2009年9月26日土曜日

閑話番外 その十

 此の愚ログの構成を変えるのだが、殆ど人が来てくれないのに面倒な事をやる自分に呆れる。きっと、万が一見て居る人はもっと呆れるのだろう。
 でも、すっきりさせたいので、説明しましょう。
 山の無駄話の閑話から、つい最近行った山の話を「山の報告です」として別タイトルにし、「閑話番外」は其の侭とする。
 どうでも良い話の休題から、身にそぐわない焼き物等の事を「柄でも無い事」と纏め、分かった様な分かんない様な小難しい事は「クソ(失礼)面倒な話」とする。他は休題の侭。あたし的には、「クソ面倒な話」が好きなんだが、受けないのが残念。
 すっきりするでしょう?え、同じだって、そうねえ、どっちにしろすっきりしてない愚ログなんだから……。
  一寸と更新に時間を頂きます。(ペコリ)

2009年9月25日金曜日

新婚旅行とキリギリス その三

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 妻はやっと下る。手を貸すが、転ぶ。私も足元が危うい。従って、付きっ切りになれず、目を放すと妻は転ぶ。石棚からの急な路が凍っているのだから、至極当然だ。しまいには妻は尻をついて、ズリズリ下った。立つと転ぶのだから。
私「もうじきだよ、頑張って」
妻「さっきもその前も、もうじきだって言ったわよ」
私「今度は本当に、もうじきだよ」
妻「もう嫌、こんなの!」
 夕暮れ近くなって、やっと中川温泉に着いたのだ。多分妻には、地獄の二日間だったのだろう。とことん気の毒である。でも温泉は天国だったので、苦しい思いがあればこそ素晴らしい思いもあるという事なのだ。え、私が言っちゃあ駄目?まあね、余分な苦しい思いをさせた犯人だし……。
 処で箒沢山荘が今の地図に無い。箒沢荘と名前が変わり、マークも宿泊施設に変わった。山荘時代に友人達(古い朋友達、前述の烏仲間のKJ、EM、TKである)と泊まって、桧洞丸へ登った事がある。
 箒沢山荘の部屋にキリギリスがいたのだ。飼っているのではなく、勝手に外から入って来た奴だ。我々がウトウトとすると、其のキリギリスが鳴く(っていうの?)。スイーッチョッ!!!目の前が真っ白になって目が覚める。又ウトウトとする。キリギリスが鳴くスイーッチョッ!!!目の前が真っ白になって目が覚める。
 それを何度も繰り返した。キリギリスを追い出せば済むのだが、眠くて寝てしまうのだ。キリギリスの声は、間近だと強烈な破壊力を持つと、思い知った。是非一度キリギリスを購入してお試し下さい。
  実は試すだけ野暮ってもんで、小さな一匹(で良かったっけ?)の蝉の声(?)が町内一杯に響き渡る。キリギリスも同じって事。
 この朋友達は決して山好きな訳ではないのと私は思っているのだが、古いアルバムを見ると、何度も私に丹沢へ連れ込まれている。今思うと気の毒でしたね~♪尤も、何度も一緒に来たのだから、ひょっとすると山好きだったのかな?
 ANと、其の連れ合いのNBは一回も参加していない。この二人は(当時はメタボでもなかったのに)山なんか飛んでもないという罰当たり(?)なので、当然至極。って事はやって来た諸君は、矢張り山好きだったんだと納得して、安心したのだ。
 次に訪れたのも冬だった。石雪崩を起こしたBとそのお仲間達と一緒だ。畦ヶ丸の避難小屋に泊まるつもりで、夕刻に着いた。その日は、前夜泊まった犬越路の避難小屋から桧洞丸をピストンし、それから雪道の相甲稜線を延々と来たので、そんな時間になってしまったのだ。
 やっと今宵の宿に着いたと喜んだ一同だが、良くしたもので、珍しくも小屋は満員だった。とてもじゃ無いが、我々五人が入れる余地は無い。
(新婚旅行とキリギリス その四へ続く)

