2017年3月29日水曜日

どこに来た その二




 春には盛りが付くと言うのは、若い頃だけだった。盛りが付くとは誤解を招く表現だから説明しよう。既述だった筈だ。
私の場合だが、何だかじっとして居れなくなって、何だか分からないものを探して動き回りたくなり、且つ、其の状態を抑えられない。其れを、盛りが付いたと表現するのだ。
 結構辛いものが有った。じっとして居る自分が許せないのだ。何かをしなければいけない、と強烈に思うのだ。で、どうすんの?の世界だから、盛りが付くと堪んなかった。
 今は、春が来たって何の変化も有りゃせん。あー、桜が咲いたなあ、とぼんやり見て居るだけの事だ。盛りも付かん、情けんなかあじじいったい(涙)。
 早春の山を行くのは、中々気分が良いものだ。景色は未だ冬枯れだが(私が気付かないだけ?)、春の訪れを体で感じられるのだが、欠点も有る。どうしても景色がシャープでは無い。詰まり、春霞で有る。山々はボヤーっと霞み、カメラを向ける気も起きない。
 其の点で言えば、上越の春山は恵まれて居る。雪が熱を吸収して、霞が掛かるのを遅らせる。山では寝坊はしないから、シャープな景色は、或る程度期待出来る訳だ。
 朝、テントから顔を出して、「うっほー!」と叫べる時は、ラッキーを絵に描いた様な時なのだ(涎)。白い山々が並んで御座る。大慌てで、食事もそこそこに出発の準備をするのだ。
ま、そうで無い事も結構多いんだけどね。春は定期的に天気が変わるのが、常の事なのだ。従って、悪天候も多い訳だ。
 朝からビシャビシャと雨だったりすると、凄く嬉しい(涙)。シトシトでも同じこった。勿論、降雪でもだ。すると動作が凄くのろくなる。だって、急いでも良い事なんざ何も無いんだもん。

2017年3月26日日曜日

柄でも無い事 その六十一




 ライト付きのボールペンを貰ってから一月程で又もや梵天荘で入浴した。例に依って光が差し込む湯船は素晴らしい。梵天荘の欠点は、里湯の様にちょいと飲んだり食べたり出来ない事だ。
 従ってコンビニに寄ってチューハイを買い、店先でクーッと飲む。ついでに一服つけるのだ。うーん、登山者と言うより浮浪者に近いけど、あたしのこったからそんなもんさ。そしていそいそと箱根蕎麦へ入るのだ。
 鶴巻温泉駅前は驚く程閑散としてなーんにも無い。本当になーんにも無い。歩いている人もまばらだ。こんなに寂しい駅前は、小田急でも外に一つ有るか二つ有るかだろう。
 コンビニが一件有るが飲食店は無い。路地の先に温泉地らしくスナックやカレー屋がちょっとだけ有るが、其処は駅前では無い。
 改札の横に有る箱根蕎麦が、唯一の飲食店と言う訳なのだ。その為だろうが、何時でも客が居る。客が居るのが不思議な環境なのだが、客が入って来る。
 ラーメン屋とか牛ドン屋とかファーストフード店でも出来たら、箱根蕎麦は経営困難になるかも知れない。それ程人気(ひとけ)が無い町なのだ。
 どうしてなんだろう? 二十数件も温泉宿が有った町だ、今は四件だけどね。もっと賑わって居て当然じゃないのけえ?
 マンションやリハビリ病院や介護施設のビルは立ち並んで居る。住民はそこそこの人数は有るかと思われる。それなのに何も無いし、人も殆ど歩いて無い。
 こんな事書いてるようじゃ“柄でも無い事”ではなく“どうでも良い事“ですなあ。題名を変えるとしよう。 嘘ですよーん。
 鶴巻温泉駅の箱根蕎麦で何度か蕎麦を食べて、こんな閑散とした所で何で客が次々と来るんだろう、と不思議に思っただけの話で、失礼をば致しましたです。

