2009年10月31日土曜日

休題 その二十六

店 044

 

 長男が入院した時、彼の関係会社の人が見舞いに来てくれ、「プラネテス」幸村誠著を差し入れてくれて、長男が「此れ、宇宙物としては良いよ。でもたいして面白くないけど」と薦める。
 宇宙を舞台の劇画。読んで見た。ふーん、一応調べてるな、真面目に宇宙を描いて居るじゃないか、と感心する。放射線の危険も押さえて居る、偉い。しかも結構面白い。
 最初の頃は一話完結、やがてストーリーが展開するのだが、一話完結の頃が花だった。ストーリーが動き出すと、宇宙に対する拘りが希薄になって、危険性、広大さ、孤独さ、人間のちっぽけさ、は置いておいて、になっちまって、おいおい、とあたしは不服なのだ。
 宇宙とはドラマの背景とは成り得ない。あたしの仮説です。まあ、単なる思い付きなんだけど。
 宇宙で暮らすだけで最早ドラマで、ロシアの宇宙飛行士が確か一年半の世界記録を造ったのだが、地球に帰還したら即担架で集中治療室、見事助かった。
 彼はインタビューに答えて言った。
「どうだったですって?毎日、生きて居るだけで必死だったですよ」
 そうだろう。人が存在不能な環境で生きるとは、ミスは其の侭死に繋がるので絶対駄目。ノーミスを強いられる一年半、おまけにアクシデントが常に発生、あたしゃ嫌だし、出来っこない!
 立花隆の「宇宙からの帰還」に依ると、船外活動(宇宙服で宇宙に居たと言う事)をしたクルーは殆どが直ぐそばに“神”を感じ、引退してから宣教師に就く例が多い、と有る。
 分かる。あたしゃあキリスト者では無いので、ゴッドを感じるのでは無く、何かを感じるのだろう。
 其のギリギリの厳しさと、神秘さが、残念ながら「プラネテス」には描かれて居ない。テクニロジーが遥かに進歩した事が前提なのでスルーなのだろうが、そこんとこ確り押さえてくれなくっちゃさあ、と贅沢を言うのだ。
 下手なシナリオを習って居た頃、あたしは人の作品に文句は付けない(付けられない)のだが、SFとなると話が違う。
「どんな重力発生装置が有るのですか?」
「深海で泳ぎ回る為の耐圧服は相当の物でしょう。どうして身軽に動けるのです?」
「宇宙空間では音は伝わらないの。其の轟音って何なんです?」
 等々。若い人(おじさんはあたしだけだった)相手に大人気無い事を言い散らして居たが、どうしても見過ごせないのだ。
 「プラネテス」にはそんな心配は無用で、其れだけでも嬉しい。単行本四冊で完結してしまったのが惜しい。ストーリーも途中の感じで、何故?と思ってしまう。
 どうでも良いって?はい、宇宙好きの独り言でした。

2009年10月28日水曜日

山の報告です その九

DH000073

 三章目ともなれば、最早本文だ。短いものは二章だし(大倉尾根とか椿沢とか)。でも、たまには良しとしよう(勝手なんですなあ)。
 さて、テントに戻ったは良いが未だ十二時一寸。取あえず表でチューハイを飲んでから片付けと準備、でも一時にもなって無いので寝ちまう。騒がしいので目覚めたのが二時半過ぎ。
 幕営地も埋まり始めたらしく、あっちだこっちだと騒ぎ声。其処へドカドカと足音。
関西弁「此処しかあらへん、此処にしよ」
関東弁「張れますか」
関西弁「張れるで、一番ええわ」
 覗くと大学生の四人パーティ。げ、こりゃ煩くなるぞ。確かに煩かったが楽しかった。関西弁はリーダーでは無い見たいで同期の男がリーダーらしい、余り口を利かない落ち着いた男だ。後二人は後輩の男達。其の三人をABCとする。
関西「見て、指に皆豆が出来おった」
B「俺は膝が痛いですよ」
関西「膝と豆とどっちが辛いやろな」
B「膝でしょう」
関西「豆も痛いで。五竜の登りは足が上がらんかった、根性で歩いたんや」
 どうやら八峰を越えて来て三泊目の様だ。しかも後二泊するらしい。
関西「いて!!うっかり豆を擦ってまった」
ABC「え!」
関西「見てみい、汁が出て来おった、ほれ」
C「止めてよ!」
 そんな按配で騒ぎ続け、聞いてるあたしゃあクスクス笑う。孤独の幕営者には良い娯楽なのだ。
関西「今へが出おった」
C「今夜は何を食べますか」
関西「何が残ってんねん」
A「そうだな、変なのばっかり残ってる」
B「此処にリゾットが有りますよ」
関西「それや、はよ言わんかい!」
 賑やか千万、でも二十時になれば寝静まる。偉いぞ大学生、山は良いぞ、仲間を増やしてくれ給え。
 翌朝四時、あたしが目覚めた時は彼らはヘッドランプで撤収の最中だった。流石に関西弁も無口で、偶に指示を出すだけ。あたしがコーヒーを飲んで居るうちに出発して行った。最終目的地は白馬か朝日だろう。祈・健闘!
 曇りで早朝僅かに降雨。何、こっちは下るだけ、色付く遠見尾根を見据えて出発。思った通りに、下るのも苦労で有る。ヨロヨロ下り、中高年パーティと前後する。だって足が思う様に行ってくんないんだもん(涙)。
 登りよりは滅茶苦茶楽なのは言う迄も無い事。駅に着いたら七分後に列車、ジュースをぐっと飲んで乗り、松本では五分後に発車の梓から飛び出し、列をなすキオスクを尻目に階段を駆け上りコンコースの売店で駅弁とビールを買って車中へ、待ち時間無しで帰京。
 で、今日(十月二十三日)は筋肉痛と疲労でゾンビの有様、指だけは動くので此れを書いた(打った?)のでした。