2009年9月22日火曜日

新婚旅行とキリギリス その二

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 次に行ったのも妻と一緒だ。十二月であった。前夜は箒沢山荘に泊まるつもりで、最終バスで箒沢に着いた。ところが何と、箒沢山荘が閉まっている、文字通り、閉まった!
 親父ギャグ失礼しました。私は根拠もなく年中無休と思い込んでいたものだから……。
 慌てて土地の人に、泊めてくれる所を教えて貰い其処を訪ねたら、某土建会社の忘年会で貸切だからと、断られてしまった。呆然自失とはこの時の私の為に有る言葉。私一人なら、箒沢山荘の軒下で丸くなってビバークも有りだろう。勿論着れる物は全て着込み、新聞紙を体に巻きつけ、リュックに足を突っ込んで、何とか生きて朝を迎える。結構寒い夜だろうけど、耐えよう。そのくらいの事ができなくっちゃ、冬山なざ行けっこないのだ。
 此処で幾ら威張っても意味がない。妻がいてはそうは行かないのだ。従ってそこを何とかと頼み込み(だって、外に頼む所は無いんだし、バスは終ってしまったので)、広間の端をアコーデオンカーテンで区切って貰い、其処に泊めて貰えた。
 土建屋さんの忘年会だから、静かな筈は無い。アコーデオンカーテンの向こうで宴会をやってんだから。でも文句を言ったら人でなしだ。無理を聞いてくれた民宿の方、土建会社の方、本当に有難う御座いました。
 翌朝は快晴。やったー!目指すは桧洞丸。ツツジ新道を登り、石棚山から下るコースなのだ。楽勝だぜ!
 この話に私の落ち度が二つ有るのだ。一つはもう書いた、山荘の営業の有無も調べなかった事。会社の仕事なら、これ一発で馘首になっても至極当然な手落ちである。二つ目が、山が凍っていた事。これも本来なら一発で分かる事なのだ。当時は気力と根性で何でも乗り切れるという気持ちが有ったので、強引に予定通り登山した。今なら、すぐ引き返していただろう。
 ルートの始めに小さな堰堤(?)のようなギャップが有るのはご存知でしょう。其処がツルツルの青氷になっていて、両手両足でやっと這い登る状態だったのだ。つまり、雪ではなく、氷の山になっていたのだ。何処でも凍っている。日当たりの良い場所は乾いているが、ほかはとことん氷。雪の方がどれだけ増しか。何故気づかない?繰言で失礼。私はそんなに愚かなのか?(そうだ!)
 目出度く頂上には立ちました。行きはよいよい帰りは怖い。昔の歌にさえ有る通りの、決まり事です。そしてその通りになってしまったのです。下りのツルツル路はひどい。軽アイゼイが有れば何でも無い話なのだ。持って行かなかった。持ってなかったのかな?どっちにしろその時は無かったんです! (新婚旅行とキリギリス その三へ続く)

