前章の続きの様なものです。令和五年にYと平標に行ったが、それがYの、そしてある意味あたしの、最後の春山になった。
Yを春山に連れて行ったのは、調べたら平成八年四月、新道から平標を目指したが天候の急変で足元の雪はバリバリと凍り、猛烈な風で前進をやめ、笹の上で幕営をしたあれである。本文に書いた。
それから二十七年、毎年の様に二人で春山へ出掛けた。Yが行けなかったのは多分三回、従って彼は二十四回の春山を経験した訳だ。令和六年にYは、二月に高取、三月に大山に行ってそれがYの最後の山になった。一気に膝が悪化して弘法山すら無理になったのだ。上の写真がその大山の時、左端の後姿がYである。実に詰まらん写真で失礼!
平標が”ある意味あたしの最後”と書いたのは、翌年単独で平標を目指したものの、鉄塔迄の一時間を参時間四十五分掛かって、翌朝のアタックも歩が進まず、流れるガスでホワイトアウトに何度も陥り、登頂を断念して下山したからだ。依って、令和五年が事実上の最後の春山であった。
思えば、Yとほぼ同時にあたしも登山者人生(?)が終わったと言う事ですなあ。まあ、あたしは里山をボチボチ歩いてはいるが、爺さんの散歩みたいなもんなんでね。
Yと春山で幕営したのは五十夜を越える訳だ。そして越後湯沢駅前や土合駅で寝たのが二十五回位になるだろうか。四十代半ばからの上越の春山は、ほぼYと共にだった。何と長い春山の付き合いだったんだ!
春山だけではない。丹沢のあの沢この沢、あの尾根この尾根、飛んでもない所を連れ回した。「たまにはちゃんとした道を行きましょうよ」と嘆かれた程だ。丹沢の小屋泊まりと幕営は六十回を軽く越えているだろう。
人生後半の山はY抜きには語れない。良くぞついて来てくれました。変なとこが多かったもんねえ。今更乍ら、本当に感謝に耐えません。
