2015年3月30日月曜日

閑話 その百五十




 さて、其の十五年後の平成十八年五月、同じルートをYと辿った。一泊でやった処を、前夜土合駅泊まりで山中二泊、都合三泊三日の大名旅行で有る。
 Yと一緒なのでのんびりと行ったのは確かだが、じゃあ一人だったら一泊で出来たかと言うと、出来なかっただろう。五十八歳にもなれば、其れなりになるもんですなあ。
 二日夜新幹線で上越高原へ、あとはTAXIで土合駅へ、其処で泊まる。数パーティが泊まっていた、と有る。
 三日、快晴の登り。白毛門の下りのトラバースが悪く、前後した単独校者は危ないと見て引き返した、と書いて有る。毎年雪の状況は全く変わって仕舞うのだ。思わぬ悪場が出現するのも、極自然な状況なのだ。
 此の日は笠ヶ岳の避難小屋の横で幕営。小屋には単独校の女性が入ったので、遠慮したのだ。飲んで騒げないし。
 四日も快晴、何とラッキーな。朝日岳を越えて清水峠へ、急がずのんびりと行く。峠からは面倒なトラバースを避け、ジャンクションピークへ登って謙信尾根へ出る。尾根に出て、ナイフリッジを通過と有るので、其の年は相当積雪が多かったのだろう。
 鉄塔下で幕営。ゆっくりと最後の夜を迎えた訳だ。単独だと急いで下りたがる。連れがいれば、ゆっくりと山の夜を楽しみたくなる。
 五日、謙信尾根を下るがトレースは無い。道標もマーカーも無い。もう使われて居ない様だ。外にも数パーティ入っていたのに、皆何処へ下ったのだろう。何せ古い地図なので、新しい道が分からないのだ(恥)。
 どうにか下って林道に出ると、例に依ってトラバースの連続だ。Yには散々話しておいたが、聞くとやるとは大違い、偉く消耗した様で清水部落に着いた時にはYはフラフラで有った。疲れるのだ、長いトラバースは。
 民宿でハイCを飲んだのが、凄く美味かったと有る。TAXIで六日町、JRで越後湯沢。其処で蕎麦と舞茸天ぷらで一杯。
 十五年で一泊が三泊三日になったと言うお話。今度やる時は四泊四日かな?何時行ける当ても無く、思いのみが上越の雪山をかけめぐります。

2015年3月27日金曜日

閑話 その百四十九




 十五年とは、偉い時間の流れなんだと実感させられる記録が有った。
 平成三年五月の連休で有る。「体調も悪い為、四日出発、五日帰京の小規模な春山になった」と記録には有る。四十三歳の時だ。うーん、今から思えば若い盛りですなあ。
 行程は、七時十分の特急谷川で水上へ。其処からバスで土合。其のバスが渋滞で進まず、降りて歩こうと迄思った様だ。連休の初日だから、当然の事で有ろう。
 土合駅の次が土合橋、入山口だ。多分十一時は過ぎていた筈だ。一面の新緑で、登るとすぐに雪山となる。
 白毛門を越え、笠ヶ岳直下で幕営した。其の辺りは幕営適地だらけ、張り放題で有る。最初から避難小屋は眼中に無かった様だ。或いは未だ小屋は無かったのかも知れない。
 寒い夜、コッヘルの水はガチガチに凍り、冬山と変わらない、と記録には有る。さぞや一人で寒がっていた事だろう。其の代わり、翌日の晴天は保証された様なもんだ。
 案の定晴天。朝日岳を越え清水峠へ向かったが、峠が見えているのになかなか着かない、と嘆いている。
 思い出した。峠からのトラバース道の雪が大きな起伏となり、通過に偉く苦労した。無雪期間なら十分も掛からないのに。
 謙信尾根の下りは、嫌になる程下る、と書いている。きっと嫌になったのだろう。古いトレースを拾い乍ら下った記憶が有る。
 下ってからの林道が雪の斜面となっており、ずーっとトラバースを続けると同じ事で、滅茶苦茶に消耗した。此の苦労は、やって見なけりゃ分かり辛いのだ。
 笠ヶ岳から清水部落迄は、地図上で六時間十五分、若いとは言え幕営具を背負って雪上を行くのだから、七時間以上は掛かっただろう。林道でも痛めつけられたし。
 帰りの新幹線は大混雑だったが、こじんまりとした雪山だった、と有る。(続)

