2008年12月31日水曜日

丹沢の東海道自然歩道は登山です その三

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 犬越路は犬が越える?見た事が無い!甲斐の武田勢が犬を先頭に越えたというが、本当ですかね。ま、歴史は歴史家に、カイサルの物はカイサルへ、という事で。
 犬越路は笹の綺麗な峠だ。避難小屋も有る。登山者の父娘が、鍋でうどんを煮ているのが、やけに羨ましく思えた事があった。腹が減っていたのだろうか。それともうどんが食べたかったのだろうか?多分腹が減って、うどんも食べたかったのだろう。
 ここから林道に下り、畦ヶ丸迄は前項の通り。その先は気持ちの良い稜線漫歩で城ヶ尾峠を越え、菰釣避難小屋に着く。天気が良ければ富士山を見ながらの山旅で有る。
 菰釣山付近の藪は元気だ。Yとフジモク沢を詰めた時、最後の藪が何時迄も続き、おまけにとても元気な篠竹達だ。頑張ってこぎ続けたが、フラフラになってしまった。こうなると、最後のって、一体何なんだよ!と叫びたくなる。
 その夜は避難小屋泊だったが、居合わせた登山客が多く、思わぬ大宴会になってしまった。その騒ぎの中、兵庫県から見えたという初老の男性二人連れは、床に座り(宴会連中が椅子を占めていたので)カップ酒を静かに飲んで寝てしまわれた。東海道自然歩道の最後の難関に挑戦だというのに、私達酔っ払いが騒いでいて、御免なさい。此の宴会は後でも触れます。
 菰釣山の売りは富士山。何てったって近い。すぐ其処に見える。
 そういえば昔(又かよ)大ツガ迄南に延びる尾根を辿ろうとして、三画点(隣のピークに有る)を大分過ぎた所で篠竹に阻まれ、強引に行くうちに篠竹の滑り台に乗ってしまい、ジェットコースターのように一気に(下りたくもなかったのに)滑り下って、木ノ又沢支流の源頭に降り立ってしまった事が有った。下りは滑れば良いが、登りはどうするんだろう?
 登り返しを一寸と試みて、即諦めた。無理でした。下を向いた篠竹に取っ付いてもツルツル滑るばかりで、どうしようも無い。これが最後の詰めなら、必死に頑張るだろうが、滑り降りてしまった後では、気力が尽き果てたのだ。仕方無く沢を下って林道に出たが、そこから浅瀬迄の長かった事!知ってる人は、知ってますよね。
 さて、畦ヶ丸から山中湖へはアップダウンは多いものの、それ程遠くはない上、高度を落としながら行くので、楽しい稜線漫歩そのものである。最後は、鼻歌で足元の山中湖へ下って行けば良いのだ。新宿へ向かうバスが待っていますよ。
 こう辿って見ると、確かに快適な自然歩道では有る。但し、天候次第だ。天気が臍を曲げたら散々な目に会うだけ。悪い事に、お天気様は臍を曲げやすい。もし歩く方は、天気の良い時に、雨具、バーナー、食料、水、予備セーター等の最低限の装備は揃えて、気をつけてお出かけ下さい。
 くどいようだけど、このコースは自然歩道と(お役人は)称してはいるが、丹沢山中の山歩きなのです。登山なんだな、と思って下さい。万が一具合が悪くなっても、下るのに凄く難儀をしますよ。絶対無理は禁物です。

2008年12月30日火曜日

山の報告です その一

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 狐に摘ままれると言うが、実際に摘ままれた経験は誰も無い筈だ。大体からして狐の指は物を摘まむ造りには成っていない。
 今回の無駄話は、比喩としての“狐に摘ままれた”話なのだ。
 平成二十年秋口、権現山から畦ヶ丸へ行こうとした。権現山は二つ有って、中川権現山(もう一つは世附権現山)へ箒杉あたりから登り、畦ヶ丸へ尾根を辿ろうとした。ところが同行のYが寝坊してバスを一本遅らせる羽目となり、登山道で権現山へと急遽予定変更、西丹沢のセンターで登山予定を書いていたら、「その登山道は廃止です」と教わり、「あらら」と思いつつ出発しました。
 さて此処いらが旧登山道だろうと勝手に決め、ザレ藪に取っ付いてガラガラザラザラと頑張るうちに、枝尾根に這い登り、地形を照らし合わせるがどうにも見当がつかない。ガスっていた為も有るが、此処は何処?私は誰?ついでに今は何時?
 結局旧道を通り過ぎ、畦の枝尾根に出たと判断、登り詰めれば畦には着くと、ひたすら登ったのだ。と、らしい処に出、向こうに標識が見える。案外あっけ無く着いたものだと拍子抜けするやら嬉しいやら。
 振り返るとYが丁度幕営にもってこいの場所を歩いている。其処に居る様に言って、標識に近づくと、な、何と権現山だった。
 済みません、単なる私の勘違いだったのです。でも其の時は“狐に摘ままれた”思いで、呆然としていたら、不振に思ったYもやって来て、一緒に呆然としてしまったお粗末。
 で、気が抜けて此の日は其処泊まり。Yは畦迄行けると殊勝にのたまわったが、彼がザレ藪で苦しんでいた姿を考えると行動中止と決めたのだが、大正解。Yが天幕張り、私は偵察で鞍部へ下り、翌日の下山道が確りしていると確認し登り返すと未だ天幕が張れていない。何時もは素早く張っているのに?Yは脚がつってしばらく仕事にならなかったそうで、実に気の毒で有る。変に急な処を歩かされると、途方も無く筋肉に負担が掛かるのだ。
 此の夜は持ち上げた酒を全部飲み干して、二人貸切の山を満喫したが、その合間にもYは脚がつって「いててて」と騒いでいた。可哀そうですなあ。
 一月半後リベンジだと、又もやYと旧道で鞍部へ出、畦へ向かったが踏み跡明瞭、二人もの単独行者とすれ違い驚いた。結構メジャーなルートだったんだ。
 で、問題は翌日で有る。登山道は善六のタワから尾根を外れるのだが、我々は次のピークへ登り、支尾根を下って西丹沢近くへ出る積もりで、私が又もやドジり、支尾根は見る見る急になり、沢へ崖となって消えた。気付けよ、そんなになる前にさあ!はい、御免なさい!
 可哀そうなYは、再びザレガレを笹や枝に縋りつつ這い登る有様、我が所為と思うと気の毒此の上無し、最近の私はKを責める資格(あ、此の話は未だ書いて無いや)は全く無くなってしまって、つくづく悲しい。
 以上“狐に摘ままれた”話、否、惚けちまった私のお粗末でした!

2008年12月29日月曜日

丹沢の東海道自然歩道は登山です その二

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 ああ路に出て良かった、と思ったのも束の間、路の崩れてるの、崩れてないのって、凍った沢より余程危ない。すず竹にぶら下がったり、高巻きしたり、冷や汗もので正規の登山道に合流したら、通行不能の看板が立っていた。思わず頷きました。
 今は前章で触れた通り、稜線を辿るようになっているので、アップダウンは有るけれど、とても安全で良い。疑う人は廃道を……、嘘です、廃道を行っては、絶対にいけない!尤も今は廃道すら無いかも知れない。
 焼山から姫次迄は(スタート地点に戻ったのです)、三峰を楽しみながら高度を稼げる。焼山へは一寸と登らされるが、後は淡々と登れる良いコースである。
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 姫次には唐松が有る。唐松の新緑は柔らかい緑で、露でも付いていると、嘘のように可愛い。蛭ヶ岳へ向かうメインルートを外れて右へ向かえば(詰まり東海道自然遊歩道へ)、袖平へは小さなアップダウンで着く。
 袖平へは変なルートで来る事が多い。社宮司沢、小屋戸沢、袖平北尾根(仮称)。どれも結構苦労した。マイナーのとこばかりだけど、名の有る沢は滝が売りで、初めにお断りした通り、私は高い所が怖い。滝に出会えば、きょろきょろ見回し(下痢すら止まり)、巻く方法を探すのだ。じゃあ何か、でかい滝が無い方が良いってか?
 ビンゴ!!
 だから名だたる滝の無い沢が好き。それは丹沢のヒダを残さずトレースしたいからなんです。できっこないとは充々承知の上。何せ年々足腰は弱るし、笹に掴まる力に不安は募るし、ガレを這うのも辛くなったし、ぶつぶつぶつ……。
 変な物好きって事で、無理にでも納得して下さい。
 袖平からどんどん降りると、小さな(?)風巻ノ頭。十八歳の冬、熊笹の峰からヤタ尾根を下って神ノ川へ降り、風巻へ登り返した事が有る。あらら、又訳の分からないルートを取っている。私は、昔から変な子だったのだろう。降り始めは下に小さく見えた風巻ノ頭が、どんどんせり上がり、やがて見上げるように聳え立ち、あそこを登るのかと思ってがっかりした覚えが有る。従って風巻の頭に付けた、小さな、は取り消すとしましょう。 (丹沢の東海道自然歩道は登山です その三へ続く

2008年12月28日日曜日

丹沢の東海道自然歩道は登山です その一

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 西野々から焼山、八丁を登って姫次、姫次 から風巻を経て神ノ川へ下り、犬越路を越えて大滝橋へ、大滝峠から畦ヶ丸へ登り、菰釣山(こもつりでなく、こもつるしです)から山中湖 畔の平野迄走らそうというのが、丹沢山中の東海道自然歩道。
 歩道には違いないが、登山道と呼ぶのが正しいと思われる。東海道自然歩道案内書にも最難関区間となっているらしいが、至極当然 だ。さぞやひどい目に合った人もいる事でしょう。
 長所短所は背中合わせ、良い事も有る。畦ヶ丸から山中湖への相甲国境線が整備され、その上全コース上のあちこちに立派な避難小屋が出来たのは、大変嬉しい。昔の相甲国境線は、藪、倒木が多く、中々苦労させられたものだ。
 いま一つの良い事は、ひどい目に合ったが故に、登山の世界へ踏み込む事ができた人もいる事。
 それって良い事だろうか?勿論良い事なのだ。此処で頷かなかった人はほとんど居ないと思う(多分)。パチンコの世界でなく、夜遊びの世界でなく、ドラッグの世界でもない、登山の世界なのだ、ようこそ!
 夏の赤石岳の帰りのバスの中、後ろの山岳会パーティの一人が、丹沢の自然歩道で痛めつけられ、一念発起して登山を志して装備を整え、会に入って今に至ると話していた。ほら、いるでしょう、ラッキーにも素晴らしい趣味と出 会えた人が。東海道自然歩道でひどい目に会ったお陰です。
 環境庁(当時)の失敗は、大滝峠からのルートに巻き道を使った事だ。少しでも楽なルートにしようという意図は分かるが、あそこらの地盤は脆いのだ。折角作ったその道も、大雨で崩れ、雪で崩れ、風で崩れ、しまいには何となく崩れで、見る見る荒廃し、あっと言う間に通行不能となってしまった。
 二昔以上前、一月に地蔵平から城ヶ尾峠へ登ろうとして、降雪の中で路を失い(凄くドジを踏んじまったですよ)バケモノ沢で幕営する羽目となった事がある。何やってんでしょうね。
 勿論、尾根に出れば道だと分かっていたので、何度も場所を変え、這い登って試みたが、何処へ行っても尾根筋近くは、密集した篠竹が頑張っている。何とかとは思うのだが、どうしても篠竹を突破できず、右往左往したあげく、夜になって、雪も降り続くし、う、う……、恥ずかしい。
 言い訳です。密集した篠竹は、猪も嫌うと言われている。本当にどうしようも無い。似た物に、這松こぎと、石楠花こぎと、その二種混合状態が有る。そのひどさを、ご承知の方居ますよね?その上キスリングを背負っていたんだから、苦難は倍加(いや、三倍位かな)するのだ。此処は一つご勘弁下さい。
 翌日凍りついた沢を行き、廃道と化した自然歩道巻き道に、懸垂同様に這い上がった。昔で良かった、今なら懸垂は無理だ、荷物も有るし……。 (丹沢の東海道自然歩道は登山です その二へ続く)

