2014年5月5日月曜日

柄でも無い事 その四十七




 彼方此方の焼き物産地へ行って、徳利やぐい飲みを買い込んだ為に、居ながらにして各地の器を楽しみ乍ら酒を飲めるのは、途轍もない贅沢と言えるだろう。
 物の味には、器が相当関係して居るのは、ご承知の通りだ。ビールを洒落た硝子コップで飲むと、一段と美味しい。もし、お椀で飲めば、何だかなあと思わされる事だろう。逆に味噌汁をコップで飲むと、味わいが酷く落ちるのは疑い無い。
 ま、あたしなんざアルミのカップで皆済ましてもOKって奴なのだが、里では多少は器に凝っても罰は当たるまい。特に酒に関しては、で有る。
 我が家に友人や長女夫婦と其の赤ん坊が集まり、新年会をやった。大いに語り笑い飲み楽しんで、お開きとなり、皆さん寒い中を帰途に就いた。
 洗い物をして居た妻が「あっ」と叫ぶ。
私「どうした!」
妻「御免なさい、ぐい飲みを割ったの」
私「どの?」
 見ると、黄瀬戸だった。中ぶりな渋い黄色で手取りも軽く、愛用品で有った。良くしたもので、お気に入りから壊れる様だ。
私「良いさ、割れるからこそ焼き物。花の命は儚いものよ」
妻「本当に御免なさい」
私「良いからさ、気にしないで」
 此れで壊れたのは二つ目だ。前に備前の船徳利を割って居る。其れはあたしが落としたのだ。形の良い船徳利だった。程良く掛かった灰釉が、此れ又良かった。
 歌にも有るさ「咲き誇る花は 散るからこそに美しい」。
 そう考えると、平安時代の甕や壺は何と素晴らしいのだろう。六古窯の品物で現存するのは多い。中国の焼き物も然りで有る。
 人の寿命はたかが知れて居る。あたしが死んでも、徳利とぐい飲み(そしてコーヒーカップ)は残る訳だ。尤も、遺族にとっては金にもならず、単なる邪魔者なのでしょうなあ。

2 件のコメント:

DOGLOVER AKIKO さんのコメント...

あー!!!そういわれてみて、父が亡くなったとき、父が大事にして茶の間に飾ってあった茶碗を持ってきたのを、思い出しました!父がテレビの横に置いていたので、わたしもテレビの横に置いていたのですが、4年間忘れていて、すっかり埃にまみれていました。どこのだれのどれほど価値のある器なのか、私も兄も姉も誰も知らないのです!こんなだから、価値の分かる人がしっかり使って、使い切って居なくなって欲しいです。

kenzaburou さんのコメント...

きっと良い物なのでしょう。
日々使って居ると、不思議と良さが分かって来るものです。
折角ですから、お使いになっては如何でしょうか。