2015年3月22日日曜日

閑話 その百四十八




 前話と同じ年の、平成十三年の二月三日に思いを馳せよう。
 多分此の日が丹沢では、あたしの知る限りで一番積雪の有った日だった。記録では、馬の背の道標が雪に埋まって居た、と有る。
 記憶では、トレースが有ったので其れを追ったが、木の枝を潜り乍らの登りだった。少なくとも1m以上の積雪は有った事になる。
 何と素敵なんだ!と心弾ませて塔に立った。勿論一面の雪しか無い。木台も土止めも全部雪の下だ。雪の向こうに小屋が有る。二、三枚写真を撮って魔が差した。
 トップの写真で分かる様に、日付が入って居る。何故かと言うと、ニコンが故障したので修理中、Yからカメラを借りて来たのだ。元はあたしのカメラだったので、日付を消そうと操作したら、手がかじかんで居たもんだで、フイルム取り出しの操作をして仕舞ったのだ(涙)。
 ドジで有る。あっと言う間にフイルムは巻き戻された。戻ったフイルムを再度挿入は不可能だ。フイルムの先っぽが出て居ないので。
 何かに書いたが、此の日は表尾根を行った。雪に埋まった表尾根は素晴らしい。勿論、登山道は通行不能だ。U字に掘っくれて居るので、腰迄埋まって仕舞う。
 表尾根にはトレースは無かった。あたしが最初に歩いた事になる。えっへん。威張るのはアホだとは心得て居るけど、此処は意味も無く威張る処なのだ。
 登山道の脇を、枝を潜り乍ら行ったのだ。撮りたい風景は山程有った。1mの雪に覆われた表尾根だ!
併し、撮れない。何と馬鹿な話なんだ! 其の景色にはもう出会えないかも知れない。50cmの雪は有るかも知れないけどね。
 ドジは雪山かけめぐる、って言う情け無い話でした。

2015年3月19日木曜日

クソ面倒な話 その七十六




 クリミア半島合併の時、ロシアは核兵器の準備も整えていた、と発表して一寸とした騒ぎになっている様だ。
 プーチン氏のハッタリっぽくも有るが、核の準備が整っていたのは本当だろう。相当効き目が有る恫喝だ。
 核兵器は最終兵器、使われる事は無い、と思われて来たが、一つ間違えれば使われていた可能性が有る、と言う事だ。
 日本には幾つも反核団体が有るが、実際の核戦争の危機には発言は無い。今回のロシアの“準備”に対しても、「被爆地ヒロシマの願いに背くものだ」と広島市長が声明を出しただけだ。
 尤も、偉くシビアな世界では、残念乍らヒロシマの願いは一顧だにされないのが現実なのだ。でも何故“ヒロシマ”なんだろう?広島じゃ駄目なのかな。
 飽く迄私の考えだが、日本人が思う程、核使用に核保有国は躊躇いを持たない様に感じる。威力の大きい兵器との感覚が有るのでは。155mm砲の砲弾として原爆が用意されているのも、原因かも知れない。
 戦術核と言う奴だ。此れなら不利な状況を覆す為、割と撃ち込み易い。其の応酬の末、ICBMが飛び交って何度か人類が亡び去るかも知れないけど。
 言い辛い事だが、人類が一度持った核兵器を手放すとは思えない。造った限りは無かった昔には戻れない。多分鉄則だろう。
 核兵器廃絶の訴えは必要だろうが、多分実際に持ってる国には届かない。賛同するのは常に持たざる国々なのだ。
 核戦争の可能性は今回の件を出す迄も無く、何時でも存在する。パーセントは極めて低くともだ。毛沢東は「核戦争で三億人(の中国人)が死ぬだろう。其れがどうした」と傲然と言い放った。
 唯一の被爆国としてする事は、各家庭、各職場にシェルター完備、万が一の核戦争に如何に生き残るかを、真剣に考える事だと、悪い頭を振り絞って考えるのです。