2009年9月19日土曜日

柄でも無い事 その五

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 古くからの友人OKの奥方が蕎麦屋を始めた。前から蕎麦屋で働いて居て、蕎麦も自分で打って居たとは全く知らなかった。で、経営者から居抜きで店を譲り受けた訳で、名前も其の侭「水車亭」。
 友人達でお祝いかたがた、様子を見に行った。今年の春山から戻って四日目で有った。其の前にOKの奥方には脅しを掛けておいた。
「あたしゃあ蕎麦には煩いからね、半端なもんだったら、ビシビシ指摘するから覚悟しときなね。ふっふっふ……」
 何、はったりです。多少は蕎麦の味は分かるけど、所詮は唯の蕎麦好きのレベルなので、偉そうな事を言うだけ野暮、でも、こういう脅しって、面白いでしょう。悪趣味だって?良いの、あたしゃ元々悪趣味なの!
 十人余りが八王子で落ち合い、バスで三つか四つ目の停留所で降りると直ぐ。名前に違わず、水車が有る。水車で蕎麦を粉にした時代の象徴なのだろうか。
 蕎麦だが、出て来ない。かたっぱから前菜が出て来る。理由は簡単で、OKは滅茶苦茶料理好き男で、本を出しても良い程の研究実践を積み上げて居るので、我々に顔も出さず、ひたすら色々な料理を出し続けるのだ。
 マズイ事に酒は飲み放題と言う事になって居たので、あたしゃあ勿論ガンガン飲む。友人達とワーワー言い乍らガンガン飲む。蕎麦が出て来た時はすっかり出来上がっちまって、おまけにOKのお陰で腹一杯、酔眼朦朧と蕎麦を見ると、山盛り。
「何時もこんなに多いのかい?」
 情無くもはっきりと発音は不能で、縺れる舌で問う。「そうだ」との返事で喜ぶ。そうでなくっちゃさあ。蕎麦なんざ気取って食うもんじゃ無いのはあたぼうで(死語です)、素早く腹を満たす、が原点なのだ。まあ、其れを言っちゃあ、寿司も鰻もそうなっちゃうので、ちと困るが、少なくとも蕎麦は高級食になって欲しく無いので、ポリシーを貫こう。
 酔っ払って居ても蕎麦の美味いまずい位は分かって良かった。美味しい蕎麦でした。
OKの奥方「蕎麦は如何でした?」
 へー、殊勝な口もおききになれるんだ!出来たら普段もそういう口をきいてよね。駄目?
私「OK!」
 本当にOKだ。立派に水準を行って居る。感動したのは次の言葉。
OKの奥方「私の拘り、分かります?」
私「分からない(酔ってたんで面倒で)」
OKの奥方「値段」
 偉い!メニューを見れば皆安い。天ザルで七百五十円、しかも量はたっぷり。OK君、良い奥さんだぞ!分ってる?失礼しました!
 店は赤字だったろう、あんなに色々出しちゃあさ。酒迄ガンガン飲まして。お陰であたしは、目に来て、世の中がセピア色になっちまった。初めての経験です。(多分酸欠です)

2009年9月16日水曜日

新婚旅行とキリギリス その一

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 昭和四十九年版、実業の日本社ブルーガイド丹沢、には温泉案内も載っている。最近のガイドブックには無い企画である。温泉専門の案内書へ移行したという事だろう。
 塩川鉱泉(お、有った)、飯山温泉、別所温泉、七沢温泉、鶴巻温泉、中川温泉、道志温泉、湯船温泉、が紹介されている。インターネットで探したら、今でも塩川鉱泉は生きていた。何だかうんと嬉しい。しかし湯船温泉は、消えた温泉となっていた。元は駿東郡小山町に有ったのだ。移り行くのが世の常、とは言え一抹の寂寥感は禁じ得ませんなあ。
 湯船温泉に行った事はないが、母が祖母を温泉に連れて行くというので、ガイドブックで知っていたので紹介した事がある。鄙びた宿が良いと言うからだ(母は帰って来てから、鄙び過ぎだと文句を言っていた。贅沢なんじゃない?)。駿河小山へは、迎えの車が来てくれたそうだ。処が滅茶苦茶に車に酔う祖母は、宿に着く僅かな間にグロッキーになったと言う。
 で、翌日の帰りには旅館が耕運機を出してくれて、その荷台に乗せて送ってくれた。祖母は多少恥ずかしかったが、全く酔わなかった由で、感謝しています。その祖母も、湯船温泉も(そして母も、平成二十年現在)今は亡い。
 で、この章は中川温泉である。四十九年版ブルーガイドでは、一泊二食で二千五百円から五千円とある。
 昭和十七年版、登山とスキー社によると、中川温泉信玄館、一泊二食で三円五十銭、神縄バス停から徒歩一時間十分とある。安い!でもそんなに歩いて(しかも登り道)、誰が行ったのだろう?しかも戦時中の本だ。
 私も思い違いをしているのだろうが、戦争だからといっても、生活がひどく窮屈になったのは都会の現象で、田舎(当時は足柄郡も立派に田舎だった)はそうでもなかったらしく、証言者は多いので、不精でない方は調べて下さい。
 中川温泉は信玄の隠し湯と呼ばれているが、足柄上郡はどう見ても北条領である。ゆっくり傷病兵を休ませる環境とは思えないのだが、戦闘中に、一時的に使用した事は有るかも知れない。いずれにせよ洒落たうたい文句と解釈するのが妥当だろう。
 初めて中川温泉に行ったのは、新婚旅行である。エベレストやマッキンレーより丹沢が良いという思想の持ち主の私なので、新婚旅行にハワイ?(当時の定番)正気かよ!と思うのは、当然でしょう?で、神奈川県をぐるぐる回ったのだ。良く女房が文句を言わなかっただって?今になって言ってるよ!すっかりグレちまった。教訓、女は怖いのでお互い(誰の事?全ての男です)注意しましょう。
 その時泊まったのは道の上に有った宿だったが、今は無いのだ。一寸と寂しい。
 (新婚旅行とキリギリス その二へ続く) 

