あたしの父は劇団新派の俳優だった、最早知る人も居ないであろう劇団新派。水谷良重の名前を覚えて居る人も或いは居るだろう。其の娘が水谷八重子だと言えば、あ、そうか、と思って貰えるだろうか。
十六の時に、愛媛の遥か辺境の多喜見と言う在所から二日掛けて東京に上り、縁有って井伊家の内弟子となって、一生役者だった。
新派とは、歌舞伎が本家なので、良く行き来をして居た。あっちから来たり(例えば玉三郎)、こっちから行ったり、父もよく行って居た。
勿論脇役専門で有る。池波正太郎が贔屓してくれた。
「井伊は良い、客席の隅々迄声が通る」。
うーん、声が通るだけだったのか。大声が売りって事か。そうは思いたくない、倅としてはだ。
舞台専門だったが、一本だけ映画に出た事が有る。玉三郎監督の「外科室」に一寸と出て居る。外はTVのコマーシャル位。徹頭徹尾舞台だった。
一応文部科学省から表彰も受けては居る。何せ、新派で一番古い役者なのだから、
父は、アルツが進行して、結局舞台がボロボロになった脳に残った。
詳細は前に書いた。
「しまった、!!舞台をとちった!!」
「あのね、お父さん、新派は公演をして無いんだよ」
「そんな出鱈目を何で言うんだ!!!」
「本当なんだって!!」
止めよう。定年の有る職業が良いのか悪いのか、良く分からん。但し、父には辛かっただろう。きっと、辛かっただろう。
とか言い乍ら、舞台で食って行きたいと志す人の0.数パーセントしか出来なかった事が出来たのだから、幸せ者だと一家中思ってます。もうじき五年になりますなあ。
2011年10月9日日曜日
休題 その七十五
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2 件のコメント:
お父上が、声のよく通る役者さんだったのは 肺活量があって、強い呼吸器をもっておられたのでしょうね。それが遺伝して、強行軍の登りでも平気な肺をもった山屋さんに なったのですね。納得。
今は違うのです……(涙)。
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