2009年5月26日火曜日

生まれる路、消え行く路 その三

FH000063

 

 ははははははははと笑い。
 冗談です。母は、はははははと笑い、大丈夫ですよ、と答えた由。
 翌朝、明るくなると分かるものだ。あ、あっちだ。で、鳥屋に着きました。不思議なもので、未だに鳥屋は落ち着いた良い集落との印象が強い。余程辿り着いた鳥屋が、少年の私には素敵に見えたのだろう。
 織戸峠、富士見峠越えの道は、完全に消えた。前の、前々の、その前々の地図からも消えていたから、大昔に消えたのだ。古い案内書を当たって見て驚いた。昭和三十八年のマウンテンガイド、朋文堂の”丹沢“が最後の案内だ。
 失くしてしまった丹沢案内書の、何故だか一枚だけ残っていたページが有る。其処に何と、世附川沿いの簡易鉄道の写真が有る。小さな機関車が材木を積んだ簡易貨車を引いているのだ。遊園地ごたある。(九州弁?はい)
 その簡易鉄道が今も健在なら、世附の長い林道歩きがカットできるのになあ。乗車券が千円でも安い、二千円でも絶対買う。
 織戸峠には三度立った。一度目は法行沢を詰めて着いた。路の痕跡も無い樹林の中で、何故織戸峠だと分かったかと言うと、織戸峠と書かれた札が樹に打ち付けてあったからだ。(何とアバウトな奴!)一応地形も検討しての上ですよ!ま、アバウトな奴という評価は、外の面では否定できないけど……。
 二度目は大栂から下って来た。篠竹の滑り台でとちったリベンジに成功したのだ。やったね、失敗ばかりじゃ無いんだ(威張るのも恥ずかしい)。
 三度目は富士見峠に立ったついでに立ち寄って、造り掛けの水ノ木の林道へ出て、世附の林道へ下った。そして長い林道歩き、前述の簡易鉄道が有ったらなあ。
 三十八年の案内書によると、富士見峠を下ったら地蔵平の集落に入る、となっている。古い五万図を見ると学校も有る。
 今訪れると、川の合流する、何も無い寂しい平地だ。学校に通っていた子供達は何処に行ったのだろう。子供の帰りを待っていた親達はどうしてしまったのだろう。多分地蔵平の名前の由来となっただろうお地蔵様が、道より高く祭って有る。何時その前を通っても、花が供えられている。当時学校に通っていた子供達が、今でもお地蔵様をお守りしているのだろうと、私は一人勝手に思っている。
 富士見峠への廃道は二度、藪を書き分け通ったが、今は林道が通っている。それも歩いて見たが、確かに楽だが詰らない。書きながら感じた。私は完全に病気だ、そんな所の林道迄、歩いていたのだ……。
 処で、何であんなに林道を造るのだろう。 (生まれる路、消え行く路 その四へ続く)

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