2014年3月3日月曜日

思い違いは世の習い その二




 最近の登山の主力は、悲しいかな(酷い言い方だって?でも、本当なんだよ!)中高年パーティなのだ。南北中央アルプスでも八ヶ岳でも上越でも奥秩父でも丹沢でも、多くは中高年パーティが山を歩いて居る。勿論積雪期は別なんだけど。
 「登山者は寡黙だ」なんて遥か昔の物語。ドンキホーテ・デ・ラ・マンチャの世界だ。本当だ、本当に本当だ。うーん、キリシタンなら神に誓ってと言えるのに、其の点日本人は面倒だ。誓うものが無い。哀れですなあ。
 断っておくが、中高年だって立派に登山者だ。変な差別はなさらぬように(してなんか無い、お前がしてるんだろうって?そうなのかなあ……)。
 さて、主力の中高年登山者は煩い程だ。言いたい事を言い散らし、言われた方も黙っちゃ居ないで言い返し、大笑いして山歩きをして居る。寡黙なんて言葉は薬にしたくとも、無い。ああなら体にも心にも良いだろう。こうなりゃあ頑張って長生きして山歩きをして貰うしか無い。
 「登山者は寡黙だ」は最早死語の世界に近いと、納得して頂けましたでしょうか?

☆思い違いその二 「登山者は気品が有る」
 先ず初っ端からジャンジャンになっちまうが、私を見れば、誰でも其の物凄い思い違いに気付くに決まって居る。でも、不幸な事に(幸福な事に?)知らない人も居るだろうから、説明しよう。
 黎明期の登山者は皆貴族だった。当たり前だ、やっと食ってる農民や工場労働者が、何が悲しくて山に行く。其の時なら、私だって一杯のスコッチの方が、山より遥かに良い!
 さて高度成長時代、我が国に貴族制度は無くなったが、国民の殆どが貴族並みの生活(比諸外国)を営めるようになった。従って貴族の遊びも取り入れる様になったのも、自然の成り行きで有る。
 (思い違いは世の習い その三へ続く)

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