2016年10月8日土曜日

誤解及び偏見について その三




☆登山者には哲学的要素が有る
 書いて居て笑っちまっただよ。ないない、全然無い(笑)。うーん、此れじゃあ身も蓋も無いですなあ。一寸と考えて見よう。
 昔は確かにそんな傾向は有ったかも知れない。エリートのスポーツだった頃は、だ。登山が未だ厳しい世界だった頃の事だ。勿論、大正から戦前迄の話だ。
 其の頃の文献は多分に思索的で有った様な記憶が残っては居る。我乍ら歯切れが悪い文章ですなあ。はっきりした記憶が無いもんだで、つい。 調べれば? 嫌だね、面倒っちいもんねえ。 話にならない。。。。
 昔の頃はいざ知らず、今となっては哲学なんざ薬にしたくとも無い。あくまで私が様なダメな登山者の見る処なんだけどね。
 では、まあ高級登山(言葉は無いが)水準をクリアーした(筈の)登山者のNやIならどうだろう。 だっはっはっはっ、NやIが哲学だってかあ、俺の方が遥かに増しってな
もんだぜ!
 其の通りだ。NやIだって哲学位学んでは居るが、全く(殆どでも良い)無縁な諸君で有る。どんな岩壁を登ろうと、深雪のアタックを耐え忍ぼうと、彼らに哲学の臭いは無い。
 今は登山がアッケラカンとした世界になってしまったって事だろう。奥秩父の樹林の中で思索する人は居ないのだろう。冬の槍ヶ岳で人生に思いを馳せる人は居ないのだろう。
一人か二人(或いは十数人)は居るかも知れないけどね。
 山登りも、高率・効率第一。如何に無駄なく目指す山を歩くか、或いは壁を登るか、或いは飲んだくれ山行をするか。三番目は語るに堕ち居るので忘れて下さい。
 従って、哲学が入り込む余地は無くなったってこってす。(と言い乍ら、少しは有るのでは、と信じてるですよ)

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