2008年12月27日土曜日

閑話 その二

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 “ガレと草鞋の銀座歩き その三”で、尾山頂で妻と冷やし中華を食べたと書きました。美味しかったとも。結構珍しい事なので触れておきましょう。 山頂で冷やし中華は、贅沢の極致、至高の料理だ(何、お前の生活水準が分かるだって?……ビンゴ)。
 水辺だったら何でも無い事だが、山頂には水が無い。冷やし中華は、麺を茹でた水も冷やした水も、無駄に捨てなければならない。其の分担いで登る必要が有る。私の様に1gでも軽くとのポリシーの持ち主(ああ、そうだよ!ポリシーじゃ無く、そうとしか出来ないんだよ!)には、滅多に無いメニューなのだ。
 では普段はどうしてるかってえと、幕営でも小屋泊まりでも、朝はカップラーメンか即メン。夜は前迄はヴィフィーズだったが、今は進歩したアルファー米。来たかどっこい、これが大した優れものなのだ。
 容器の袋にお湯を入れて十五分、チャーハンでも炊き込みご飯でもドライカレーでも、お好み次第、下手な店よりはるかに美味い。其の上、手間いらずで洗い物無し。不精な登山者の救世主で有る。有り難う、開発してくれた方々!難点は一寸と値が張るなあ。
 でも昔のアルファー米と比べると、月とスッポン提灯と釣鐘、別物なの。値が張る位我慢しよう。その昔のアルファー米を良く食べた。ボンカレーをかけるのだ。結構変な物だったです。新型を知った今となっては、もう戻れない、いや、死んでも戻らない!
 次は行動食。色々試しました。で、辿り着いたのが、マヨネーズとコンデンスミルク。マヨネーズは大匙一杯でご飯一膳分のカロリーでダイエットの大敵、と言う事は登山者の強力なる味方なのだ。ロールパンにマヨネーズを塗ったくりむしゃむしゃ食べる。酸味も有りウィットにもなり食べやすい。しかも傷みにくい。夏の五日間の縦走でもビクともしなかったのでご安心を。甘さが欲しければコンデンスミルクをちゅーちゅー吸う。これも吸いやすく(?)カロリー満点。あと塩分が不可欠なので、豆類をぼりぼりとやる。どうです、お利口さんでしょう。このブログを読んでいて良かったですね。あ、行っちゃ駄目、帰って来て下さい!!!
 定番のチョコやチーズは意外と食べにくい。歳のせいだろう。せいぜいチーカマを齧る位。このブログに来ている人がいたら、多分団塊前後だろうから、成る程と思ってくれる人も多い筈だ。
 従って私の山中での食生活は、朝はつるつる昼はむしゃむしゃちゅーちゅー夜はぱくぱくごくごく(此れはアルコール)以上おやすみなさいで素朴で有る(え、貧弱が正しい?見解の相違ですなあ)。
 食べ易く力になって手間不要、これこそが究極の食料と私は思っているのです。尚且つ軽ければ言う事無し。
 困るのは水で、絶対必要なのに重く、あー水をかけたら水になる物を開発して欲しいなあ、なぞと願っています。(相当間抜けです)

2008年12月26日金曜日

悲しいラーメン その二


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                                                                                                       畦ヶ丸は双頂で、三角点の無い頂に避難小屋が有る。二十歳の春に六日間丹沢に入り、五日間は雨だった事がある。その時この小屋に停滞、二泊した。入山二泊目と三泊目だ。
 勿論誰一人居ないし来ない。一升瓶に水が有り、ノートに汲んだ日付が書かれている。セロリとマヨネーズも有り、割と新しい。喜んでばりばり食べたが、実に美味しかった!それ迄はパンと即席ラーメンと餅ばかり食べていたんです。
 ストーブで薪(用意されていた)を燃やし、濡れれた一切を乾かす。生き返るような、静かな二泊だった。当然ながら中日(なかび)には、雨に打たれながら大滝峠から北に下り、沢の源頭で一升瓶を満タンにして、ノートに日付を書いておきました。登山者の仁義で有る。
 語る相手がいないので自分と語る。何を語ったのか、全く覚えていない。どうせろくでもない事だったのだろうと想像できる。
 去年(平成十七年現在)、その懐かしい小屋に泊まった。変わらずに綺麗な侭だった。最近は山でゴミを見る事が少なくなった。嬉しい事に、確実に登山者のマナーは向上していると、感じる。畦ヶ丸の小屋も、何時までも綺麗でいて貰いたい。翌朝掃除をし、一礼して去りました。
 畦ヶ丸は展望が無い。その代わり、木々と鳥の囀りが迎えてくれる。新緑は鮮やかで、秋の黄葉も地味な味わいが有る。冬枯れの木立も捨てがたい。夏は……、悲しい思い出が有るのだ。
 十六歳の夏、Oと焼山から入山し、蛭、檜洞と歩き、犬越路を下って幕営し、白石峠へ登り返し(何でそんな無駄な登降をしたんだ?子供の考えは分からん)、相甲国境線を歩いて畦ヶ丸へ着いた。小屋は未だ無い時代。暑い日で、地面はからからに乾いていた。
 缶詰の燃料(今はまず使わない。小さいのを旅館で鍋料理に使う)に太い枝を二本渡し、飯盒を乗せ、ポリタンの水でラーメンを煮たのだった。もうできるかという時、タイミング良く枝が焼けて飯盒が転がり、スープはあっという間に地に吸われ、一塊のラーメンだけが地面に残った。独特の風景で有る。私とOは顔を見合わせたが、覆ラーメン飯盒に帰らず、とても悲しい。その上腹が減って、とても辛い。
 皆さんは決して燃料に枝を渡し、その上で煮炊きなんて馬鹿な真似は、しないで下さい。(え、そんな馬鹿はお前だけだって?)
 それは兎も角、畦ヶ丸は夏も良い山で有る。ひぐらしが、煩い程、鳴きますよ。

