2026年10月28日水曜日

閑話番外 その二百四

 


 前章で中川温泉に泊まった話を書いた。部屋から右手に、割と頂上の平たい山がある。屏風岩山あたりだろうと思っていたが、地図で調べたら世附権現山だった。丹沢には権現山が
三つあって、弘法山手前の奴と中川沿いに二つあって、手前が世附権現山で畔ヶ丸から南西に伸びる尾根にあるのが中川権現山だ。上の写真は無関係な蛭です、へへへ。 

 屏風岩山は、世附権現山から北へ畔ヶ丸迄伸びる稜線の真ん中にある。世附権現山の直ぐ北の二本杉峠から、畔ヶ丸南の大滝峠上からバス通りの大滝橋迄のコースを”ハイクのお誘い”で紹介した事がある。十三年も前の事だ。変な所を案内したものだ。赤い破線のルートだが迷い易いの。そして展望もないし。

 その代わり、あたしとしては写真をふんだんに使って丁寧に説明している。まさかこれを見て行く人もいないだろうと思ったが、万が一変わった人がいて出掛けたらいけないと考えたのだろう。だったら、そんな分かりにくい所を紹介しなければ良いのにねw

 慣れない人が行ったら、ルートを外さないだけに神経を使って、楽しくもなんともないだろう。変な所を歩き慣れていれば何てこたあないのだが、その手の変人の割合は少ない。何せ、大山でさえ迷う人がいるんだから。そういう人が行けば、即道迷い(変な言葉)で救助要請になるに決まってる。

 あたしとしては、二本杉峠から大滝峠間の明瞭な稜線に足跡を残さない訳にはいかない。谷に落ち込む支尾根じゃないもんねえ。出掛けたついでに”ハイクのお誘い”にした訳だ。随分と自分勝手な動機ではあります。

 他にも「書策新道」とか「後沢右岸尾根から茅ノ木棚山稜」といった、慣れた変人(失礼)しか行かない(行けない)ルートも紹介している。仕様がないですなあ。事故があったらどう責任を取るつもりなんだろう。

 自分が行きたい所を行くのは勝手だが紹介は拙い。絶海の孤島だから、そこは安心してたのですね。

2026年10月25日日曜日

休題 その六百五十五

 

 極久し振りに中川温泉の信玄館へ、妻と一昨日に出掛け昨日帰って来た。何せ山北町だから近い。中央丹沢への入口の途中なので、しょっちゅう通っていた場所だ。

 昨日は冷えたので、一晩で木々が色付き始める様子を見せた。もう一週間後なら黄葉が始まっていただろう。

 信玄館は中川に面して、向こうは山の斜面だ。大風呂のガラスは山の木のみだから、新緑の時は淡い緑一色に染まる。二度新緑の時に泊まっているが、黄葉には出会っていない。今年こそと思ったが、その時期には値段が跳ね上がる。依って早めにしたのだ、貧乏旅行だもんでね。

 中川温泉に温泉旅館は二軒しかない。他にロッジとテント村の様な施設があるのみ。従って周りは何もない。飲み屋もない。その癖二十三時に玄関を閉めると書いてある。誰が夜、真っ暗なだけの所へ出掛けるんだと、妻と笑った。出ても、狐に噛まれるだけだと。

 朝、部屋から雨が振りガスから顔を出している山を見ていたら視界の端を動物が横切った、川の先の方で二頭の茶色い動物が姿を隠すところだった。大分距離があるのに見えるのは大きい奴だ。鹿程背は高くない。じゃあ猪だろう。熊ではなかったので。

 十組の客がいた。そのうち三人は一人旅だ。仕事で泊まる場所ではない、仕事なんて絶対ない! こんな辺鄙な場所へ好んで来るんだ。一人の男性は瓶ビールの後に味比べ地酒セットを注文した。一合酒が三杯運ばれて来た。それが楽しみなのか、何だか納得。

 兎に角静か、見えるのは山と川、自然のど真ん中が売りの宿だ。あと、料理に凝っている。工夫がされた物が出る。あたしは料理に興味がないのでどうでも良いが、妻は喜んでいるので結構な事だ。

 山の中なのに普段あたし等が行く宿より高価なのだ。妻は滅茶苦茶気に入ってるので、それは良かった。あたしもあの大風呂は大好きだしね。

2026年10月22日木曜日

休題 その六百五十四

 


 フランスで高校生のデモが始まり、やがて人数が増えて暴動放火略奪に至った。メディアのやっと暴動と表現する様になったが、暫くは「高校生のデモ」と称していた。高校生が商店を襲って物品を奪い、車に放火するのかね。既に暴動になっていたのに「高校生」に固執するのは、移民の一部が加わっているのが拙い、との判断だと疑っている。

 京都の大学の准教授が、移民と民度の所為言うのは間違いだとヤフーニュースに投稿していた。改めて見ようとしたら綺麗に消えていた。うろ覚えだが、彼はフランスには暴力で訴える文化があって、決して移民や民度の所為ではないと言う。”暴力で訴える文化”って、それでも法治国家なのけえ? 流石に拙いと思われたのか消された。

 高校生がデモを起こした経緯は分かった。人数分の椅子と机もない、トイレは壊れている、暖房も冷房(これは無理もない)もなく、教師も足りない。そりゃ何とかしてと言うさ。

 それに左派勢力が合流して略奪放火になった訳だ。もう高校生はどうでも良くなったですなあ。既に警官も含め二名の死者が出ており、夜間外出禁止令がひかれた。内乱状態一歩手前と言えるだろう。

 何で移民の関与が疑われるか、ごっそり略奪された店で豚肉と豚肉ソーセージは手付かずに残り、ハラールを売る店は全く被害を受けていない。余計な注釈だろうが、ハラールとはイスラム教徒が食べても良いとお墨付きの食材の事だ。十九世紀に建てられた市庁舎は放火されほぼ全焼したが、モスクは無被害だった。状況証拠だが移民の仕業も相当あると見られる。二千人以上の逮捕者がいるので、実態はやがて明らかになるでしょう。

 移民の仕業にしたくない勢力が日本には多い様だ。マスコミが中心だが、左派もそうだ。日本に移民或いは回黒人労働者或いは難民と称する人間を、入国させるのを嫌う世論が起きるのが厭なのだろう。彼等は、フランスの後を追う日本を目指しているのかな。

2026年10月19日月曜日

閑話 その五百五十五

 


 前章の続きの様なものです。令和五年にYと平標に行ったが、それがYの、そしてある意味あたしの、最後の春山になった。

 Yを春山に連れて行ったのは、調べたら平成八年四月、新道から平標を目指したが天候の急変で足元の雪はバリバリと凍り、猛烈な風で前進をやめ、笹の上で幕営をしたあれである。本文に書いた。

 それから二十七年、毎年の様に二人で春山へ出掛けた。Yが行けなかったのは多分三回、従って彼は二十四回の春山を経験した訳だ。令和六年にYは、二月に高取、三月に大山に行ってそれがYの最後の山になった。一気に膝が悪化して弘法山すら無理になったのだ。上の写真がその大山の時、左端の後姿がYである。実に詰まらん写真で失礼!

 平標が”ある意味あたしの最後”と書いたのは、翌年単独で平標を目指したものの、鉄塔迄の一時間を参時間四十五分掛かって、翌朝のアタックも歩が進まず、流れるガスでホワイトアウトに何度も陥り、登頂を断念して下山したからだ。依って、令和五年が事実上の最後の春山であった。

 思えば、Yとほぼ同時にあたしも登山者人生(?)が終わったと言う事ですなあ。まあ、あたしは里山をボチボチ歩いてはいるが、爺さんの散歩みたいなもんなんでね。

 Yと春山で幕営したのは五十夜を越える訳だ。そして越後湯沢駅前や土合駅で寝たのが二十五回位になるだろうか。四十代半ばからの上越の春山は、ほぼYと共にだった。何と長い春山の付き合いだったんだ!

 春山だけではない。丹沢のあの沢この沢、あの尾根この尾根、飛んでもない所を連れ回した。「たまにはちゃんとした道を行きましょうよ」と嘆かれた程だ。丹沢の小屋泊まりと幕営は六十回を軽く越えているだろう。

 人生後半の山はY抜きには語れない。良くぞついて来てくれました。変なとこが多かったもんねえ。今更乍ら、本当に感謝に耐えません。