2009年10月25日日曜日

山の報告です その八

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 その七の続き。
 良くしたもので、翌未明テントから顔を出し、満天の星空(冬の星座ですぞ)を見た時は下るなんてえ下らない考えは消えて居た。
 慌ててモーニングコーヒー、此れが無くっちゃあ山の一日が始まらない。大英帝国海軍の水兵はナイフで切れる様な濃いココアで一日が始まるそうだが、似た様なものだ。
 パッキンを済ませ小屋への登り返しは一汗掻く。何せ一番下なんだから。
 空身で唐松ピストン。残念乍ら日は上がって居たが、朝の清涼感に変わりは無い。今日の天気は先ず大丈夫、のんびりと景色を楽しむのだが、此れを本当の贅沢と言うのだ。
 さて、ザックを背負ってアップダウンが始まるのだが、岩稜が続くので緊張、と覚悟して居たが整備され鎖もばっちり。昔々半、反対ルートを積雪期に来た時は結構ヒヤヒヤしたが今回はOK。良かった!
 五竜の幕営地には十時前に着いちまって、小屋で聞く。小屋のフロントは若い女性。
私「五竜でノンビリすんだけど、幕営の受付してくれます?」
フロント「これからテント場も混むでしょうから、張っておいて結構ですよ」
 話が分かる、そう来なくっちゃさあ。さっさとテントを張って空身で五竜へ向かう。
 元がバテ親父なのでワリワリ登りは辛い。岩場に掛かればそんな事は言っちゃ居られないので、一生懸命登って頂上。
 此の文章をアップする迄に写真のデーター化が間に合うか心配したが、間に合いました。処が、如何にもらしい写真はデーター化していない、余りにも有名な構図ばかりなので。眼前は、秀麗な飽く迄秀麗な鹿島槍、其の横に遠く尖がってんのが槍ヶ岳、右は剣から立山、振り返ると、大黒をお供にした唐松、後ろに白馬槍。
 いやー、一日に二度の贅沢、罰が当たるんじゃ無いかな。尤も登りで十分罰に当たっては居るし、下りだって此の按配では苦労するだろうから、良しとしよう。
 キレットへ向かう皆さんはノンビリして無い。先が嫌な路続きなのだ。見下ろしてもガラガラな嫌な下り。三々五々出発して行く。
 唐松から前後して来た白人の二人連れが居た。五竜下の岩稜で、其の一人が方向に迷ってるので、あたしは大きく指で左を指した。「オサキニ」何と女性だった。逞しいから男だと思って居た。で、あたしが先に進み彼女は後を付いて来る。勿論無事に登頂です。
 其のカップルはキレットへ向かう。前後して来た手拭いを被った中年男性も、挨拶を交わしてキレットへ向かう。本文にもやがて書かれるが、山とは一期一会で有る。書いて居て一寸と胸が詰まった。山から帰ったばかりの感性でしょう。直ぐ消えて仕舞う……。
 あたしはゆっくりゆっくりと、テントへ戻るのです。
 何と、人様(と言っても来る人は稀なんで、良いのさ)の迷惑を顧みず、又もや続く。

2009年10月24日土曜日

山の報告です その七

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 平成二十一年九月二十日から二十二日、唐松から五竜への小縦走をやって来た。本当は十九日から発って鹿島槍と爺も越えたかったのだが、遠い海上に台風が居たので、念の為一日遅らせ、ルートも短縮した訳だが、結果オーライ。何がって?追々説明しよう。
 ご存知八方尾根からの入山だが、最悪の予想はぴったし、観光客で溢れ返っており、上下一本づつの道は延々と人、人、人。
 観光客は空身で且つ飛ばす。あたしは22Kgのザックにテントから鍋釜寝具食料迄背負って居るのだから、ゆっくりと行きたいが道を塞ぐ訳にも行かず、合わせて飛ばして八方池迄頑張ったのは良いが、一発でバテ切って仕舞ったお粗末。
 快晴の白馬三山は涎の出る程の美しさだが、あたしゃ涎が垂れるバテ方。此処からは登山者の世界だが、唯々喘いでノロノロと歩を進める哀れなおじさん。ま、進めるだけ良いか。
 小屋に着いたのは十六時過ぎ、急いで幕営したいが受付が長蛇の列、三十分も掛かってやっと張る手筈なのだが、一面テントだらけ、張れる場所を探しどんどん下り、結局一番下迄降りちっまったぜ、ったく。
 それでもテントは正解だった。小屋は四畳に八人で、増しと言えば立派に増しだが、矢張り一人でノウノウと暮らす方が良い。
 驚いたのは飯が食えなかった事。何十年振りだろう。「喰わなきゃ駄目だ、水を掛けてでも喰え!」「はい、分かってまつ」と自問自答しながらどうにか食べたが、いやー、参ってたんですなあ。
 当然酒も飲めない。8%のチューハイ一本とウイスキーを少々。これじゃあ何しに登って来たのか分からん。体温調節機能にも狂いを生じたと見え、皆さんアノラックを着込んで居るのにカッターで暮らし、其の癖水洟が垂れる、タラタラ垂れ続ける。与太郎で有る。
 翌朝の氷点下に備えセーターを着込んで寝袋に入ったが、気持ちが悪くなっちゃって、おまけに変な動きをすると足の甲が攣ったりして、明日は歩けるだろうか?恥を忍んで八方を下るべきだろうか?と思う程なのだ。
 昔々、同じく八方から来て此処に幕営、翌日は五竜、八峰キレットを超え冷の幕営地迄飛ばした事が有ったが、其の頃の力が百とすれば今は二十以下、もう何処にも無いよ、テント担いで十二時間以上も歩く力は……。
 で、結果オーライの話だが、予定通りなら八峰キレット小屋に泊まるので、当然幕営不可能な場所(絶壁に張り付いた小屋なのだ)だから小屋泊まり。さぞ混む、きっと混む。一畳に三、四人は固いだろう。良かった!
 もう一つは、三日間で下山した事。昨日帰宅したのだが、朝から筋肉痛で唸って居るのだ、えっへん(涙)。キレット超えて四日も歩いたらどうなっちゃたんだろう?
 駄目だ、何時の間にこんな情け無いおじさんに成り下がったんだ!酒ばかり飲んで何もトレーニングしないから?それは昔からだ!
 情無い話は続きます。

