2015年8月2日日曜日

休題 その百四十九




 母は、十五歳(十四歳だったかな)の時に河上鈴子の内弟子になった。河上鈴子は、スペイン舞踊の草分けで、晩年に叙勲して居る。
 親族の言う処では、飛んでも無い不良娘だった様だ。本人が言うには、不良どこじゃない、そりゃあ滅茶苦茶辛い修行だった、スパニッシュは勿論、箸の上げ下げ迄厳しく躾られた、偉く大変だったと。
 立場の違いで有って、双方とも正しいのだろう。母が親族では異端児で、外の親族は真面目一方なのだから。誰のDNA?祖父だろう。母が祖父の血を引いたのだ。だから、厳格な祖父が、母の内弟子を許したのだろう。
 内弟子を卒業してから、新宿の赤い風車のムーランルージュで踊って居た様だ。新聞にも何度か取り上げられたと話して居たが、又言ってらあと、碌に耳を傾けなかった。
 あたしゃあ本当に親不孝者だ。今になって聞きたくとも、母は居ない。
 其の頃満州へ慰問団として行った。チチハルだかハイラルだか、兎に角最前線迄行った様だ。辺境の関東軍には、226事件の関係将校が流されて居て、もう本土には帰れないと泣いた、と語って居た。
 馬鹿で不明ななあたしは聞き流して居た。歴史の生き証人の話をだ。再び言う。あたしゃあ親不孝者だ。。。。。
 母は慰問団の中では最年少だったらしい。当然、将官佐官の部屋へ呼ばれ、モテモテだったらしい。従兵が酒や料理を出して居る。勿論、宴会場のボーイなので、飲み食いは出来ない。あかぎれの切れた手で働いて居る。
 母は「あの兵隊さんに一杯差し上げて良いですか?」と言う。偉いさんも、花形には逆らえない。「良いよ」となる。恐縮する兵士に酒を注いだそうだ。
 母の面目躍如だ。此の話は好きだった。母は漢気(?)が有った。尤も、其の兵隊さんが後でどんな目に会わされたかは分からない。
 戦後は、国策の慰問団として、全国を回った。娯楽が無くなったからだ。其処で父と出会った。父は役者で、母は踊り子で有る。
 母を一寸と語ろうと思ったら、長くなったので、続きましょう。

0 件のコメント: