2018年4月27日金曜日

閑話 その二百六十一



 9Kgを背負って高取山へ出掛けた。久し振りなので気持ちゆっくりを心掛けた。一週間前にS、Kと来た時は空身だったが、矢張り応えるものだ。
 伊勢原では農大生が長蛇の列、こりゃダメだと246路線で懐かしい神戸(ごうど)下車で歩く。栗原入口を過ぎると満員バスに抜かれた。その直ぐ後に空いたバスが続いた。仕舞った、二台目に乗れば良かったんだ。
 てな訳で、普段より二十分余分に歩いたが、新緑鮮やかな高取山を見ながら行くのも悪いもんではない。
 階段に掛かると腿の筋肉に負荷を感じる。たった9Kgなのにねえ。ぜいぜいはーはー、汗をポタポタ垂らしての登りになっちまった。春になったんですなあ。
 頂上は子供が六人位、大人も其の位で賑わっている。即下って聖峰への分岐で休んだ。一服点けるので、一寸と遠慮したのだ。
 一休みして本格的に下ると、三人の女性パーティが登って来た。「あ、地下足袋、軽そうですねえ」とよく有る挨拶。「前にも会いましたよね」と言われても勿論分からない。外に地下足袋の登山者には会った事がないので「多分私です」と答えた。
 弘法山稜線に出ると小学生高学年が三十人程やって来る。教師も二人付いていて「こら、走るんじゃない」と注意している。子供達は元気だ。すると又次のグループが現れる。次から次へと五つのグループと擦れ違った。
 小学校の遠足ってとこだろう。若い教師を総動員だろう。中年の先生では置いて行かれてしまうだろうから。
 風呂から出て二階に上がり、楽しみなハイボールを買おうとしたら自販機が故障中だった。ガックリして里湯を出て、順序を変えて過去根蕎麦を食べ、町田に帰ってから駅前のファミマでハイボールを買って、店頭でキューっと飲んだが、風呂上りの美味しさにはとても及ばない。 風呂上りのハイボールは本当に甘露なんですぞ。

2018年4月25日水曜日

閑話 その二百六十



 低山は新緑真っ盛りである。S、Kと新緑狩り(?)へと出掛けた。何処へえって言うと、高取山なのだ。
 写真は高取山からの大山。切り開いてくれたので眺められる様になったとは前に書いた。でもまあボンヤリした写真だなあ 、腕が悪いにも程があるってさ。
 ゴルフ場を突っ切るコースは前にやったので、今度はゴルフ場の横を登るコースにした。前々回に下社から来て、右へ間違った林道を行ったコースを、正しく逆に稜線へ出ようと言う訳なのだ。
 バスを降りて暫くでゴルフ場の横を行く事になったのだが、残念乍ら爽快な路ではなく、何か薄暗い路だった。
 丁度グリーンの横を通る時、ゴルファーに「何処へ行くんですか」と聞かれた。「此の上の高松山に行くんですよ」「そうですか、時々登って行く人が居るんで」。ほー、こんな陰気な路を行く物好きもいるんだなあ。
 稜線に立てば風が涼しい。Kは羽毛のベストを持って来たと言うが、一体何を考えてるんだろう。その日は25℃の予報で、既に暑がっているのにね。
 二十代のトレイルの女性が二人高取山から、タイツに巻きスカート姿でやって来る。大山へ行くそうだ。三人で見送り乍ら「我々も若い頃はああだったよなあ」とため息をつく。
 今じゃ走る様に行く、なんて死んでもできないのだ。やったら死んじゃうだろうし。Sも大腿四頭筋がめっきり弱ったそうだ。脳梗塞と心臓手術をしては、あのムキムキマンだってそうなってしまう。
 此処からは新緑の中、最後の登りを詰めれば良いだけだ。帰路は聖峰から神戸へ。あたしは登ってばかりで下るのは初めてだ。下りはSは良いがKがマズイ。足首を痛めている事は既述だろう。でもま、難無く下り着くきました。
 伊勢原駅の一つ手前のバス停で降り、目をつけていた中華屋で一杯やったのだが、中国人がやってる店で中々グッドであった。ほろ酔いで帰って来たのでした。