2009年10月22日木曜日

休題 その二十五

店 043

 

 有りもしないと気付いた感性の話で、ボロボロなんだからアンタッチャブルで良いのに、とは我乍ら思うのだが、足掻くのです。
 本の話で、戦争と平和が駄目だったら次を試さなければあたしは納得出来ないので、大好きだった安部公房の、其の中で一番好きだった「けものたちは故郷をめざす」を手に取って、半分で置いて仕舞った。う、う、詰まらない……、詰まらない筈は無い!あたしゃあ三度読んで三度感動したんだ、でも駄目。
 坂口安吾はどうだ?読めた。「堕落論」だから小説では無いかな?山本七平も面白く(と言うより真剣に)読めたが、勿論小説では無い。彼については改めて語りましょう。語って語って語りつくせないだろうけど。
 小説とはあたしに取っては怖い部門なのだ。中学の時に国語の先生が言った。「夏目漱石を読め、人生が変わるぞ」真面目(今よりです)だったあたしは読みました。倫敦塔から明暗迄、全巻を買い揃え、三度も全て読んだ。人生は全く変わらず、ご覧の通りの馬鹿人生、へへへ(涙)。
 唯々面白く無かった。自分の所為だ、俺に何か分からん処が有るんだろう、と頑張ったが、自分は偽れない。結論、詰まらん!絶対詰まらん!
 で、我輩は猫である、と坊ちゃんを除いて(此れは面白かった。でも、先生の意図では無い筈)皆捨てた。後悔なんざする筈も無い、詰まらない本は捨てる、当然だ、はっはっはっは。
 話を戻そう。しばれんの三国志(全六巻)は文句無しに面白く読めた。因みに三国志で一番詰まらなかったのは吉川英治で、捨てた。一番面白かったのが三国志演義の直訳、岩波文庫で、粗い表現の裏を、じっくりと読み取れる。とっくに絶版だろう。
 じゃあカミュはどうだ。ペストを読んだが引き込まれる。うーん、此れも人が死ぬ話か。ではおっとりしたとこで宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」に手を伸ばした。宮沢賢治には何の抵抗も有りゃしない。昔通り、否、若い頃より同感した。
 処でカミユのペストは深い。極限状態の人間はさも有りなん、と思わされて仕舞う。と言うより、人は如何に生きるかと言う命題と、妥協を排して格闘して居る。神でも無く共産主義でも無く(当時は重大課題だった、様だ)人間としてで、それも淡々と描くのは並では無いと今更乍ら思い知らされた。
 大体分かって来た。志賀直哉も駄目だろう。島村藤村も絶対駄目に決まった(失礼)。堀辰雄は読めると思う。
こうなりゃあギリギリの状況か、とことん綺麗な心情しか受け付けないのだろう。うーん、本当にそうなのかなあ?我乍ら自らを疑って仕舞うのが情無い。
 此れは名作と折り紙付きでも、相性が有って、そうは思えないと言う奴が居ても不思議では無い筈で、おまけにそいつが還暦を過ぎて居たら、そうだね、好き好きだもんね、とあたしなら言って上げます。(自己弁護に聞こえるって?当たり!自己弁護なんです)

2009年10月20日火曜日

好事家は行く その四

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私「Y、変なんだよ、尾根の横を来たんだけど、全く降り口が見つからないんだ」
Y「あの雪の模様に覚えがあるんだけど」
私「何だって」
 ガスを通して確かに変に丸い模様が見える。
Y「あの左を登って来たと思うんだ。面白い模様だなと思ったから」
私「おいY、ザックを背負え、行くぞ」
 当たりでした、尾根に出た、万歳!早く言ってくれYよ、私は散々苦労したんだよ!!威張っちゃいけねえぜ、誰に救われたんだ?はーい、残念ながらYでーす!本当に時の氏神でした。
 こうなったらY話だ。私の好む無名の沢に一番付き合っているのはYで(私が単独で行く事が多いけど)、とても偉いと言おうか懲りないと言おうか、他人から見れば物好き。え、何だ、類友じゃんかさあ。
 そんなもんなんです、人生ってさ。だから、Yよ、私を恨まず、必死に沢や薮を歩こうね。え、恨んでないって?失礼しました!
 今年(平成二十一年)の春山の苦労は、閑話で話した。種類は異なれども似た様な苦労は毎年させている。
 だって、年に一度位必死な苦労をしなけりゃあ、Yは完璧メタボ男になって、ポックリ死んでくれりゃあ未だ許せるけど、変にヨイヨイになって、其の癖Yの事だから大食いで丈夫で、ヨイヨイは全く直る見込み無しの大ごくつぶし、家族の迷惑此の上なしだが毒を盛る訳にもいかず、親類縁者皆顔を見合わせては溜息をつき、口には出さねど何故あいつはあんなに丈夫なんだ、神や仏があるものならば、どうか速やかにあいつを連れて行って下さい、と、目で語り合うのだが、一向に死んでくれず、おまけに惚けが来て、病院からも追い出され、老健や介護型病院を点々とする家族の苦労は、とてもじゃないが涙なしでは聞けないのだ。
 え、全部お前の想像だろう、余りに酷い書き方だ、自分の登山パートナーだろうって?まあ確かにそうなんだけど、そうなるんじゃないかなって推測しちゃって、それに何と書いてもYは此れを読んでないし、そりゃあ、読んでなければ何を書いても良いって訳ではないとは心得ているんだけど……。
 おい、幹事、滅法やばい事になっちまった、急いで纏めだ、纏めだ!
 はいはい、酒は程々にね。適度な酒は百薬の長、あんた(詰まり私)の場合は気違い水、反省しましょうね。はい、反省します!
 確かに名前の通った沢は、それなりに爽快で、綺麗で、皆が喜ぶのは当然だと思う。私の好む無名の沢は、詰まらない所で思わぬ苦労をさせられるし、藪かガレかザレはつき物だ。その上沢相は貧弱な場合が多く、誰も行かないのは、極めて道理である。
 でも私はとことん物好きなので、こんな章を立ててしまった。自分が好事家である自覚は勿論充分に有って、その上悔い改めようなぞとは、これっぽっちも思っていないからなのです。
 冷静に見れば、良い年なのに相当の困ったちゃんでは有ります。

