2015年6月28日日曜日

遭難今昔 その二




 私が二十二の頃だっただろうか。零細山岳会仲間のIが言う。
I「大塚、岩のゲレンデへ行こう」
私「え、岩登りか」
I「あのなあ、初心者向けだよ」
私「俺は、岩はなあ……」
I「(笑)大丈夫だよ、行こうぜ」
 行きました、奥多摩のどっかへ。凄くラフな服装で。靴だけは確りしてたけど。取り付いたら大変だった、偉く大変だった。
 軽いハングが有る。Iはハーケンを打ち、アブミを掛け、其れを登って行き声を掛ける。
I「良し、来い!」
 右上にぶら下がって居るアブミ(縄梯子の現代版)に、乗り移れない。ブラブラして不安定なのだ。必死に取り縋り、やっと登る。登ったら、ホールド、スタンスを確定して、アブミを外さねければならない。此れがやけに難しいの、高所恐怖症には。笑って下さい。
 高価なアブミを置き捨てる訳にはいかないので、必死の思いで外したけれど、思えばIが確り確保して居てくれたのだ。だから出来たのだ。
 其れから攀って居て、ずるっと落ちた。勿論ザイルが体を支えてくれた。さもなきゃあ、こんな能天気を書いては居られない。ジウワンラ(即完了)で有る。
I「大塚、落ちたか」
私「落ちた」
 衝撃が有ったのだろう。良くぞ支えてくれた。”山の報告 モチハギ沢”の、Yが滑って確保して居た私の腰が浮いた時と、同じ状況だ。違いは、Iは確りハーケンを打ち込んで、自分をも確保して居た事だろう。
 あとは岩を攀って、直ぐに稜線に着けた。下降はザイルを使って同じ場所の下降だ。其の場で簡単なレクチャーを受ける。今ならハーネスを着ければ済むが、当時はザイルに跨り、肩に回して下に垂らし、両手でザイルを送って下るのだ。
 (遭難今昔 その三へ続く)

2015年6月25日木曜日

閑話 その百六十二




 平成四年の夏山は日光だった。一寸と変わり種なので見てみたい。
 八月十一日夜の東武線で日光に行き、駅前で仮眠した、小雨、と有る。さて、何処で寝たのだろう?小雨だからロータリーではない。駅の軒先かな。
 翌朝(多分)始発のバスで二荒山下車。体調が良くないと書いて有る。当時四十五歳だ、体調不良だって有ったのだろう。
 此の日の行程は七時間だが、大事を取って男体山をゆっくり行く。風で寒い。此の記述で思い出した。キスリングを背に、ゆっくり登った。行けども行けども景色は変わらない。段々中禅寺湖が遠くなるだけだ。
 前後した中年のパーティから声を掛けられた。「旦那さん、冬山訓練ですか」私の方が若いんだから旦那さんはないと思うが、大きなキスリングとゆっくりな足取りで、冬山訓練と思えたのだろう。
 志津小屋に向かって下り始めると雨。高山植物花盛り。まあ、悪天候だと花しか見る物は無いんですなあ。
 志津小屋(避難小屋)は綺麗な新しい小屋。水場が目の前なのが嬉しい、と有る。勿論雨の中に来る物好きは無く、私の独り占めだ。
 翌朝も雨。縦走を諦めかけたが、道標を見たら自然と女峰へ向かっていた、と有る。今ならトットと降りて温泉にビールだろう。矢張り若さだ。
 思えば此の年の夏は何と無く不調で、南北中央アルプスの自信が無かった。其処で日光連山縦走を思い立ったのだ。マイナーなコースをやる絶好の(?)機会だ。それに、一度はやって見たいコースだったのだ。
 実際は地図を見ても分かる通り、中禅寺湖から霧降高原迄、男体山を越え(此れだけでも重荷だと大変)、女峰に掛かるとアップダウンの連続で、きつさはアルプスと変わりは無い。整備が悪い(当時)分だけ、辛いかも。
 併し、奥日光の縦走には夢を感じさせる何かが有るってこってしょう。私にはね。(続)