2008年12月24日水曜日

悲しいラーメン その一

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 又あっちへ飛んでしまった。畦ヶ丸の話
なのです。
 今は東海道自然遊歩道のコースになって、
(前は大滝峠から巻き道だった)知る人の
多い山になった。昔はマイナーな、余り人
の訪れない静かな山だった。
 畦ヶ丸の“丸”は、丹沢に多い。ピーク
を表す古代朝鮮語が語源だとの説が有るら
しい が、私には分からない。桧洞丸、東
丸、西丸ブナの丸(菰釣山 )、椿丸、大
タル丸、大 丸、小丸、シャガグチ丸、と
結構有る。
 畦ヶ丸は西丹沢からり、大滝峠経由で下
る(或いはその逆)が良く使われるコース。
 山仲間のS、K、及びそのお仲間達は、
私に何度となく大山東面の藪の中を引き回
され て、すっかりボロボロになっていた
が、このコースに行った時には、凄く喜ば
れた。
S「おい大塚、丹沢にもこ
 んな良いとこが有ったんだな」
K「おう、本当だ」
S「丹沢も捨てたもんじゃないな」
K「そうだよ」
 誤解をさせた私も悪いが、ひどい誤解だ。
丹沢は全て良いとこなんだよ!ちなみにこ
の Kは、滑落して死に掛けたKである。
 このコースは、行きも帰りも流れに沿っ
た路になり、目を楽しませてくれるのだ。
それに藪が無いので喜ばれたのだろう。ま、
普通は藪を歩かさないもんだよね。
 妻と登った時は新緑であった。三つ葉ツ
ツジがあちこちに咲いていた。山頂には三
パー ティがいて、満員状態だった。流石
に新緑の季節は人気が有るのだろう。隣の
ピークも人 だらで、笑い声がこっちに迄聞こえて来る。人で一杯の畦ヶ丸は、後にも先にもその一 回きりで、何時もは大抵シーンとしている。
 二昔前(これからも多用する表現、一昔で十年、つまり此処では二十年前)西丹沢か ら吊橋を渡り畦ヶ丸へ向かった。下棚(下棚沢の大滝、丹沢では滝を棚と呼ぶ)を覘こう と、沢に入り踏み跡を行くと、カーブ地点に赤いローヒールの靴が揃えて置いて有る。即座 に向きを変え戻りかけた。
 当然ですよね。その先には木に吊り下がった女性か、滝壺にぷかーと浮く女性がいる訳 なんだから。その人が元気で、街中で会うのはヤブサカではないが、こんな人気(ひとけ)も 無い山の中で、元気でもない姿にお目に掛かりたくもない。(処で何故自殺者は靴を脱 いで揃えて置くのだろう?どなたかご存知ですか)
 でも足を止めた。ここで逃げたら余りに薄情だ。靴が有ったと警察に言う訳にはいかな いし、確認は通りかかった者の義務でしょう。覚悟を決めた。それに、上手くいけば彼女の 決行寸前に救出の可能性も有る。
 恐々と進んだ。林を透かして見ながら、草の中にも視線を走らせる。腰が引けていて即 逃げ出せる体制が、我ながら情無い。でも何も無い。滝の音が高まって来る。鼓動も高 まる。滝が姿を現す。状況が状況なので、見慣れた下棚がやけに不気味に感じられる。
 滝壺にビクビクと近づき、首を伸ばして覗き込む。綺麗な底には何も無い。え、と気が抜 ける。戻りながらも探したが相変わらず何も無い。靴はちゃんと揃えて有る。一体何だった んでしょうね?
 私には見つけられなかっただけだと、今でも思っている。きっとその人は、何処か見えない
場所に居たのでしょう。或いは今でも。 (悲しいラーメン その二へ続く)

2008年12月23日火曜日

閑話 その一

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 これから時々本文に挿入される“閑話”と称する文章は、無駄話(閑話。え、知ってるって?失礼しました!)というより馬鹿話の方が内容的に近いと思われるが、一寸と気取って“閑話”とします。
 “三度も挑戦した変な沢”でMが登場するけど、セリフもアクションも何も無く、しかも二度と登場しないのです。丸でエキストラの通行人、そのくせ役名が有る、何それ?それではあんまりなので、此処で紹介しておきましょう。
 Mとは椿沢の他に、本谷を詰めて蛭、雪道をせっせと蛭、金山谷から檜洞と何度か一緒に登っている。全て泊まり掛けの山行だ。 細身だが身長は有る。180cmを越える。筋肉は確りしていて、重いザックも平気の平左。手足が長いので、沢でも高いホールドに易々と手が届く。何と立派な登山者だ!と言いたいけど、弱点が有る、それも飛び切り致命的だ。
 登りは良い。バリバリ登る。下りがいけない。下り始めて五分もすると膝が痛いと言い 始める。三十分もすると、泣き始める。それも子供の様に、エーンエーンと泣き叫ぶ(本当の話です)。良い歳した大人が手放しで泣き叫びながら下っている。異様だ。見せて上げたい。見たくないって?当然だ!
 本人は凄く痛くて痛くて、辛くて、泣くのだろう。それは勿論分かってます。で、一時間以上も経つともう歩けなくなり、尻をついてズルズルと下る。とても時間が掛かり困る。 でも私にはどうする事もできない。背負えないし。それが毎回、山行の度に行われる定例行事なのだ。可哀そうにも程が有る。良く何度も山に来たM君よ!君は偉い、懲りると言う事を知らない!(詰まり阿保?そんな事、口に出しては言ってません!)
 膝に故障が有るのかと、Mの友人の接骨医に診て貰ったら、異常無し。歩き方が下手で膝に途轍も無く負担を掛けるので痛むとの診断。何だ、歩くのが下手だったんだ。
 房総九十九里浜の人間だからアップダウンには慣れていないのだろう。房総九十九里浜の人間だから人目も憚らず泣き叫ぶのだろう。(え、房総九十九里浜の人間って皆そうなのかい?違います!って文章は自己撞着、矛盾ですなあ)
 Mは山では泣き叫ぶが、偉く親孝行な好中年なのだ。両親の介護をし、最後迄面倒を見て確り送り出しました(お父さんです)。中々出来ない。仕事の合間に家に立ち寄り食事から下(しも)の世話迄したのだから。山で泣く位何さ。人としては立派と充分認めています。
 そのMが、歩き方が上手くなった、と言って来た。フフン試せば一発。是非試そうと思うので、M君、一緒に又山に行こうよ!でも、お願いだから泣かないでね。私が苛めてると思われるでしょうが。全然苛めてなんて無いもんねー。(本当) これがMの紹介です。若しMが山に行ったとしたら、その結果は又報告したいと思います。お楽しみに。