2009年10月18日日曜日

クソ面倒な話 その七

Queens_Guard_Windsor

 

 クソ(失礼)六の続きです。
 日本軍は白兵戦が得意だったと言う迷信が有る。今でも有る。念の為白兵戦の意味を説明すると、銃の先に剣を着け、手榴弾を叩き込み乍ら敵と突き合う戦い方。
 得意だったのでは無く、近代戦遂行能力が欠如して居た為、そうせざるを得なかったので、丸で日露戦争で有る。
 その日露戦争の時、露西亜兵との白兵戦で日本兵が圧倒される局面が多く、軍部は愕然として、白兵戦闘訓練に力を入れる様になったのが真相だ。
 前の休題で戦国時代の戦闘に於ける死因を書いたが、飛び道具主体の戦い方をして居たのは一目瞭然。此れを遠戦指向と言う。
 ヨーロッパは違う。武器を振り回し、モロに白兵戦を続けて来た。これがDNAの違いを産んだのか、DNAの違いでそうなったのか、卵が先か鶏が先か。
 で、アメリカ人がチキン野郎と呼んで軽蔑する臆病者は、人口の18,8%、少数派で気の毒で有る。一方我が日本人はチキン野郎が68,2%、臆病者が絶対多数で悪い事では無く、極力摩擦を回避し平和に暮らす独特の文化を培って来た訳だ。
 戦記を読んで居ても、弾の飛来する中皆伏せた侭動けない時、極偶(ごくまれ)に「皆臆病者だなあ、俺に付いて来い!」と立ち上がって前進する将兵が存在するが、此れは1,7%の極少数の命知らずと言う事だ。
 アメリカ兵は32,3%が此れだから、嘗めてかかって酷い目に会ったのだろう。
 実際は日本兵の殆どはアメリカ兵の姿を、ろくに見て居ない。やって来るのは兵士で無く砲弾と爆弾。或いは飛行機の銃撃。
 やっと姿が見えても(詰まり小銃弾の有効射程内の200m)、射撃をすると即後退し、迫撃砲弾が襲って来る。日本の兵士達は「卑怯者!」と歯噛みする。あれ、話が違うじゃ無いの、アメリカ兵はチキン野郎か?
 考え方の違いなんです。幾ら命知らずでも、イエローモンキーを相手に命の遣り取りをする必要は無く、砲撃で粉砕出来るのだから、そりゃー楽な方が良いに決まって居る。
 お陰で、銜え煙草のヤンキーがジョークを飛ばし乍らどんどんぶっ放す砲弾で、我防衛線は崩壊し、後退せざるを得ないのだから、卑怯も糞も無く、乾杯!間違い、完敗!今君は人生の大きな大きな舞台に立ち……。生きるか死ぬか、此れ以上大きな舞台は無い。ふざけるなって?あたしゃ真面目に言ってんだ!
 硫黄島の様にアメ公(いけねえ、普段の口調になっちまった)が苦戦を珍しくも強いられた時は、勇猛な本性を表し、弾雨の中を一気に駆け抜け、日本軍の戦線を分断するなんて離れ業を見事にやってのける。そして、アメリカ人では無いが、弾雨の中で演奏を続けるスコットランド兵。
 アングロサクソンと喧嘩をするのは(スコットランドはケルトだが)、千年早いのです。

2009年10月17日土曜日

好事家は行く その三

FH010032

 

 確かに行けた、殆ど上迄は。処がコブが有って越せない。二十分近く探って、岩の1㎝位のスタンスを見つけた(コブはザレを被った大岩だった)。臍の上の位置だ。思いっきり足を上げ、地下足袋の先を引っ掛けて体を持ち上げ、コブを突破した。思わず、やったー、と叫んでしまった。今思うと一寸と恥ずかしいです。
私「Y、正面にスタンスが有る。足を右に出すんじゃないぞ」
 でも、Yは足を右に出してしまう。そういう構造の場所なのだ。
私「違う、正面に足を上げろ」
Y「う、う……」
 私は内心余裕であった。此処は稜線直下だ。Yが突破出来なければ、尊仏山荘へ走り(走れたとしたらだけど)ザイルは重いからサブザイルを借りれば、一発で引き上げられるのだ。きっと髭の番頭さんは、装備がなってない、とか、良い年して、とか、沢を舐めるな、とか言うだろうが、聞いてる振りをしてれば良いのさ、ふっふっふっふ(番頭さん、読んでないですよね)。
 案ずる事は無かった。Yは見事コブを突破した。今よりも腹が出ていなかったからだろう、今なら絶対無理さ、違うかいYよ?(大体Yが此のブログを読んでないってえのは許し難い!市中引き回しは勘弁するが、山中引き回しの刑!もうされてるって?そう言やあそうだね)。
 其処からは私の読み通り、いくばくも無く登山道に飛び出た。
私「(振り返り)夢泣くな」
 これは、道に出るから嬉し泣きするなよ、という我々の慣用句だ。美しい言葉遣いでしょう?で、Yは登山道に立ったとたん倒れて転げた。
私「どうした!」
Y 「両足がつった、い、いてっ」
 人間の体は素晴らしいものだ。危険が去って足もつる。下痢すら止まると前に書いた。という事は、相当の部分が、精神力でカバーできる訳ですな。私なんざ、その精神力が衰えて来て……。嘆くのは止めよう。
 好事家の餌食(?)のYは気の毒ではあるが、お陰で人間の尊厳を保っていられる部分もあるので(現に本人がそう言ってるので)、良しとしましょう。
 其のYに救われた話。
 笠ヶ岳の避難小屋はお馴染みのカマボコだが、春に三度Yと泊まっていて、二度目の時だが朝日岳アタックはガスの為断念、下りにかかった。雪の白髪門直下は分かりにくい。登る時に降りる事を想定して地形を頭に入れた積もりがバイアスがかかっちまって、さっぱり分からんのだ。
 ザックを下ろし、空身で偵察に出るが、どう足掻いても急斜面になって仕舞い、いたずらにガスの中を右往左往するのみで途方にくれて戻った。
 唯々白いガスの中、不安に待つばかりのYはすっかり凍えて仕舞っている。
 (好事家は行く その四へ続く)

