2026年10月22日木曜日

休題 その六百五十四

 


 フランスで高校生のデモが始まり、やがて人数が増えて暴動放火略奪に至った。メディアのやっと暴動と表現する様になったが、暫くは「高校生のデモ」と称していた。高校生が商店を襲って物品を奪い、車に放火するのかね。既に暴動になっていたのに「高校生」に固執するのは、移民の一部が加わっているのが拙い、との判断だと疑っている。

 京都の大学の准教授が、移民と民度の所為言うのは間違いだとヤフーニュースに投稿していた。改めて見ようとしたら綺麗に消えていた。うろ覚えだが、彼はフランスには暴力で訴える文化があって、決して移民や民度の所為ではないと言う。”暴力で訴える文化”って、それでも法治国家なのけえ? 流石に拙いと思われたのか消された。

 高校生がデモを起こした経緯は分かった。人数分の椅子と机もない、トイレは壊れている、暖房も冷房(これは無理もない)もなく、教師も足りない。そりゃ何とかしてと言うさ。

 それに左派勢力が合流して略奪放火になった訳だ。もう高校生はどうでも良くなったですなあ。既に警官も含め二名の死者が出ており、夜間外出禁止令がひかれた。内乱状態一歩手前と言えるだろう。

 何で移民の関与が疑われるか、ごっそり略奪された店で豚肉と豚肉ソーセージは手付かずに残り、ハラールを売る店は全く被害を受けていない。余計な注釈だろうが、ハラールとはイスラム教徒が食べても良いとお墨付きの食材の事だ。十九世紀に建てられた市庁舎は放火されほぼ全焼したが、モスクは無被害だった。状況証拠だが移民の仕業も相当あると見られる。二千人以上の逮捕者がいるので、実態はやがて明らかになるでしょう。

 移民の仕業にしたくない勢力が日本には多い様だ。マスコミが中心だが、左派もそうだ。日本に移民或いは回黒人労働者或いは難民と称する人間を、入国させるのを嫌う世論が起きるのが厭なのだろう。彼等は、フランスの後を追う日本を目指しているのかな。

2026年10月19日月曜日

閑話 その五百五十五

 


 前章の続きの様なものです。令和五年にYと平標に行ったが、それがYの、そしてある意味あたしの、最後の春山になった。

 Yを春山に連れて行ったのは、調べたら平成八年四月、新道から平標を目指したが天候の急変で足元の雪はバリバリと凍り、猛烈な風で前進をやめ、笹の上で幕営をしたあれである。本文に書いた。

 それから二十七年、毎年の様に二人で春山へ出掛けた。Yが行けなかったのは多分三回、従って彼は二十四回の春山を経験した訳だ。令和六年にYは、二月に高取、三月に大山に行ってそれがYの最後の山になった。一気に膝が悪化して弘法山すら無理になったのだ。上の写真がその大山の時、左端の後姿がYである。実に詰まらん写真で失礼!

 平標が”ある意味あたしの最後”と書いたのは、翌年単独で平標を目指したものの、鉄塔迄の一時間を参時間四十五分掛かって、翌朝のアタックも歩が進まず、流れるガスでホワイトアウトに何度も陥り、登頂を断念して下山したからだ。依って、令和五年が事実上の最後の春山であった。

 思えば、Yとほぼ同時にあたしも登山者人生(?)が終わったと言う事ですなあ。まあ、あたしは里山をボチボチ歩いてはいるが、爺さんの散歩みたいなもんなんでね。

 Yと春山で幕営したのは五十夜を越える訳だ。そして越後湯沢駅前や土合駅で寝たのが二十五回位になるだろうか。四十代半ばからの上越の春山は、ほぼYと共にだった。何と長い春山の付き合いだったんだ!

 春山だけではない。丹沢のあの沢この沢、あの尾根この尾根、飛んでもない所を連れ回した。「たまにはちゃんとした道を行きましょうよ」と嘆かれた程だ。丹沢の小屋泊まりと幕営は六十回を軽く越えているだろう。

 人生後半の山はY抜きには語れない。良くぞついて来てくれました。変なとこが多かったもんねえ。今更乍ら、本当に感謝に耐えません。


2026年10月16日金曜日

閑話 その五百五十四

 


 ラベルは”平成三十年”だが、その五年後の令和五年はどんな山に行ったか見てみた。あたしが七十五歳になった年である。

 何と、二十七回も山に行ってる。そのうち十回は弘法山なんだけどねw 一回はYと一緒だった。次に多いのは八回の高取山で、三回はYと行ったが、何とか弱って行くYを山に連れ出そうと頑張った時期だったんですなあ。結局二人共アカンようになっちゃたけど。

 四回もYと堀山で幕営をしている。堀山だってやらないよっか遥かに増し。幕営具一式を背負って登るのだから訓練にはなる。今やれったって、絶対にできませんて。

 一番のイベント春山はYと平標だ。雪の多い年で天気も上等、仙ノ倉迄行く予定だったが三月の千切れる様な冷たい強風の日だった。為に、春山装備のあたしゃあ耳を凍傷にやられ、平標迄だった。思えば残念な事をしたもんです。三月にしては装備が甘かった。上の写真がそれです。

 五月には加入道山の避難小屋拍、翌朝、大室山をピストンして下山。新緑の贅沢山旅って感じで、気分の良い二日間でした。但し、筋肉痛が五日間続いたとある。矢張り七十五歳なんだ。テントを背負って歩く限界って事でしょう。一応テントも持って行ったので。

 塔をピストンしている。九月だが五時間二十二分だとある。汗びしょだったとも。これが最後の塔になった。未だ分からない?いや、分かる。もう登れないでしょう。

 大倉高原にYとテントを張って寝て、翌朝三時から登りだしたが、Yが不調で大階段の手前で引き返した。登れていたら、それが最後の塔ななっただろう。あたしもYも。

 寄から栗ノ木洞の尾根を詰めて、装備を置いて鍋割ピストン、栗ノ木洞で野宿って変わった事をやった。畔ヶ丸の下の避難小屋予定だったので、テントがなかったの。で、地面にマットでシェラフ。落ち着かないですよw

 ローソクが消える前に炎が上がる、その姿である。何とか立て直そうと努力した最後の年でした。