2019年2月28日木曜日

休題 その二百四十六



 今年のアカデミー賞で一番注目されたのは、ネットフリックス作品「ローマ」が監督賞と撮影賞を受賞した事だろう。外国映画賞も取っているが、これはどうでも良い。
 この愚ログに来て下さる極めて少数の方は御存じだろうが、一応説明すると、「ローマ」はネット配信の作品で映画館では上映されていない。受賞後は上映館もあるようだけどもね。
 史上初のネット作品受賞なのだ。世の中は急激に変わりつつあるのですなあ。
 全編メキシコ語で白黒映画である。これだけでも今迄のアカデミー賞なら致命的なハンデだろう。それを乗り越えるだけの力がこの映画にはあるのだ。
 決してあたし好みの作品ではない。何せあたしはB級映画好きなんだから。ぐいぐい引っ張りハラハラドキドキさせるのではない。この監督は二度目の監督賞だが、一度目は「ゼログラビティイ」である。見事な程に全く作風が異なっているのだ。ひょっとすると大巨匠になるかも知れない。
 長回しが多く、遠く引いたシーンが多い。挿入される静画面が効いている。丸で昔の日本映画を観ているかの思いを持った。引いた画面の為、色々な情景が同時に写しこまれる。情報量が多いのだ。
 なかなか動き出さない。尤も、動きと言う動きはないのだけど。ハリウッドの大活劇に慣らされたあたしの完成の劣化でしょうな。その独特のテンポが白黒に似合っているのだ。
 未だ見てない人が多いだろうから、ネタバレを避けて内容には触れない。 監督賞は文句なく頷ける。煩い説明はしないで分からせる。無駄とも思えるショットの積み重ねで世界を造っていく。
 同じく撮影賞も文句なしだ。ストーリーを追う映画では絶対に有り得ない撮影だ。それがネット配信の強みなのだろう。今大当たりしなくても良いのだから。
 決して観て損する映画ではありません。あたし好みじゃないけど(くどい?)。

2019年2月25日月曜日

休題 その二百四十五



 人の名前や地名、単語が出て来なくて、ほらあれとかあの人とか、あれそれの会話が多くなるのは、同年代の方なら当然覚えがある事だろう。翌日になると突然思い出したりするのも、御同様だと思われる。
 それは良くあるだろうし、単なる加齢に依る症状なので問題はない。二年程前にあった馬鹿げた経験はそれとは一寸と異質だった。巻きずしを買う事になって、干瓢巻きも必要だと言おうとしても言えなかったのだ。
私「かんぽー巻きもいるね」
妻「かんぽーってなあに?」
私「間違った、きゃんぽーだ」
妻「それも違うでしょうw」
私「あれ、何で言えないんだ、きゃんぽー」
妻「wかんぽーよ、あれ、変だw」
私「w自分も言えないじゃないかw」
妻「wあなたが変な事言うから分からなくなっちゃったのよw」
 と暫く二人で、きゃんぽーだかんぽーだと言い合ってはいるが、どうしてもかんぴょうとは言えないで、笑って笑って、しまいには腹が痛くなる騒ぎだ。
 馬鹿馬鹿しい話ですなあ。一度変に刷りこまれると、もう駄目って話です。結局翌日迄正確に発声できなかったのだから、二人とも立派にボケ寸前ってこってす。
 今の処生活に支障はきたさないが、何時なんどき訳の分からない事を言い出さないとも限らないので、時限爆弾を抱えている様なもんです、きっと。
 その様に段々歳を取って行くから丁度良いので、ある日急に始まったら、偉いショックでしょうね。気をつけなくっちゃ。と言っても、気を付けようもないのだけどw

2019年2月22日金曜日

閑話 その二百七十六


 頂上から分岐点に戻ると、其処からが下りである。次女は下りが苦手で、怖がって小刻みに下る。「そんな歩き方するんじゃない」とあたしに言われてもそうなってしまう。
 一方妻は下りは割と得意なのだ。とっとと下って行く。登りもそうなら良いんだけども、そうはいかないのが困ったものだ。
 あたしは次女に付き合ってゆっくり下る。一寸と急だと次女は尻をついてズリズリと下る。ダメだこりゃあ、であるのだ。
 急な下りを終えて見ると妻は大分先を行っている。そのうち登りになると我々が追い付く。下りになると又先行する。それを繰り返すのですなあ。
 急な下りの途中で柴犬を連れたおじさんと擦れ違った。これで三度会っている。聖峰から登って急坂を下り、又登り返して戻るのだ。犬の散歩にしてはやけにハードだ。犬も飼い主も丈夫になる事疑いなしである。
 若いパーティとも擦れ違うし、八十位の女性とも擦れ違う。次女も「あの年で凄い」と感心しているが、このコースの良い処は、ほぼ誰でも(勿論無理な人もいるだろうけど)歩けるという事なのだ。
 弘法稜線に合流して小さなピークで昼食にした。道の左右に座ってお握りなぞを食べるのだ。通る人は、変な奴等だ、と思った事だろう。そんなこたあ良いのさ、山ん中なんだからね。
 そして目出度くも弘法の里湯に着いて入浴とあいなった。何時もならシャツはビショビショに濡れて脱ぐにも苦労するのだが、乾いている。随分楽をさせて貰った訳だ。登りは妻が遅れ、下りは次女が遅れるのだから、常にゆっくりってこってす。
 風呂上りにハイボールを飲む。何時もの通りだ。妻と次女は二人で一個の缶ビールを飲んでいる。予定では町田で夕飯の筈だったが、サンドイッチなぞ買い込んで帰宅したのです。次女が仕事を辞め有給消化の休みで、我が家に泊まりに来た日の事でした。