2009年10月14日水曜日

閑話 その三十四

店 042

 

 閑話番外その八で、冬の塩見岳をやるなぞとうっかり口走った(筆走る?否、キィ走るかな)が、日数が掛かるので(そしてキツイので)、多分無理だろうから、忘れて下さい。勝手だって?許してチョンマゲ。
 で、一寸と触れた昔々半前の事。
 当時は、正月には塩川小屋へ一時間程の場所迄臨時バスが入った。夜行で伊那大島に着き、凍て付く中でバスを何時間も待つ。冷え切った頃、やっと車中の人となるのだが、満員で有った。
 塩川小屋を通り、川原を歩いて登りに掛かる頃から霙となったが(又もや雪では無い!)頭にタオルを巻いて登り続ける。
 此の日は三伏峠で幕営だった。他にテントは十張近くで一寸としたテント村だ。濡れたタオルはブリキの様に凍って、下山する迄ブリキ板の侭だった。顔も拭けない、痛くて。
翌日は晴れ、積雪期は十時間余(無雪期は八時間弱)のピストンなので、暗いうちから出発する。塩見岳に向かうパーティは意外と少ない。皆さんどうして居るんだろう?テントの人も、小屋泊まりの人も。
 因みに三伏峠は日本で一番高い峠で、2560m、3000m一寸との塩見岳とは標高差が僅かだとお思いでしょうが、それが違うの。間に幾つもピークが有って、登降を繰り返すので時間を食う。
 塩見岳は割りに合わない山なのだ。何故ってえと、頂上直下迄樹林帯で、森林限界を越えるのは標高3000m寸前と言う按配なので、北アルプスの山なら2500m以前に森林限界、何だか高く登ったなあと思えない造りなのだが、あたしがブツブツ言ってどうなるもんでも無いので、諦めましょう。
 塩見小屋を越えると樹林帯とお別れ、突然吹き飛ばされそうな強風に曝される。うーん、ずーっと此れだったら結構苦労だ、樹林帯への文句は素直に撤回します。
 南アルプスの冬は北アルプスより寒いと言われる。北風は北アルプスで雪を落とし、雪生成の為エネルギーを失った(詰まり、より冷たくなった)北風が南アルプスや八ヶ岳に吹き付ける訳だ。
 余りの風の強さと冷たさに、頂上はとっとと辞し、懐かしい樹林帯に飛び込んで、ほっと息を吐くと言うお粗末、如何にもあたしらしいだらし無さです。
 其の僅かの間に見た景色の雄大さを写真でお見せしたいが、ネガが無い。北には遥かに白峰三山、仙丈岳、甲斐駒、南には、荒川岳、赤石岳、聖岳と延々と三千峰が続くのだ。
 テントに戻った時、入山して来た単独行者がせっせと雪を掘って居る。雪洞で有る。やるもんだなあ、比べりゃテントは天国だと思いつつ凍ったテントに入ると、凍って板になった侭のタオルが迎えてくれるのでした。

2009年10月12日月曜日

好事家は行く その二

FH000046

 

私「Y、これに掴まれ!」
Y「……う、う」
 Yも飛びついた。二人と一本はザレ煙を巻き上げつつ落ち、カーブでスピードが緩んだ。横は草の生える土の斜面だ。私はそこへしがみついた。
私「Y、こっちだ!」
 Yも木を捨て、草地にしがみついた。
私「どうして避けないんだよ」
Y「足場も手掛かりもどんどん崩れて、張り付いてるだけでやっとだったんだよ」
私「どうしようかと思ったぞ」
Y 「もう嫌だ、こんなの!」
 あれ、何処かで聞いた台詞だ。そう、前章の凍った桧洞丸での妻の台詞だ。
 書きながら薄々感じてはいたが、今明白に分かった。いやー、物を書くというのは自分を知る事でもあるのですなあ。これを書いて良かった!
 私は今の今迄、自分はしっかりしていて、人のドジのせいで迷惑を蒙っている、と思い込んでいた。処が、良く考えてみると私がドジって、お陰で人が迷惑を蒙るパターンばかりではないか。この騒ぎだって、私が本流を外さなければ、元々無い話だ。反省します。まとめて誤ります。迷惑をかけた方々、御免なさい。(深々)
 ま、気付いただけでも立派ではあります。え、違うって?まあね。
 Yとガラガラな場所で苦労した事が、外にもある。もっともこの件はYにも多少は責任が有る(?)と思う……。木の又大日沢を詰めた時だ。又もやマイナーっぽい沢なのだが、苦労するのは大抵そんな場所とは決まり物で、世の中もそんなもんでしょう、きっと……。
  詰めあげで壮大なガレ場に出た。見事に広がる大ガレ場、圧倒的である。直登なんぞは飛んでもごぜいやせん。こうなりゃ逃げるの一手、見回して左に逃げようとした。
私「左から行くぞ」
Y 「大塚さん、あそこ行けるよ」
 確かに広いガレ場の真ん中に、一筋ガレ尾根が有る。
私「……うーん」
Y 「あっちの方が楽で早いよ」
私「そうだな……」
 ま、決めたのは私だから、Yのせいとは言えない。でもYよ、確信に満ちて言い切ったのは君だぞ。(おいおい、リーダーは?)(はい、私です。でも余り自分が駄目だと悟ると辛くて、つい……)
(好事家は行く その三へ続く)