2017年3月22日水曜日

どこに来た その一




 朝の光 山に満ち 春よ春よ 山の春よ と合唱組曲「蔵王」の終曲「早春」は歌い出す。素晴らしい春の訪れを歌い上げる。春が来た。嫌でも心が浮き立つは、どなたも同じ思いじゃないのかな。
 蔵王の春は勿論、雪国やアルプスの春は雪解けと共にドラマチックに訪れるのだろうが、丹沢の春は秋と同じく、ひっそりと訪れる。気がつかなければそのまま 何時までも何時までも じっとしていそうに なのだ。
 木の芽が膨らむだろうが、私が様ながさつ者は気付かない。駄目ですなあ、感性が鈍い奴は。「風は既に春だ」迄はどうにか分かるんだけどね。其れも分からなければ、昆虫以下ってこってす。
 そんながさつ者でも、三つ葉ツツジが咲き出せば、春が来たと実感出来る。 うーん、遅いですなあ。其れで分からなければ丸で馬鹿だ。確かに未だ木の芽は吹かないけど、つくしやカタクリはとっくに顔を出して居る筈だ。気付けよ! はい。
 そう、冬景色(雪ではなくて木々の有り様)の中に鮮やかな三つ葉ツツジ、此れこそ丹沢の春を象徴して居るのだ。沢の中に居ると、特に実感出来るのかも知れない。沢は芽吹きが遅いので、三つ葉ツツジが特に目立つ。
 上の写真はそうじゃ無くてすまんこってす。
 春が来ると、もうアイゼンもスパッツも要らない。其れはとても嬉しい。四月に雪が降る事も有るが、数日で消えるが常だ。尤も、蛭や檜洞丸では、残雪が有ったり無かったり、油断がならないのは当然だ。
 何度も書いた蛭から檜洞丸への下り。四月でも残雪が凍り付いて居ると思って置いた方が宜しい。慎重に下らないと痛い思いをする。痛い思いで済めばラッキーだ。雪が残って居なければ、もっとラッキーだ。
 四月ともなれば、麓は花盛り。何でも有りの豪華さだが、稜線はやっと芽吹き始めるかなあ、の世界だ。バイケイソは顔を出す。でも、春が来たと体は実感する。刺す様な寒さなんざ、もう無いんだ!

2017年3月19日日曜日

休題 その百八十九




 シーズン6で取り敢えずDVDは終わった。絶体絶命の状況である。新シリーズをお楽しみに、と言う訳だ。
 幾つものコミュニティから食料や性格物資を上納させている集団に、それも予想を超えた大きな組織にまとめて捕えられたのだ。
 此れは当然有り得る事で、収穫を差し出せば保護下に置こうと言う例だろう。唯、戦国乱世との違いは、マフィアのやり方に近く、逆らう者には容赦が無い。日本の場合は隷属的協力関係、アメリカの場合は一方的絶対支配関係かと思われる。如何にも欧米らしい。
 戦国乱世の例を引いたが、実際は地球的規模の災害と見るべきだろう。夫々が己の領土を拡張する戦いではなく、ひどい災害の中で生きて行く話の筈だ。
 外の人間の集団は、先ず敵だと疑って掛からなければならないのは、悲しい事実だ。現実はそういうものであって、日本という国自体が平和ボケなのだから仕方ない。
 それでも日本が同じ事態に陥ったら、結構生き残り同士が協力し、上手くやって行くだろうと確信を持てる。あたしが確信を持っても意味ない事は承知の上でだ。
 関西淡路でも東北でも、被災地の人々の振る舞いは世界中から絶賛された。我々としては、何故感心されるかが不思議だ。
 詰まり外国だったら被災地は無法状態になって、略奪や場合に依ったら強盗なぞが当たり前の世界になる、って事だろう。殺人強盗集団が、即生まれるのかも知れない。
 日本は地震、津波、台風等の天災にしょっちゅう痛めつけられ、如何に協力し合って立ち直るかと言うすべを、DNAレベルで心得ているのかも知れない。
 これは良い事には違いないが、対外国に対して余りに無防備と言う負の面も持つ。其の性質に輪を掛けてくれたのがGHQですなあ。
 次のシーズンが楽しみな、ダメなあたし。

2017年3月15日水曜日

休題 その百八十八




 日本刀を背負った謎の黒人女性が出て来る。最初は殆ど口をきかなかったから、謎の存在だったのだ。やけに長い刀で、佐々木小次郎の物干し竿と言うところだ。
 柄は右肩から出て居る。これじゃ絶対に抜けないじゃんかさあ、と見て居たらラフに担いで居て、ズラして抜けた。此れならOKだ。時代劇の刀なの背負い方は間違っていて、柄は左肩から出て居なければ抜けない。
 但し、彼女の背負い方では抜き打ちは出来ないが、そんな設定は無いので宜しかろう。長い刀を振り回すのは威力抜群である。
 剣道の様な面への押切も行う。実は、此れを繰り返すのが一番速いし確実な筈だ。上段に構えて片端から面を撃つ。最も無駄が無い攻撃方法だ。
 多くの人間はナイフをゾンビの額、もしくは頭頂へ突き刺す。此れは相手に相当接近しなければならないので、偉く危険性が増す。何せ引っ掛かれてはいけないのだから。
 製作者の中に、多少剣道を知って居る人間が加わって居るのかも知れない。もっと面撃ちを多用すべきかと思うのだが、スリルが減るので敢えて避けて居るのかもだね。
 やっと、一人の科学に強い男が、弾を造ろうと言い出した。当然の発想である。調達してはぶっ放してたら、直ぐに弾切れになる。
 日本で一番手に入り易いのはパチンコの玉だろうか。鉄パイプを加工して手製銃を造るのは可能だろう。火薬は黒色火薬か、肥料を元にした簡易爆発物で良かろう。化学科出身の人間には容易い筈だ。あたしは化学は全くダメなんでパス。
 此れは対ゾンビより、万が一の対殺人強盗集団への為だ。谷奥のコミュニティは外のコミュニティを探して連携を図る筈だ。襲って物資を奪うより、協力し合う方が遥かに安全で効率が良い。アメリカの様に疑い警戒ばかりってえのは無いだろう。続きます。