2008年12月22日月曜日

ガレと草鞋の銀座歩き その三

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 鎖場から登ると書策(かいさくと読む)小屋が有る。此処では立ち止まらねばならない訳が個人的に有る。今は休業中とな
っているが、再開されるのだろうか?
 親父は美味いコーヒーを入れてくれた。書策新道も一人で切り開いた。水道水を6リットル程担ぎ上げたら、「 何だ、水道水だって?そこに入れといてくれ」と、ポリバケツを指した。洗い水にする訳だ。畜生め、拘りが有る親父だった。老いてしまってからは、コーヒーも入れられなくなった。
 妻とセドノ沢を詰めた時だ。ルートを取り違え、変なザレ尾根とボサに散々痛めつけられた末、登山道にやっとの思いで這い上った。妻の草鞋は奮闘努力の結果、開き切って藁がはみ出し放題の姿であった。しかも泥まみれで有る。録でもない亭主を持つとそんな目に会うのですぞ。
  話はそれるが、草鞋の話続きなので、勘弁して下さい。その別の時は、妻と新茅ノ沢を詰めて、烏尾で冷やし中華を造って食べた(美味しかったですよ)。烏尾尾根を下っていたら、脇で五、六人の高校生と若い先生(多分)が休んでいた。先生は私の地下足袋を見て
先生「あれは地下足袋だ。昔は山歩きに使ったんだぞ」
生徒達「ほー」
私の後から、草鞋の妻が降りて来る。さて何と説明をするだろう。(ワクワク)
先生「……」
生徒達「……」
 コメントは無かった。草鞋は想定外だったのだろう。
 セドノ沢に戻る。妻と、ボロボロの泥まみれで書策小屋に入り、ビールと言ったら無いと言う。じゃあコーヒーと言うと、ポットとネスカフェーの大瓶を出した。な、何だこりゃ!前は豆を挽いて薫り高いコーヒーを出してくれたじゃないかよ。しかも値段は同じだ。これじゃ潰れるぞ親父、しっかりしろ!壁には自分の新聞記事が一杯張ってあり、得意げに説明するのだが、コーヒーをどうしてくれるんだ……。
 それからは、通るたびに気にはなった。営業はしてるようだが、客はいなかった。売る物が無いのだろうから、当然だ。
  数年たって、Yと通りかかった。ハイカーが小屋の周りに休んでいる。小屋の戸は半開きで、親父、生きてはいるなと、ホッとした。すると、離れた便所から杖をついてよろよろと親父がやって来た。あ、親父だ。
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Yに言った。「 悪いが、親父の姿を見てしまった限りは、寄るぞ」 例によってビールは無い。コーヒーはネスカフェー。しかも湿気って、半分固まっている……。
親父「うどんしか食べられないんだ」
親父は歯が一本しか無い。
親父「昨日行水していたら、急に雨が降って、
いや、息が止まるかと思う程冷たかった」
Y「それは辛かったでしょう」
 もう山を降りろよ親父、死ぬぞ。
私「荷揚げはどうしてるの?」
親父「皆がやってくれてね」
私・Y「……」
 もはや営業小屋ではない。自分の記事の説明も無かった……。
 外の小屋で聞いた。書策の親父はいくら説得しても山を降りず、ここで死ぬと言い張る、と。首尾良く死ねただろうか。多分多くの人を煩わして、降りた事だろう(最近分かったが、県警のヘリが出て無理やり下ろしたとの事)。苦労された方々は、本当にご苦労様でした。その方々には申し訳ないけど、親父は本望だったろうと、私は勝手に思います。
 書策小屋から新大日までは、ほんの一登り。一旦下って登り返すと木の又小屋だ。何度か立ち寄ったが、こじんまりした落ち着いた小屋で有る。
 木の又小屋からが表尾根のハイライトだ、短いんだけど。塔の頂上は目の前、左は深い水無沢、右には三ツ峰の姿。しかも登山道は清冽で、風も大概は強く吹いている。ここだけでも、見に行っても損は無い。決して期待を裏切らない、筈です。

2008年12月20日土曜日

ガレと草鞋の銀座歩き その二

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 三ノ塔を下り一寸と登ると、三角屋根の烏尾の小屋を過ぎる。ここから戸沢出会いへ細々とした路が有る。一昔前に下ったがひどい事になった。
 二月初めその日は朝迄雨で、突然止んで快晴になった。雪ではなく、氷雨というやつで,如何にも情緒が有るでしょう。三ノ塔も烏尾山も、とても珍しい景色になっていた。木や枝や笹が氷の被膜で包まれて、風に揺れて擦れ合い、からからと小さな音を立てているのだ。幻想的である。真っ青な空の下、全てが凍って輝いている。此の四十数年で、唯一回の景色で有る。
 おー、とか思いつつ戸沢出会いへ向かった。今にして思えば思慮が足りぬ事おびただし、である。藪っぽい路なのは分かっていたのだ。笹や枝や藪は全て氷に覆われているのに、それを掻き分けをひたすらこいで行く(藪はこぐと言うのだ)訳だから、氷を浴びながら下る事になる。結局全身氷漬けで林道に降り立った次第で、震えが止まらない、というお粗末でした。
 行者岳の鎖場は二筋通っている。交通量の多い路は二車線になるのです。大倉尾根の章で触れた大雪の時の事、トレースの無い表尾根に向かった。勿論ただ雪々、登山道に踏み込めば腰迄埋まると分かっているので(登山道はU字に掘っくれている)、左の樹林を下ったが、それでも膝迄もぐった。雪山を独り占め、羨ましいでしょう。しかも空は真っ青、風は、それ程は吹いて無い。従って、暖かいいなあ、綺麗だなあ、幸せだなあ。そして何よりも嬉しいのは、トレースは此の俺がつけるんだ!ま、子供だと思って下さい。
 で、行者の鎖を登ったと思いなさい。あれ鎖が雪に埋まってる。あと1mが無い。鎖を力一杯揺するがびくともしない。北向きで雪は偉く硬いが、仕方ない。指で削って弾みをつけ、這い登った。みっともないけど、凄く怖かった。
 笑って下さい、私は本当に臆病で、高所恐怖症なのだ。ほっとしていると中年の男性が向こうから来た。彼は埋まった鎖を見て息を飲んで立ち尽くしていた。……凄く気の毒に思って、去りました。
 全然別の時、季節は秋でした。左の鎖を登っていると、声が降って来た。「待って下さいよ!」見上げると、立派な六十代と見える紳士が(何で立派と分かる、と聞かれると困るが、分かるものは分かる、この年になると)右の鎖に取り付き、降りようとしていた。何を言っているのか意味不明なので、登り続けると、「一寸と、あなた、危ない、私が降りますから待って!」何でだ。紳士は右車線、こっちは左車線。構わず登り切る迄叫び続けていた。でもガンを飛ばしては来なかった。ね、紳士でしょう。
 この話は絶対誤解を招いたと思う。私は決してその紳士を笑いものにしているのでは無い。実は私にも覚えがある。北穂の大キレットで人と擦れ違う時、同じ叫びを心の中で上げた。だから何だと言われると、詰まり、大キレットかよ此処は、ははははは……。あ、いけねえ、本心が出ちまったぜ。 (ガレと草鞋の銀座歩き その三へ続く

