2009年10月8日木曜日

休題 その二十四

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 幾つか前の休題で、感性がどうのとか、如何にも自分の感性が良い様に書き殴って居たが、お分かりの通りの酔っ払いの大言壮語で、今は大して酔って無いので、とてもじゃ無いが、そんな大口は叩けません。
 戦争と平和を読んだのは三十八年前。岩波文庫で八冊だった。何で分かるかってえと、当時は本に買った日付を記入して居たから。
 最近読み直した、そう、三十八年振りに。五冊目に入って、辛抱出来ず読むのを止めた。何で?詰まらないから!
 あたしを責める前に聞いて欲しいのだが、若い時は物凄く感動し、読み終えても其の世界から離れ難くて、即買って来たアンナカレーニナを読み始めた。作者が同じだからだ。
 齢(よわい)を重ねるとは、何かを捨てて何かを背負い込む事なのだろうか。感覚も鑢に掛けて磨耗させるのだろうか。
 あたしゃあ違うね!と豪語したい処なんだが、戦争と平和の件は相当に我ながらショックで、目が霞む様に感性も(若し有ればだが)霞むのかなあ。だって、本は片っ端から捨てて来たのに、戦争と平和は後生大事に取って置いたのだから。
 若い頃は震える程感動し、今じゃ詰らなくて本を置く。鈍ったって事なんだろう。あー、認めたく無い!
 思い起こせば小説を読まなく(読めなく)なったのは、四十台半ばからだ。其れからはドキュメンタリーしか駄目になっちまって、或る日次女が嘆いた。
「家に有る本は人が死ぬ、どんどん死ぬ本ばかりだよ」
 確かだ。人が生きるとは、死ぬ事がゴールで有り、思いがけず人生半ば(と本人は思って居ても)にゴールを迎える事も有る訳で、そんな局面で如何に生き或いは死を迎えるか、あたしはそう言う見方になって仕舞ったので、人の死ぬ本ばかりになったのだ。あたしに言わせれば、人の生きる本って事です。
 で、小説の奥深い洞察や心理の彩が面倒臭くなり、長らく離れて居たのだが、新聞で太宰治のコラムを読み、記述者が御伽草子を太宰の傑作、と褒めて居たので、お、あたしと同意見だ!と喜んで、これも何十年ぶりかに読み返したら昔どおりに偉く面白かったのだ。
 それで続けて戦争と平和を手にした訳だ。て事は好みがはっきりして来たって事で、好みで無ければ拒否する老化現象なのだろう。
 考えて見れば無理からぬ話で、残り時間はどう見ても今迄生きて来た時間より遥かに短いのだから、無意識の裡に余分と思われる物は切り捨てて居るのだ。
 齢を重ねるとは、矢張り何かを捨てて何か(ま、遣り残した事)を背負い込む事なのだ。若い時は何でも吸収する時期だったのだろう。
 そして今、ゴールへ向かって、着実に歩いて行きいものだと思って居るのです。

2 件のコメント:

DOGLOVER AKIKO さんのコメント...

そうですね。全く同感です。好き嫌いがはっきりしてきて 良いものは良い、嫌なものは嫌、何といわれても嫌ですね。自分の気持ちに素直に、他人におもねることなく 好きなことばっかりをやって行きましょう!!! でも「戦争と平和」を5巻まで読まれた、、って すごいですよ。まねできない、、。したくもない、、、。

kenzaburou さんのコメント...

同感頂き恐縮です。
還暦を過ぎれば、己の欲するところに従い則を越えず、って境地にやや近づいたのかも知れません。いや、そうでもないかなあ。