2009年9月13日日曜日

閑話 その三十一

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 大倉尾根(馬鹿尾根)については、第一章で書いたが其の補足です。
 花立迄登りっ放しの様な書き方だったが、御承知の通り丁度中間地点に堀山が有り、越える時一寸と下って少し登り返すと堀山の家、其処からが息も吐かさぬ登り(オーバーです)となるので、昔々は「此処より馬鹿尾根」と言う看板が有ったのを、古い人は覚えて居るでしょう?
 で、当時の夜中は延々と懐中電灯の灯りが続き、ひたすら塔ヶ岳を目指して居て、ストイックと言おうか物好きと言おうか、時代ですなあ。
 当時の難所(?)は今で言う花立大階段のあたりで、本文や閑話で書いた通りの赤土の斜面、其れも雨で掘っくられた溝だらけの一面の逃げ場の無い斜面で、記述は重複するがあたしゃあ何度でも言うし、言うに値するので、其れは其れは大変だったのだ。
 大体からして赤土の斜面は直登がセオリーなので、トラバースなんざしたくも無く、滑るに決まって居る、特に雨の日は!
 雨の日に登るのかって?登るよあたしゃあ、当然だろが!悪天候に行動するなと自分で言ってるって?其の通り!でもTPOを弁えれば(わきまえる、って読めました?あたしゃ読めなかったです(恥))大倉尾根は街の延長なので(あたしの偏見なんで鵜呑みにしないで下さい。大体からして此の愚ログは、見方に依っては偏見大会なんだから)。
 前文撤回、不適切でした。本文に有る通りの君子豹変です。思い出した事が有る。昔々々々、尊仏山荘の従業員が冬、大倉尾根を登って来て、尊仏山荘の100m程手前で凍死した事故が有った。大倉尾根は街の延長、なんざ途方も無い戯言でした、済みません(深々)。
 花立の赤土に戻れば、其処は登っても滑る、下っても滑る、登りで滑れば手を突いてハーハー言って、登り始めて又滑る。此れこそ青春だ!
 下りで滑ると容赦無く泥塗れ、雨の日なんざ最高だぜ!しかも下りの方が滑り易いのは理の当然ってもんです。
 あんなに雨が流れて掘っくれたらどうなっちまうんだと、辛い登りの一瞬に思ったのだが、結局皆さん同じ思いを抱いたので神奈川県が大階段を造ってくれ訳で、文句を言ったら人で無しだ。え、文句を言うのはあたしだけだって?文句なんて一言も言って無いもんねー♪(え、誰も言って無い自作自演は止せって?ちっ、バレたか、済みません!)
 塔ヶ岳にロープウエイを掛ける計画が有ったのは知ってます?結局メンテが余りに大変(丹沢の地盤はメチャ脆いのだ)なので、計画は流れた。
 とても嬉しい、良かった。大勢の人が気楽に塔へ来れるのは素敵だが、当然自然が(今以上に)破壊される事でしょう。

2009年9月12日土曜日

柄でも無い事 その四

店 040

 

