2013年3月29日金曜日

閑話番外 その六十九





 一月、二月、三月と塔ヶ岳に登って来たが、嫌でも気付かされたのは、六十五歳を過ぎて又もや、体力及び運動能力が、一角曲がったと言う事だ。
 登りが駄目になって来たのは、分かって居た。空身でも、地図の時間で登るのが普通になったから。そうねえ、六十歳からだろうか。荷物が重い時に駄目なのは、五十五歳からだったと思う。
 其れでも、下りは何とかなった。頑張れば人を抜き捲る事が出来た。
 今年になって自覚せざるを得ないのは、下りに切れが無く、モタモタして居るのだ。じゃあ前は切れたのかって?アタ棒よ!
 下りは目で下れ、なぞと偉そうにのたもうて、次に足を置く所を見定めて的確に其処に足を置き、如何にも小気味良く下ったのだ(と本人は思って居る)。
 其れが出来なくなっちまったのだから、今や唯の爺さんなのだよ(涙)。
 又もやと書いた通り、五年毎に曲がり角を迎えた記憶が有る。其れに賛同する人は結構多い。皆さん、同じ思いを(山に限らず)して居る様で有る。
 併し、考えて見れば直ぐ分かるのだが、人間が五年毎に体力が落ちる筈が無い。部分的には不規則だろうが、総体的に見れば或るカーブか直線か其の混合を描いて落ちて行く、と考えるのが、きっと妥当だろう。
 では多くの人の賛同を得る五年周期とは、一体何だろう?
 あたしが思うに(お前が思っても意味無いとかのチャチは置いといて、謹聴です)、人は自分の歳を(特に)意識するのは、区切りの良い時なのは極(ごく)自然な話だ。
 偉く簡単に結論を出したが、俺ももう六十か、そう言えばめっきり登りに弱くなったなあ、とか、目が霞む様になったなあ、とか、物忘れがひどくなったなあ、とか色々気付くので、区切りの歳で変化が有るかの様に思える、当たって居るのでは?
 まあ、どうでも良い。年相応に衰えて行くのは自然の摂理ってもんで、悲しむには当たらない。何事も、年相応に楽しめば良いのさ♪

2013年3月27日水曜日

山の報告です その三十八





 さて、主脈から外れて青野へ向かう尾根に入った。相変わらず氷の上に雪、油断ならない世界に入った訳だけど、フッフッフ、アイゼン(四本歯の軽アイゼンなんだけど)が有れば何でも無い。氷?凍った雪?どうぞどうぞの世界なんです。
 下り乍ら昨夜の話を思い出した。小屋番氏曰く「八十近くなってる常連さんは、大倉から日帰りで(蛭ヶ岳を)ピストンするんですよ!」。
 え、何だそりゃあ、おらあぜってえ真似なんかできねえだー!!詰まり、やれる人はやれて、やれない奴はやれないって言う、分かり易い話だ。分かり易いだけに、情無くなって仕舞うのだ。



 話を戻そう。尾根を下って行ったら三人のパーティが登って来た。アイゼンをばっちり着けて居る。一人は絵に描いた様な山女だった。三十の一寸と前だろう。
彼女「此の先が、狭くて凍ってますよ」
私「それは嬉しいですね」
 きっとあそこだ、来る時四つん這いになった所だ。
其処に着いたら、又もや三人のパーティが通過中だった。此のパーティは未だアイゼンを着けて居ない。中年入口のリーダーは既に悪場を通過して居て、若い女性が氷の上に居た。残りの若い男性未だ氷に踏み込んで居ない。
私「アイゼンが有るのなら、着けられた方が良いでしょう」
リ-ダー「戻ってアイゼンを着けて。俺は此処で着けるから」
 でも、女の子(二十代)は動かない。いや、動けないのだ。
リーダー「戻って、アイゼンを着けなさい」
女の子「動けないんです」
 そうでしょうとも。散々そんな状況には出くわして居る。あたしはズカズカと彼女の横へ行き(アイゼンのお蔭)、彼女の手を取って十歩程下った。
彼女「あ、モロ滑ってる!」
 でも、あたしが確りガードして居る。で、彼女は無事に氷から抜け出た次第。あたしだって、たまにはナイトも演じるって事です。
 いやあ、最高峰蛭ヶ岳、こんな塩梅だったけど、今度は朝夕の良い天気の時に行きたい、と思って居るのです。

