十三の続きです。何処迄続くの?終る迄!
結局三時間も詰まらない、と言うより苦痛な劇を見せられた我々は、飲み乍らの罵倒大会となった。途中で帰れば良かったんだ!
ひどいものを見せられても、罵倒なんざ有得ない場合も有った。そりゃあひどかった。作も演出も俳優も。全員素人だったけど(うちも同じか)。
でも、必死さが伝わって来るのだ。ひどい作品をひどい俳優(?)が一生懸命演じて、詰まらないけれど、共感を持って仕舞う。従って誰も罵らない。
カッコーの巣の上に、と何処が違うのだろう?何で、片や罵倒され、方や好意を持たれるのか、滅茶苦茶詰まらないのは同じなのに?
あたしの事だが、分かる人はもう分かって居ると思う(付き合いの長短と関わり無く)けど、根本的に没理論な奴なので、如何にも理論的な事を書く場合も、其れはあくまで数学的理論で有って、己の考えや行動は、単に感覚と言おうか本能と言おうか、何れにせよ説明が出来ないのが常態で、そんな駄目な奴の通例通りに、説明する気が全然無い。
もし説明する気が有っても、はて、どうなんだろう?と困るだけで、殆ど動物みたいな存在で有るのは、我乍ら情無い。
あたしは、世の中に其れ程は居ない幸せ者の一人なのだ。どう見ても幸せ者なんかにゃあ見えないって?何を幸せと思うかに依って、意見は別れる。
幸せと成功との分離が成されなかった昔は、金地位名誉と言われた。団塊の世代の発言力が増して、健康が加わった。従って今は、金地位名誉健康。
健康は認めよう。金地位名誉が溢れる程有っても、床に就いたきりでは、何も面白く無い。山にも行けない。あたしゃあ御免だ。
尤も其の人が重大な使命感を持ち、床に就いたきりでも、次から次と決定をしなければならないとしたら、うーん、ぜーんぜん幸せなんかじゃ無い!はっきり言えば、不幸だ!しかも並外れた不幸者だ!!!
芝居の話だったよね?
えーと、あたしゃあ幸せ者だよーん、て話だったんだよね。
そうなの!良くぞ思い出してくれた(おい、自分の事だろう)。あたしが動物並みとは謙遜で、劇団員にはあたしの及びもつかない動物男が居るから、動物並見習い程度と位置着けるのが正確な表現だと思う。
幸せの話にすると、度合いが必要だ。感覚では千人に一人から一万人に一人の間かな。根拠は無いけど。総理府が統計を取って偏差値を弾き出せば、はっきりするだろう。尤もどうやって統計を取るのかなあ。其れは専門家に任せよう。
ほら、話が分かんなくなっちゃった。
仕方無い、続きます。
2 件のコメント:
芝居は、作も演出も俳優も、本当に伝えたいことがひとつ あれば、観客に必ず伝わると思うんです。何も伝わらなかったとしたら、やっぱり失敗作ですよね。
そうですよねー。
あたしはそれでも、演出家の責任を追求します。
芝居は本でほぼ決まるのですが、演出を誤ると、本を殺し、役者を殺します。
下手な監督の映画の俳優は、皆下手に見えるでしょう?上手い人でもです。
下手な演出家、監督に掛かった日には、百年目です。
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