2008年12月17日水曜日

ガレと草鞋の銀座歩き その一

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 大倉尾根の次は表尾根。決まりものなのにトチ狂って椿沢へ飛んでしまった。(しかも飛んでも無くマイナー、何処じゃい其処は!の世界)済みません。(ぺこり)
 丹沢の表銀座は表尾根。丹沢のポスターは時代を超え時を超え、三ノ塔より見た表尾根が定番なのだ。疑う方は小田急電鉄に問い合わせて下さい。
 最近はヤビツ峠迄バスが入る。登山者が増えて来たのだ。でも、蓑毛から登るが少し前迄のルート。バスが行かなかったので仕方無く、柏木林道をせっせと登ったのだ。私が高校生の頃迄、蓑毛からヤビツ峠は木馬道(きんまみち)だった。横に丸太を並べ、材木を滑らせる道である。最早知ってる人も少なくなっただろう。
 その頃は休日ごとに満員のバスが峠へ向かった。小田急も深夜登山電車を走らせていた。沢登りの諸君はザイルを肩に、女物の下駄を突っかけて歩く。考えてみれば変な時代だったなあ。山賊も出たってさ。
 表尾根でも、三ノ塔迄はただ登るしかないが、大倉尾根を登るよりは遥かに増しで有る。標高差が少ないし、多少は変化が有るし、二ノ塔を越えて、三ノ塔に登り着くと世の中が変わるのだ。一気に視界が開け、思わず叫びたくなる。これも個人差が有るのは勿論だ。
 私の見るところこれは性差が大きい。男達は開けた景色を見ても黙っている。ただ座ってハーハーいってる。かく言う私もそうだ。ところが女性は違う、全然違う!女性は人類とは違うという説に、うっかり頷くところだ。(勿論、頷いたりはしません!)
 女性は、わー、とか、見て見て綺麗!とか感動をあらわにする。それを見ているだけの私も、何だか一緒に嬉しくなってしまう。人の感動する姿は、良いものだ。それに比べ男の登山者は本当に詰まらない。
 でもですよ、冷静に考えれば、おじさん達が口々に、綺麗わー!とか、すっげー!とか叫んだら、凄く嫌で、うるさくて堪らない。背を向けて、とっとと山を降りるしかない。男は無口が似合うというのは間違えている。是非山では、男は無口でいて欲しい、が正しいと思えてしまう。
 話は戻る。あっちこっち行っちゃうのが、この文章の特徴なんです。悪しからず。
 三ノ塔の下りも楽になった。下りながら見ると、左は大ガレにガレ落ちている。七年程前そこを這い登って登山道に上がった事がある。両手両足で崩れるザレを押さえつけ、必死の形相(多分。自分では自分の顔を見れないので)で一気に四輪駆動で登りきったが、改めて見下ろすと、よくこんな所を登ったものだと、愕然とする。
 え、ばれましたか?ばれれば仕方がない、そうです、自慢しているんです。外に自慢する事がないからなんです……。子供が「おいらは、あの毛の抜けた病気の猫をなぜたんだぜ、えっへん」と言っているのと同じ水準なので、ここは見逃してやって下さい。(ぺこり) (ガレと草鞋の銀座歩き その二へ続く)   

2008年12月14日日曜日

三度も挑戦した変な沢 その二

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 いやあ、病は気からと言うのは本当だ!私の友人Kは越前の春山で滑落し、足首を複雑骨折しても、雪の急斜面を必死で歩 いて(と言うより這って)、安全な所へ移動し、其処で動けなくなった。生きたいという本能はあらゆるものを超越する。この駄 文を読んでいる限りは、覚えの有る人もきっといるでしょう。
 そのKは足首に障害が残ったが(遭難した時同行してた地元山岳会の諸君は死んだと思ったそうで、生きているのが不思議な奴だ)、山に一緒に登ると私なんかより速い(何、私より速いのは当然だって?)。とっとと登る。健常者より達者な障害 者???
 で、その時は左の尾根に逃げたけど、足元はガチガチに凍り、藪と棘は猛烈。小さなキスリングが棘で割かれた。キスリン グって知ってます?大きな横長の綿布製袋型ザックで、一寸とやそっとで破れる代物ではない。当時の西丹沢の藪は手強 かったのです。
 大室山に立った時、余りの青空と山々の雪の白さにすっかり喜んで、良し行くぞと桧洞丸にも登ってしまった。今はとても駄 目、考えただけでも疲れがどっと出てしまう。大室山だけでもう十分満足だ。
 さて平成の御世、Y,Mと椿沢に再挑戦。沢に入ったは良いが辺りは植林ばかり、何だ、どうしたと、うろうろしているうちに 本流を外し、踏み込んだ枝沢は見る見る消えて尾根に取っ付き、ガサガサやっているうちに登山道に出てしまい再度失敗。 あー、俺は何やってんだ、とつくづく悲しい。
 数年後別メンバーと挑戦、ナーバスに本流を詰め(私はひどくアバウトな奴なんで、ナーバスになって、どうにか普通の人 並みなんです)、やっと沢を詰めて大室山に辿り着いたです。何年かけてんだかね。自分にお馬鹿さんと言ってやりたい。お 馬鹿さん♪(え、甘いって?良いの!少し位)
 三度も挑戦した沢はここだけなので(後に出て来る芝倉沢は三度挑戦しているが、元々間違っていたので除く)、つい拘っ てしまった。椿沢、危ない所が無いのは良いけど風が通らないので、苔むした沢だ。苔は風が吹かない所を好む。水無沢の ひごの沢もそう。いや、暑い時は鬱陶しいです。でも晩秋や春未だ浅い時期には良いかな。
 やっと着いた大室山は立派な山で、西丹沢の盟主の名に背かない、従って別に項を立てる事にしよう。お楽しみに。
 思い出話で、済みません。この先もずーっとこんな調子で行くんだけれど、ま、おやじだから許してやって下さい。