2009年10月10日土曜日

閑話番外 その十一

FH000076

 

 

 夜景の綺麗な時は寒い。経験則で有る。何時でも「うー、寒いぃ」と腕組みし身を縮めて見て居た。
 夜景の綺麗な時は風も強い。此の写真は絞りを全開で一分間(多分)の露出だが、レリーズ使用にも関わらず、風が安物の三脚を揺すり、う、う、ぶれて仕舞った。
 蛭ヶ岳からの東京方面はこんなです、と言う意味で載せました。

2009年10月8日木曜日

休題 その二十四

D111656869[1]

 

 幾つか前の休題で、感性がどうのとか、如何にも自分の感性が良い様に書き殴って居たが、お分かりの通りの酔っ払いの大言壮語で、今は大して酔って無いので、とてもじゃ無いが、そんな大口は叩けません。
 戦争と平和を読んだのは三十八年前。岩波文庫で八冊だった。何で分かるかってえと、当時は本に買った日付を記入して居たから。
 最近読み直した、そう、三十八年振りに。五冊目に入って、辛抱出来ず読むのを止めた。何で?詰まらないから!
 あたしを責める前に聞いて欲しいのだが、若い時は物凄く感動し、読み終えても其の世界から離れ難くて、即買って来たアンナカレーニナを読み始めた。作者が同じだからだ。
 齢(よわい)を重ねるとは、何かを捨てて何かを背負い込む事なのだろうか。感覚も鑢に掛けて磨耗させるのだろうか。
 あたしゃあ違うね!と豪語したい処なんだが、戦争と平和の件は相当に我ながらショックで、目が霞む様に感性も(若し有ればだが)霞むのかなあ。だって、本は片っ端から捨てて来たのに、戦争と平和は後生大事に取って置いたのだから。
 若い頃は震える程感動し、今じゃ詰らなくて本を置く。鈍ったって事なんだろう。あー、認めたく無い!
 思い起こせば小説を読まなく(読めなく)なったのは、四十台半ばからだ。其れからはドキュメンタリーしか駄目になっちまって、或る日次女が嘆いた。
「家に有る本は人が死ぬ、どんどん死ぬ本ばかりだよ」
 確かだ。人が生きるとは、死ぬ事がゴールで有り、思いがけず人生半ば(と本人は思って居ても)にゴールを迎える事も有る訳で、そんな局面で如何に生き或いは死を迎えるか、あたしはそう言う見方になって仕舞ったので、人の死ぬ本ばかりになったのだ。あたしに言わせれば、人の生きる本って事です。
 で、小説の奥深い洞察や心理の彩が面倒臭くなり、長らく離れて居たのだが、新聞で太宰治のコラムを読み、記述者が御伽草子を太宰の傑作、と褒めて居たので、お、あたしと同意見だ!と喜んで、これも何十年ぶりかに読み返したら昔どおりに偉く面白かったのだ。
 それで続けて戦争と平和を手にした訳だ。て事は好みがはっきりして来たって事で、好みで無ければ拒否する老化現象なのだろう。
 考えて見れば無理からぬ話で、残り時間はどう見ても今迄生きて来た時間より遥かに短いのだから、無意識の裡に余分と思われる物は切り捨てて居るのだ。
 齢を重ねるとは、矢張り何かを捨てて何か(ま、遣り残した事)を背負い込む事なのだ。若い時は何でも吸収する時期だったのだろう。
 そして今、ゴールへ向かって、着実に歩いて行きいものだと思って居るのです。

2009年10月7日水曜日

好事家は行く その一

FH000018

 

 こうずか、と読みます。約せば(おいおい、日本語だよ。良いの、今は映画の字幕すら読めない人が増えたんだから。え、数少ない読者に失礼だって?全くそうでした!)物好きって事。
 田代沢の話から入ろう。そら来た。聞いた事も無いマイナーで平凡な名前の沢だ。名は体を表す。マスキ嵐沢とか藤嵐沢、地獄棚沢、ザンザ洞、名前だけで険悪さが分かる。
 さて、おっとりと田代沢。竹之本から加入道へ突き上げる沢で、今は沢沿いの登山道も有る小さな沢で、御免なさいね。
 五年程前、Yと詰めた。当時は路なぞない。加入道で幕営するので荷物は大きかった。淡々と沢を行ったが、多分枝沢に入ったのでしょう。(入ったに決まってんだろう!)どんどん沢が狭く、急になる。でも進むしかないのは常の事で、進んだのだ。
 そのうちザレになった。沢が左にカーブすると、一段と傾斜が増し、両手両足で這う事になってしまった。でも一寸と先に草と林が見える。
 もはやヤモリになった私、ザレを抑えつつその真下に着いたが、崩れた地面が迫り出している。分かる人いますよね?(居ないって、無理も無い)頭の上に地面が出ているのだ。雪庇の土バージョンと言えば分かりやすい。
 私の手がニューッと伸びれば、立ち木を掴めるのだが、残念ながら私は化け物ではない(誰だ、異議を唱えるのは!)。足掻いたが、諦めて引き返そうとして振り返り、驚いた。
 ストーンと落ちる狭いザレの斜面なのだ。ぞっとする風景である。夢中で気づかなかったが、一体全体どうやって登って来たのだろう?我ながら不思議である。すぐ下にYが張り付いている。
私「Y、横に避けてくれ、降りるぞ」
 Yは、必死の形相で私を見ているだけ。
私「おい、Yがいちゃ降りれないんだよ」
Y「……」
 困った。Yの横にスペースは有るが、急過ぎて降りれず、かろうじて通過可能であろう場所はYががっちりと塞いでいる。
私「仕方無い、Y、気をつけて下れ」
Y「……」
 Yは動かない(と言うより動けない)。進退窮まったとはこの事。すると枯れ木が根っこを突き出しているのが見えた。これだ!化け物寸前に迄手を伸ばし、枯れ木を引き擦り落とした。 枯れ木は根を下にザーッと滑り落ちる。私はそれに掴まり一緒に滑り落ちる。体一つで落ちるより抵抗が大きいからだ。Yの横を滑り落ちながら叫んだ。
 (好事家は行く その二へ続く)