2018年4月22日日曜日

休題 その二百十八



 面倒な話みたくなっちまったがご容赦。
 裁判の続きで言うと、分からん事の二つ目は精神に異常が有れば罪に問えない事だ。それが一時的でも適用される。
 一時的から書くと、精神消耗して適切な判断が不可能だっと認められれば無罪。一寸と間ってくれよ。その犯人が被害者に監禁されるかそれに近い状況でひどい目に会ってたと言うなら分かるが、関係無い事で辛い目に会っていたからって、人を殺しても良いのか?唯の殺人と何ら変わりは有るまいて。
 精神異常の場合はどうだろう。人を殺すキチガイ(差別用語だそうだが、キチガイはキチガイだ!)を無罪にするって事は、又ご自由に殺人をなさって下さい、と言う事だろう。
 多少は病院隔離も有る様だが、直ぐに野放しになる。そして又人を殺す(かも知れない)。その実例も幾つか有る様だね。
 人を殺すキチガイは死刑で宜しい。何故キチガイだから許されるのかが全く分からん。「貴方の娘さんを惨殺した人間は精神に障害が有る可哀そうな人なので、罪は無いんです」と言われたら納得できるのだろうか。
 あたしならそいつを狙いまわして、隙を見て殺す。そう思う親は多分殆どだろう。自制して実行しないだけだ。
 これは司法制度ではなく法律の問題だ。国会議員の家族がキチガイに殺されなければ、法律を変えようなぞとは誰も言い出さないだろう。そんな事を言い出せば人権擁護派から猛攻撃を受け、極右、或いは人権無視者のレッテルを貼られるに決まっているからだ。
 敵討ちの禁止は、国が替わってそれを行うから成立する。国が正義を行ってくれないとの認識が広がれば、自ら仇を討つしかなくない。相手の家族が今度はこっちを仇と狙う。
 日本の刑罰は甘過ぎると言われてから久しい。裁判員の結論を重視する処からでも始めれば、何とかなるだろうに、と愚考します。

2018年4月19日木曜日

休題 その二百十七



 あたしは頭が雑なのでだろうけど、世の中で言われてる事で分からない事が多い。
 その一として、裁判員制度が造られたのは裁判官と一般人の感覚の乖離が著しくなった為、少しでも改良しようとした訳だろう。
 と言う事は裁判官の判決に納得できない国民が非常に多くなったってこった。でもって導入した制度だが、選ばれた(無作為に)裁判員の皆さんは偉く悩み苦労し必死に考えて結論を出すそうだ。何せ人の生き死にを決める場合もあるのだから。
 日本人は真面目ですなあ。膨大な資料に目を通し、状況を勘案して悩み抜いて結論を出す。それも全員がだ。精神的にも身体的にも過酷な作業だ。
アメ公(失礼)なんざにはそこ迄の真摯さは、映画を観る限りでは感じられ無い。有能な弁護士(詰まり有能な嘘つき)に操られ放題と描かれている。ま、その状態自体を告発してるんだろうけど、その状態が常態(!)って事を表しているのだ。
 話を戻すと、日本では胃に穴を開ける程悩んで、死刑以外にない、と一同が決定する。それが必死に考えても当然としか思えないからだろう。そしてそれが一般人の結論なのだ。
 処が上訴すると、ほぼ全部覆される。死刑はほぼなくなる。散々悩んだ裁判員は、胃に開けただけバカって事かい?
 普通に見て死刑が相当と結論を出す一般人の感覚を重視する為の法政なのに、全然一般人の感情を無視しているのだ。だったらそんな制度はやめちまえ!
 真面目な人に苦労ばかりかけて、結局は前例に従うなんて、裁判員制度の意味が何処にあるんだ。国民が裁判の判決に疑問を持ち始めたから始まった制度だろうが。
 こんなバカなな事が繰り返されれば、司法制度に疑惑を持たれてしまう。いや、もう既に疑惑は広がってるかもですよ。続きます。