2008年12月12日金曜日

三度も挑戦した変な沢 その一

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突然ですが椿沢。三度挑戦(?)してやっと詰める事ができた、万歳!失礼、突然沢の話になってしまった。それも変にマイナーな沢だ。
 断る迄もないとは思うけど、万が一山に慣れない方が真似をしたらとても困るので、申し述べます。未経験者は決して沢に入ってはいけない!!これは丹沢に限らない、山歩きの鉄則だ。沢登りをしたければ経験者に教わり、しっかりと経験を積む必要が有る。路の無い尾根を歩くのも同じで、経験のない方、および良い子の皆さんは決してこの本の真似をしてはならない!
 ……これで良いかな。何かあっても、訴訟は受け付けませんよ。
 古い話で御免。喝采という曲がレコード大賞を取った年に、道志村竹之本に泊まり、椿沢から大室山を目指したのです。出発は大晦日です。大月から都留へ出て、其処から本数の少ないバスに乗って、峠を越えて行くのだ。当時は竹之本に入るのは、それだけで旅行みたいなものだった。何処でも、喝采が流れていた。喝采の旅です。
 一、二年前迄はランプの宿だったらしいが、その時には既に電気が通っていた。一寸と残念。多分大サービスだったのだろう。夕食はステーキだった。ショックだ、私は偏食で肉が食べられない。結婚間も無い頃、妻は私の肉嫌いは食わず嫌いではと疑い、鶏を白身の魚と偽ってフライにし、食膳に出したのだった。勿論私は疑いもせず、パクパクと食べていたが、突然の吐き気に襲われ、席を立つや否や庭に吐いてしまった。それ以来、妻公認の肉嫌いなのである、えっへん。
 詰まらない事で威張ってないで話を竹之本に戻しましょう。うっ……。ステーキを二口位は頑張ったが戻しかけ諦めた。結局おかずは漬物だけ。う、う……。私的には岩魚か山菜が良いのに、マスでも良い。無残だ。女中さんは殆ど残っているステーキを見て唖然としていた。御免なさいね。
 どうでも良い話はどうでも良いですね。
 当然ながら翌朝は元旦、しかも快晴、やったーとはこの事。腹は減ってるが元気は一杯、椿沢入り口から凍りついた沢に踏み込んだ。路は無いし(当時は黒い破線が有ってそれを行く心算だった)踏み跡は雪に隠されている。何とか進む程に、腹が渋り出した。昨日の肉が合わなかった?便意が物凄く募って、もう限界、どこかで、と探すと、眼前に壁が現れた。薄っすらと雪を覆った壁。
 必死に地形を地図と照合する。便意は、知らぬ間に引っ込んでいた。   (三度も挑戦した変な沢 その二へ続く

2008年12月7日日曜日

大倉尾根はお好きですか? その二

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 花立山荘から花立のピーク迄、結構登らされると知ったのも中年になってから。特に新雪の時なぞ、丹沢にいる事を忘れる。あ、丹沢 様、御免なさい、勿論貴方を、どの山よりも大好きです!
 花立山荘、汚いぞ。夏は「ビール」「 氷 」のノボリ。冬は「おしるこ 」。その誘惑に負けない人間は稀だ。私も負ける、情けない。(氷は勿 論担ぎ上げ。実は尊敬してます、花立山荘御中)
 花立を越えてやっと山になる。あー、ここ迄が長く鬱陶しい。正確にはこの先、金冷し迄が大倉尾根だが、構うもんか、勢いで塔ヶ岳へ 行こう!
 金冷やしで鍋割りへの路を分ける。この道標が、雪に埋まっていた時は驚いた。木の枝をくぐりならトレースを追ったが、頭を何度も 枝にぶつけてしまった。先頭の人はさぞラッセルに苦労した事でしょう。
 塔ヶ岳近くなると、左に一ヵ所、右に二ヶ所、私が勝手にバルコニーと呼んでいる、見晴らしの良い場所が有る。
 十年以上前の話。三脚にカメラを付けて担ぎ、地下足袋姿で左のバルコニーに飛び込み、三脚をセットしていると、休んでいた紳士に、 「身軽に登られて、羨ましいです」と語りかけられた。曖昧に返事をした私が、今では全く同感。身軽に登って行く若者達を、羨ましげに見 送っている。月日とは、流れ行くものなんですなあ。
 で、夏にはバルコニーにお客さんが多い。頂上は目の前だ。でも、あと一息が苦しいのだろう。人によっては「あ、良い景色だ」とか誰に 言うでもなく、大きな声で呟いて入って行く。あのー、もう一分も歩けば、頂上なんだけど……。
 頂上は何時でも人がいる、って訳じゃないけど、印象はそうなのだ。平日は知らないが、真冬でも、風下で誰かが何か煮炊きしている。 見ている方が寒くなる。真夏でも日向に、上半身裸で寝ている。見ている方が暑くなる。勿論過酷な状況では、殆どのまともな人は、尊仏 山荘に難を避けているのだ。あ、誤解を招く表現をしてしまった。真冬や真夏に表にいる人はまともでは無い、と取らないで下さい。若き日 の私もそうだったんだから。今では真似ができないという事です。ここからはご存知の事。(今迄の話もそうだって言われりゃ、そうなんだが)
 これで大倉尾根とは別れたい。でも、丹沢に行く限り別れられない。いや、山に登る限り別れられない。ブナ立て尾根だろうと、赤岩尾根 だろうと、黒戸尾根であろうと、越後駒ヶ岳だろうと、赤石岳東尾根(奇しくも馬鹿尾根と呼ぶ)だろうと、どこにでも大倉尾根が有る。
 それを、宿命と書いて定めと読むのだと、私は解釈しています。(詰まり、諦めているのだ)
 観音茶屋が最近たまに開いている。見晴らし茶屋がリニューアルした。駒止めのコーヒーは美味い。堀山小屋は、何か好きな小屋です。
 ついでに書いておくけど、どの小屋でもコーヒーが美味しい。その場で豆を挽いて入れてくれる。それに水が良いからとても美味しい。小 屋によって値段は違うが、まあ四百円程度なので、どんなに美味しいか、一度お試し下さい。