2009年10月4日日曜日

クソ面倒な話 その六

ADN_animation[1]

 

 大分前の休題で、進化論に異議を申し立てて居たが、もちろん“ダーウィンの進化論”の意味なのだが、誤解はしてませんよね。
 其の文中で、日本の学者にはウイルス進化論が有るけど、どうもねえ、とか書いたと思うが、十年数年振り(?)に新刊が出て、読んだら一寸と納得させられちまったのだ。
 あ、分かり切った事を説明すると、日本の進化学は中西錦司以来の伝統で、世界の異端的(悪い意味で無く)トップレベルなのです。
 新刊で唸った理由は一つ、人ゲノムの解明が出来て、其れを元に検証をして居るからだ。当時は未だ人ゲノムは解読出来なかったのだ。
 人の遺伝子の33%はウイルスのものだとは初めて知った。勿論、遺伝子の多くは実際のタンパク質合成とは関係無いもので、唯有るだけとは知っては居たが、其の内の多くがウイルスの残骸だったとは、目から鱗状態。
 なーる、そう言われればキリンは首が長くなる病気(便宜上です)に掛かったんだし、鳥は、前足が翼になって骨が軽くなる病気に掛かって、一斉に鳥になったんだ。
 まあ、ダーウィン君よりかは遥かに説得力が有るし、水平的にも垂直的(ウイルスに感染して変化した形態は遺伝する)にも理屈が通る。よ、流石今西先生の孫弟子達。
 とか言い乍ら、さっき書いた様に、ウイルスに感染して、羽から骨から筋肉から、全部鳥になる難題をクリアー出来る都合の良い病気になれんのだろうか?
 目から鱗とか言い乍ら、あたしゃあ不服なんでしょうなあ。くどいだろうけど、ダーウィン君よりかは遥かに科学です。
 じゃああたしは何かと考えりゃあ、どうしても中西理論になる訳で、欧米でカルト扱いされて居るデザイン理論に近いけど、何処が違うかと言うと、うーん、どっちかってえと似てるけど、一寸とニュアンスが違う(汗)。
 ウイルス説の先生達は中西理論を尊重しつつも彼の「種は変わるべくして変わる」と言う名言を、禅問答の様だと切り捨てる。え、其の通りだったらどうすんの?あたしにはそうとしか考えられないので。
 素人がどうこう言うのは止めて、新刊で教わった面白い日本人とアメリカ人の遺伝子の違いの話。
 分かり易くザックリと、臆病遺伝子と大胆遺伝子と言おう。人間は誰でも二つ持って居て、大胆大胆か、大胆臆病か、臆病臆病かで有って、確率的には夫々、25%、50%、25%なのは、メンデルの法則を持ち出す迄も無い。処が日本人の68,2%は臆病臆病、30,1%は大胆臆病、大胆大胆は1,7%。アメリカ人は、臆病臆病が18,8%、大胆臆病が48,9%、大胆大胆が32,3%。
 え、我々は臆病民族だったんだ。命知らずのアメリカ人は散々映画で見たが本当だった。だから日本では武道が磨かれたのだ。元々臆病な人間が、修練して其れを克服するのが、武道で有り武士道なんでしょうから。
 元々戦争に向かない民族なんですなあ。

2009年10月3日土曜日

閑話 その三十三

 嫌でも応でも、前回の続きで済みません(ペコリ)

“スカブラ”
 強風に描き出された文様は様々で有る。表面は小さく煌めく無数の反射板で構成されて居る。其の上を雪片が飛ぶ。
 スカブラの背景は、重々と連なる南ア連峰、そして逆光に聳え立つ富士、厳しくそそり立つ富士。
“風”
 ヤッケ、オーバーズボン、ロングスパッツ、出目帽、手袋。風は突き刺す様な寒気を浸み込ませて来る。特に手には一番きつく当たる。オーバーミトンを着ければ良いのだが、何かと不自由な為、手をきつく握って耐える。
 頂上よりの展望の連れも風で有る。ガスに巻かれた国師。赤岳と権現の一部を見せた八ッ、あそこも強風が吹きつけて居るのだろう。
 早々に山頂を辞し一筋刻まれたトレースを下る。白銀の尾根が真直ぐ続く。
“好天”
 登り始めは頂上付近はガスで有った。頂上に立った時は、八ッの一部を除いてガスは綺麗に払われて居た。恐ろしい程の青空の下の白銀の峰々。自分の立つ金峰も、染まりそうな空の青さと、真白く、目の痛くなる程真白く光る雪。
 ああ晴天、ああ晴天!
 君は知るだろうか。朝目覚めに星を見た時の緊張を、薄っすら明るみ始めたスカイラインを見た焦りを。急がなくては晴天が逃げて仕舞う。そうだ、急がなくては晴天が逃げて仕舞う!
“擦れ違い”
 頂上を踏んでの下山途次に、登頂に向かう人と出会うのは、仄かな喜びを感じさせられる。彼等は今登頂の苦しみの真っ盛りで有る。あとどの位でしょう?そうですね、一時間位でしょう。風はどうです?強いです、でも、最高の天気ですよ!
 擦れ違い乍ら微かに誇らしく思う。俺は既に好天のアタックを終了したのだ。
“山の唱”
 登山時には閉まって居た富士見小屋は開いて居る。周りには六張の天幕が張られて居る。昨日は人の気配も無かったのだ。
小屋の中から歌声が聞こえる。久しく聞かなかった山の歌だ。「山よさよならご機嫌良ろしゅう、又来る時にも笑っておくれ~」
 樹間の空は益々青く、今は全景を表した八ヶ岳がくっきりと空を区切って居る。
 私も歌い乍ら下って行く。山よさよならご機嫌良ろしゅう、又来る時にも笑っておくれ。

