2009年4月19日日曜日

休題 その八

店 015

 

 織田信長は確かに偉大な革命家で有る。従来の常識や権威を平気で踏み躙る。人を無闇と殺すのは、好みでは無いけど。
 天下を取るべき人間は、運が良い。武田信玄が西上の軍を進める途次で死去した事。あの時武田と織田が全面衝突してたらどうなっただろう(ワクワク)。織田軍は信玄の策略に依り敵に囲まれており、全兵力の集中は不可能だったから、武田に押されると見る。同盟していた徳川家康は信玄に完膚無き迄叩かれて、脱糞して浜松に逃げ込んでいた。織田包囲網は勢いづく。歴史が変わっただろう。
 処で、信玄と言えば未だに甲府駅前の銅像の元になった恰幅の良い絵が出て来る。信玄の死因は結核、胃癌説が有る。どっちにしろ何であんなに太って脂ぎってる?理由は簡単で、あの絵は能登の畠山氏の姿だとは専門家の定説だ。でも一度通用した事柄は覆らない。
 南京で大虐殺が有ったと通用すれば、幾ら証拠を並べて覆そうとしても駄目。ダーウィンの進化論に異議を唱えても無駄。ダーウィンの件は章を改めよう。
 人間(特に日本人は)一度教わった事を良くも悪くも墨守するのですなあ。科学的では無い事夥しいと思って仕舞うあたしが変わってる?そうじゃ無いと確信が有るのだが、人はそう見ないのが悲しい。
 信長のラッキーのその二は、信玄の大敵上杉謙信が越後、上野、越中、能登、加賀に動員令を下し、関東に攻め込んでから軍を返し、京を目指そうとして、寿命が尽きた。
 其の報告を受けた信長はきっとへたり込んだ事だろう。謙信とは直にぶつかっては居ないが、部下の柴田勝家の軍勢が、あっと言う間に蹴散らされて手取川に追い落とされ大敗北を喫しているので、信長は信玄亡き後、唯一恐れる相手が謙信だった筈だ。しかも、あの怖い怖い(信長にとって)信玄相手に堂々戦い続けた上杉謙信、自らを毘沙門天(闘いの神)の生まれ変わりと豪語する武将なので、信長が其の実力を理解しなかった筈は無い!
 ド素人のあたしは此の二つが信長最大の危機で有り、二度共相手が勝手に死んでくれたのだから、信長こそ最大のラッキーボーイだと思っている。
 処が世の中とは面白いもので、結局天下を取って三百年の平和を齎したのは徳川の狸親父なのだが、彼は殆ど武田信玄の手法(闘い、民事共に)を踏襲したと言っても過言では無い。
 滅びた武田家の家臣を片っ端から召抱え井伊家に預け、井伊の赤備えとした話はご存知ですよね。八王子の千人同心も武田の遺臣だったのだが、此れは余り知る人がいない。千人同心は新撰組の母体と言っても良い。
 信玄は内政にも力を注いだ。信玄堤が有名だけど、民を豊かにする事が国力の増大と承知していた。家康はそれをも学んで実践した。
 あたしの様な信玄公フアンは、結局武田信玄が天下を取った様なものさ、と嘯いては美味い酒を飲むのです。

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