2019年2月19日火曜日

閑話 その二百七十五



 妻は極たまに弘法山から鶴巻温泉迄一人で出掛ける。背中や腰が痛いのが病なのだが、そのルートでは軽すぎるから少なくとも高取山から鶴巻にしたらどうか、とはしょっちゅう言っていた。でも行き方が分からないと仰る
 では一度一緒に行って覚えて貰う事にしよう。前にも一度行ってはいるのだが、あたしについて歩いたので覚えていないのだろう。次女も一緒に来る事になり、三人で今月七日に出掛けたのだ。
 気温が高くなる日で、まあ良い天気ではあ るが霞っぽい。伊勢原の大山行のバス停は珍しくも数人しか並んでいない。
 八時四十分の栗原行きのバスに乗る。乗るのは簡単だが降りるのが難しい。自由乗降区間なので、この看板を過ぎたら運転手に声を掛けて三叉路で下して貰う、と説明する。
 其処からは道標を見落とさず、確認しつつ進むのだと言い聞かせる。妻はいつもよっかずーっと張り切っている。次女が一緒だからだろう。
 聖峰への九十九曲がりに取り付く。次女は若さである。軽く登って行く。妻も負けじと頑張りはするが、差は開いて行く。それでも聖峰にご到着だ。霞の為に見渡せないのは仕方ないと言うべきだろう。写真は聖峰の不動尊、妻と次女である。
 此処からが登りの本番である。階段に掛かると妻はたまに立ち止まって息をつく。次女は先を行く。結構厳しい登りで有るので当然だろう。
 稜線に出て、右へ最後の登りに掛かる。あたしは9Kgもないしゆっくりなので殆ど汗もかかない。こんなに簡単だっかなあ、と思う程容易に高取に着いた。
 大山も見事に見える。三人で休んでいると、トレイルの若者が五人登って来た。「大山へ行くの」と聞くとそうだと言う。妻は「元気で良いわ」と感心している。次女は「山を走るんだ」と驚いている。(続)

2019年2月16日土曜日

閑話 その二百七十四



 この日は一時間も下れば大倉バス停だかららのんびりと朝飯、のんびりと撤収する。天気は上々、八時に出発となる。
 登山道に出るとポツポツと登山者が来る。「どちらから」と聞かれると困るなあと思っていたが、幸いその質問はなかった。
 堀山から下るのは楽なのだ。とっとと見晴らし茶屋に着く。前は檜が育って見晴らしが全く無かったので、見晴らせない茶屋と呼んでいたが、数年前に十本以上も檜を伐採したので、今は名前の通りの見晴らし茶屋になった。トイレも新しくなったので、何時でも誰かが小屋前で休んでいる。
 そこから一寸との三叉路で小休止する。直進すれば大倉高原山の家があったのだが、今は営業を止めてしまっている。
 我々は左へ下って行く。大倉へは微妙に近道なのだ。観音茶屋を越せばもう程無く大倉に着く。大倉部落の舗装道路に入ると、海迄見渡せる。標高200mあるのだから当然なのだ。住めば良い所だろうと思う。買い物には大分不便だろうけどね。
 バス停に着くとバスが待っていたが、一本遅らせる。Yが自然に呼ばれたからだ。ついでに登山靴も洗えるし。大倉には靴を洗う設備がある。今回は殆ど汚れなかったが、霜解けや雪解けの時は泥塗れになる。その靴でバスに乗り込まれたらひどい事になるからだ。
 三十分後のバスに乗り、小田急は鶴巻温泉で途中下車、里湯へ寄る。平日なのに人が多い。風呂上りに二階の食堂へ行くが、テーブル席も畳の席も満員である。仕方なく端っこの椅子に座る有様だ。でも良いのさ、新年山行で散々飲んだ帰りなんだから。
 残念なのは鶴寿庵の廃業に依って蕎麦ピザが無くなった事だ。お蔭でまともな食べ物が殆ど無くなっちまったぜ。
 かくして平成三十年の忘年山行の代わりの新年山行は無事に終わったのでした。