2023年7月15日土曜日

閑話 その四百十四

 


 さて、その後はガレと岩の急な下りが続く。流石にこれは変だ、と思うのだが、もう一寸と行ってみよう、と五時間!も下ったのだ。これは駄目でしょう、とてもベテランとは思えない行動だ。結局滑り落ちる様に岩壁の棚に来てしまった。下は絶壁、上も絶壁、進退極まってしまった。「魔に誘われた」としか言い様がないですなあ。

 こうなったのは仕方ない。彼の本領はここから発揮される。チョコやプレーンや飴があり、岩場を水が垂れている。十日間は生きられると判断、落石の当たらない張り出した岩の下に石を積んで雪で隙間を埋めて、木を渡して屋根として住処を造った。その夜は吹雪となり、リュックに脚を突っ込んで夜を過ごす。今迄で一番長い夜だったと言う。そうでしょうとも。

 翌日はガス。その翌日は曇り、その日ヘリの音を聞くが雲で見えない。その翌日も同じだった。

 その日(遭難四日目)彼の奥さんは警察から相談を受けた。「明日の午後から天候が悪化し長引くので、午前中しかチャンスはない。県警のヘリは小回りが利かないので捜索には不向きだ。民間ヘリなら有利だが、それでも救助の可能性は1%のみ、しかも一時間につき四十五万円掛かる。何百万円も掛かるかも知れないが、1%に賭けますか?」。

 奥さんは1%に賭けた。五日目の朝、予報通りに晴れた。ヘリが谷間を上がって来る。彼は住処から飛び出して棒の先に赤いシャツを付けて振った。書いていて胸が熱くなる。奥さんは1%の賭けに勝ったのだ。

 彼の絶壁に至る迄は飛んでもない動きだ。擁護すべき点は一つもない。即戻れば何て事もなかったのだ。まあ、魔に誘われては仕方ない。でも、生還できて本当に良かった。

 どんな経験者でも、魔に誘われるってあるんですよ。山でも人生でもです。

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