2013年10月3日木曜日

丹沢らしさって その一




 「丹沢と共に」にゃのに、話は彼方此方に行ってまって、丹沢の影が薄くにゃってあ居る様だでよ。丹沢に戻って見るだがね。
 おかしなな名古屋弁、失礼。丹沢への思いを綴ろうって事です。え、散々書いてるだろうって?そうなんだけど、語って、語り尽くせない魅力が(私には)有るのさ。
 丹沢が、初恋の山だとは最初に書いた。初恋は、儚く消え去るから、何時迄も美しい。
 相手が人間なら、大抵はそうなる。併し相手が山なら、儚くは消えない。相手の意向は無視して構わないのだ。第一、山はこっちの恋心に、一切関知しない。従って、私の初恋は永久に破れる事が無い。だに依って、丹沢は初恋で有って、未だに恋人なのです。
 如何にも純愛で有る。併し五十年も恋が続くには、続くだけの訳が有る。会えなくなって五十年、でも心の中には恋人の面影、なら有り得る。再開した時にどう思うかは、全く別にしてだ。
 私の場合は、会えなくなった事は無い。何時でも会って居る。妻とよりも、付き合いは長い。普通はあくびが出て、とっくに熱い恋も冷めようって言う年月だ。あ、勿論妻の事では無い。あくまで一般論ですから、お間違えなく。
 さて、五十年の恋ともなれば、不滅の恋で有って、人間同士では極めてレアだ。或いは歴史上でも十万件迄は無いかも知れない。

 似た年代の貴方、連れ合いに恋してますか?

 質問を間違えた。愛して居ますか?が正しいだろう。恋は消え去っても、愛は存在する。これも一般論で有るのは、言う迄も無い。
 愛だ恋だと、分からん事(全く私には似合わないのは、知ってるよ!)を書いて居るが、私と丹沢には似た感情が存在するのだ。当然乍ら、私⇒丹沢で、逆は成立しない。丹沢は私を、認識すらしないのだ。
 (丹沢らしさって その二へ続く)

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