2013年12月17日火曜日

閑話 その百十三





 “ハイクのお誘い華厳山”に、発句石で四人のパーティに出会った、と書いた。其の日会った唯一のパーティで、飴を貰ったとも書いた。
 彼等に、大山や其の周辺の山を聞かれた。
私「大山の右は大山三峰です」
リーダー「富士山は見えませんか」
私「見えないですね。大山に登れば見えるんですが」
 丸で歩く展望標識だ。此れは当然で、五十年に渡って丹沢のあらゆる区域を歩いて居れば、町内と同じようになるもんだ。従って、あの山は何、あの先には何、とすっかり分かるものだ。分からなければ、変で有る。
 処が、そう繁々と通う訳でも無い山でも、分かる事が有る。面白いもので、自分が登った山は不思議と分かるのだ。
 登った事の無い山は、余程目立った山は別にして、大抵分からない。平凡に見えるピークなぞ、全く分からない。地図と引き比べてもピンと来ない。
 上越国境稜線なぞ、谷川連峰は別にして、多くの人は、巻機山、中ノ岳、八海山、越後駒と言った際立った山しか分からないのではないだろうか。遠望しても、唯々、重々たる山の連なりだろう。
 際立った山には道が有るので、登った事が有る人が多いだろう。もし登った事が無い人だったら、際立った山すら分からなくて当然なのだ。
 斯様に、自分の登った山とは、記憶に残るものなんですなあ。遠くから見ても其れと知れるのだから。山の地形、連なりがインプット(無意識に)されて居る訳でしょう。
 南アから中アを見ると、屏風の様に連なって居る。中アから南アを見ても同様だ。ああ何岳だ、隣は何岳だと、山を見るのに忙しい。
 槍の穂先に立つと、後立を白馬迄追い、立山を立山迄(変な表現です)、そして穂高の峰々をと忙しいのと同じだ。
 でも、北アで初めての山が槍ヶ岳だったら、何処も彼処も山ばかり、としか思えないのではないだろうか。其の代わり、何処から見ても、槍だけは確り分かる筈だ。
 たとえが悪かった。槍は何処から見ても、一目で其れと分かる。
 何が言いたいかってえと、自分が登った山は分かる、と言うのが不思議に感じられると言う事だ。其のお蔭で、ゴチャゴチャした山の集まり丹沢山塊も、あれは何と指し示せるので、助かっては居る。
 でも、思えば不可思議では有ります。

2 件のコメント:

DOGLOVER AKIKO さんのコメント...

良いですね。「歩く展望標識」!!!どこから見ても、どちらの方向から見ても、どんな尾根からも山々の名前を教えてくれる人が居てくれたら、どんなに山歩きが楽しいことでしょう。おっしゃる通り、槍ヶ岳しかわかりません。槍が見えると、それを基準に他の山を推測します。黒部に居た時も、目の前に見える山の後ろに どう連邦がつながっているのか、教えてくれる人がいたら、どんないいだろうか、と思っていました。平面でしか、景色を見られない普通人と、立体3Dで山を見られる人との違いは大きいです。

kenzaburou さんのコメント...

そうですよね、黒部からは槍は見えません。
しかし、槍は何と分かり易い姿の山なんでしょうか!!