 18:30帰宅。

いやー我乍ら青いなあ。冷や汗を掻いちまった(恥)。万が一我慢して読んでくれた方が居れば、お付き合い頂き深く感謝します。

2009年10月2日金曜日

閑話 その三十二

 やがて本文でも触れる、カメラと間違えて双眼鏡を持って行って仕舞った金峰山の記録が出て来た。昭和五十八年一月だ。自分の三十代の文章が懐かしく、迷惑千万とは心得て居るが、図々しくも載せて仕舞うのだ。しかもカメラを忘れた話なので写真も無しです。

一月十四日(木) 快晴
 7:20カローラで家を後にする。談合坂でフイルムを購入、カメラにセットしようとして思わず、あ!と叫んだ。カメラでなくニコンの双眼鏡で有った。
 写真を撮る為に行く訳では無い!
 諦めて笹子隧道を抜けると、圧巻、甲府盆地の彼方、左に南アルプス、中央に八ヶ岳、右に金峰山が、午前の陽を受け白く眩い!
 瞬時に気が触れた。カメラ、カメラ、そうだ買おう。中古でも玩具でも良い。……でも金が無い。そうだ、借りよう。
 甲府駅に走り込み探すが無い。クソ、地方都市!カメラ屋に訊く。「あのー、貸し出しカメラは有りますか?」有る筈無い。諦める。
“林道”
 増富鉱泉から先は薄っすらと雪道、詰め上げがアイスバーン、制動が利かず滑り込んでミズガキ山荘下に到着、車を捨てショートスパッツを着け、いなり寿司を食べて出発。
“山道”
 樹間の空は飽く迄青い、目に沁みる程青い。足元は悪く、氷を雪が隠し、ともすると足を取られる。下りは一層危ないなと、帰りの心配迄する。
“ツェルト”
 ポンチョをシートにし、ツェルトをぶら下げる。ポンチョはバリバリ凍る。寒さは西穂と比べると余程緩い。
  此のツェルトは冬用で通気性良好、炊事をしても凍結しない。もう一つのツェルトなら氷の花が一面に開くだろう。併し底面を留め無いので、風が来ると何時煽り上げられるかと気が気では無い。
“風の音”
 シェラフの中で聞く風の音、ヒューでも無い、ゴーでも無い。そうだ、ドドドド、滝の音。眠れぬ侭耳を澄ますと、遥か下からドドドドド、頭上を越えて遠くへ走り去る音。其の度にツェルトは大きく揺らぐ。満天の星で有る。

一月十五日(土) 快晴
”トレース“
 昨日すれ違った登山者の足跡が点々と続く。喘ぎ喘ぎ其れを辿る。森林限界を超えると足跡は風で消され、古いトレースが溝となって続く。高度を稼ぐと其の溝も吹き消され一面の新雪の稜線だ。自分のトレースを刻み付けて行く。五丈手前では膝迄のラッセル、雪煙を立て乍ら行く。
 此れが此の連休初めてのトレースだ。俺が最初のルートを付け、やがて登って来る人間は俺の足跡を辿るのだ。次の雪が来る迄は、新雪は俺のものだ。
 (長くなったので、続きます)

2009年10月1日木曜日

新婚旅行とキリギリス その四

FH000036

 

 上等だ、それでは温泉泊まりにしようと、下山にかかった。途中で日は暮れライト便りだ。若い者揃いなので足は速い、難なく西丹沢の駐車場の、私の(勤務先の)車に着いた。処がキーが無い。そこらじゅう探り、終いにはシェラフ迄広げて探したが無い。キーは失くしたと決まった。困った、どうしよう?何処まで私はドジなんだ……。
 何故だかBが針金を探せと言う。皆一斉に散って探す。その間にBは汚いタオルを川に浸し、車の窓ガラスに貼り付けた。タオルは見る見る凍りついた。Bはそのタオルに手をかけ、窓を引き下ろす。何と、少し隙間が開いた。うーん、凄い!
 Bはガレ沢を下るのは下手だが、変な知恵がある。北海道生まれは流石だ。都会人でスマート(対B比)な私なぞ、こんな時は全く無力である。
 Bはその隙間から、一人が見つけて来た針金(山の中にも有るものですなあ)を突っ込み、ロックを外した。そしてその針金でエンジンを起動させたのだ。Bよ、偉いぞ!立派な自動車泥棒になれる。尤も今時の車では無理だから、クラシックカー専門ですな。
 息をつくエンジンを騙し騙し走らせ、中川温泉へ到着。又もや一同は一斉に散る。今夜の宿の交渉である。やるもので、一人が交渉成立、安く泊めて貰えた。宿の台所を借りて、持参の即席ラーメンを作って食べたが、飛んでも無く空腹だったので、どりゃー美味しくて、未だに最高に美味しいラーメンだったのだ。河鹿荘だったと記憶があるのですが、その節はお世話になりました。
 中川温泉の何が良いって、何も無いのが、最高に良いのだ。何かが有るというのは、その他は無いという事だから、何も無いというのは、何でも有るという訳です。だって、有るものが無いんだから。
 ?????
 説明が下手で済みません。
 どうせ河鹿荘の名前を出しちゃったんだからかまわないだろう、信玄館(ツルツルの石棚山を下って泊まったのです)にはその後も何度か妻と行ったが、一押しの宿だと二人の意見は一致している。前述の通り何も無く唯々緑、内風呂一面のガラスが緑に染まり、お湯迄緑を写すのだ。秋なら黄葉、そして山と川のみ。テレビは有るのだが隠して置いてある。売りは静けさと手の掛かった創作料理。決して宣伝じゃないですよ、一銭も貰ってませんからね。
 言う迄もなく他の宿も同じ環境なので、兎に角静寂。どの宿に泊まろうと、川のせせらぎと鳥の声を楽しんで下さい。川原に鹿が遊びに来ます。
 勿論今はバスが行くから、神縄から延々と歩かずに済むし、でも、三円五十銭では泊まれないとは思います。山の帰りにゆっくりと湯につかり、静かな夜を過ごすには持って来いで、絶対お薦めの温泉ですよ。