 朋友達(AN、NB、KJ,EM,YNの烏騒ぎの諸君)とは、年に一度旅行に出掛ける。何十年も続いて居る行事なのだ。
 殆どの場合、行きの昼飯は蕎麦で帰りの昼飯も蕎麦で有る。美味い蕎麦屋は事前に調べるので、先ず外さない。
 箱根の仙石原では外した。事前調べで仙石原の蕎麦屋に外れは無いとなって居たので、店を特定せずお気楽に出掛けた。
 仙石原に着いたが蕎麦屋が無い。空腹が募って来るのでグルグル回るが見当たらず、段々焦って来るのだが、無い。
 お、有った、蕎麦と看板が出て居る。
私「有った、入っちまおう」
AN「良いの?」
私「大丈夫だって」
 日帰り湯の食堂だったのだ。何でも有りで蕎麦も有ると言う訳。即出るべきだったのだが、何と無く注文して、あ~、こりゃ乾麺を茹でた奴だ、トホホホ……。手遅れとは正に此の事。“仙石原の蕎麦屋に外れは無い”ので有って、日帰り湯の食堂は当然ながら保証範囲外、見極めもしなかったあたしの責任で、済みませんでした(ペコリ)。
 皮肉なもんで、店を出て走り出したら次々と蕎麦屋が現れるので、皆は「ほれ、此処にも蕎麦屋!」とか「手打ちだってよ」とか、あたしを責めたてるのだが、仕方無いのだ。
 蕎麦を食べずに失敗した事も有る。沼津にネタが大きくて安い寿司屋が有るので行こうよとYNがご熱心、行きました。
 待ち人多く、あたし一人なら、待つなんて飛んでもないとさっさと帰っちまうんだが、皆と一緒じゃそうも行かず、おとなしく待ってメニューを見ると如何にも大きい寿司だが、多少オーバーだろうと思い、桜海老の軍艦迄追加注文して、やっと席に案内され寿司が出て来て驚いた。看板に偽り無く写真通りの大きさで、小食のあたしゃあ、ゲっと思う有様、其処へ二貫の桜海老で止めを刺された。
 此の夜は網代のH泊、料理が多くて豪華が売りなのだが、情無くも一同食べきれない。普段はあたしが食べ切れなくとも、何せ朋友達は健啖家揃い、誰かがはいよと食べてくれるのだが、此の日は駄目、全員食べ残して仕舞ったのは、空前絶後の出来事。
 教訓、矢張り昼は蕎麦に限ります。
 で、ANの奥方NBだが、蕎麦は何故か食べない。蕎麦が美味しい店なのに、罰当たりにもうどんを頼む。アレルギーでは無く好みの問題なのだが、何と勿体無い奴だ!
 秦野の蕎麦屋に入った時、うどんは無い。どうするのかと見て居ると、不服そうに丼物を注文して居た。蕎麦を食え、田舎者!言い過ぎだって?そんなこたあなかろう、多分。
 蕎麦は粋だ。江戸の昔からそう決まって居る。其の上ミネラル豊富、栄養のバランスも抜群でビタミンE迄含んで居て、少ないのはカロリーだけ、ね、最高でしょう!

2009年9月11日金曜日

閑話 その三十

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 閑話二十九は見方が甘かったので、先ずお詫び致します。
 何が甘いかと言うと、難しいのだけど、倅とのディスカッションで(奴はインターネットの情報を元に)、判明したのは詳しい遭難状況で、其処迄は新聞或いはテレビは決して追う訳は無く、目先に飛びついて行くのが宿命で、マスコミとは本来そう言うもんです(疑う方はミュージカルのシカゴを見てね)。
 乏しい情報を基にアップしたが、もっと正しい情報が手に入れば、又話も変わります。
 先ず出発が遅れた、天候が悪いから、まあ良い。稜線に出たら吹き飛ばされる様な風だった。
ガイド「這って行って下さい」
 此処迄は良い、多少の苦労は山なんだからして貰いましょう。登山ツアーなんです。
 さて、一人が動けなくなって、ツェルトを張ってガイド(三人のうちの)一人が付き添って停滞、本隊は前進。此処であたしゃあ理解不能、何で???
 其のうち又一人歩行困難、テントを張ってガイド一人と男性客が付き添って、本隊は前進(死ぬぞ!)。
 えーー!皆さん何を考えて、或いは何を求めて、前進と決めたのだろうか。
 あたしゃあ登山者だと自分では思って居るのだが、滅茶苦茶なNやIから見れば登山者の範疇には無いとは心得て居る。極寒の岩場の小さなテラスでぶら下がり、半シェェラフで寝るなんて、やれないしやりたくも無い。物好きな奴がやりゃあ良いんだ!こちとらそんな立派な登山者じゃ無いもんねー(恥)。
 で、あたしが登山者のうちには入らない奴だと強調して言うのは、ガイドの皆さんと比べれば月とスッポンのあたしに物を言う資格は無いとは承知の上で、おまけに嫌なんだけど、仕方無く言いましょう。
 ガイドの諸君が余りにも判断が甘いと結論するしか無いのだけど、何も分からん奴に言われたく無い!と言う山のプロ達の非難は、甘んじて受ける。
 先ず、何で引き返さなかった、しかも初っ端に!それだけは絶対納得不能。一人動けなくなった時、どうして本隊を進める判断をした?此の時点で遭難でしょう、普通は。二人目の時は、何をか言わんや、だ。ガイド氏の判断を疑う。
あたしゃあ其の山に行った事は無い(ガイドの皆さんも)けど、山のガイドで有る限りは状況を読むのが仕事じゃないの?
 会社が何らかの縛りを掛けて居るのは当然なのは前章の通り。其の上ツアー客に命令する権限は与えられて居ない。でも、判断すべきだった、プロの登山家として……。
 きつい書き方でした。登山者の範疇にも入らないあたしは其の嵐の中に居た訳でも無いのに、安全な環境で偉そうにのたまう。それってサイテー!だから、嫌だけど、と書いたのです。(亡くなったガイドさん、生意気言って御免なさい!)

