2015年8月9日日曜日

休題 その百五十




 母はどうしてか東宝に入った。踊り子が俳優になった。でも、何故だか日活に移った。経緯は聞いた筈だが、覚えて居ない。三度言う。おらあ親不孝者だ。
 母が褒めて居たのは石原裕次郎、気さくで、調布へ向かう土手を歩いて居ると、「三船さん、乗って」と、よく車に乗せてくれたそうだ。まあ、母はズバッと物を言う人間だから、好かれる人には良いが、嫌われる事も有っただろう。母が褒める人は、裏表の無い人だ。
 其れだけは、不明で親不孝のあたしにも、はっきりと分かる。
 外に母が褒めて居た人は、浅岡ルリ子、津川雅彦、長門博之、etc.嫌って居たのは吉永小百合。性質が悪くて生意気で気が強くて自分勝手で、etc.
 詰まり、そうでなきゃあ大女優とはなれない世界なのだ。
吉永小百合が未だに当時の印象を保持して居るのは、賞賛に値する。本質は変わらないのだろうけどね。
 日活に入って、母は日本舞踊に出会った。役の上で必要だったのだろう。そして気付いた、洋舞とは比較にならない奥深さが有ると。
 母が出会ったのは水木流と言う、(多分)一番上品な流派だった。花柳流は外連味が有って下品よ、とは良く母の口にした言葉だ。そして母は日舞に専心し、師範になった。
 映画で日舞の振り付けも相当やったらしい。母を気に入ってくれる監督も居て、無理やりにでも役を付けてくれたそうだ。
 映画が斜陽となり、日活もポルノ路線に移る時に、母は日活を辞めた。あたしが高校生の時だ。十四、五歳からの芸能生活と別れを告げ、堅気の人間として生を全うした。
 あたしが退職して水道局の下請け会社に居た時、宍戸譲の家に検針に行った。痩せて仕舞った彼は、時間通り門を開け待って居た。
 宍戸さん、私は三船の倅です、と此処まで出て、言わなかった。話が通じないかも知れないのをと、通じた時には時間を食うのを嫌ったのだ。次に行く現場も有るので。
 名乗るべきだったと、今更乍ら思って居る。最後迄、親不孝者だ。

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