて居た。冬なぞ40Kgに達して居ただろう。あー、恐ろしい……。
 そうなると一気には立ち上がれない。背負ってから一旦四つ這いになって、どっこいしょと立ち上がる。降ろす時は仰向けに倒れてから、腕を抜く。其の腕は痺れちまってんで、全く御苦労な事だ。
 パッキンに技術が必要だとはもう書いた(そして一寸と自慢した)。構造上、と言う程でも無く、大きく丈夫な袋なんだから当たり前の事で、重さがモロに肩に掛かる。腰にも分担されては居るのだが、新型ザックと比べると、肩が辛い。
 因みにキスリングはヨーロッパ産だが、小さい物だそうで、巨大化したのは日本だけ、ヨーロッパ人が日本のキスリングを見て吃驚した、と何かで読んだ。小さく薄くするのが得意な我が国にしては、珍しい事で有る。
 バスに乗る時、規定の大きさ以上の荷物は荷物料を取られる事が有る。昔の山岳部にはキスリングを縦に二つ重ねて縛り上げ、一つの荷物にして仕舞う所がよく有った。新人がウンウン言って持ち込むのだ。
 サイドが有るのは大変便利で、日帰りの荷物位楽々と入る。従って、使用頻度の高い物は全てサイドだ。行動食、水、雨具、ナイフ、セーター、カメラ等々。一々紐を解いて居られないからだ。偉く面倒なもんなのだ。
 其の便利なサイドが、藪に入ると途轍もない邪魔者になる。体から左右に30Cm以上もはみ出して居るのだから、完璧に藪に絡め取られる。藪は鬼門なのだ。
 使い勝手が良く、肩にも負担が少なく、テクニックも不用、藪でも大丈夫(其れは一部の人間に取ってなのだが)。今風ザックに取って代わられるのは、極 て妥当な世の習いなので、キスリングは消えて行くのみ。いや、既に殆ど消えた。
 自分でキスリングを見放しておいて、其れでも消え行く物に惜別の念を抱いて仕舞うのは、歳の所為なのでしょう。

2010年1月5日火曜日

私にとっての天神尾根 その二

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 政次郎尾根も植林の中を唯々登る。植林から開放され、やっと自然の中に入ったと思うと、ポンと表尾根に飛び出る。其処から塔迄は思う存分自然の中、ご安心下さい。
 林道の先の小三角コースは、戸沢出合い迄車で入れば、ダッと登って塔に至り、ダッと下って車に戻る。楽過ぎて、本来では無いなぞとつい思ってしまい、林道を往復するのだが、割と景色の楽しめる林道なので救いは有るのだ。途中の竜神の泉で水を汲むのも、お勧めで、大抵車が数台止まり、大きなタンクに水を汲んで居る。飲食業の人も居るだろうと思って居る。
 此のコースは春夏秋冬を問わず、夫々の景色を楽しめるし、勝負が早いので(くどい?)是非一度お試しあれ。
 もう一つの天神尾根は、ゴンドラから始まる。500m以上の標高差を座った侭で稼げるのだ、はっはっは。と書きながら一寸と情無いが、文明の利器を見ながら登る気は、とてもじゃ無いが起きない。下った事は有るが、登るなんざあ真っ平なんであっさりと自分を許してしまうのだ。えっへん。(歳だし……)
 大抵春に登るので、スキー場を横切って尾根に取り付く。スキーヤーに轢かれない様に気を付けよう。流石ゴールデンルート、殆どの場合トレースが有る。ま、有っても無くても雪を蹴って登るだけだ。
 夏道は雪の下なので尾根筋を行くのだが、一ヶ所岩場が有る。小さなギャップだけど、一寸と嫌な所だ。落っこちないに越した事は無い。其の先幾ばくも無く熊穴沢避難小屋に着く。四月なら屋根が見えるだけ、五月になれば、小屋に入れるかも知れない。
 最近は此の小屋の横で幕営し、翌日谷川岳をピストンと言うパターンが多い。酷く楽でものぐさ、見方に依っては贅沢極まり無い山行なのだ。ねえ、良いじゃ無いですか其れ位の贅沢は、折角重いテントを担いで雪の山に来たんだから、ノンビリ楽しむのが本来でしょう。(歳だし……)
 去年(平成二十年)は一層磨きが掛かったものぐさをやっちまった。Yと二人だった。Yの良い処は、どんな酷いふしだら登山にも文句を付けない事だ。偉いぞY!
 ピストンを終えたら、撤収して下山するのが普通だ。もっと普通の人達は日帰りでスキー場(天神平)からピストンする。でも其れでは、夕方の景色も朝日の美しさも分からないので、あたしゃあ勿体無いと思うので、わざわざ幕営する。
 で、一層磨きが掛かったものぐさの話。テントから朝日を受けて歩き出し、谷川岳から一ノ倉岳へ足を伸ばし、ブラブラしたりコーヒーを沸かして飲んだりしてからテントに戻ると、勿論未だ午前中で有る。なのに我々は雪を融かして泊まりの準備を始めるのだ。
 (私にとっての天神尾根 その三へ続く)

2010年1月3日日曜日

柄でも無い事 その九

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 鰻の蒲焼だけど、東西で開き方、調理の仕方が異なるのはご承知の通り。此れも他の文化の境界線と、ほぼダブって居るのが面白い。
 あたしは東京の人間なので、東風の蒸して焼くのが好みだ。大阪で蒲焼を食べると、何かなあ、と思って仕舞う。
 平成の御世の始まった頃は、出張の時には東京駅で鰻弁当を買って新幹線に乗った。鰻が一切れ半乗って居る。普通二切れでしょう、弁当屋の鰻だって。セコイなあ、とは思うけど、好きなもんだで、良く買った。当時は九百円、今は千百円だ。一寸と高いんじゃないかい、JRさんよ。
 豊橋の鰻弁当は中々で、一切れ半なんてセコイ事は無い(あれ、一切れ半だったかな?忘れちまったぜ)。行けば必ず買ったが、西風の鰻なのが一寸と残念なのだ。浜松もそこそこ悪く無い。
 鰻弁当で何故柄でも無い事かと言うと、先ず、あたしが食べ物の話をするのが柄じゃ無い。大体喰えれば良いと言う生き方をして来たんだから、今更何だい、って事です。でも、安心して下さい、最後はちゃんと「柄でも無い事」にして見せましょう(ペッペ(お馴染みの手に唾を着ける音))。
 牛丼屋や弁当屋(除、駅弁)の鰻は余り食べない。中国産の鰻に決まって居るので、出来たら水銀中毒は避けたいと思いつつ、安さに負ける事も有るのです。ま、たまに食っても、死にゃあしねえさ。
 スーパーの蒲焼であたしゃあ充分なんで、其れ以上の贅沢は言わないが、矢張り鰻屋の鰻は旨い。アタボウで、餅は餅屋鰻は鰻屋。
 残念乍ら我が妻子には其の違いがそれ程は分からないらしい。両親の居なくなった今としては、もう鰻屋へ入る事も無いのだ。
 其の鰻屋の話がメインなのだ。其れも名古屋は熱田神宮の横、蓬莱軒と言う店だが、最近は有名な様で、知って居る方が居たら御免なさい。
 昼時は行列で有る。従って時間をずらしが其れでも小部屋に詰め込まれる。にじり戸が付いて居るのが又良い。
 売りはひつまぶし。此れも今では全国区になったが、昔は名古屋でしかお目に掛かれなかった。
 パリッと仕上げる西風の鰻ならではの一品、東風の鰻ではグジャッて仕舞うだろう。名古屋でも大阪でも食べて見たが、熱田の蓬莱軒がダントツで有る。あ、例に依って宣伝では無いですから、誤解の無い様に願います。
 薬味が色々付いて来て、様々な味わいを楽しみ、最後はだし汁を掛けてお茶漬け(?)にする、此れは何処も同じ。
 刻んだ蒲焼が滅法質が良く、旨く炊き上げたご飯と相性がぴったり、タレが又絶品と、良いとこ尽くめなので、わざわざ名古屋に行こうか、と思って仕舞う程なのだ。あ、涎が。
 ね、柄でもない話だったでしょう。

2010年1月2日土曜日

私にとっての天神尾根 その一

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 天神尾根は私には二つ有る。一つは大倉尾根を花立から下り、吉沢平を一寸と降り掛けると左へ道を分ける。戸沢出会い迄四十分で下るが、植林の道で下るだけ。私好みで、勝負が早い(雑でも何でも速けりゃ良い。と言うのが私の思想なので、お粗末!)。
 もう一つは、天神平スキー場から谷川岳の肩へ続く尾根で、凄く楽な谷川岳へのルートで有る。と言っても他ルートとの比較の問題で、決して鼻歌で登れる訳では無い。
 丹沢の天神尾根は、思い出せば下り専門で登った事は無い。何時でも下っている。そして殆ど人に会った事が無い。ま、登っても下っても単調な詰まらないコースと言う事だろう。何で其の単調な詰まらない道を何度も下るのか?大倉尾根を降りるのがカッタルくなっちまうからです。
 でも、其の後の林道歩きが有るので、時間的には余分に掛かるのだが、何時もと違うのが良いのだろう。
 前述の、小草平の沢を登った時、吉沢平手前迄登って天神尾根を下り源次郎沢へ入ったのが、下り始めで有った。雨の降る中、全く物好きなこってす。其の時は飛ぶ様に下りましたなあ。
 最近時々取るコースは、林道を大倉から戸沢へワンピッチでテッテと行き、正次郎尾根を登って行者下に出、塔を踏んで天神尾根を下って又もや林道を大倉へ、そしてO屋で一杯やる、と言うものだ。林道の先の小三角コースと呼ぼう。
 戸沢出合い直前に、林道らしからぬ傾斜となる。もう着くな、と分かる。すると夏ならテント村が現れる。と言っても涸沢の様に登山者が集まっているのでは無く、オートキャンプのテント村なのででかいテントばかりで有る。偶に小さいのが有れば、先ず間違い無く、定着の登山者だ。
 皆さん朝っぱらから、川遊びとバーベキュウに余念が無い。登山者は横目に見て(内心羨みつつ)、通り過ぎるのだ。お、ビールを飲んでやがる、畜生、こっちはこれから登りでえ!と言うさもしさだ(私だけ?)。
 戸沢出合いは可愛い方で、中川流域はキャンプ場だらけ、西丹沢キャンプ場は特にでかい。川も川原も人が群れて居る。川の水が冷たいので、岩の上で甲羅干しと決め込む人が多い。
 其のキャンプ場を冬に通った事が有る。大きなテントが一つ、バンガローは二つに客が居た。凍て付いた川原で冷たい風を受け乍ら、バーべキュウの支度をして居る。椅子に座って一杯やってる人も居る。此れには感心してしまった、其処までやるのかい。遠目で見ても、上等な洒落た防寒具で完璧に身を固めて居る。そうで無きゃあ無理だ。うーん、好事家ですなあ。私に言われたく無い?此の場合は褒め言葉なんです!
(私にとっての天神尾根 その二へ続く)