2009年9月8日火曜日

ハエの話? その三

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 トラックが列になって通る埃(セメントのです)っぽい道が結構長かった。当時から武甲山は削られ続けていた訳だ。武甲山殿、痛かったですか?(山にそんな事を聞く奴は変だと思うのは当然です。でも、私は聞きたいんだ!)
 登山道は未だ自然の残る気持ちの良い路だった。いけないのは頂上。我々零細山岳会のメンバーが弁当を広げようとしても、ハエが唸りを立てて襲い掛かって来る。あえて括弧なしで言うが、そんな感じの凄ざまじさだったのだ。
 我々はハエから必死に弁当を守りながら昼食を取った。中には一人や二人は、ハエも食べたメンバーもいただろう。それは多分、NとかKとか……。
 IやTは意外と繊細なので、多分ハエは食べないだろうと思う。Sも思いの外清潔だし、女性達も食べそうにないし……。いけねえ、変な話で引っ張っちまった。こうなりゃあ言い切ろう、ハエを食べてしまったのは、NとKだ。(多分)
 ハエの章ではなかった。でも、もう一寸と付き合って下さい。もうハエの話ではないので。
 その武甲山が、入山禁止になる時、Kが武甲山に行こうと言って来た。
K「おう、もう登れなくなるんだ、行こう!」
私「え?何時」
K「知らないのか、明後日だ」
私「え」
K「明日の夜発つぞ」
 Kは武甲山が好きなのだろう。私も好きではあるが、あえてあんな遠く迄行きたくはない。根が不精だし、ハエの印象も有るし、僻んだ記憶もあるし(執念深い?改めます!)。
 その上当時は西武鉄道で直行できなかったのだ。JR(当時の国鉄、分かってるって?失礼!)で熊谷あたり(だったけ?)で乗り換えて、やっと秩父に着けたのだ。遠い遠い秩父だったのだ。従って武甲山に登るのというのは一仕事だった。
 でも行きました、夜行列車で。だって武甲山とのお別れなのだから。行って良かった。お別れに来る人でごった返していたが、最後の武甲山に登れた訳だ。その上季節が違うのでハエはいなかった。ハエは置いておいて、Kよ、誘ってくれて有難う。
 話が飛ぶ事飛ぶ事ハエが飛ぶ。はい南山の仏果山でした。ふざけていないで纏めに入りましょう。
 仏果山近辺は登山道も完備され、たいしたアルバイトも無く山歩きが楽しめる様になった。目出度い。新緑が鮮やかだから、秋も綺麗に色づく事だろう。所々急な路も有るが、其処は気をつけて下さい。宮ヶ瀬湖の展望台として、絶好の山であると共に、丹沢主脈と三ツ峰を、見慣れない角度から楽しめるのです。

