2010年4月4日日曜日

休題 その三十六

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 まあ、経験有る人は、何処も同じだなあ、と思われるでしょう。
 失見当識はとっくのとう、夜も昼も分からなくなり、夜中でも叩き起こされれる様になった。
父「大変だ、仕事は何時からだったっけ、トチッっちゃったよ、あー、どうしよう!」
私「お父さん、夜中だよ、勘弁してよ」
父「其れどころじゃ無いんだよ!」私「もう仕事は無いんだから、安心して良いんですよ」
父「(笑い)馬鹿な事言いなさんな」
 で、仕事場に電話を掛けるのと言う騒ぎになる。医師に相談しても、安定剤を処方してくれるのみだ。
 其のうち段々体が弱って来た。食欲は有るのだが、機能が低下して来たのだろうか。九十を越えたのだから。
 其れまでは一人で散歩にも行った。何か食べたの、と聞くと大概食べたと言う。あそこだ、と近くのイタリアンの店で聞くと、代金は払って居る。たまに払って無い事も有る。
 良く、散髪してさっぱりして帰って来る。家人が急いで床屋へ行き、代金を払う。
 仕事に行くと言い張るので、どうせ行けないだろうと、送り出したら、案の定、隣の駅の交番から電話で、引き取りに行く。前は其の町に住んで居たのだ。
 思えば、手間が掛かると言い乍ら、其の頃が花でした。体が弱ると、一気に弱った。立つのもやっとになった。あれよあれよの間で有る。結局、家の中で車椅子に座って居るのが常態となり、気付けば食欲も衰えて居た。
 其の頃は、ベッドへ座らしてくれと言うのでベッドに移すと、ソファーに座らせろと言う。ソファーに座らせるとベッドに座らせろと言う。無限ループの時期で有った。靴下を脱ぐ、履くの無限ループも有った。
 次の時期は、不調を訴える時期だった。ひょっとすると、安定剤の副作用も有ったのかも知れない。苦しがり、交代で背中を擦ると楽な様だ。始まりは、目を見開き、両手で上体を支えて、固まる。始まるぞ、と覚悟すると、「苦しい」と言う。色々と薬を試したから、矢張り副作用だっただろうと、家族は思って居る。
 そして、入院と老健を繰り返す日々となった。妻は立川の先迄、週に二、三度は通って父の世話をしてくれた。帰りに立川駅で食べる駅蕎麦(それもカケ蕎麦)が楽しみだと、言って居た。
 会いに行っても段々話は出来なくなって行った。初めの頃はしきりに帰りたがって居たが、やがて其れも分からなくなってしまった。
 亡くなって、やっと我が家へ帰る事が出来た。妻は、生きて居るうちに退院させてうちに帰せば良かったのに、と泣いた。
 何も出来なかったと後悔ばかりの話でした。