2013年3月25日月曜日

山の報告です その三十七




 さて、九年半振りに蛭に向かうとは、夢にも思って居なかった愚か者(其の時は気付いて居なかった)が、昔の感覚で蛭へ向かったのだが、其れがえれーえ間違いだった。
 姫次から蛭へは、遠く辛い道のりだとは、Yの決まり文句だった。分からないあたしは、え、何だよ其れ、って思って居た。九年半振りに、其の気持ちがあたしにも確り分かったのは、嬉しいんだか悲しいんだか(涙)。
 たった二時間なのだ、姫次から蛭へはさ。其れに大苦労させられちゃあ、見事に唯のだらしないおっさんになったって事で、大変目出度い(涙)。
 最後の400mは酷かった。三度も立ち止まって、息をつく有様、あー情けない。
 頂上には若者が一人休んで居た。彼は、身軽く塔へ向かって去った。大倉からのピストンだろう。あたしと何たる違い!!


 小屋に泊まったのは、若者とあたしの二人のみ。彼は、西丹沢から檜洞丸を越えてやって来たとの事。此れ又、中々のアルバイトで有る。
 で、此の夜は、小屋番氏とすっかり意気投合し、消灯時間の二十時迄、飲んで騒いだ訳だ。彼は小屋番五年にして、悟ったと言う。どうせ居なければならないのだから、前向きに、楽しく過ごそう、と。
 翌朝はガスだった。若者は所在無げにして、朝飯を待って居る。天気でも良ければ、表で日の出を楽しめるのだが、ガスでは仕方無い。あたしはコーヒーを沸かして居たので、彼にも一杯振舞った。其の位の事が無けりゃあ、初めて蛭に来たと言うのに、気の毒で有る。
 小屋番氏に挨拶をし、ガスの中を出発した。勿論アイゼンは着けて居る。従って危なげ無く下れるのは助かる。車へ戻らねばならないので、昨日来た道を登るのだ。昨日はツルツル苦労したのに、今日はアイゼンが快適に効く。昨日だって最初から着ければ良いものを、アホとはそうしたもんですなあ。
 姫次で薄日を受けて温まる。弥生とは言え、雪の上なので日差しが恋しいのだ。昨日の様な展望が無いのが寂しいが、山はお天気商売ってこったす。降らないだけ増しさー♪
 又もや続きます。嫌?

2013年3月22日金曜日

山の報告です その三十六





 山の報告とは烏滸がましい(おこがましい)のだけれど、前回訪れたのが平成十六年九月、従って此の愚ログを開始(平成二十年)してから、一度も行って居ない事に気づいた。
 蛭ヶ岳で有る。散々書いて居る癖にあんまりだと思って、三月上旬に行った次第。
 実は、Rさんが山を下り、小屋が県営になってからは、行く気が失せて仕舞ったのだ。Rさんの時代には、年に数回は訪ねて居た。Yと一緒が多かったが、SやKとも行った。
 県の雇った小屋番氏は、Rさんとは比べるべくも無い素人だった。あたしもYも、自分等も素人なのに、すっかり嫌になったのだ。其れだけRさんは魅力が有る山男だった。
 月日は流れ、人同じからず。十二年間蛭ヶ岳に居た小屋番氏は、立派な登山者に変身を遂げて居た。前には余り良くは書いて居なかったのだが、消去する気は無い。そんな頃も有ったのだから。でも、今は全く違う、と明言しておきましょう。
 さて、バスの本数が無くなってからは、道志側から入るのは車になった。東野から入り、ゲート前に車を置く。
 霜解け道を登る。やがて雪が出て来た。此れが一寸と性質(たち)が悪い。氷の上に雪が数センチ乗って居る。従って滑る。小さなトラバースの部分では氷の斜面で、あたしゃあ四つん這いで通過した。だって、滑ると左の斜面に其の儘落ちて行くんだもん。
 其処から上は、ずーっと氷と雪。大苦労させられるが、例に依ってアイゼンを着ければ何てこたあ無いのだ。唯、状況は結構悪いので、 下りは絶対アイゼンとストックだと、心に確りと決めた。(おいおい、だったら今使えよ)
 主脈に出ると、雪も氷もぐっと減る。日当たりの所為だろう。詰まり其れだけ、主脈縦走路は、素敵だって事なのだ。間も無く姫次、突然展望が開け、真ん前が富士山なのは、何度も味わって分かっては居ても、新たな感動を感じるものなのだ。



 此処から蛭へは二時間、あと一息と思った甘さは、嫌と言う程思い知らされたのです。
 続きます。