2009年9月6日日曜日

閑話 その二十九

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 北海道の山でツアーパーティ他の遭難で十人が亡くなったが(平成二十一年七月半ば)、此れには触れたくなかったけど、未だアップして居ない本文でも其の危険を表明して有るので、文脈上触れざるを得ない。
 装備がべら棒に良くなり、交通の便が良くなれば、山は身近となり誰でも入れて、場合に依っては3000m級の頂にも大した苦労も無く立つ事が出来るので、目出度し目出度しと言いたい処だがそうは問屋が卸さない。
 四昔半前の装備は、冬でもヤッケと称するコットンの暴風着と、同じくコットンのオーバーズボン、コットンの馬鹿でかいオーバーミトン、コットンの(書き疲れたよ)オーバーシューズかロングスパッツを紐でぐるぐる巻き付ける騒ぎで、マナスル登山隊の装備と変わり無い代物だった。
 夏だって、確りした雨具はゴム引きのズッシリした奴、テントもザックも綿布のゴツイ奴で、火気だって白ガソリンか灯油を使い、面倒極まり無い物だった。
 従ってある程度の山に入るには否応無く重装備となり、覚悟をせざるを得ないので、慎重な準備と下調べ、面倒ですなあ。
 今は北海道の2000m級(内地の3000m級に相当)へ、何とツアーで行ける。手間要らず、楽ちんですなあ。で、此の悲劇で有る。
 低体温症?昔で言う疲労凍死の事でしょう?パーティがバラバラになって、彼方此方で疲労凍死、大昔の遭難記を見るごたある。ばってん今は平成、昭和初期と違うとですよ。
 本文にくどく書く“山は自己責任”と言うあたしの主張からすると、各自の責任に於いて行動し、各自の結果となった訳なので問題無い筈だが、そう考えるのはパーティでは無い事が前提なので、詰まりパーティでは無かった訳だ。
 ガイドが付いて居ても添乗員と同じで、リーダーでは無いと皆思って居るだろうから、危険に曝されたらバラバラになるのは当然で、遥か昔の遭難話となる。
 あたしはテレビを見ないので、新聞記事を読んだだけだから、以上は勝手な想像でした。
 何を言ってるかってえと、山は自然なので荒れたら手が付けられない、そんな時に出くわしたら山のセオリー通りの行動を取るしか無く、パーティは纏って一番弱い人間に合わせて行動し、決してバラバラになってはいけない。
 其の前に、絶対に悪天候で行動してはいけない。危ないと思ったら停滞か撤退有るのみ!
 其のセオリーを守れないのがツアー登山の盲点で、乗る飛行機は決まって居るし、予定を狂わすと修復に偉く手間と場合に依っては費用も掛かるだろうから、少々の無理はするのだろう。
 ツアー登山を、此の事故をきっかけに、否定するのでは無く、安全な姿にするべく見直すべきだと、愚考します。

2009年9月5日土曜日

ハエの話? その二

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 その時は一度目だから、刺されても死なない事は分かっているが、怖くて動けない。刺されるのは痛いし怖いし嫌だもん。
 豪胆なSはさっさと行く。仕方無く臆病な私とKも、首を竦めてSに続き通過する。Sがいなければ、私とKは、日が暮れる迄佇んでいたかも知れない。
 新緑の頃だったからだろう。仏果山々頂は満員状態で、頂を外して小さな隙間を見つけ、弁当にした。身勝手なもので、こうなるとあの誰もいない藪山時代が懐かしい。と能天気に言えるのはあの痛さを忘れたからで、喉元過ぎれば痛さ忘れる、だったっけ?
 弁当といえばSは何時も奥さんの手作り弁当で、それもとても豪華なのだ。喜んでご相伴にあずかっているが、私もKは大体がコンビニのサンドィッチだ。愛され方の違いは、如実に弁当に表れるものなのだと、学んだ私とKなのである。
 ん、そういえばKもたまに愛妻弁当の事がある。「いや、女房が作ってくれてさ」とか、変にニヤついている事も結構あったぞ。うーん、するってえと一体、私の立場はどうなってしまうんだ……。
 別の時、仏果山々頂に立ったが、暑い時期で、手で払うとばちばち当たる程ハエがいて、閉口して逃げた事がある(もっとも閉口しないと、ハエが口にも入る)人が増えるとハエも増えるのかな?多分そうでしょう。現にそうだったし。
 ハエの思い出がもう一つ。零細山岳会で武甲山に登った。随分前から入山禁止になっていて、ひたすらセメントを掘りまっくっているので(セメントの山なのだ)、やがて丘になってしまうのだろう。とても立派な姿の山だったのだが。日本二百名山は、百九十九名山になってしまう訳である。百九十九名山は良いが、武甲丘になるのが、やけに悲しい。
 話を戻します。この時は余裕のある先発組は、前夜秩父に入って泊まった。余裕の無い私と数人の仲間は、夜行列車で追いかけ、朝合流して登り始めた。昨夜ゆっくり寝た先発組は楽しげである。追いついた我々はげっそりとして、生あくびをしている。えらいハンデである。
E「夕べは楽しかったわねえ」
H「本当よね」
S「良い宿だったぞ」
私「ああ、そうかい」
T「たまには、こういうのも良いなあ」
私「ふん、良かったな」
W「お風呂が良かったの!」
K「おう、本当だぞ」
I「それはお目出度さん!」
 お分かりの通り、Iと私は余裕のない後発組なのだ。楽しそうな先発組の話を聞いて、すっかり捻くれてしまう。でも私達を責められません!(身勝手ですなあ)
 (ハエの話? その三へ続く)