6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 けんさんの父上も立派な人生だったのだと思います。だから私の父の話しを少しします。
 父は山が好きで冬に志賀から万座へ単独行をし、山小屋のあるはずの場所に小屋がなかったので凍死を避けるため、朝まで体操をしていたら脚の下に屋根があったという。ライカの写真が証明していたのだが、70歳位の頃、自分の書いた論文や本、写真やネガを暖炉で燃やし始めました。狂ったわけではないのです。未だにキャビネット三個分の論文が残されています。
 80を過ぎてから画期的な発明をし、日米の特許を取得。そして私財をつぎ込んでNPO法人を創り生涯現役の土建屋でした。オイラに呉れる筈の株まであっさり売飛ばされ残ったのは裏庭の事務所と金にならない特許・・・
 私も同じ土建屋なので尊敬はしています。父は成城学園のワンダーフォーゲル、母は自由学園。だから説教とか、勉強しろとか誰も云わない。13歳の時に兄貴のスーパーカブで捕まったときも全く叱られませんでした。そして高校の頃には、10日も帰らなくても心配すらしないのです。
 小学生の頃に父からスキーを教わり、高一の時にヘルメットを被らされ大回転に出されました(205cmの板ですよ)。一本目はインターハイ間違い無しのタイム(東京都だから大したことは無いのですが)。でも二本目は吹雪でポールが見えない状態。記憶だけが頼りでした。ヘルメットが風を受けもの凄い轟音を立てていました。ゴールに近ずくと視界が良好に成り加速しましたが、最後の旗門で山側の板を引っかけ見事に転倒。をれをOBがキッチリ写真に納めていました。そんな訳で大学時代のバイトはスキーパトロール。そこらの指導員より上手かったのです(過去形)。
 父の話でしたね。78歳位で赤坂の前田外科(親子三代の付合い)でアルツハイマーと診断された時に、「その病気の特定は極めて難しいから・・・」と助言したが答はノー、「先生の見立ては正しい」と。でもあの病院は痔専門で三代目の弟が整形外科のくせにアルツと誤診したのです。
 後日、日赤病院で水頭症(頭の中に水が溜る。実際に被れていたソフトが被れなく成りました)だったことが判明。そして、2000年の暮れと2001年の正月に軽い脳梗塞をして、ろれつが回らなくなり字も書けなくなりました。しかし頭の中はクリアーなのです。字が書けないので一本指でワープロを使ったりしていました。あるいは家内が口述筆記をしたりしながらで、NPOを運営していました。
 父は何も云わない人でしたが高校の頃、俺の数学の教科書を貸せといい、なにやら計算をしていました。そして返してくれるときに「数学だけはきっちり勉強しておけ」と、これが初めての助言でした。次は高校から大学に進むときに「土木じゃなくて電子工学をやれ。これからは経験工学の土木より電子工学だ」と。コンピュータなんて滅多に無い時代にです。結局土木を学び就職をするときに三回目の助言。「会社の女性には手を着けるな」・・・ これだけは守りました。
 三年前の暮れに90で昇天。自分の父ながら天晴な人生を送ったんだなぁと思います。小生には超えられない男でした。

匿名 さんのコメント...

匿名さんになってました。父の話は悪戯っ子がカキコしました。

DOGLOVER AKIKO さんのコメント...

後悔されることではないと思います。充分されることは、されたので、「後悔なし、幸せものを家族全員で見送ってあげた」と、考えて良いではありませんか。
家族に、いろいろ繰り返し繰り返し注文をして困らせるのは、困らせようとしてやっているわけでなく、自分も不安なのですね。だから、家族を巻き込んでしまう。でも、ひとりでイタリヤレストランで食べて帰っていたり、散髪して帰ってきたりするおとうさんって 可愛い。お父上のお芝居のヴィデオ 持っておられますか。たからものですね。そうして、ヴィデオなどで、残る仕事をされた方は、子供の代 孫の代まで、追憶することができて、幸せです。

DOGLOVER AKIKO さんのコメント...

悪戯っこさん
スキー、山歩き、ライカに、生涯現役、、、素敵なお父上でしたね。「父は成城のワンゲル、母は自由学園、、、」で、家庭の雰囲気がわかる、というのも、おもしろい。そういえば成城のワンゲル 明るくて素敵な人ばかりでしたねー。山岳部の人たちと全然ちがう世界の住人でした! o
父親のスキーの教え方など、根底に父と息子との絶対信頼があるからこそ、無茶できるのでしょうね。母親にはできないことですから。
家族赴任で出張中フィリピンで死んだ、私の夫も一級土木設計技師でした。彼が作ったものを 子供達に見せてやれないのが残念です。地下鉄の施工(真っ暗で走っている電車から見えない)とか、フィリピンで山を切り開いて造りかけた道路(ゲリラに破壊された)とか、、、。

kenzaburou さんのコメント...

悪戯っ子さん

流石、名門家のお父上です。
うーん、越えるのは難しいでしょうね。

出来たら、「あらゆる女性に手を出すな」、と父上が助言されたら、人生が変わっていたでしょうね、はっはっはっは。

あ、失礼!

kenzaburou さんのコメント...

Doglover さん
それでも悔いるのが、あたしが様な凡夫なので、仰る言葉は頭では分かるんだけど、悔いるのです。

衛星放送の一時間のインタビューだけしか持っていません。たまに、舞台中継をしたからと、著作権協会から連絡が有るだけで、我が家のは舞台のビデオは無いのです。

あ、珍しく映画に出たので、其れは何時でも見れるので、OKです。