2020年2月18日火曜日

休題 その二百八十五



 前章で「アカデミー作品賞も程度が落ちた」なぞとのたもうたが、とっくにそう思っていた。何度も観たい映画がない、と嘆いたが、その観たくもない映画群から選ばれるのだから、程度が高い筈がない。
 あ、あたしの極めて個人的感覚ですよ。そこんとこ御理解下さい。真っ向から論理的に責め立てられたら、謝るの一手なので。
 面白い映画は撮り尽くしたのかも知れない。何を造っても××と同じだ、○○のパクリだとなっちまうのかもね。造り手は似た様な物は避けたいものだ。でもあらゆる物がもう造られてしまっている。
 としたら、映画関係者には地獄の様な時代が始まった訳だ。新鮮な切り口、視点、題材を必死に探さねばならない。今迄が様な、骨太のストーリーを展開するだけでは済まないのだから。ストーリーは出尽くしちゃったし。
 捻って見るか、斜めに見るか、裏返して見るか、逆から観るか。いずれにせよひねくり回す事になるだろう。そして社会派と呼ばれる作品群の登場となる。
 そんな時代がありましたなあ。ベトナム戦争が終わった頃、それ迄の大作主義も行き詰って、社会的矛盾を暴き出す映画全盛となった。あたしの記憶する、映画の詰まらなかった時代だ。二十年近くもその傾向は残った。
 アメリカがベトナム戦争の悪夢から抜け出た頃から、映画は復活した。記念すべきは「ランボー」だろうか。今一度お断りしますが、あたしの個人的感想ですからね。
 その闇の時代への入口に立っているのでなければ良いのだが。素直に人生を、愛を、正直を、誠実を、家族を、前向きな何かを高らかに歌い上げる作品は、姿を消して行くのだろうか。そして“正義”を振りかざした(或いは匂わせた)作品が溢れかえる。
 考え過ぎだとは思っている。詰まらない映画の時代になって欲しくないだけです。

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