2009年9月2日水曜日

山の報告です その六

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 去年(平成二十年)の梅雨時、次女に沢登りに行くか?と聞くと、行く!と答えるので葛葉川を登った。
 勿論小雨の中、葛葉の泉から嘘の様に可愛らしい沢に入り、行くうちに小滝が連続して現れる。ご承知の通り、沢登り初級の又入り口なので、危険は無いと思うが念の為サブザイルで次女を確保し登らせる。
 初めのうちは滝を越えるとザイルを解いて居たが、林道を越えて傾斜が強まるに連れ、面倒なのでザイルを着けっ放しにし、あたしは其の端を持って進む。何処から見ても犬の散歩で有る。
 其の上沢登りが初めての次女は、急になってからはずーっと四つん這いだったので、此れで完璧な犬の散歩の一丁上がり!
 小さなガレ場から左へ折れ、セオリー通りに稜線下へ出たが、次女は四つん這い。
私「もう立っても平気だよ」
次女「……立ち方を忘れちゃった」
 はっはっは。
次女「ガラガラしてて登れなくても、紐(ザイルの事)が引っ張られて必死に登ったよ」
 はっはっは、文句無く犬が鎖に引かれて居る図です。
 唯一ヶ所、F幾つだったか忘れたが、滝に土砂が被り泥と石が邪魔で登れず、右を巻いたが其処で笹を頼りの泥とザレ登り、雨で確り濡れて居る上に泥を擦って、立派な泥塗れ二つ(あたしも)の一丁上がり!
 其処の土砂も、もう其の後の雨に洗い流された筈だ。(責任は持てないけど)
 次女は流石若さで、四つん這いでも紐に引かれて居ても、シャカシャカと危な気無く登り、休憩は沢の中で一回のみで、一気に大倉(雨なので三ノ塔は踏まなかった)へ下ったのはご同慶の至り。何でだって?野暮だなあ、早く酒が飲めるから!
 雨と滝の飛沫でびしょ濡れの体は冷え切って居ても、O屋のチューハイは格別で、次女は缶ビール、二人で「乾ぱーい!」と目出度い。尤も帰宅後長男が「一杯目は生をやるんだよ」と偉そうにのたまい、次女は「閉まった!」と後悔の臍を噛んだが後の祭り。
 貧しい父親に気を使ったのだろうが、生ビールと聞いちゃあ心が騒ぐって事ですな。
 ガレ場で左へ折れるのがセオリーだが、真直ぐ本筋を詰めた事が有る。三年前、Yと一緒だった。通る人は殆ど無いらしく無名の沢の詰め上げの雰囲気だが、ガレも小規模で薮も薄い。
 一ヶ所泥のギャップを突破する時、Yの組んだ手を足掛かりにあたしが上がり、サブザイルでYが登ったが、他には難無く二ノ塔と三ノ塔の鞍部直下に到着、行き来する登山者は目の前で有る、万歳!
 ところが最後の登りが赤土の急斜、Yは三度も滑り落ち転げ落ちる。結局、やっと登山道に這い上がったYは、見事な赤土人形の一丁上がり!