2008年12月6日土曜日

大倉尾根はお好きですか? その一

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 山には先ず登らねばならない。登ったら、今度は降りなければならない。当たり前だ馬鹿、と声が聞こえる。やった、これで私もシックスセンス。
 馬鹿は大概にして、大倉尾根の話をしよう。丹沢に行く人ならば、一度や二度、いや三度、いや、嫌でも(嫌なんだ!)何十度も登り降りす る事になるのが大倉尾根、通称を馬鹿尾根と呼ぶ。 塔ヶ岳(初めに、には塔ノ嶽と書いたけどお気づきですか)から一直線に大倉へ下るのだから(正確には金冷やしから大倉)効率が良い。 だから誰でも通るのです。

 欠点は誰にも有る。欠点が無い人がいたら、欠点が無いのが欠点なのだ。大倉尾根の欠点は、単調で詰らなく、しかも辛い!駄目だこり ゃ、全く救いが無い。
 私事だが、ピストンする事も多い。詰らないが体力測定にはお薦め。でも、詰らないからね、本当に。
 若い頃(大昔)はさっと登って、走り下った。何と詰らん事をした。今はピストンも面白い。……事もたまには有る。 白状すれば五十九歳です(平成十九年現在)。酒飲みで煙草吸い、トレーニングなんざ夢にも考えた事がないという、団塊の世代の面汚 しなので、大倉尾根は結構辛い。それでも休んだりて、周りを見ると、四季折々の景色が有り、様々な人がいる。この年にならないと、気づ かなかった。不覚な男だとつくづく思います。
 真夏の大倉尾根は過酷だ。疑うなら行ってみれば良い、私は止めませんからね。へっへっへ……。
 去年の夏、汗を3リットルは流し、小草平や吉沢平に着いても人がいない。はて、バスは満員だったのに。あ、いたいた、木陰に大勢、ハー ハー喘いで、項垂れる人々。日なたは地面が白く見える程の照りつけだから、無理もない。そういえば途中にも登山道の脇に座り込むパーテ ィが、ぽつりぽつりといた。皆さん、さぞかし辛かろう、さぞ暑かろう。我が同士よ!この日は、脚がつる寸前に、塔ヶ岳によろめき着く事ができ た。本当に過酷なんだから。
 私が見たのではなく、友人のYの見聞だが、喘いで登っている外国人さんと擦れ違った時、「 オーマイガッ! 」呟いていたそうで、それを聞い て思わず大笑いしてしまった。御免なさい、外国人さん。でも、面白いでしょう。どこ迄も続く登りに、うんざりした外国人さんが、オー、マイガッ! はっはっはっはっは……。失礼。
 大倉尾根よ、駄目だぞ!君に反省を求めるのは、堀山迄の詰らん植林帯がやけに蒸し、そこからは日陰がなく、しかも南向きで、この馬鹿尾 根が!
 思わず興奮してしまいました。
 花立の大階段を恨む声が多いが、違う。昔は赤土の急斜面だった。誰でも登るのに苦しみ、降るには、転んだ。特に雨の日はひどかった。大 倉尾根を下った人は、皆ドロドロだった。今はドロドロの人を見る事はまずない。凄く楽になっていると、古い人間には分かる。だから大倉の水 道に、タワシが置いてあるのだ。どろどろになった靴や、ズボンを洗う為なのだ。私も随分お世話になりました。
 それでも、あの花立の大階段は 嫌だと思うでしょう。
 それが勘違いなの。大階段が悪いのではなく、小草平から大階段に取っつく迄に痛め付けられて、結果として大階段が辛くなるのだ。そうな んです(きっぱり)。
 困るのは、大階段の途中で両手を広げ、進むでなく、下がるでなく、ゆらゆら揺れて路を塞いでいる人。彼の落ち込んでしまった状況は良く分 かるけれど、横を通れないのが一寸と困る。でも私は責めません。   (大倉尾根はお好きですか? その二へ続く

2008年12月4日木曜日

出会い

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私の通っていた高校は世田谷に有った。秋から冬にかけては、部活の終わる頃、西の空に、草野心平の詩のように

  いきなり がっと
    夕映えの富士

 その富士山の前衛に屏風のように黒々と、大山、塔ノ嶽、丹沢山、蛭ヶ岳、姫次、焼山と連なる丹沢主脈の山々。それが丹沢との出会いであった。
 嘘です。中学の頃から登っていました。しかし、夕映えの丹沢が心を捉えたのは真実です。丹沢に恋をして、つまり我が初恋の山、丹沢。当然ながら浮気もした覚えも有る。南北中央アルプス、奥秩父、八ヶ岳、上越国境の山々。でもこれは、言い訳するけど、丹沢へ戻る為なのだ。丹沢しか知らぬ奴が丹沢を語っても説得力に欠ける。そう思いませんか?
 「色々な女を渡り歩いたが、矢張り君が一番だよ」てな気障なせりふを吐く奴の気持ちが分かる。もっとも現代の女性はそんな事を言われて喜ぶどころか、男の頬を張るだろう。踵落しを食らわせても、至極当然だと思う。
 結局、アルプスは丹沢ではない。上越国境は丹沢ではない。丹沢は丹沢なのだ。
熊、猿、日本カモシカの三種が住んでいるのは、本当の山奥のみなのだが、驚くなかれ、丹沢もそうなのだ。驚きましたか?東京のすぐそばなのに、植林に痛めつけられているのに、2千メートル未満の山塊なのに山深いのだ。そう、昔は丹沢山塊と呼んでましたね。(熊は最近も達者だろうか、噂を聞かなくなって久いが)
 達者だよー。ゾロゾロ里に現れて騒ぎを起こしている。(平成十九年の事)。
 てな訳で高校の音楽室(見掛けと異なり、音楽部所属だったのです)で丹沢との本当の出会いがあり、おやじになった今に至る、丹沢へのの恋心を書き綴ったしょうも無い文章なのです。

                                                                         大塚健三郎

2008年11月30日日曜日

始めに

これから暫く書き綴って行く雑文は、
案内書ではなく、丹沢好イラスト13きの男が丹
沢が好きだと言っているだけのもの
です。歴史、地質、植生等について
も、触れていません。 しかもこの丹
沢好きの男(詰まり私)は、唯の中年
男で登山のキャリアも無く、高い所ま
で苦手なのです。高い店も、苦手で
す。 うっかりお読みになった方が、
何の役にも立たないと怒られても、
責任は持ちかねます。でも多少は良
い情報も散りばめられております。多
分そうです。
大塚健三郎