2015年6月22日月曜日

遭難今昔 その一




 昔々の遭難は両極端だった、と記憶して居る。勿論、例外は大有りだろうけど。遭難の章なのだが、面白半分に書くのでは無い。最近の遭難に、昔風のものが散見されるからだ。
 何を以って両極端と言うか。一つは、確りしたパーティが、難度の高いアタックに敗れる、と言うもの。一つは、雑なパーティが気象遭難を起こすもの。
 雑なパーティとはひどい言い方だが、説明すれば、リーダーの完全統率下には無く、何か変事が出来すれば即バラバラになって仕舞うものを指す。
 確りしたパーティの気象遭難は、本当の大昔には有った。装備が劣悪(比現在)な上、気象情報はほぼ無かったからだ。
 私の子供の頃ともなれば、其の様なパーティの遭難は、岩稜登攀か厳冬期に限られた。特に、岩稜登攀の事故が多かった。前述の谷川岳のコップ状岩が、其の代表だろう。
 自ら進んで困難な岩稜に挑み、敗れて命を落とす。親ならずとも、何で山へ行く?と思うのは当然だろう。でも、命懸けでもやりたかったのだから、仕方が無い。
 家族や所属山岳会、そして無関係の救助隊に、多大な迷惑を掛けるのは言う迄も無い。下手すると二重遭難となる。救助する方としても、息の有る遭難者は、命懸けで助けるが、
遺体は物として扱う(と聞いた)。死人を運ぶ為に自分が死ぬ訳にはいかないのだ。
 辛い真実で有る。遺族には耐え難いだろう。でも、そうしなければ、更に遺族を増やすかも知れないのだ。
 此の手の遭難は、現在はほぼ無い。装備、技術、情報、全て昔とは雲泥の差が有る。少々のオーバーハングなんざ何でも無い。凄い時代になったもんだ。
 (遭難今昔 その二へ続く)

2015年6月18日木曜日

休題 その百四十七




 退院する時、医師に聞いた。「お酒はビール一杯位なら良いですか」。答えは「血行が良くなるので、少しなら良いです」。
 さて、其の少しが問題だ。あたしはビールを飲む習慣は無い。山と温泉に行った時は別だ。ビール命さ。でも普段は焼酎派なのだ。
 ビール一杯を焼酎に直すと、コップ二分目になっちまう。それじゃああんまりでねえだかよ(涙)。
 ビール一杯位と聞いたのは、御愛想だ。少しなら良いです、の返事を引き出したかった
だけだ。世に言う処の戦術で有る。少しって、正確な量を表してないので、勝手に設定できるじゃないですか、へっへっへ(悪い奴)。
 何に対する戦術? 妻だ。やっと退院したあたしは、妻の厳重な監視下に置かれたのだ。勿論あたしの身を思ってとだとは、重々承知してるんだけど、酒を飲みたいなぞと言おうものなら、大騒動になるのが目に見えている。
 従って医者の、少しなら、の発言が必要だったのだ。少しなら血行を良くするから良いんだってさと、妻の監視下、少しずつ飲み始めた。
 しかし、良くしたもので少ししか飲めない。少々飲めば、もう飲めない。体が知っているのだ。感心する程体は正直だ。そんなもんだろうなあ、と思うばかりだった。
 でも、日数がたてば飲める様になる。それだけ回復した訳だ。妻は監視を緩めない。そりゃそうだろう。お葬式寸前になってから僅か一月半なのだから。
 お蔭様で、今は手術前の七掛け位は、どうにか飲める様になった。それでも妻は、飲み過ぎだ、と心配する。大丈夫だと言っても聞かない。
 程々にするから、そう心配しなさんな、子供じゃないんだから。え、駄目? 確かに自覚は有ります。気を付けます……。